STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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3節:与太話

「ねえ、ミハイル。これ、誰か買うかな?」

 

お菓子を食べ終わったキツネはカウンターに顎を乗せて、無精ひげの男に尋ねる。アーティファクトは床に散かったままだ。酒場は先ほどより幾分静かなので、意識を向けていればグレブの席からでも彼らの会話を聞き取ることができた。

 

ミハイルが咳払いする。「お前が持ってくるもんはいつも買い手がつくさ。だがなキツネ、最近は軍がうるせえ。国境で検問が厳しくなってオヤツの仕入れもやり辛くなっててな。お前も取っ捕まらないように気をつけな。」

 

キツネは首を傾げ、耳をピクピク動かした。「軍?あの人達は入って来ないよ。ゾーンを怖がってるもん。」

 

皆、グレブと同じように盗み聞きしていたらしく、酒場のそこかしこから失笑が漏れた。

 

軍はゾーンを封鎖するが内部には踏み込まない。表向きゾーンは厳重に封鎖され、軍の展開が許された国境いっぱいに鉄条網と監視塔が立ち並び、巡回車両がぬかるんだ道を──あるいは冬季に凍り付いた道を──往復する。だが広大なゾーンの外周をすべて覆うことなど不可能だ。

 

もちろん、侵入を試みようとする者は発見次第拘束される。表立って賄賂を受け取るような愚かな軍人もいないが、監視パトロールのタイムスケジュール表はゾーンへの密入域を生業とするブローカーたちの間で手頃な価格で売られているのが実情だ。加えて、密入域者がフェンスを越えた場合、追いかけてゾーンの中にまで入ることは規定により禁じられるている。グレブが金を払ったブローカーによる"輸送"も驚くほどスムーズだった。警戒網の隙間を縫うようにトラックが滑り込み、この土地に忍び込んだあの夜をグレブは今も覚えている。

 

軍のみならず、国家主導によるゾーン探索は難航している。アノマリー地帯の予測不能な変化、地上で待ち受けるミュータントの襲撃、足の重い大規模部隊ほど光熱放射の嵐に装備を焼かれる。成果の芳しくない事業に政治家は予算を渋る。結局、納税者達も埒のあかない魔境探検に人命と血税を注ぎ込むよりも、スタルカーを通じてゾーンの外に流れてくるアーティファクトの研究だけで必要十分という合意に達した。

 

果たしてこの合理的な選択は功を奏し、ゾーンでの兵士の死亡数は限りなく0へ近づいた。安全な首都の研究室における有望な成果のいくつかは、工業製品や日用品に組み込まれ、市場に出る時を待っている。現在では公的な入域調査は、年に1、2度、学術的調査の名目で小規模な調査団が組まれるのみ。白い防護服姿の科学者たちが、軍の護衛に守られながらゾーンの表面をかすめるように歩くのだ。ゾーンの深部には誰も踏み込まない。彼女の言葉は本当だった。軍はゾーンを恐れている。

 

「で、またしばらくいるのか?」ミハイルがカウンターを拭きながら気さくに尋ねる。

 

「うん、そうだね。面白いの見つかったから。」キツネは笑い、子供のような無邪気さで首を頷いた。三角の耳が今一度と動き、尻尾が迷彩服の裾で揺れる。

 

少女は立ち上がり、オモチャを片付けるようにして床に転がったアーティファクトを袋に放り込んでいく。そして片付けが済むと今度は袋に手を突っ込みゴソゴソとまさぐる。

 

「はい、お土産あげるね。」何かを引っ張り出してカウンターに置いた。白っぽい滑らかな円筒形。歪んだブリキ缶のようにも見える。キツネの隣の席で微妙に居心地悪そうに酒を飲んでいたスタルカーが、それを凝視して思わず唸る。グレブもあそこに座っていたら同じようにしていただろう。

 

『螺旋の輪』は、けばけばしく輝いたり唸り声を上げたりせず、ただ物理法則を乱さないよう配慮するかのようにカウンターの上を慎ましく跳ね回っていた。土産物屋に売っている玩具のような動きだが、放っておけば何年でも何十年でも半永久的に跳ね回り続けるのだろう。そして1立方ミリメートル当たりの耐荷重が数十トンに及ぶそのアーティファクトの取引価格は、グレブが見つけた『月光』を上回っている。

 

「ったく、お前ってやつは…。こりゃ、いい買い手がつくぜ。」このやりとりも慣れたものなのか、ミハイルはカウンターの奥にあった鉛の容器を取ると、跳ね回るアーティファクトを布巾越しに掴んで慎重に仕舞った。

 

「また来るね、ミハイル!おやつ、忘れないで!」彼女は軽い足取りで店の出口へ向かう。袋を引きずり、土の付いた裸足が床に足跡を残す。グレブの視線は途切れることなくその姿を追っていた。

 

ふと、キツネがこちらを振り返り目が合った。無邪気に光る金色の目はグレブに地下道での記憶を鮮明に呼び起こさせた。跪くミュータントの頭を淡々と撃ち抜く異形の子供、あの血に濡れたPPK、底知れぬゾーンの深淵を映す瞳──。キツネは笑顔で小さく手を振り、扉の向こうに消えた。ひたひたと歩く音、ズルズルと袋を引きずる音がゾーンの夜に溶けていった。

 

グレブの心臓は激しく鼓動し、冷や汗が伝っていた。まさか自分に対して手を振ったのか?

 

ようやく堰を切ったように酒場に騒がしさが戻って来る。当然どのテーブルもキツネの話で持ちきりだ。スタルカーたちの声は欲望と疑念に揺れていた。

 

グレブが視線を自分達のテーブルに戻すと、そこには沈黙が残っていた。オレグは肘をつき、指先でグラスの縁を無意味になぞっている。ヴィクトルとセルゲイ、グレブと同様にほとんどルーキーである二人は真っ当な衝撃を受けたようだ。気まずい空気を振り払うようにセルゲイがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。ヴィクトルは椅子の背にもたれかかり「あれは…、たぶんミュータントだな?」と誰にともなく呟いたが誰も応じなかった。

 

そしてパブロはといえば、さっきからずっと口をぽかんと開けたまま固まっていた。酒を幾分か床にこぼしている。いつもは調子のいい彼が言葉を失っている姿にグレブは思わず息を吐くように笑ってしまった。

 

「……閉じろよ、口。ハエが入るぞ。」

 

「……オヤツだとよ。」

 

パブロはようやく言葉を搾り出すと頭を振ってグラスを飲み干した。騒がしさの戻った酒場の空気に、彼らの肩の力も少しだけ抜けていった。

 

◆ ◆ ◆

 

酒場『狐の巣』は夜が深まるにつれて落ち着きを見せていた。一人また一人と宿舎へと引き上げていく。オレグも一足先に部屋へ戻った。今、酒場では隅のテーブルに座る老スタルカーがグレブたちの視線を集めている。老人の名はワシリー。『釣り人』とも呼ばれるゾーンの生ける伝説だった。

 

皺だらけの顔、白髪交じりの髭、指にはアノマリーの酸で溶けた跡がある。二十年近くゾーンを生き延びた彼だが、実のところ探索よりも安全な拠点での商いに費やした期間の方が圧倒的に長いらしい。武器弾薬の売買、生活雑貨の運搬ルート開拓、依頼や情報の仲介。アーティファクト探しに命を賭けるスタルカーよりは賢い生き方と言える。各地域を転々とし、それなりの財産を築き、最終的にここバラノフカで隠居を決め込んだ。

 

よりにもよってゾーンを隠居先に選ぶのは深淵が孕む魅力に脳を焼かれた者ゆえか。それとも外の世界に帰るべき居場所を見出せなかったのか。いずれにせよ歴史を見てきた男である。ワシリーの剥げかけた頭にはパブロの数十倍は与太話が詰まっていることは疑いない。

 

先ほど酒場を訪れた異形の子供──キツネを巡る光景に納得のいく答えを求めるグレブやパブロ、そしてバラノフカに来て日の浅いスタルカーたち。彼らは今夜の締めとして、この老スタルカーの与太話を拝聴することに決めたのだ。ワシリーは皮張りの椅子に深く腰掛ける。この場の主賓となった彼には酒場の中で一番上等な椅子があてがわれていた。老人はウォッカの入ったグラスを握り、目を細めて笑う。歯の欠けた口元が僅かに覗いた。

 

 

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「あの異形。」ワシリーの声は風のように低く掠れていた。「ミュータントなのかもしれん。随分と人間寄りのな。アレはワシが知る限り何年も前からあの姿だからな。それよりもずっと昔のことになるが、ゾーンに入り込んでるギャングの一団が、アレにアーティファクト漁りをさせてたんだ。小僧ども、バンディットは分かるよな?」

 

バンディット。ゾーンを目指したのは軍隊や科学者や冒険心溢れる食い詰め者ばかりではない。秩序の介入できない無法地帯を利用し荒稼ぎを企むゴロツキ、マフィア、犯罪集団。それらを総じて"バンディット"と呼ぶ。

 

ルーキー村の元締めの肥え太った雑貨商が半分脅すようにグレブに言ったことがある。「バンディットは俺の十倍悪辣だ。ゾーンで出くわした時、自分達より数が少なかったら撃ち殺せ。数が多かったら有り金差し出して詫びを入れろ。」

 

つまりバンディットの十分の一程度の悪辣さしか持ち合わせない自分がいかに慈悲深いか、ということらしい。だがバンディットに関する限りはあの雑貨商も正しいことを言った。バンディットはスタルカーを殺し、金も武器も装備もアーティファクトも強奪する。電子決済の暗証番号を吐かせたい時は殺す前に拷問する。連中への警戒はスタルカーがゾーンで生きる上での鉄則だ。

 

誰かが小さく溜め息をつく。ワシリーは自分に注目が集まったことで気を大きくしているらしい。初歩も知らないひよっことして扱われるのはグレブを含む一同の癇に障ったが、さっさと話の続きを聞きたい彼らは目の前の老人に好きなように語らせる程度の忍耐は持ち合わせていた。

 

「ゾーンの中に、ようやく組織らしい組織ができ始めた頃だ。バンディットどもは誘拐やら人身売買やらで外の世界から集めた子供達に、アーティファクトを探させようとした。子供ならアノマリーの反応も鈍るんじゃないかってな。野蛮人のまじないみたいな発想だが、昔はアノマリーのことなんか誰も何も分からんかったからな。空間を歪める重力の罠、地面から迸る稲妻、生き物をドロドロに溶かす酸の霧──、そんなもんに科学も経験も追いつかず、誰もが手探りでやるしかなかった。そして集められた子供の中に、あのキツネもいた。」

 

ワシリーはまるで吟遊詩人か何かのような語り口で身を乗り出し、煙草の煙を吐きながら話を続けた。

 

「洞窟、湿地、焼け原、地下研究所の跡。子供達はバンディットに命令されるまま、必死になってアーティファクトを探した。もちろんアノマリーもミュータントも容赦なんかしない。探索に送り込まれる度に何人かずつ死んでいった。重力の罠に潰され、稲妻に焼かれ、牙に引き裂かれる。バディットにとっちゃ子供たちは使い捨ての道具だった。新しい金稼ぎの方法を試してみるけど、駄目なら駄目で仕方ないってな。」

 

「子供を?マジかよ爺さん。バンディットはそんなクソくらえなことしてたのか?」パブロが干し肉を噛むのを止め、吐き捨てるように言う。この男の声に怒りや憎悪が混じるのをグレブは初めて聞いた。

 

ワシリーは鼻を鳴らし、煙草を灰皿に押しつけた。「クソくらえどころか、ゾーンの最底辺だ。バンディットは金と暴力でゾーンを這う寄生虫さ。しかしバンディットがこの意味のない探索にさっさと見切りをつけなかったのは、毎回子供達がお宝を持ち帰ったからよ。」

 

実際に宝を見つけていたのはキツネだった。口に出さなかったがグレブは確信していた。ワシリーはいよいよ勿体ぶって声を潜め、核心に迫る。

 

「そして子供が最後の一人になった時、ようやくバンディットは気づいた。子供に探させても無意味だと。子供じゃない、キツネだ。キツネだけが特別だった。あの異形の子供だけがアーティファクトを見つけ、そしていつも無事に戻ってきた。アノマリーの隙間を潜り抜け、ミュータントの巣を笑いもののように通り過ぎ、ゾーンの心臓から宝を抱えて帰る。バンディットはどうにかしてアレを縛ろうとしたが、脅そうが宥めすかそうが誰も縛れんかった。キツネは最後にはバンディットを裏切り、それまでに集めたアーティファクトをゴッソリ抱えてゾーンの深部に消えた。そして次に現れた時、もう普通の子供じゃなかった。獣の耳と尾、深淵を宿した瞳。あれは、ゾーンそのものになったんだ。」

 

重い沈黙が冷え込んだ空気を酒場『狐の巣』に招いたようだった。電灯の光がスタルカーたちの顔に暗い影を落とす。誰もが押し黙ったのは老スタルカーの話に心底震え上がったから──ではない。世の中ではゾーンに関するこうした与太話は珍しくない。ゾーンに入る前と入ってからを合わせればグレブも100回以上は耳にした。

 

ゾーンを産み出した狂気の科学者集団、望みを叶える願望機、死者の魂との交信、深淵で全てを手にした伝説のスタルカー──。酒場のテーブルで語られ尾ひれをつけて別の拠点に広がる。噂をそのまま信じるようなスタルカーは必ず真実を取り落とす。時には、その命すらも。

 

しかし、まさにその与太話の一部が、つい先ほどカウンター席に座っていたのも事実だ。ブカブカの迷彩服、三角の耳、金色の目。熟練のスタルカー達が目を見張るようなアーティファクトをオモチャのように無造作に放り出した少女、キツネ。正真正銘のゾーンの奇跡か、それとも新入りをからかう手の込んだいたずらか。

 

しかしグレブだけは、あの地下道のことを覚えている。あの異形の子供が特別な存在であることだけは、真実なのだ。

 

「…で、爺さんよ。そのバンディット連中はどうしたんだ?宝を取られて黙っちゃいないだろう。この辺にいたヤツらなのか?」話を聞いていた誰か──グレブの顔見知りではない男──が口を開き、沈黙を破った。

 

「知らん。」ワシリーは大仰な態度を止め、椅子に背中を預けた。皺だらけの顔にニヤけた笑みが広がり、酸で溶けた指で新たな煙草に火をつける。その表情は幾分若返ったように見えた。

 

「アンタが見た話じゃないのかよ?」別の誰かが不満げに突っ込む。

 

「バンディットなんぞと付き合っとったら二十年も生き延びられんわ。」ワシリーは煙を吐き、笑い声を上げた。

 

酒場の空気が一気に緩み、パブロも膝を叩いてけたたましく笑う。「爺さん、最高だな!話半分でも面白れぇ!」

 

何人かがつられて笑い声を漏らす。なかなか面白い噂話のネタを仕入れたという態度。だが彼らの目に欲望の色が浮かんでいることをグレブは見逃さなかった。

 

たった一人でゾーンを歩み、アノマリーを掻い潜り、アーティファクトを嗅ぎつける少女。消えたバンディットの宝の行方。すべて作り話だったとしても、次にキツネを見かけたら少し確認してみるくらいの手間はかけるだろう。それにキツネと親しそうにしていた店主のミハイル。こうなると『狐の巣』という酒場の名前も、ただならぬ意味を帯びてくるように思える。これから質問攻めに合うことを予期してか、無精髭の男はカウンターの裏で早々に店仕舞いの準備を始めていた。

 

彼らの思惑を他所にパブロはあけすけに続ける。「しかしよ、あのアーティファクトが詰まってた袋見たろ?あの子の住処について行きゃ、そりゃもう同じようなもんがゴロゴロと──。」

 

一段と興奮した様子だったが、徐々に声量は窄まっていった。自分の考えが何を意味するか気付いたらしい。テーブルが一瞬静まり、スタルカーたちの視線がパブロに集まる。

 

「ほう?ついて行ってどうする?バンディット連中みたいに無理矢理奪おうってのか?」ワシリーがスタルカーたちの欲望を見透かしたようにいやらしく笑う。

 

「いや、そりゃぁ、まぁ、丁寧にお願いしてだな……。」パブロは決まりが悪そうに口ごもり、グラスを手にごまかす。やはり妙なところで善良な男だとグレブは思った。

 

ワシリーは急に慎重な口調に変わった。「とにかくやめときな。たまにアレに気に入られた奴が連れ立って狩りへ出るがな、長生きできた奴は一人もいねえ。一攫千金なんぞ夢見てねえで真面目に商いに精出せば、ワシみたいに一山築いて生き残れる。」

 

老人の暗い瞳がスタルカーたちを冷たく見据える。その言葉の裏にはキツネへの畏れが隠れているようだった。

 

◆ ◆ ◆

 

宿舎に戻る道すがら、バラノフカの夜の通りを歩きながらパブロはああでもないこうでもないと持論を述べていた。曰く、「キツネの住処に眠る宝の山」。早くも噂に尾ひれがつき始めていたが、彼の声は夜風に掻き消される。グレブはたまに相槌を打ちながら話を聞いていた。

 

宿舎の四人部屋に帰り着くと、パブロはベッドにドサリと横になる。何分かはうわ言の続きを口にしていたが、グレブが「荷物くらいしまえ」と声をかける前にいびきをかき始めた。それなりに疲れが溜まっていたのか、それともアルコールが良い具合に回ったのか。「他人の荷物を盗むより自分の荷物を持ち逃げされるタイプ」とオレグが評していた通りだ。

 

パブロのAK74Mは倒れそうな危ういバランスで机に立てかけられている。黒染めされたレシーバーカバーには細かな擦り傷が走り、ハンドガードにも妙な汚れがこびりついている。だがパブロがこれを分解し、黙々と機関部の掃除をしている様子もたまに目にしていた。

 

グレブは昼間の失敗──宿舎に帰り着くなり前途不覚に眠り込んだこと──を思い出し、自身の装備品を丁寧に収納ラックに仕舞った。ライフル、背嚢、異常探知機。丸腰はどうにも落ち着かないのでPPKだけは手元に置く。宿舎の中でこれを使う機会などある筈もないのだが、拳銃を下げているか下げていないかによって、廊下ですれ違う相手がこちらに払う敬意の高が上下することは往々にしてある。こういう場所では特に。

 

収納ラックには番号を任意に変更できるダイアル錠が備わっているが、その気になれば抉じ開ける方法などいくらでもある。なので三人揃って部屋を空ける際は律儀に全ての荷物を持ち歩くようにしているが、もし同室の人間が信用できないならば眠る瞬間も気が抜けない。

 

現在の四人部屋の同居人はオレグとパブロだ。少なくとも日頃から行動を共にしている二人との相部屋なら、過剰な警戒心を抱く必要はないとグレブは判断することにした。部屋を借りるスタルカー達がグループを組んでいるなら宿舎側もある程度は融通を利かせるらしく、残った一つのベッドは空いている。もちろん宿舎が混み合えば四人目のベッドも埋まるのだろう。だが、今のところ三人分の金でこの四人部屋を使うことが許されていた。

 

一足先に宿舎に引き上げていたオレグはベッドに仰向けになり煙草をくわえていた。今は部屋の照明は消されており、卓上ランプの淡い光だけがその横顔を浮かび上がらせている。彼の吐く煙は薄く立ち上り天井の静寂に溶けていく。グレブもベッドに腰を下ろしブーツを脱いだ。

 

「…それで、ワシリーはキツネのことを話したか。」その声は低く、南米男のいびきに遮られることなくグレブの耳に届いた。

 

「どうしてそれを?」聞き返しはしたが、大体予想がついた。

 

「俺もワシリーから同じ話を聞いた。あの爺さん、キツネのことで酒場が盛り上がるたびに新入りに同じ話を聞かせるからな。」珍しくオレグが笑い、煙草の火が赤く瞬く。

 

「あの話はどこまで本当なんだ?」グレブは尋ね、ベッドに横になった。夕方まで眠っていたので深夜でもまるで眠気は無い。

 

「…さぁな、俺は知らん。話には聞いていたがキツネを実際に見たのもあれが初めてだ。」オレグの答えはいつも以上にそっけなく、グレブは少々落胆した。

 

頼れるベテラン、拠点で商売に耽るのではなく荒野の危険と直接渡り合うスタルカー。寡黙だが話に余計な脚色をせず事実を的確に伝えるこの男からなら、真実に近い話が聞けると期待していたのだが。オレグの目は暗がりで何かを思案するように揺れ、グレブにはその意味を読み取れなかった。

 

「なら、あの子供が持ってたアーティファクトはどう思う?」グレブは話題を変えた。

 

キツネの袋から転がり出たアーティファクト。酒場のスタルカーたちは抗いがたい興奮に目を輝かせていた。借金返済という事情があるにせよ、グレブとてまばゆく輝く宝への渇望は彼らと大差ない。それこそがスタルカーの習性のようなものだと思っていたが、オレグにとってはそうではないのだろうか?

 

「アノマリーやアーティファクトを嗅ぎ分けるって話。その部分は興味はあるがな、アーティファクトそのものはどうでもいい。」その言葉にグレブは戸惑った。

 

金ではなくゾーンそのものに魅了されている手合いなのか。ワシリーが恐らくそうであったように。グレブは目の前の男が二十年ほど老け込んで後、バラノフカで隠居する姿を想像した。椅子に揺られ、コンクリートのバリケード越しにゾーンの荒野を眺めるその老人の肩には、擦り切れて判別できなくなったエンブレムが貼り付いている──。

 

「それよりもな。」オレグが続ける。「風呂は入れるときに入っとけ。ミュータントに嗅ぎつけられる元にもなる。」

 

熟練スタルカーの助言はいつもながら的確だった。鑑定士の店の妙な甘い香り、酒場に漂う酒の匂いに立て続けに誤魔化されていたが、三日続けての探索が自身の身体に蓄積させた汗と泥の臭い──それに混じる微かなミュータントの腐臭──を、グレブは今にして自覚した。

 

新入りは苦笑いで首肯し、先輩の助言を受け入れた。再び収納ラックを開錠し、雑貨屋で購入した石鹸とタオル、唯一の着替え類を取り出す。

 

そして三日分の垢を落としに行くべく人気のない深夜の廊下へと歩み出た。

 

シャワー室は宿舎の奥にあり、かつてこの工場が正常に稼働していた時代からその役割を変えていない。壁のタイルはいくらか欠落しておりパイプも剥き出しになった年代物だが、このバラノフカではシャワーを浴びるという贅沢が許されていた。

 

そして更に信じがたいことに、ここには"温水"シャワーがある。もちろん蛇口を捻れば自動的に水や湯が出るわけではない。壁に取り付けられた小型の販売機に似た機械に硬貨を投入することで、数分間だけ大元のバルブが解放される。温水を使いたい場合はレバーを『温水』に合わせ、更に数枚の投入を要する仕組みだ。電子決済端末が水や湿気問題を克服できなかったのか、ここでは現金払い一択となっている。

 

スタルカーの間ではこの温水がどうやって確保されているのかについて憶測が飛び交っていた。中でもよく言われるのは「放射線を発する温熱系アーティファクトを湯沸かし器代わりにしている」という説だ。曰く、鉛で覆った給湯装置の中にアーティファクトを沈め、それで水を温めているのだという。

 

伝説的なスタルカーがアーティファクトで湯沸かしをする話はたまに形を変えて流布されているが、少々心配になったグレブは後に目立たぬように検知器を持ち込んで排水溝に当てた。アノマリーと放射線の存在を逸早く警告するこの先端科学の産物は、このシャワー室が安全許容範囲内であることをスタルカーに告げた。

 

それにしても、とグレブは考える。湯を沸かすための燃料も密輸品の筈だ。運び屋が軍の検問やアノマリー地帯を抜けて持ち込むそれは、外の世界の数倍の価格で取引される。まさかスタルカーの公衆衛生レベルを底上げする為の慈善事業である筈もないので、何処かに上手い儲けのカラクリがあるのだろう。いっそゾーンの中で木を伐採して薪を燃やした方が安上がりだろうし、スタルカーの野営における湯沸かしとは常にそういうものなのだが。

 

いずれにせよ、それは拠点を運営する側の懐事情であり、スタルカー側の懐事情はまた別である。彼らはシャワーの前で立ち止まり、しばし財布と相談する。冷水なら安価で済むし、そもそも全く浴びずに済ますという非常手段もある。実際、グレブ自身も気まぐれなゾーンがやたらな底冷えを齎せた夜を除けば基本的に冷水派だった。湯気の立たない歯の根の合わぬシャワーをあびながら「節約だ」とひとりごちるのが彼の流儀だ。

 

だが今夜は違う。体の芯に残るゾーンの冷気は単なる疲労とは別のものだ。あの地下道の闇、ミュータントの咆哮、そして──キツネの瞳。あらゆる感覚が重なり、グレブはためらわずに硬貨を数枚、立て続けに投じた。

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