STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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4節:遅い朝食

バラノフカの酒場『狐の巣』は昼下がりの閑散とした空気に包まれていた。2世代か3世代前の音楽プレイヤーが更に太古のスラヴ民謡を再生している。どこの誰が録音したのかも知れない雑音まじりの音源。それが静かな酒場の隅々に沁み渡っている。

 

スタルカーたちは既に拠点を後にし、朝の光を背にゾーンの奥へと散っていった。まだ陽が高いうちは戻って来る者も酒を煽る者もいない。夜の闇にアノマリーを潜り抜けるような化け物染みた連中は今のうちに仮眠を取っているか黙って銃の手入れでもしている頃だ。

 

グレブは遅い朝食としてテーブル席でシチューを啜っている。ズレた睡眠サイクルを戻すため、ようやく眠気を感じ始めた早朝に数時間だけ眠った。三日間の単独行動の疲れは徐々に身体から抜け始めていたが、未だ骨と筋肉の間にしつこく沈殿しているようだった。

 

オレグとパブロは、セルゲイやヴィクトルと連れ立って拠点周辺のパトロールに出ている。グレブも誘われていたが生憎と防護装備を修理に出さねばならなかった。「なら5秒で済む方法があるぜ。」とパブロが自身の背嚢から粘着テープを取り出しかけたが、それは丁重に断った。ゾーンの泥とミュータントの血にまみれた防刃ベストは武器工房の職人に預けられ、強靭なナイロン糸による補修を受けている。

 

一応、拠点では「一日限りのレンタル装備」も提供されている。だが店側もスタルカーの持ち逃げを警戒しており、事後の修繕を見越した高めの料金設定に加えて保証金──装備返却時に返還される──を置いていくことも求められる。そしてそもそも自前の装備を持たないようなスタルカーは保証に足りる金を持っていない。

 

グレブは『月光』を売った金を背嚢の底に忍ばせているのでレンタルを利用することもできたのだが、身体が本調子でないのは事実なのだ。

 

グレブはシチューを啜る。深皿に注がれた熱いシチュー。薄く切られたパンが二枚添えられている。具はゴロリとした芋と豆、それに煮崩れた肉の欠片。程よくスパイスが効いていて味は悪くない。保存料たっぷりの缶詰の中身を煮込んだもので、そこへ密輸した野菜を加えたらしい。『狐の巣』は食堂としての機能を有しているが提供されるメニュー自体はあまり多くない。シチューの他に東欧系の料理がいくつかあるのみだ。

 

放射線やアノマリーを巧みに回避しておきながら、大量の砂糖とカフェインが添加されたエナジードリンクや塩気の多い保存食ばかり齧って無暗に寿命を縮めるスタルカーも少なくない中で、それなりにバランスのとれたマトモな食事を口にできるのはありがたかった。どこか懐かしさのある香りが湯気に混ざって、芋を咀嚼するグレブの顔を撫でる。作っているのが無精髭の店主と下働きの異国人なので、これが“家庭の味”と言えるのか疑問ではあるが。得体のしれないミュータントの肉が使われていないかについても店側の良心に頼るしかない。

 

「だから俺がここに来た時にはもう『狐の巣』って名前だったんだっての。」

 

カウンターに座って店主のミハイルに絡んでいるのは昨夜ワシリーの与太話を拝聴した男の一人だ。それがファッションであると言わんばかりに迷彩柄のスカーフで口元まで覆った若いスタルカー。彼が今日の探索対象に選んだのは、あのキツネについての情報を収集することだったようだ。

 

実のところグレブもそれ目当てでこの『狐の巣』を朝食の場に選んだ。どう切り出したものか探索手順の策定をしながら店に入り、シチューを注文した段階でこの男がやってきた。わざわざ自分で尋ねるまでもなくなったので、グレブはただ二人のやりとりに話に耳を傾けながらシチューを啜る作業に没頭している。

 

男は食い下がる。「でもあのガキ、あんたとずいぶん親しそうだったじゃないか。あんな"土産"まで置いてったりしてよ?」

 

狐がカウンターへ残していったアーティファクト。グレブが命がけで手に入れた『月光』を取引価格で上回る『螺旋の輪』。ノーリスクで深淵の秘宝を恵んでもらえるなどという法外な幸運はゾーンには存在しない。であれば、無精髭の店主とあの異形の子供の間のただならぬ関係を疑うのはスタルカー以前に人間として至極真っ当と言える。しかしミハイルも譲らない。

 

「さぁな、俺のことを誰かと勘違いしてるんだよ。前に居た誰かとな。…俺ぁ、あいつにタダで飲み食いさせてやる代わりに貰えるもんは貰っとくだけだ。」

 

ミハイルの言葉も表向きは真っ当だったが、あまりにも型どおりでグレブの耳には逆に嘘くさく聞こえた。昨夜、キツネに対して見せた遠慮するような優し気な態度は単に体の良い金ヅルを手放さないためか?──何も知らない、関係ない──どうにもはぐらかされている感覚だが、自分が改めて質問したところで違う答えが返って来るとは思えない。ミハイルが語らないという選択をしているのなら、それを無理にこじ開けたところで得られるのは敵意か沈黙だけだ。

 

グレブがシチューを啜り終え、仕上げに残り僅かなスープをパンの欠片で拭っているとき、胸ポケットの携帯端末が震えた。画面を確認すると短いメッセージが表示されている。

 

『バラノフカ武器工房 ──依頼品の修繕完了』

 

食事代は注文前に払っている。シチューを平らげたグレブは足元に置いてあった背嚢とライフルを担ぎ、椅子から立ち上がった。

 

◆ ◆ ◆

 

昼間のバラノフカはゾーンの冷たい陽光に照らされ静けさに包まれている。通りを歩く者は無く、AKを下げた迷彩服姿の門番達も煙草をくわえ、退屈そうに空を見上げている。

 

門の外、ゾーンの平原を歩いてくる4人組のシルエットが陽光の霞に揺れた。パトロールからの戻りのようだ。オレグやパブロの姿かと目を凝らしたが、彼らが戻るのはまだだいぶ先の筈だった。

 

バラノフカでは拠点周辺のパトロールは定番の小遣い稼ぎだ。大した額にはならないが、2、3日分の滞在費と弾代を賄うことはできる。

 

主な標的はミュータント。幸いなことに、昔のゾーンで頻繁に見られた組織間抗争は今では全体的に鈍化していた。完全になくなった訳ではないが少なくともバラノフカではここ1、2年の間、人間の集団規模での撃ち合いは発生していないらしい。ここは現存するバンディット集団の勢力圏からも遠く離れている。パトロール中に銃口を向ける相手がミュータントで済むというのは、それだけでこの地域の安全性を物語っていた。

 

パトロールとして即興で編成された4~5人1組の集団は数時間おきに正門より送り出され、拠点を中心に半径1~1.5kmほどの円を描くようにして荒野をぐるりと周回する。ルートは十分に踏破されており比較的安全だが、毎度突発的なアノマリーによる少々のルート変更は起こる。そしてたまに出くわすミュータントを駆除する。

 

ゾーンのみならず、外の世界においても害獣駆除に適しているのは00バックを装填した散弾銃だ。似たような仕事はグレブが滞在していた"ルーキー村"にもあったが、そちらは装弾数2発の古びた猟銃が支給されていた。バラノフカのスタルカー達はポンプアクション式を使う。4人がかりで無数の鉛の粒を浴びせかければどんな獣も一瞬でミンチ肉に変わる。それに日のある内から人の臭いに釣られてのそのそと近づいてくるのは、大抵は半分ミュータント化した野犬や身体のねじ曲がった動物モドキの類だ。ゾーンの見通しの良い草原では彼らが近づいてくる様子は遠くからでも目立って見える。

 

ルーキー村で初めてパトロールに参加した時、グレブは食物連鎖の頂点に立ったようなスリルを感じ、一時、自身が抱える借金の重みを忘れた。

 

だがこの手の狩りは幾度も繰り返すうち、いずれ作業じみた飽きが生じる。発砲音と硝煙が刻む単調なリズム。長続きするのは細々した作業に耐えられる者だけだ。不格好な豚のような生き物を仲間と共に撃ち殺したとき、怪物退治の高揚感の裏でグレブの中の冷静な部分はそのことを予想していた。

 

グレブは平原を歩くシルエットから視線を外し、バラノフカの通りを進んだ。溜池の脇を通って建物の角を曲がり、半地下の武器工房へ続く階段を数段下る。正面の扉を押し開くと蝶番の鈍い金属音が屋内の空間に響いた。

 

"武器工房"という名前のイメージに反して店内は静かなものだ。油と鉄の匂いこそ漂っていたが甲高い金属音も火花の飛ぶ光景もない。

 

カウンターの前面はどこかの留置場から持ってきたかのような鉄格子が床と天井を結び、店の人間と客とを隔てている。単なる壁や鉄板でないのは客側から店の全容を眺める余地を与える為か。

 

武器工房の"工房"の部分。グラインダーや小型のアーク溶接機、旋盤加工用の器材がその存在を主張しているが、これらが稼働するのは銃器の特注カスタマイズの為にアルミ製の銃身に小さな穴をあける時と埋める時だけだ。金属素材の成形にも対応した3Dプリンターが隅に置いてあるが、グレブはこれが動いているところをまだ見たことが無い。

 

工房への依頼で多いのはもっと地味で、もっと切実な依頼。「破れた防護服の修繕」だ。ゾーンのあらゆる危険をかいくぐって戻ってくるスタルカーたちが工房へ持ち込むのは、裂傷、融解、焼け焦げの痕がついた装備ばかり。たまに弾痕も空いている。迷彩服に防弾素材を仕込むための追加ポケットを縫い付けるのは簡易な改造として人気が高く、そのせいで作業台に置かれた修繕道具は裁縫関連のものが多くを占めていた。

 

スタルカーの中には「簡単な修繕の為にいちいち金を払うのもつまらない」と裁縫を覚える者も少なくないらしい。だがそういうスタルカーはいずれ仲間内から簡単な修繕を頼まれるようになる。タダで済むなら、とアレコレ仕事を押し付けられる内に集団内で修繕係と化し、やがてスタルカーを廃業し、こういった工房で金をとって仕事するようになるのだ。そういう笑い話をグレブは酒場で耳にしていた。

 

僅かではあるが工房には販売用の在庫も並んでいる。グレブが身に付けているものよりは上等な防弾ベストが数種類。全身を覆うタイプのボディアーマーは重量がありそうだが、隙間なく急所を保護し、防弾性と防刃性を兼ね備えている。科学者たちが着ていそうな化学防護服もあった。艶のあるオレンジとグレーの配色をしたゴム質の素材は、防御性はまるでなさそうだがゾーンでの活動向けに設計されたもので放射線と酸の霧に対してかなりの耐性をもっているらしい。

 

グレブは以前、エグゾスケルトン──動力アシスト機構を内蔵した、いわゆる強化外骨格──を身に付けた一団を見かけたことを思い起こした。重火器を担ぎながら平然と歩く彼らには圧倒的な"力"を感じたが、ああいったものはどこで調達するのか見当もつかない。

 

いずれにせよ販売用の防護服は在庫が少なく、その配置もどこか所在なげだった。防具に需要がないわけではないが、ひとたび身につければそう頻繁に買い替えるものではないからだろう。補修しながら使い続けるのがスタルカー流ということか。その極端な例としてバラノフカの雑貨屋に置かれている強力無比なる粘着テープは大抵の補修作業を応急的に完了できることで重宝されていた。

 

そして武器工房の"武器"の部分。壁に沿ってならぶガンラックにはグレブの持つAKS74Uとその親戚たちがずらりと並んでいる。AK74のバリエーションモデルが多くを占めているが、最新のAK-12やSVD狙撃銃も少数ながら店のラインナップとして存在していた。血族の元祖たるAK47は流石に現役を退いて久しいらしく、ここには見当たらない。使用感のある銃身は彼らの以前の持ち主の存在を物語っていた。

 

西側の銃器も陳列されている。M4カービン、SIG Sauerピストル、M24狙撃銃。比較的真新しい品は全てが密輸品なのだろうが、かつてゾーンを訪れた軍隊の置き土産も少なくない。取り分け今ゾーンを封鎖しているのとは別の者達の遺産。グレブの目に7.62mmのカービンライフルが留まった。

 

ベルギー製、SCAR-H。

 

アルミ合金と樹脂素材が組み合わされた銃身とフレーム。無骨ながらも合理的なその外観は実戦で磨かれた兵器特有の説得力を持っていた。銃身上部にはピカティニー・レールを標準搭載しており、光学照準器からレーザーサイトに至るまで用途に応じた拡張が自在にできる。堅牢なモジュラー構造と悪環境下でも確実に作動する信頼性を両立した名品だ。

 

ゾーンが生まれて間もない頃の遺物。そのフラットダークアースの樹脂製ストックに深い擦り傷が走っていた。

 

ゾーンの異常性が明るみに出た頃、世界最強を自負する軍隊がこの地の制覇を試みた。彼らは当事国の政府を巧みに説き伏せ、一番乗りで"人道支援部隊"を送り込んだ。深淵の謎を解き明かし、国際舞台で抜きん出ることを期待したのは疑いようがない。アーティファクトの力、アノマリーの秘密──それらが覇権の鍵と直感したのだ。その結果は惨憺たるものだった。

 

予想外の放射線拡散範囲、アノマリーの予測不能な猛威。空中で鉄の風に回転翼を捥ぎ取られ、為す術なく地面に落ちる輸送ヘリ部隊。最新の放射線化学防護を施された兵員輸送車両が重力井戸に飲み込まれ、折りたたまれながら宙を舞う。フル装備の精鋭部隊が装甲車めいた一体のミュータントに蹴散らされる。リークされた映像は報道を通じて繰り返し流され世界を震撼させた。

 

その極めつけは兵士が持ち込んだビデオカメラが捉えた光景だった。棒立ちで悲鳴を上げながら互いが動かなくなるまで撃ち合う兵士たち。血と硝煙の中、目の前の戦友に向けて狂ったように引き金を引く。現在のゾーン関連の雑誌を読み漁った者なら、それが"PSIフィールド"──オカルトめいた超常的な力場──に脳をやられた人間の典型的な異常行動だと知っている。だが当時は軍隊の薬物蔓延まで疑われ、科学に基づく政府の反論は恐怖と不信に煽られた世論を納得させることは、ついぞできなかった。

 

ゾーンに手酷く噛みつかれた彼らは自国民の圧力に押され撤退を余儀なくされた。

 

大量の重火器の処理は派遣軍を常に悩ませる問題だ。放射線を浴びた銃器ならばなおさら本国に持ち帰ることはできない。通常ならジェット燃料をかけて現地で焼却処分するところだが、彼らは自分たちの志を継ぐ現地組織に武器の処遇を託した。独占的な情報供給と引き換えの間接的支援。大国の後ろ盾を得たいくつかの現地組織──ゾーンを開放しようとする者たち、あるいはゾーンを抹殺しようとした者たち──は、一時ゾーンのイニシアチブを握った。だが、やがて彼らもゾーンの混沌に飲み込まれ、組織は時間をかけて分裂し大量の武器も散逸した。そしてめぐりめぐってこうした拠点の陳列棚に並ぶのだ。今日もいくらかの金と引き換えにスタルカーの手に渡る。

 

グレブはライフルを眺めながらゾーンの無常を感じた。あの軍隊の夢も、スタルカーの骸と同じく荒野に埋もれた。

 

鉄格子の手前まで歩み寄って木製のカウンターを軽く小突いた。武器を売る方の男はこの新入りが武器を買いに来たのではないと知っているので、携帯端末に視線をおとしたままチラリとも顔を上げない。グレブの位置からは彼の短く刈られた髪に僅かに白髪が混じっているのだけが見えた。一方、職人の方の男は客の存在に気付いて作業の手を止めた。スキンヘッドにバンダナを巻いたその職人は棚から依頼品を引っ張り出して来る。

 

グレブの防刃ベストだ。くたびれた色合い、そこかしこが新しいナイロン糸で縫い直され、補修箇所が補修箇所を覆い隠すようになっている。

 

「注文通り首回りも分厚くしといた。防刃素材だ。ミュータントの牙なら、まあ、ある程度は耐えられるだろう。」声にはゾーンの職人らしい無骨な自信が滲んでいる。

 

グレブは指先でベストの縁を撫でた。かつて自分が外の世界のありふれた防犯用品店で買い、共にゾーンに密入域した頃の面影をほとんど残していない。防刃素材は丹念な職人技で何層か折り重ねて縫い込まれており、ナイフや牙が一撃目で貫ける代物ではない。前回の補修の際、胴体部を保護するようにして薄いセラミックプレートも仕込んでみたが、そこに防弾性が欠片もないことも彼はよく知っていた。

 

「新しいのは買わないのか? 何回か修繕してやってるがな、そろそろ寿命だと思うぞ。」その言葉には売り込みの下心よりも、もっと素朴で厄介な責任感が含まれていた。自分が仕立てた装備を着たスタルカーが明日の朝には冷たく転がっている──そんな事態は避けたいのだろう。

 

「分かってる。いずれ買い替えるさ。」グレブは職人の言葉に応えた。

 

装備を更新する計画はとうの昔から頭の中にある。ゾーンの奥地へと踏み込みアーティファクトを手に入れ大金を稼ぎ故郷に帰る。それを本気で目指すならこのツギハギの防刃ベストでは話にならない。何処かの段階で借金の返済ではなく装備の更新に金を使う。その見積もりも済ませてあった。だが背嚢の底の札束は今一つその見積額に届かないのだ。電子口座の金も既に返済のための引き落としが完了している。

 

グレブはもはや着慣れてしまった"防護装備"に肩を通す。生地は硬く、補強された防刃素材が首回りを締め付ける。初めてこのベストを着たときに比べればずいぶんと重くなっているが、その分、身体を保護する面積も広がっている。首や肩、脇腹などの急所は幾分か安全になった。ほんの気休め程度でもないよりはマシだ。

 

「好きにしな。まぁ、壊れたらまた持ってこい。」職人は最後にそう言ってから、別の依頼品の修繕作業へと戻っていた。グレブも無言のまま工房のドアへと向かう。

 

「金が入ったら銃も新調しとけ。壊れかけのAKじゃ宝は掴めんぞ。」

 

鉄扉を開けかけたそのとき、武器を売る方の男がグレブの背に声をかけた。ぶっきらぼうだが実感のこもった声。こちらにはろくに挨拶すら交わしたことがない。それでも冗談でも皮肉でもなく本気の助言であることは伝わってきた。グレブは振り返らずに片手を上げて応えた。

 

◆ ◆ ◆

 

バラノフカの東に広がる"溜池"は、かつてこの工場が稼働していた頃に産業用冷却水だか沈殿処理待ちの廃液だかを溜めるために掘られたコンクリートプールだ。長年の風雨に晒され細い排水路は土砂や枝葉に埋まり、行き場を失った雨水が溜まり続けている。

 

溜池は拠点の壁を半ば突き出す形で外へと広がっている。外に面している部分は追加のフェンスで囲われているが、溜池自体が堀の役割を果たしているのでこの方向からミュータントが入り込む可能性は低いだろう。

 

一見すると郊外のどこにでもありそうな人造の池に思えるが、熟練のオレグはルーキー達に「できるだけ水場には入るな」と指導していた。ゾーンにおける水場は光熱放射後に宙を漂う放射性物質たちが最後に行き着く場所だ。遠目には澄んでいても検知器を近づければ微かな針の揺れが現れる。

 

足首までなら問題ない。腰まで浸かるのも短時間なら許される。だが、首まで沈めたならば放射線除去薬の世話になった方が良い。

 

それでも、水面に漂う枯葉に混じってアマガエルが悠然と泳いでいるのが見える。ドス黒く変色した皮膚は放射線への耐性を獲得した証だ。人間とミュータントを除く大型動物がゾーンから消え去った今もなお、彼ら小動物達は環境に適応し細々と生態系を維持していた。

 

武器工房を後にし、再び溜池沿いの道を引き返していたグレブが最初に気づいたのは、溜池の縁で膝をつく鮮やかなオレンジ色の化学防護服だった。科学者だ。次に暗緑色の全身スーツを着た二人。護衛であるらしく、オレンジ色から少し距離を置いて立っている。

 

しかし、もう一人はあまりに風景に馴染んでいたのですぐには気づけなかった。あるいはそのブカブカの迷彩服が本来の迷彩機能を果たしたのかもしれない。

 

溜池の縁、澄んだ水面を眺めるようにしゃがんでいたのは"キツネ"と呼ばれる少女だった。

 

グレブは歩調を保ちつつ彼らを観察した。身体の底で緊張感が立ち上るが、昼の陽光が味方してか、これまで感じたような言いようのない畏れはなかった。キツネは池に小石を投げ込んでは波紋が広がるのをじっと見つめている。ブカブカの迷彩服の袖がずり落ち、細い手首が覗いた。例の袋は見当たらない。こうして見ると何の変哲もない子供のようにも感じられた。人らしからぬ耳と尾が生えていることを除けば。

 

科学者はやや痩せ型の男。簡易検査キットか何かを手にキツネの隣にしゃがみ、眼鏡の奥の目元は笑みを含んでいる。恐らく中年を過ぎているのだろうが、髭は丁寧に剃られており、整った都会的な印象が老いを覆い隠している。グレブにとって科学者と言えば常にヘルメットと一体型の遮光バイザーを被っている印象が強かったので、こうして素顔を見るのは何やら珍しいように思えた。

 

通りにはグレブと同じように彼らの様子を遠巻きに観察するスタルカーが1人ならず居たが、護衛の存在を意識して距離を保っているようだった。

 

一方で暗緑色の護衛の方はバイザーを着用している。首から下を覆っているスーツは化学防護服とボディアーマーのハイブリッド仕様。どっちつかずにも見えるがゾーンのあらゆる状況で無難に立ち回れる強みがある。サブマシンガンを身体の正面に吊っており、9mmか45ACPを装填したそれは平野でのミュータント狩りより市街地での対人制圧を想定した作りだ。すなわち"スタルカー"に対しての。

 

トラブルを起こす気は毛頭ないが、はなからこの道を通るつもりではあったのでグレブは直進を続ける。

 

何歩か近づいて気付いたが、科学者が手にしているのは野生生物用の汚染検査キットではなかった。半分包みが解かれたチョコレートバーだ。彼がそれを食べる気配はない。チョコレートは少女の方を向いている。

 

グレブの頭に真っ先に浮かんだのは「大人がチョコバー片手に女の子を口説いている」という滑稽な光景だった。高尚ぶった科学者がゾーンの拠点で変質者の真似事をしているなんて笑いものだ。「お菓子をあげるからお家へおいでよ」──そんな陳腐な台詞が似合いそうな場面だった。

 

酒場の店主が差し出したおやつを美味しそうに頬張っていた少女の笑顔を思い出したことも相俟って、グレブは苦笑しそうになったが、すぐに真顔を取り戻した。

 

案外、本当に変質的な目的かもしれない。

 

ゾーンで女を見かける機会は極端に少ない。どこかの拠点では妙齢の婦人が武器の修理工をしているらしいし、民間の多国籍企業が橋頭保として築いた科学調査拠点には首都から派遣された女性科学者も勤務しているそうだが、後者に関しては一介のスタルカーが接触する機会はない。

 

"生活必需品"として雑貨屋の隅にポルノ雑誌が並んでいるのは知っているし、恐らくパブロは表紙に印刷されたけばけばしいファッションの女の世話になっている筈だ。ウォッカが頭に最大限回ったスタルカーの口から「どのミュータントが一番具合が良いか」などという最底辺の下ネタが飛び出ることもある。しかし、ゾーンという異常な空間に隔離された者の中には冗談だけでは終わらないやつも混じっている。

 

アーティファクト探索への手がかり、ゾーンが秘めた謎、異形の少女の正体、そしてあの地下道での出来事──。そういったグレブのスタルカーらしい好奇心は、この状況に対する警戒度が多少上がったことと合わさって、足を止めて彼らの会話を立ち聞きしようという決断に至らせた。

 

グレブは溜池を見据え腕を組んで傍らの鉄骨に背を預けた。携帯端末でも操作すれば自然を装えるかもしれないが「立ち聞き以上のことはしていない」という彼なりの意思表示でもあった。

 

護衛の方もグレブに気付いたらしくバイザーで覆われた頭が僅かに向けられる。だがそれ以上の動きはない。追い払おうという素振りもなければ声をかけてくる気配もない。こうした場で好奇心を押さえきれずに立ち止まるスタルカーの存在にある意味慣れているのだろう。

 

「それで、今度は何を見つけたんだい?」科学者の口調は驚くほど柔和だった。まるで父親が娘に話しかけるような響きだ。彼らがスタルカーに対して見せる事務的な命令口調や、無学な食い詰め者を見下すような無関心とはまるで異なる声音。キツネはすぐに答えなかった。拾った枝を水面に伸ばし、放射能汚染水をゆっくりとかき混ぜている。

 

「うーん、いいものだよ。光るのとか、熱いのとか。」頭の上の三角の耳と背後のふさふさの尻尾がたまに揺れている。

 

「君がそう言うなら、きっと凄い価値があるんだろうね。」科学者は小さく笑い、手に持ったチョコレートバーを再び差し出そうとする。

 

キツネはチラリとチョコレートを見たが、手を伸ばさずに曖昧な笑みを浮かべるだけだ。迷惑というほどではないが、父親のお節介な愛情を受け流そうとする娘のようだった。

 

それでも科学者は根気よく話しかけていた。その言葉の端々にはゾーンの秘密に迫る類のものは一切出てこない。ただの何気ない日常的な内容ばかりだった。今日の風は冷たいとか、水辺に咲いた白い花がどうだとか、そんな些細な話題がゆっくりと交わされていく。そしてキツネの返答も曖昧なものばかりだった。頷くような、笑うような、口の端をほんの少し持ち上げるだけの応答。

 

年齢差も立場も大きく異なる二人の間にどのような関係が築かれているのか。いずれにせよグレブの目には科学者の態度が、酒場の店主がキツネに見せた遠慮がちな優しさと重なるように思えた。

 

キツネがこちらを振り返った。グレブと目が合う。彼女はにっと笑い、ごく自然な仕草で手を振ってくる。まるで遊び場で友達を見つけた子どものように。

 

科学者もキツネに合わせてグレブの方を向く。眼鏡越しに細まる目には冷静さと探るような気配が一瞬だけ混ざった。

 

「お友達かい?」科学者が尋ねる。

 

「うん、グレブは面白いの。ゾーンの石みたいにキラキラしてるよ。」キツネはそう言って再び笑いかけた。

 

グレブの背筋に緊張が走った。自分の名前を知っている──途端に空気が重くなった気がした。やはりあの酒場で、キツネはグレブに向けて手を振っていたのだ。

 

クライアントと少女のやりとりを見守っていた二人の護衛もスタルカーに対する警戒度を引き上げたようだ。遮光バイザーに隠れた四つ目は確実にこちらを注視している。

 

歩み寄るか、距離を保つか、それとも歩き去るか。正直、ここからあまり良い展開は予想できない。科学者が冷淡な口調で「あのミュータントとはどういう関係かね?」と詰問し、護衛がこれ見よがしにサブマシンガンに手をかけてグレブの両脇を挟む──。そのようなイメージが脳に浮かんだが現実はグレブの予想に反したものだった。

 

「じゃあ、邪魔しちゃいけないね。」科学者は柔和な態度を崩さず立ち上がった。チョコレートバーは手に持ったままだ。

 

オレンジ色の防護服はキツネに別れを告げると、二名の暗緑色を連れて歩き去ろうとする。しかしキツネから見えない角度、グレブの前を通り過ぎる時にはその父親めいた温もりは完全に消えていた。ただ冷淡な観測者の視線が目の前のスタルカーを分析し、そしてバラノフカの埃っぽい通りに消えていった。

 

溜池の縁に座る少女のニコニコ笑顔を何呼吸分か放置した後、グレブはようやく鉄骨から背を離した。科学者が傍にいない方がキツネと話しやすい。そう考えていたのだが、そういった思惑すらあの科学者に見透かされていたような気がした。

 

「…どこで俺の名前を?」

 

グレブはキツネ耳の少女に話しかけた。外の世界で身につけた社会的な様式を呼び起こし、子供に向けるような柔らかい言葉を選ぶべきかと迷ったが、結局口から出たのはゾーンの過酷な日々で染みついた飾り気のないスタルカーの言葉だった。

 

キツネはクスクスと笑った。「びっくりした?ミハイルに聞いたよ。」無邪気な高い声。三角の耳がピクピクと動き、フサフサの尾がコンクリートの縁で埃を払うように動いた。

 

酒場のカウンターに立つ店主の姿が頭に浮かぶ。無精ひげのあの男が偶に見せる、スタルカーたち一人一人を抜け目なく値踏みするような鋭い視線。グレブはあの男に直接名乗った覚えはない。新入りゆえに目立っていたか、パブロが軽い口で店主と話していたか。腑に落ちない思いを抱えつつ彼はキツネを見つめた。

 

「…地下道で助けてくれたな?」

 

その声には確かめるような重みがあった。思い出すのはあの地底の闇──グレブを取り囲むミュータントたちの頭蓋を、この異形の子供は淡々と撃ち抜いていった。

 

「うん、グレブ、生きてて良かったね。死んじゃったら楽しくないもんね。」キツネはニコリと笑い、まるで何でもないことのように言った。

 

その事実の重さが、今更ながら胸にのしかる。あの出来事をどこか夢の中のことのようにも感じている自分も居た。しかしやはり、あれは実際にあったのだ。彼女が居なければ今頃引き裂かれたグレブの断片はミュータントの腹の中で消化されていた。

 

「グレブ、アーティファクト見つけられて嬉しかった?」

 

問いかけの意図を測りかねたが素直に頷いた。『月光』の青い輝き、鑑定士が差し出した札束、それらは借金の一部を確実に削り取った。ナディアとリナを取り戻す第一歩。それこそが自分が現在の過酷な状況に耐えている理由なのだ。

 

少女は立ち上がると、ブカブカの迷彩服とフサフサの尾についた砂埃をパタパタと払った。「じゃあ、一緒に行こっか。」

 

グレブは眉を上げる。「どこへ?」

 

「アーティファクト探し。いいの見つかるよ。」

 

全身にゾクリとした感覚が走った。宝を手に入れられるかもしれないという希望への誘惑と、それに伴う致命的な危険の予感に戦慄する。

 

脳裏に浮かぶのは老スタルカーの言葉。たまにキツネに気に入られた者が共に狩りに出る。だが長生きできた者はいない──。

 

ゾーンの酒場で語られる与太話、その締めくくりにありがちな警句だったが、あの老人の目にはキツネに対する確かな畏れが潜んでいた。だが、グレブも彼が知る以上のことを知っている。

 

地下道で少女は確かに命を救ってくれた。敵意や害意がないのは確かだろう。それに思い返すのはキツネが酒場で無造作に差し出した『螺旋の輪』。あれほどの品をあといくつか見つければ、課せられた借金など一気に帳消しになるだろう。

 

グレブの中で疲労感が消えていく。代わりに高揚感が静かに血を満たしていくのを感じた。

 

その時だ。

 

無意識に伸ばしかけていた彼の手をキツネの小さな手が掴んだ。

 

冷たいのだろうと想像していたがそれは違った。温かい、年相応の子供の手だった。ゾーンの冷気とは対照的に少女の体温は生き物の確かな鼓動を伝えていた。キツネはグレブを見上げ、狐の耳を小さく動かした。

 

「行こう、グレブ。ゾーン、面白いよ。」

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