STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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5節:キツネの狩り

バラノフカをぐるりと囲むコンクリートの壁。その唯一の出入り口は工場時代からの名残である巨大な鉄の門だ。鋭い爪痕や弾痕らしきものが残っているが、それらは長い時間を経て赤茶けた錆びに半ば溶け込んでいる。グレブはこれまで門が閉じられているところを見たことがなかった。

 

鉄門の間の広い道には背の低い簡易バリケードがいくつかジグザグに並べられている。ミュータントどもの突進力を削ぐための工夫だが、拠点周辺のパトロールが十分に機能しているお陰かそんな光景も目にしたことはない。

 

従って正門脇の詰め所では常に2、3名の門番が暇そうにしている。拠点の運営者かなにかが彼らに支払う日給の額と、だらりと銃口の下がったAKが果たして動作するのかはスタルカー達のささやかな関心事だった。

 

車の往来でもあるならバリケードの存在は邪魔だろうが、グレブはこれまでにゾーンで車両の類が動いているのも見かけた覚えはない。比較的踏破された道でも自動車の走行速度では突発的なアノマリーに突っ込む恐れがあるからだ。当然ながら空中輸送にも同じ問題が付きまとっている。いっそロバでも持ち込んで荷車を引かせる方が走破性でもメンテナンス性でも最適解かもしれない。

 

ゾーン探索の歴史は長いが、現在も人間の徒歩による探索が主流だった。周囲の景色に妙な歪みは無いか、何か通常の自然環境にはあり得ない音が聞こえないか、スタルカー達は検知器とにらめっこしながら慎重にゾーンの荒野を歩むのだ。

 

キツネの小さな手に引かれながらグレブは正門へと歩いて行く。門番の視線がすぐに彼らに注がれた。

 

この異形の子供とてバラノフカへの出入りにはこの正門を通るのであろうからには、門番達にとって彼女の存在は既に知り及ぶものなのだろう。特に二人を見咎める様子はない。むしろ門番の一人、若い男は少女に手を引かれるスタルカーに気づき、ニヤリと笑った。

 

「よぉスタルカー、キツネとデートかぁ?」軽い口調で声をかけてくる。

 

キツネはクスクスと笑い、尾を小さく振って門番に返した。「デートじゃないよー。宝探し!」ゾーンに似つかわしくない、子供らしい無邪気な声がコンクリートの壁に反響する。

 

バラノフカでは門をくぐる際に門番と軽口を交わすのが日常の光景だ。パブロなどは返しが上手いので彼らに気に入られている。グレブも口角を上げて笑いの一つも返してやろうかと一瞬思ったが、若者の隣に立つ年上の門番に視線が吸い寄せられた。

 

傷が刻まれた顔を険しく引き締め、無言でグレブを見つめている。過去にキツネに手を引かれてこの門をくぐるスタルカーを見送ったことがあるのだろうか。あるいは、酒場の老スタルカーの警句を本気で信じているのか。

 

結局、グレブは緊張で強張った仏頂面のまま鉄門をくぐり、ゾーンへと歩み出した。

 

昼間の冷たい陽光が広大な平原を静かに照らしている。未だ自然はゾーンの影響を免れた姿を保ち続けていた。

 

背の高いススキが風に揺れ、淡い金色の波を織る。オークの木々が点在し、陽光に揺れて淡い緑をきらめかせている。遠くには朽ちかけた木造の納屋や苔むした石垣は、かつての農村の面影を残している。空は淡い青に澄み、雲の切れ間から差し込む光が草露を輝かせる。この瞬間、風景はまるで外の世界の牧歌的な田園のように穏やかだった。川のせせらぎに混ざって野鳥のさえずりが一瞬だけ風に乗ってスタルカーの耳に届いた。

 

ゆるやかな道。土は拠点とゾーンを行き来したスタルカーたちによって踏み固められていた。キツネはグレブの前を軽やかに歩く。三角の耳が風に揺れ、長い尻尾が腰の後ろで左右にリズムを刻む。裸足の足裏で無造作に草を踏み、土や小石をものともせず進む。

 

時折、彼女はぴたりと足を止めて風上に顔を向け、まるで匂いを嗅ぐような仕草を見せた。グレブもそのたびに立ち止まり、彼女が感じている何かを探して周囲を見回してみる。だがやはりその仕草が具体的に何を意味するのかは分からない。アノマリーの存在を察知しているのか、それともただ気まぐれに風を感じているだけなのか。

 

与太話によればキツネはアノマリーを嗅ぎ分けるとされていたが、その真偽は不明だ。しかし小さな子供が一人でゾーンの荒野を生き抜いているからには、そのくらいでなければ説明がつかないとも思える。

 

小さな案内人の背中に続いてスタルカーは歩いた。

 

バラノフカの工場群と鉄条網のシルエットが背後の風景に遠ざかっていく。まだアノマリーやミュータントの襲撃をそれほど警戒しなくて良い距離ではある。手元の検知器から空間の異常を警告音さえ聞こえなければ、ひとまずは安心して良い。

 

ならば色々と尋ねる機会かもしれない。そもそもキツネは何者なのか。与太話に含まれる何が嘘で何が真実なのか。そして少女の過去──バンディットについて言われていることなども含めて。

 

「なぁ。」土の道を踏む足音に合わせてグレブは声をかけた。「お前は……一体何者なんだ?」フィクションでしか聞かないような台詞を現実で口にすることになるとは思わなかった。

 

キツネは振り返り、クスクスと笑った。「キツネだよ?」分かり切ったことを聞かれたというような顔。

 

「人間、なんだよな?その耳と尻尾は…。」グレブは言葉を選びながら続けた。ゾーンの異常が人間の子供をそのように変えたのか。老スタルカーの言葉を借りるなら、”随分と人間寄りのミュータント”なのか。

 

キツネは自分の尻尾を手で撫でた。ふわりと毛並みを整えるように。誇らしげな笑顔を浮かべるが、質問の意図を理解できなくて誤魔化すような仕草だ。とは言え、外の世界で普通の子供と話すのだってこんな風に要領を得ないものかもしれない。グレブは質問を変えることにした。

 

「じゃあ、アノマリーやアーティファクトを嗅ぎ分けるっていうのは本当なのか?」

 

「うん!それはね──」キツネの目がキラリと光り、ようやく意味の通じる問いが来たかのように話し始めた。

 

「ゾーンの中にはね、ザラザラしてて、チクチクしてて、トゲトゲしてるものが、いっぱい流れてるの。見えないけど、空気の下とか、土の中とか、風の中にもぐるぐると渦を巻いて、そこらじゅうに漂ってるの。キツネが間違えて触ったりしたら、ぐしゃって潰れて、バラバラに弾けて、いなくなっちゃう。骨もお肉も、ぜんぶちっちゃく砕けて、風にまぎれてどこかに飛んでっちゃう。だからね、ゾーンはちゃんと教えてくれるの。“そこはダメだよ、危ないよ”って、風をざわざわさせたり、空気の匂いを変えたりして。キツネが近づくと、イヤな感じがしてくるの。チリチリして、むずむずして、だからすぐに分かるんだよ。ゾーンが、アノマリーは危ないって教えてくれるから。」

 

「…教えてくれる?」グレブは曖昧に眉をひそめる。

 

「うん。風とか、土とか、光の揺れ方で。ちゃんと伝えてくれるの。でもね──」彼女は鼻をひくつかせ、再び空気の匂いを嗅ぐ仕草を見せた。

 

「でもね、そういう怖いのばっかりじゃないんだよ。ときどき──ときどきね、とってもきれいなものがあるの。ピカピカ光って、ふわふわしてて、温かかったり、冷たかったり、ちょっと震えてたり、空の音みたいな音を出したり。キツネが近づくと、嬉しい匂いがするの。ゾーンが"これ、キツネにあげるね”って言ってくれるの。そういうのを見つけると、キツネはとっても嬉しくなる。グレブも、アーティファクトを見つけたとき、嬉しいでしょ?」

 

グレブはその言葉を反芻した。少女の見かけよりはだいぶ幼児的で直感に近いような説明だったが、言わんとしているところは理解できる。ゾーンの異常を肌で感じ、アーティファクトの気配を捉える──酒場の与太話は真実と見るべきかもしれない。今のところ"本人の言う限りでは"だが。

 

次の質問は少しばかり躊躇われる。

 

「昔、バンディット…悪い奴らにアーティファクトを探させられてたって、そういう話を聞いた。おまえは…。」グレブはそれを口にするとき、自分が重苦しい気分になるのを感じた。あるいはパブロなら直接的に問いかけるのではなく、彼なりの器用さを見せるのかもしれない。

 

けれどキツネは特に気にした様子もなく、ただ首をかしげた。

 

「んー、それはキツネじゃないと思う。」きょとんとした表情。何も隠していない、無垢な瞳。

 

グレブは少しだけ胸が軽くなる。けれどその反応だけで安堵するのもまた無責任だ。もしかしたら虐待された子供が辛い記憶を心の底に封じ込めているのかもしれない。それともそういった周囲の憶測とは全く無関係にキツネとはゾーンが生み出した超常的な存在なのか──。判断はつかない。むしろ後者であるならばグレブにとっては気が楽だった。

 

グレブは話題を戻した。ある意味、今最も重要な事柄だ。

 

「これから、アーティファクトのところへ行くんだよな?」

 

「うん、向こうに良いのあるよ!グレブにあげるね!」キツネは満面の笑みで頷き、丘の先を指さした。

 

◆ ◆ ◆

 

グレブとキツネはしばらくゆるやかな道を進み続けたが、それでも徐々に道のりは険しくなっていた。背の高い野草はまばらになり、白樺の木々は途切れ地面にはひび割れた土と石ころが目立つようになる。冷たい陽光は依然として二人を照らすが、田園を思わせた穏やかな風景は遠ざかり、静かな緊張が空気を支配し始めた。

 

バラノフカの安全な範囲をとうに通り越していた。ここからは通常の警戒行動が必要な距離だ。グレブは左手の検知器を頻繁にチェックしながら、右手には“ボルト”を握りしめていた。

 

空間を歪ませる重力井戸、触れる者を切り刻む鉄のつむじ風、地面から迸る炎や稲妻。アノマリーは上げて行けばキリがない。科学者たちはこの現象の発動条件について理論的な説明を与えようとし、仮説に仮説を重ね、長々とした難解な論文もってして科学的な解釈を導き出した。その成果の一つがグレブの手にある検知器だ。周囲の異常な放射線や空間振動を読み取り、アノマリーの存在を警告する。実際この発明は多くのスタルカーの命を守ってきた。

 

だが、それでもなお”ボルト”は必要だった。

 

検知器が発明される以前、この魔境に足を踏み入れた先駆者たちはもっと原始的な方法で生き延びてきたのだ。すなわち、怪しいと睨んだ場所に質量のある物体を投げ込み、その末路を見てアノマリーの存在を見極める。なぜなら、アノマリーは不用意に自らの領域を犯した者に反応するから。

 

スタルカーをはじめ、ゾーンを歩む者達がアノマリーに対してある種の"悪意"を感じてしまうのはこの性質故だった。一定質量以上の物体、人間や動物、果てはミュータントにまで牙を剥く。雨や細かな塵、草木のざわめきには反応しないが、命ある者が一度足を踏み入れれば瞬く間に飲み込む。まるで"罠"として設計されたかのようなその性質が不気味な意志の介在を匂わせるのだ。

 

ボルトとは言うが、別に螺旋が刻まれた円柱に六角形の頭を持つ"ボルト"そのものである必要はない。手頃な重さがあればその辺に転がる石や金属片でも事足りるし、そもそもボルトを何十個も持ち歩けば重量が馬鹿にならなくなる。それでもスタルカーたちが超常現象に対抗する投擲物としてボルトを好んでいるのは、単に手ごろで入手し易いという以上に、ある種の"験担ぎ"であるのかもしれなかった。グレブも手ごろなサイズと重みの六角ボルトを何本か迷彩服のポケットに忍ばせていた。

 

そして今日はまだ、一本も消費していない。

 

最初は検知器の電池が切れたかと思った。予備の電池は背嚢に常備しているので問題は無かったが、検知器そのものの故障となると厄介だ。グレブの持つ検知器は別段高性能という訳ではない。旧式でアノマリー検出範囲も5m前後が精々ではある。だが、これまでの探索ならとうに10回は警告音が鳴っていてもおかしくないだろうに、検知器はまるでアノマリーの反応を示さなかった。

 

なのにグレブもキツネも無傷だ。アノマリーに飲み込まれバラバラに引き裂られていない。答えは一つ。彼らはアノマリー地帯を的確に回避しているのだ。

 

熟練のスタルカーチームが成し得るような進軍速度。高性能な検知器と積み重ねた経験を駆使して初めて可能な動き。だがこの異形の子供はそれを直感だけでやってのけているかのように、まるで風のようにゾーンを進んでいく。

 

やがて霧が立ち込めてきた。

 

薄暗い静寂が周囲を包んでいた。白樺の木々が霧に霞み、野草のざわめきが遠のく。目の前のキツネの小さな背中だけが鮮明だ。ゾーンの深部と呼ぶにはまだかなり浅い領域だが、グレブはここまで来るとは思っていなかったし、これほど短時間で到達できるとも思っていなかった。もしここから自力でバラノフカに戻るとしたら丸一日はかかるだろう。

 

キツネがようやく足を止めた。

 

「ほら、ここだよ。」彼女は無邪気に笑い、霧の先に指を指す。指さした先、木々の根元の湿ったシダの茂みに紛れるようにして、ぽっかりと口を開けた洞穴があった。まるで森がその存在を隠すように抱え込んでいる。

 

「ピカピカのいいものあるよ。グレブ、行く?」

 

グレブは検知器を一瞥した。依然として警告はない。洞穴の闇は宝と死の匂いを放っているように感じられ、ボルトを握る手に汗が滲んだ。

 

「ああ、行こう。」

 

スタルカーは案内人の小さな背中を追い、洞穴の狭い入り口に足を滑り込ませた。

 

身体の小さな子供にとっては何ということもない幅だが、成人男性のグレブにはやや厳しい。背負っていた背嚢を脇に抱え、身を縮めながら慎重に身体を押し込む。もしこれ以上狭まるようなら引き返さなければならないが、どうにか中腰で通れるだけの空間は保たれていた。

 

グレブは胸元に固定した小型フラッシュライトを点灯させている。細長い空間が奥へと真っ直ぐ続いていた。淡い白光がしっとりと濡れた岩肌と、さらにその先の構造物を照らし出す。

 

湾曲したコンクリートの壁、人工物だ。距離にして十メートルほどか。恐らくは古い時代の下水管か、何かの施設のトンネルか。ゾーンの地下に数多く埋もれた廃構造物の一端が、風雨か地震かゾーンの歪みによって地表と繋がったのだろう。壁面の一部が破砕され内部が剥き出しになっていた。

 

キツネは何のためらいもなくその亀裂の間をすり抜けていく。しなやかな身体が闇の奥に吸い込まれるように消えた。

 

「待て…。」

 

グレブも意を決して後に続いた。洞窟の岩肌に手を添え、コンクリートの破片に脚を取られぬよう慎重に身を滑らせる。ぬかるんだ土から、固く乾いた平坦な質感へと足裏の感覚が変わった。

 

廃棄された下水道か崩れた地下壕を想像していたが、目の前に広がったのは意外にも整然とした通路だった。亀裂から流れ込んだ土砂が床に堆積しているが、数歩進むと土は薄い埃に変わり、フラッシュライトの光に舞い上がる。古びたタイルの床、壁はひび割れているが構造自体はしっかりしている。何らかの地下施設だ。工場の一部か、それともかつての軍事シェルターか。

 

ゾーンには複数の地下施設が点在すると言われている。多くは下水施設や工場の名残、軍事関連のバンカー、より情報機密性の高いものは戦略指揮機能を有した核シェルターといった、この国の表の歴史に根ざしたものだ。

 

だが、不可解なものも少なくない。地図にない極秘研究所、用途不明の大型実験設備。人体実験や超能力研究、果ては異次元との接触を匂わせる文書を持ち帰ったというスタルカーの逸話はいつも酒場を賑わせる。もちろんそういったオカルトの真偽は定かでない。世のオカルトが常にそうであるように、実際にそういった施設や文章を見たという者が酒場の席に現れることは決してないからだ。ごく稀に現れはするが、そいつはほぼ100%アルコールに脳をやられている。

 

そして現在の状況下で一介のスタルカーにとって陰謀よりも差し迫った脅威はミュータントだ。

 

地下を根城にする闇の住人たち──。

 

昼の陽光の下でうろつく野犬や動物モドキなどは群れることでしか力を持てない獣どもだ。しかし地下に巣食うものは違う。陽の光を知らぬ者たち。人間を狩るためにゾーンに進化を助長されたかのような捕食者。真の暗闇に潜む獣は執拗で狡猾で、多くのスタルカーがその餌食となってきた。スタルカーであるならば地下探索もいずれ挑戦すべき道ではあるが、ルーキーならば避けるべき道なのは間違いない。

 

「グレブ、怖い?」フラッシュライトの光に目を細めながらキツネがそう言った。「大丈夫、怖くないよ。」ほんのわずかに笑っているようにも見えるその表情はあまりにも無垢で、まるでこの場の空気とそぐわない。

 

グレブは無言でライフルを握り直し、検知器の沈黙を確認しながら地下施設の廊下を進んだ。比較的地表に近いと思われるこの区画は、さらに深い地下へと繋がる連絡路のようだった。開け放たれた扉が通路の両脇にまばらに現れる。グレブは時折、闇の向こうにフラッシュライトを向けた。乱雑に散らばる書類、錆びた椅子、ひっくり返った机──ありふれた廃墟の光景。あるいは部屋ではなく、扉の開け放たれたエレベーターシャフトがただ底の見えない暗闇を覗かせている。

 

何の施設であれ、地表に近い区画に大したものはなさそうだった。

 

小さな案内人は明かりなど必要ないかのように、ぬるりとした暗闇の中を進んでいく。尻尾をゆらゆらと揺らしながら通路の曲がり角を迷う様子もなく折れていく。スタルカーは壁にナイフで小さな印を刻みながら後に続いた。こうした迷路の探索手順は彼の先輩によくよく言い聞かせられている。スタルカーにとってはゾーンで生き延びるための最低限の儀式のようなものだ。

 

やがて通路は終点へと至り、代わりに鉄製の階段が地の底へと続いていた。階段の上から身を乗り出してフラッシュライトを下に投げかけると、深い地の底がかすかに照らし出された。同時に湿った空気が立ち上り鼻をつく。地下水か、それとも換気の途絶えた空気か。あまり良い兆候ではない。

 

不意にキツネの姿が消えた。

 

「キツネ?」声が階下に反響するが返事はない。「おい?」緊張感が肌を這い上がってくる。背中の汗が冷たくなり、ライフルを握る手に力が入る。

 

「こっちだよー!」わずかな間を置いて跳ねるような声が闇から響く。二、三階ほど下の踊り場から小さな頭がこちらを見上げていた。

 

小さく舌打ちしてグレブも足早に階段を降り始めた。鉄のステップが軋み、フラッシュライトの光が壁を擦るように移動する。周囲にはコンクリート、無骨な金属の手すり、剥がれた番号表示の標識。誰の記憶からも抜け落ちた地下の深部へとスタルカーは降りていった。

 

下れば下るほど空気は湿度と冷たさを増し、足音の反響も鈍くなっていった。生き物の気配は無い。それでも確かに何かがここに"ある"という気配だけが皮膚の裏で這いまわっている。

 

グレブとキツネは階段を降りきり、地下空間へと足を踏み入れた。

 

そこはかつて発電施設か、何かの地下制御中枢に見えたが、今ではその原型すら曖昧だ。内部の構造物は爆発でもあったかのように崩壊し、床には巨大なクレーターが穿たれていた。環状に並ぶ鉄骨の支柱がドーム状の天井を辛うじて支えており、長年の腐食と質量に耐えながら、か細く唸るような軋みを漏らしていた。

 

グレブは鼻をしかめた。クレーターの底から立ち上る刺激臭がフラッシュライトの光の中で見えない手のように這い上がっている。目を凝らすと、空気の層が泡立つように揺らいでいるのが分かった。酸性のアノマリーだ。生き物を溶かし、衣服すら残さない。もし誤って足を踏み入れれば肉体は一瞬で無に還るだろう。

 

その時になってグレブは自分の失態に気づき背筋が震えた。地下に入ったにも関わらず有毒ガスの存在を警戒していなかった。

 

慌てて背嚢に手を伸ばし、括りつけたガスマスクを手繰り寄せ素早く装着する。スタルカーがマスクのベルトを締める間にもキツネは何食わぬ顔でクレーターの底を眺めていた。彼女も、そして自分も、この空気に晒されて平然としている事実には少し遅れて気づいた。マスクを被り終える頃にはアノマリーの放つ臭気が既存の有毒ガスとは異なるものだと悟っていた。

 

同時に、検知器はカチカチとクリック音を刻み始めていた。アノマリー反応の警告と合わせてアーティファクトの存在を示唆する微妙な数値の揺れ。宝の予感にグレブの身体の底で期待と興奮が湧き立った。検知器を空中にかざし、針の振れと数値の増減を睨みながら、表示される数値を頼りに大まかな方向と距離を測ろうとする。

 

するとキツネがクスクスと笑い、クレーターの中央あたりを指さした。「ほら、あそこだよ。」

 

グレブも少女が示す方向に光を向けて目を凝らしたが、霧のような闇とアノマリーの揺らぎしか見えない。「あそこに…あるのか?」

 

少女は頷く。そこに在るのが当たり前であるかのような仕草。指し示す先は部屋の中央付近だが、そこに至るには崩れた支柱や梁を足場にして泡立つアノマリーを避けながら進まなければならない。落ちれば終わりだ。

 

まるで失われた聖櫃を求めて崩れた寺院を渡るどこぞの考古学者の気分だ。もしかして、この異形の子供は自分を罠に誘い込もうとしているのではないか?思わずそんな疑念も沸き起こってしまう。

 

グレブは息を吐くと背嚢を床に置いた。身軽になるためだ。「ライフルだけは手放すな」彼を指導した熟練の言葉も蘇る。ゾーンに単身取り残されようとも、検知器とライフルさえ失わなければ生還の確率は各段に上がる。スリングベルトを引き締めて銃身を身体の正面にきつく縛りつけた。

 

崩落した支柱の根元に歩み寄り、もう一度深呼吸して最初の一歩を踏み出す。ブーツの底を通じて足裏を通じ、この劣化した構造物がかなり滑りやすくなっているという感覚が伝わってきた。一歩一歩、歩むごとに検知器の数値は上昇し、アーティファクトへの接近を示す。コンクリートが足元で小さく脆く砕ける音が響く。酸がクレーターの底で泡立ち、フラッシュライトの光を揺らめかせている。

 

「どこだ?」ガスマスク越しの息苦しさを感じながらグレブは目を凝らす。

 

「すぐそこにあるのに。」キツネが再び笑う。

 

細い支柱の上、グレブは数十歩ほど歩みを経てこの地下空間のほとんど中心に立っていた。周囲を見回すが、やはり何もない。慎重にキツネの方を振り返ろうと思ったその時だ。

 

ようやく、それがそこにあると“認識”できた。

 

明らかに視界には入っていた。だが、視覚がそれを認識しない。アーティファクトとはそういうものだ。目が見ていても脳が気付かない。『月光』を見つけたときもそうだった。

 

ぼんやりと緑がかった光を放つ塊は目の前に静かに浮かんでいた。

 

まるで、スタルカーがここに来るのを待っていたかのように。

 

◆ ◆ ◆

 

キツネの元へ戻り着いた時、グレブは全身に汗をかいていた。背中を一気に流れ落ちる滴が迷彩服の内側を不快に這う。ガスマスクを外し、顔に張り付いた湿気を拭った。有毒ガスなど存在しないのだからどうせ不要なものだ。アノマリーの刺激臭と汗の臭いの混じった不快な空気がグレブの肺に酸素を送り込んだ。

 

キツネは横に立ち、彼が手に掴む塊が放つ緑色の灯りを楽し気に見つめている。

 

アーティファクト。名前は思い出せなかったが、記憶が正しければ発する波長に赤外線を湾曲させる効果が発見されたとかで最近になって値段が急騰した代物に似ている。軍用の装備開発、それと一部の特殊な科学機器の分野で需要が高まっているらしい。鑑定士のアントンなら高値で買い付けるクライアントと仲介してくれるかもしれない。

 

手袋越しにチリチリとした刺激を感じ始めていたグレブは格納容器を手早く空けてその宝を収めた。パチンという静かな密閉音が耳に心地よく響く。緑は消えて再びフラッシュライトの冷たい白だけが地下の空間を照らした。これで探索行程の半分は完了した筈だ。

 

「いいの、見つかってよかったね。うれしい?」

 

光の輪郭の中に少女の笑顔が浮かんでいる。三角の耳、白く整った顔。人間的だが、暗闇に浮かぶそれはどこか人間らしくない。目の奥で光るものがあまりに無垢すぎてスタルカーには逆に恐ろしい程だった。

 

グレブはぎこちなく、しかし本心からの感謝を述べる。

 

「…ああ、助かったよ。ありがとう。」

 

「じゃあ、帰ろうねぇ。」

 

キツネはくるりと踵を返して来た道を引き返し始める。迷いのない足取りで、まるで何度もこの道を通ったかのようだ。

 

グレブはライフルのスリングベルトを緩め、背嚢と共に担ぎ直して後に続いた。しかし階段を上る足取りは重かった。思えばキツネに手を差し伸べられた高揚感に突き動かされバラノフカを飛び出したが、そもそも体調が万全ではなかったのだ。予想以上の距離を移動し、そして宝を手に入れたことで緊張が解けたのか、身体の奥に隠れていた疲れが絶え間なく湧き出しているように感じる。

 

このアーティファクト、もしくはアノマリーの微細な粒子が身体の何かを侵したのではないか?埒も無い不安にグレブは首を横に振った。

 

二人は階段を上がり切り、再び地下施設上層の無機質な通路へと戻った。何故か空気は依然として湿り気を帯び、肌にまとわりついている。グレブはキツネの後ろ姿を追って一つ目の角を曲がった。フラッシュライトを向け、壁に刻んでおいたナイフの目印を確認した。間違いなく来た時と同じ道だ。

 

不意にキツネが立ち止まっていた。グレブは自分を待ってくれているのかと思いかけたが、違った。彼女は顔を上げ鼻をひくつかせて何かを嗅いでいる。アノマリーを嗅ぎ分けるあの仕草だ。気づけばスタルカーは小さな案内人を追い越していた。

 

「どうし──」言いかけた瞬間、彼女の小さな手が自分の胸元に伸びるのが見えた。

 

暗転。フラッシュライトが消されたのだ。続いてその手が素早くグレブの口を塞いだ。

 

驚きにのけぞったグレブはバランスを崩して壁際に尻もちをつく。スタルカーの行動様式はこの突発的な脅威を跳ね飛ばそうと腕に力を込めた。だがグレブの中の何かが子供を突き飛ばすことへの僅かな迷いを産んだ。もし口元に押し当てられた小さな手が冷たければ躊躇いはなかったかもしれない。

 

「シーッ。」キツネの囁きが耳元で聞こえた。

 

直後、ヒタヒタと複数の足音が暗闇の中に聞こえた。もちろんキツネのものではない。同業者たちの軍用ブーツの重い踏み鳴らしでもない。より柔らかくぬめったような異様な響き。グレブの脳裏に閃くのは地下を根城にするミュータント──闇に潜む者たちだ。ゾーンにおける最悪の存在を感じ、背筋を冷や汗が這い始めた。

 

少女がスタルカーのフラッシュライトを消した理由は理解できた。しかしここは逃げるべきではないのか?

 

それでもキツネの手は彼の口を離さない。そればかりか背中越しにカチャリと音がした。ぼんやりとした緑色の光が漏れ出し、グレブの視界に少女の顔が浮かんだ。キツネがアーティファクトを収めた格納容器を開けたのだ。今や、その小さな手はアーティファクトを握っていた。緑色の異質な光源を反射するキツネの目は、いつもと変わらぬ穏やかなものだった。

 

暗闇の中で自らの存在を晒すような行為。そして少女の背後、スタルカーの視界は"彼ら"を捉えた。

 

天井に額をこすりつけるようにして、異様に長身の影が立っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

一体や二体ではない。グレブが目を凝らす間にもその数は次第に増えていく。通路の奥、崩れかけた天井の梁の上、そして通ってきた階段の影から──確認できる範囲では六体。どれも人間に似ている。しかしそれは“似ている”だけのことだった。

 

関節が不自然な角度で折れ曲がった肢体、異様に長い手足、指は床を這うように伸びている。肋骨は皮膚とも膜ともつかぬ透明な皮に浮かび上がり、呼吸のたびに骨の影が不気味に上下するのが分かった。

 

そして何よりも悍ましいのは顔だった。

 

歪んで伸びた顔面。そこからいくつもの触手が伸び、その合間合間に“見るための器官”とわかる球体が複数並んでいた。それぞれが異なる方向を見ているのは、空間のあらゆる角度に視線を這わせ対象を見逃さない構造だ。

 

グレブの胸の奥から氷のような恐怖が這い上がってきた。思考よりも早く脊髄の奥が震える。純粋などうしようもない原始的な恐怖。奴らは地下の底から自分達をつけてきたのか?

 

パニックに陥らずにいられたのは、あのことを覚えているからだ。地下道でキツネが自分を救った際の出来事。少女はゾーンの獣を意のままに操るような力を見せた。もしキツネが今もその力を振るえるなら目の前に広がるこの異様な状況もまた、制御されたものなのか──。

 

疑問が目まぐるしく頭を過る中、ミュータントたちがシュッと荒々しい息を吹き始めた。

 

まるで呼吸を抑えて潜伏していた者たちが抑圧から解き放たれたかのように順々に息を吐き出し始める。獲物に気づかれまいと息を潜めていたのか。そして獲物が急に目の前から消えてしまったことに苛立つような、周囲の空間に憤りを放ちながら異形の群れがざわめく。

 

キツネはアーティファクトを掲げたままグレブの手を引く。そのままそっと壁際へ身を寄せた。少女の動きは静かで、だが一分の隙もない。確信をもって行動しているのが分かったが、少女の表情はグレブの位置からはよく見えなかった。

 

異形の一体がこちらを凝視するように顔を傾けた。

 

複眼がぎらりと光り、視覚器官が脈打つように明滅する。その視線がまっすぐにこちらを貫いているように思えた。グレブの心臓が跳ねる。ライフルを握る手に汗が滲み、指先がこわばる。苛立ちを孕んだ呼吸音、そしてねばついた悪臭が鼻をつく。

 

だが怪物はすぐに興味を失ったように首を戻し、通路の先を見据えた。

 

怒れる六体の異形はグレブとキツネの目の前を通り過ぎていく。一つ、また一つと、音もなく通路を滑るように進み、地下の空間を網の目のように縦横に浸透していく。捜索、捕捉、包囲、殲滅——まるで戦術を理解しているかのように、その動きには知性が感じられた。

 

ようやくグレブは状況を理解した。彼が地の底で手に入れた宝、『赤外線を湾曲させる効果が見つかり、価格が急騰したアーティファクト』。怪物たちはその柔らかな緑色の光を知覚できなかった。そしてアーティファクトが発する波長は、闇を見通す怪物たちの視界からグレブ達を覆い隠していたのだ。

 

グレブは小さな手に引かれながら、キツネが掲げる緑色の光を頼りに地下通路を進んだ。淡く柔らかなその光は霧のような闇を押しのけ、二人の輪郭を浮かび上がらせている。

 

廊下の先にはミュータントの一体がゆっくりと歩いている。ベタベタと不気味な足音が響き、異様な肢体が闇に揺れる。スタルカーと少女は少し距離を置いて、怪物の後に続く。

 

キツネの裸足は床の埃の上に小さな足跡を残すだけだ。音もなく影のように進むその後ろ姿は、異形と同じ闇の住人であるかのようだ。一方で、グレブの軍用ブーツは足音を殺すにはあまりに重い。極限まで力を抜き、踵から爪先まで丁寧に床をなぞるように歩いても微かな音は漏れてしまう。

 

その度に、ミュータントのいくつもの眼球がぴたりとこちらを向いた。呼吸すら音になる気がして喉の奥が軋んだ。

 

別の通路から戻ってきたもう一体がすぐ眼前を横切ったときには、壁に身を押しつけ息を止めて通り過ぎるのを待つしかなかった。痺れるような緊張が骨の奥にまで染み込む。暗闇と沈黙、怪物たちの存在がじわじわと心を締め上げていく。不意に余計な警告音を飛ばされないよう検知器の電源も切っていた。

 

いっそアーティファクトの幻惑効果に頼れば一方的に奴らを撃ち殺すこともできるかもしれない──。そんな衝動が沸き起こるたび、ライフルを構えようとする腕をなんとか押しとどめる。ただ小さな案内人の手を通じて伝わってくる温もりだけが、スタルカーの勇気を繋ぎ止めていた。

 

ここへ入り込んだ時の亀裂はそう遠くない。角を一つ、二つ曲がれば辿り着けるはずだ。闇の住人たちは散開を繰り返したことで互いに距離が開いている。今、前方に居る一体を除いて。

 

そいつは通路のど真ん中に佇んでいた。開け放たれたエレベーターシャフトの虚空を覗き込むようにしてゆっくりと息を吐いている。触手がわずかに蠢き、その合間の眼球が下方の暗闇を探っているようだ。通り抜けるには邪魔な位置。

 

一体だけなら素早く始末して逃げられるかもしれない。しかしミュータントの中には生物の枠を超えた異様な耐久力を持つ者も居ると聞く。目の前の一体がそうであるのか、ルーキーを抜け出したばかりのスタルカーには判断がつかなかった。

 

瞬間、キツネが手を離した。

 

グレブが驚く間も無く、キツネは音もなく走り出し跳ねるように床を蹴り、壁に足をかけて反動をつけた。そして小さな身体はミュータントの臀部に勢いと体重を乗せた一撃を浴びせたのだ。

 

完全な不意打ちを食らった異形の巨体は、たまらずバランスを崩してエレベーターシャフトの闇へと転落する。怒りに満ちた咆哮が地の底へと吸い込まれ、僅かな間を置いて鈍い衝撃音が響いた。

 

「アハハハ!」

 

響く笑い声。無邪気で軽やかで、どこか狂気を孕んでいる。グレブは唖然とした。すぐに他の5体の咆哮が迫ってくる。複数の足音が通路を震わせた。

 

キツネが再び彼の手を握り、今度は駆け出す。戦慄に近い高揚感がスタルカーの疲労感を吹き飛ばした。

 

見覚えのある土砂の堆積が視界に現れる。コンクリート壁の上部、天井に近い位置に苔むした亀裂が走っている――出口だ。グレブは些かの迷いもなくキツネの細い身体を掴みんで小さな背中を押し上げた。

 

背後から迫る足音は、もはやその存在を隠す素振りすら見せない。ベタベタと濡れたような粘着質な音。不規則ながら確信めいた規則性を感じさせる。

 

グレブも亀裂に手をかけ、壁をよじ登り、背嚢の重さを無視して身体をねじ込んだ。コンクリートから突き出た鉄筋が肩を裂きそうだったがそれどころではなかった。洞窟の冷たい岩肌に身を預けた瞬間、ベタリとした異形の手が亀裂の縁に伸びた。

 

振り返りざまにライフルを構え引き金を引いた。狭い隙間から這い出しかけていたミュータントに避ける術はない。半ばフルオートに近い連射が響き、5.45mmの銃弾が異形の肉体を粉砕していく光景がマズルフラッシュの明滅の中に浮かび上がる。瞬く間に頭部を失った怪物は痙攣し、亀裂の隙間を塞ぐように崩れ落ちた。狙い通りだ。死体越しに怒りと憎悪を込めた咆哮だけが聞こえた。

 

洞窟の先、暗闇に慣れた目には鋭く眩しい自然光が差し込んでいる。キツネが四つん這いでそちらへと進んでいく。光の中でその小さな身体の輪郭がシルエットとなって浮かび上がり、耳が、尻尾が、跳ねるように揺れていた。グレブも這いつくばってその後に続いた。

 

洞窟を抜けてどれほど走ったか。

 

闇の住人たちがあの穴倉から這い出し、日の下まで追いかけてくるかは分からない。キツネの笑い声を聞きながらグレブは草原を駆けていた。高い野草が風に揺れ、少し傾いた陽光が二人を照らしている。

 

息が上がり限界が近い。キツネも徐々に歩調を緩め、やがて立ち止まった。グレブも草原に尻を預け荒い息を吐いた。

 

「面白かったねぇ!」キツネが振り返り、いたずらをやり終えた子どものような笑顔を見せた。

 

「ああ、ヒヤヒヤしたけどな。」

 

グレブも釣られて笑った。本心だった。まるで夢の中を走り抜けたかのようだった。検知器も使わずにゾーンを無警戒に駆けてしまったことに今さらながら冷や汗がにじむ。

 

この少女がいたからこその逃走劇だ。

 

アーティファクトの赤外線湾曲効果を活かし、ミュータントの視界から身を隠す離れ業。あれは偶然の所作ではなかった。あるいは独特のやり方でゾーンと渡合うタイプの猛者であればそういった方法も駆使するのかもしれない。しかし彼を導くあの堅実な男なら絶対にやらない手だ。

 

「はい、グレブのだからね。」キツネがずっと手に持ち続けていたアーティファクトを差し出す。

 

陽光の下では緑の光はほとんど判別できない。受け取ったそれを格納容器に仕舞おうとしたとき、グレブは少女の手を見た。暗闇でアーティファクトを掲げ続けていたその小さな手は、ゼロ距離で緑の光を浴びて赤く焼けただれていた。グレブの顔が険しくなる。

 

少女は彼の視線に気づき、手を引っ込めて隠した。「大丈夫だよ、痛くないよ。」声の調子は明るい。まるで自分が平気であることを相手に信じさせようとするような。

 

少女に窮地を救われたのはこれで二度目だ。地下道での助けに続き、アーティファクトまで見つけてくれた。感謝し尽くせない。グレブは無言で背嚢から救急キットを取り出し、軟膏と包帯を手に取った。

 

グレブが無言のまま手を差し出すと、キツネもおずおずと焼けただれた手を差し出した。彼は指先で丁寧に軟膏を塗り、手の平と指の一本一本に包帯を巻いていく。緩やかな風が野草を揺らし、三角の耳がピクピクと動く。

 

巻き終えた後、少女は包帯をじっと眺める。尾が感情豊かに揺れていた。

 

キツネは少し恥ずかしそうに笑うと、大切そうに包帯に頬を寄せた。

 

 

【挿絵表示】

 

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