STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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6節:科学者

遠くにバラノフカの鉄条網と灯りが見えてきた頃、日はすっかり沈み、夜の闇がゾーンの平原を覆っていた。既に狩りの高揚感は過ぎ去り、重い疲労だけがスタルカーの身体を支配していた。背嚢の重さが肩に食い込み、ブーツが土を踏むたびに膝が軋む。

 

「もう一人で帰れるね。」声が背後に聞こえグレブが振り返ったとき、小さな姿は消えていた。

 

グレブはしばらくその場に立ち尽くしていた。まだ何か言いたいことがあったような気がした。だが口に出す前に、その相手はいなくなっていた。どこか寂しさを抱えたまま足を引きずるように帰路を進む。

 

グレブは一人、バラノフカの正門へ向かった。鉄門の錆びたシルエットが野外投光器に浮かび、コンクリートのバリケードが無言で佇んでいる。

 

門番の男がタバコを吹かしながら声をかけてきた。何らかの軽口。疲れ果てたスタルカーには気の利いた返事を返す余裕は無い。ただ、無言で肩をすくめてみせた。身体を引きずって宿舎への道を歩み、蛍光灯に照らし出された廊下を抜けて自室の扉を開けた。

 

いつもの四人部屋には同室である二人のスタルカーが居た。オレグはベッドに寝そべり、天井を見上げながら煙草を燻らせている。パブロは椅子に腰を下ろし酒瓶を指先でくるくると回していた。

 

「おう、グレブ、ずいぶん遅えな。今日は出掛けねぇで休んでるもんかと思ってたぞ。どこ行ってたんだ?」パブロがいつもの陽気な口調で訊ねてくるが、その目は怪訝そうだった。オレグは一言も発さず煙の奥から鋭い視線をこちらに向けている。

 

「宝探しさ。」グレブは曖昧に呟いた。背嚢を床に投げ下ろし、ライフルを壁に立てかけると、ブーツだけはなんとか脱ぎ捨てて、ばったりとベッドに倒れ込んだ。

 

◆ ◆ ◆

 

それから二日。キツネと連れ立って狩りへ出たスタルカーの話はバラノフカの酒場『狐の巣』の語り草となっていた。

 

パブロに引っ立てられ、テーブルを囲む同業者たちの注目を一身に浴びながら、あの地下での奇妙な冒険を語るのは、ゾーンの荒野を単独で渡るのと引けを取らない難事ではあった。

 

人知れぬ地下施設、ミュータントの咆哮、緑の光を放つアーティファクト、そして自分を導いた小さな案内人──言葉を選びながら語った。酒場のスタルカーたちはこの幸運な新入りに対する賞賛と羨望のまなざしを向ける。無論、少なからず疑いの目も混ざっているが、キツネとグレブが連れ立って狩りに出たのが事実であることは既に門番が他のスタルカー達に喋り倒していた。どちらにしても老スタルカーの警句などはどこかへ吹き飛んでしまったかのようだった。

 

グレブが暗闇の底で拾い上げたアーティファクトも実際大した値打ち物だった。鑑定士のアントンは黒みがかった保護眼鏡越しにその緑の輝きを検分しながら、彼らしい低いしわがれた唸り声を上げた。そしてこの鑑定士が提示した買い取り額を見た瞬間グレブは言葉を失った。思わずこぼれた溜息が、そのまま笑いに変わった。

 

それは彼が抱えていた借金の三分の一を消し飛ばす金額だった。これまでの苦難が報われたのだと実感した。

 

前々から計画していた装備の更新も一挙に可能となった。使い古されたAKと継ぎ接ぎだらけの防刃ベストではない。より強力で信頼性の高いライフル、多層構造で耐久性優れた──もちろん防弾仕様の──防護服、より高精度で広範囲のアノマリーを察知できる検出器、安全で効率的に探索をこなすための装備群だ。

 

そしてあと二回。あの地下で経験したような冒険を、あと二回繰り返せば借金を帳消しにできる。曇りなき空、安全な夜、ぬくもりと静けさ。その想像だけで胸が熱くなる。この地を去り、外の世界で元の暮らしを取り戻せるのだ。

 

一方で探索の疲れも執拗にグレブの身体に絡みついていた。

 

最初に目を覚ましたとき、全身の筋肉は鉛のように重く、まるで自分の肉体ではないかのようだった。オレグに「身体を休めろ」と"強く"アドバイスされた時、グレブには反発する気力も残されていなかった。命を幾度も賭けてきたスタルカーの、簡潔だが気遣う口調。アーティファクトの売却で得た大金が齎す精神的な余裕も手伝い、彼は先輩スタルカーの言葉に素直に従う形でここ二日を過ごしたのだった。

 

昼間。グレブは探索にも出ずにバラノフカの路地を歩いていた。

 

何もせず拠点でブラつくというのはゾーンにおいては贅沢な時間でもある。空はうっすらと霞み、通りを風が吹き抜けて汚れた石畳の路地を洗う。目の奥にまだ暗い地下の映像が焼き付いているような感覚があったが、それもだんだんと薄れつつあった。身体の調子も幾分か取り戻している。

 

あの溜池の様子を見に行くのも悪くない。スタルカーは足の赴くままにバラノフカの通りをぐるりと散歩していた。

 

あれからキツネの姿を見かけていない。またすぐに会えるとばかり思っていた。だが考えてみれば今バラノフカにキツネが現れたらアーティファクト狩りの案内をせがむスタルカー達が大挙するだろう。それは自分にとっても、たぶんあの少女にとっても厄介だ。

 

それに、もし今日キツネが現れて共に狩りに出るようなことにでもなったら、またしても疲労困憊しかねない。「まさかキツネが二度と現れないということもないだろう」と自分に言い聞かせ、スタルカーは身体を休めることに専念していた。

 

「君、少し良いかね?」不意に声をかけられた。

 

振り返るとオレンジ色の化学防護服が立っている。髭のない素顔を晒して歩く中年を過ぎたくらいの年齢の男。

 

そしてその背後に控える暗緑色の全身スーツに身を包んだ護衛──武装は対人制圧性を考慮したサブマシンガン──が二人。こちらは遮光性の保護バイザーで頭をすっぽりと覆っているので顔はおろか人間の部分が見えない。

 

印象的な組み合わせなのでグレブはこの科学者が誰だったかすぐに思い出すことができた。溜池の縁でチョコバー片手にキツネを口説いていた例の男だ。ただし、今はチョコバーは持っていない。

 

「キツネと一緒に狩りに出たっていうスタルカーは君かね?」科学者は朗らかに尋ねる。散歩中に見かけた近所の知り合いに声をかけるような調子だ。

 

「ああ、一緒にというか、案内されただけだがな。」グレブは多少の警戒感を込めて返答した。考えてみるとキツネに興味を持っているのはスタルカーだけではなかった。この科学者が自分に声をかけてくるのは確かにありそうな話だ。

 

「ふむ、あの子がスタルカーを連れていくのは珍しいことだ。アーティファクトも見つけたそうじゃないか。どうかな?良ければ何があったのか詳しく聞かせてくれないか?」科学者の笑みには無学なスタルカーを見下す色は無く、むしろ年齢を感じさせない人懐こさがある。

 

そこで分かった。声をかけられた際にグレブが若干の戸惑いを覚えたのはこの表情のせいだった。それはあの時、去り際にグレブに向けた分析するかのような冷淡な視線とはまるで別物だった。キツネに見せた父親のような穏やかさとは少し口調のズレを感じるが、それも話しかける相手がより年齢の近い男同士だからか。

 

しかし考えてみればあの視線は一瞬のことだし、単に自分の勘違いだったかもしれない。丁寧に髭を剃り髪も整えた身なりというものは──その人物が着ているのが化学防護服だとしても──ある種の好意的な礼節を感じさせる。無精髭を伸ばし放題のスタルカーがひしめくゾーンにおいて、この男の顔は逆に新鮮だった。

 

オレグはオレンジ色の防護服の肩越しに、背後に控える護衛に視線を向ける。護衛の二人は相変わらずサブマシンガンを身体の正面に下げていたが、両手は更に低い位置に組んでいる。銃に手をかける様子はない。スタルカーの神経をいたずらに刺激しないための配慮か。

 

とは言え、グレブもスタルカーらしく簡単に警戒を解くことは控えてみせた。「何故?」

 

「もちろん調査だよ。ご覧の通り研究のためにゾーンに来ている身の上なのでね。酒場の噂話は、ほら、色々と脚色されるものだろう?君から直接聞きたいと思ってね。情報提供料は払おう。」

 

科学者は大げさに両腕を開いて笑う。当然の答え。そして"情報提供料"という言葉にグレブの眉もわずかに動いた。

 

グレブはキツネについて知る全てを酒場で披露していた訳ではない。とりわけ初めてキツネに出会った時のこと、彼女に命を救われたこと、地下道の闇の中で異形の子供がミュータントを跪かせたこと──。それをまだ誰にも話していない。

 

グレブが地下施設での冒険をスタルカー達に聞かせたことで、キツネに関する噂には更なる尾ひれ背びれがつけられている。その再生産行為に無暗に加担したくないという想いもあったし、グレブ自身、あの異様ですらある光景をみだりに他人に話して良いのか確信が持てなかったのだ。だが『科学的調査』という名目と報酬の提示は秘密を明かす理由を与えてくれるように思えた。

 

それに、この科学者なら酔っ払いの口から出る類の戯言とは違う"科学的見地"からの意見を聞けるかもしれない。もちろん話していて気に入らなければ情報提供するのは酒場で披露した部分だけに留めればいい。

 

「…分かった。話すよ。」

 

そこでグレブは結局のところ自分はあの出来事を誰かに話したかったのだと気付いた。

 

オレンジ色の防護服に先導され、バラノフカの拠点の端に立ち並ぶ白いプレハブ群──科学者たちが滞在する区画──へと向かう。暗緑色の護衛は左右、こちらの視界から完全には逸脱しないよう距離を保ち、護衛対象とスタルカーの双方を意識している。

 

もしグレブが最大限の警戒心を発揮するのであれば、話はやはり衆人環視の酒場『狐の巣』でするべきだろう。宿舎のグレブたちの部屋でもいい。今回のようにあまり他人に聞かせたくない話をするのであれば後者だ。だが、科学者と護衛二名を引き連れて上がり込んだりすれば、宿舎を利用しているスタルカー連中はあまり良い顔をしない気がする。

 

「科学者が滞在する施設の彼の個室で話をする」という申し出はグレブにとっても好都合だった。

 

白い路地を歩きながらグレブは辺りに視線を向ける。間近に寄って見るのは初めてだった。建物の支柱は鋼鉄製で、本来の“プレハブ”ならば合板で済ませるはずの外壁を複合素材の肉厚タイルが覆っている。光熱放射がもたらす放射線やゾーン特有の化学的な脅威から、内部の機材や人員を守るための厳重な防御設計だ。

 

ただし遠目には"白"と形容されるそのタイルも、こうして近くで見るとゾーンの風雨に曝され表面はくすんで灰色がかっていた。中には明らかに新しいタイルも混じっているので、恐らくどこかのタイミングで交換されているのだろうが。

 

棟と棟の間に走る狭い路地はひっそりと静まり返っており、人影はない。規模から察するにどこかの棟には食堂や宿舎も併設されている筈だが、外観からは判然としない。バラノフカでは時折、正門から何人かの科学者が自前の護衛や雇ったスタルカーを連れて野外へ向かう姿を見かけることがある。護衛達がスタルカーの少ない時間帯に『狐の巣』に飲みに来ることもある。都市の大学で知識を詰め込んだ彼らが、このプレハブの中にそれなりの人数詰まっているのだろう。

 

当然ながら、詰め込まれている科学者の全てが同じ派閥や組織に属している筈がない。政府、学術機関、多国籍企業。科学を志しているという以外にはそれぞれ出自の異なる人間を、ゾーンにおいては大雑把な括りで"科学者"と呼んでいるに過ぎない。そして科学者としてこのプレハブに滞在できるか否かは、本人の頭脳ではなくその懐具合にかかっている筈だ。

 

いずれにしても、何名の科学者がこのバラノフカに滞在しているのかグレブには知る由もなかった。

 

やがて目的の棟に着いた。出入口の引き戸は手動式ながら分厚く密閉性の高い構造で、フレームには太いゴムパッキンが挟まれており、外気や浮遊粒子の侵入を防いでいるのが一目で分かった。足を踏み入れる際、グレブは自分の靴にまとわりついた泥が場違いに思えた。

 

共に入室しようとした護衛の一人を科学者が片手で制する。「結構だ。下がっていてくれ。」

 

「ですが……」と言いかける若い声が聞こえ、グレブはあのフルフェイスの下にもちゃんと人間が入っているのだと妙な実感を覚える。顔の見えない若者は護衛対象のワガママを受け入れ、部屋の扉が閉められた。

 

部屋には生活感と作業感が同居していた。正面の壁にはゾーン全域の地図が貼られ、書類や電子端末、計測機器が机の上に並ぶ。何かを記録中らしく、表示が微かに揺れるモニターもある。グレブにはそれらの機器の用途はまるで見当がつかない。

 

一方、理解できるものもある。コーヒーメーカー、乱雑に散らばるペンとメモ、食べかけのチョコレートバー。デスクの端で青い微光を放ちながら浮かんでいるのはアーティファクトだと思ったが、針金の支柱と内臓のLEDを発光させる細いケーブルが伸びていたので、それがアーティファクトを模したインテリアだと分かる。そしてソファにかけられたタオルケットが、ここが単なる実験室ではなく誰かが日々を過ごしている「部屋」であることを示していた。グレブはかつてテレビで見た大学教授の研究室を思い出していた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

科学者は何かを尋ねるまでもなく、棚から紙コップを二つ取り出すと壁際のコーヒーメーカーへと向かっていた。タダでコーヒーが飲めるのはありがたい。グレブもデスクの向かいに置かれた小さな椅子に腰を下ろす。ゆっくりと部屋に広がる淹れたてのコーヒーの香りが訪問者の緊張を和らげた。

 

グレブは物珍しさから視線を巡らせる。シャッター付きの窓の脇に幾つか並んでいるフックには、防寒着や雨具に混ざって拳銃のホルスターが雑にかけられていた。収められているのはグロックの、恐らくは最軽量モデル。9mmより低威力な.380ACPを使用するそれは、このゾーンにおいては貧弱と言わざるを得ない。グレブがサイドアームとして下げている"お守り"に類似するものだ。護衛が二人張り付いているのだから護衛対象者自身に武装は不要ということだろうが、本来ならばこの銃とホルスターは彼が化学防護服の上に装着しているべきものの筈だ。

 

スタルカー寄りの思考に染まっているグレブは、この護身用武器の扱いを「都会者らしい不用心だ」と内心で評価した。

 

ホワイトボードの一角を埋めているミュータントの生態写真に混ざって、キツネを写した数枚が貼られていることにも気付いた。ブカブカの迷彩服姿、ピンと立った三角の耳とふさふさとした尻尾。彼女はどうやら撮影に応じたらしく、どこかの──たぶんバラノフカの──建物の壁を背景に行儀よく直立した姿勢で正面と側面から撮られたものもある。写真の中の少女は、はにかんだ笑顔を浮かべていた。

 

そのすぐ脇、透明なシートに封入されている細い何かが目に留まったとき、グレブは眉をひそめた。

 

栗色の極細の糸。それがキツネの毛髪だと分かり、グレブはコーヒーを淹れている男に、やはり変質的なものを感じてしまった。研究対象に熱中する科学者とは"ストーカー"と大差ないのかもしれない。”スタルカー"は人知れず苦笑した。

 

科学者がコーヒーが湯気を立てている紙コップをデスクにおいた。「さて、自己紹介と行こうか。」椅子に腰かけながら彼は穏やかに口を開く。

 

「私はアイザックだ。専門は生物と自然環境。ゾーン環境下における生態系とかね。ゾーン入りする政府公認の学術調査団のための事前調査を担当してる。まあ…予め旅程が決まってるような堅苦しい遠征じゃないからね。現地の事情に即した、もうちょっと融通の利く仕事さ。だから見知らぬスタルカーを部屋に招いたり、報酬を支払ったりもできる。」

 

アイザックは冗談めかして片方の口角を上げた。

 

「一応、“教授”って肩書きもあるんだよ?」

 

思っていたよりもまともな素性にグレブは少し拍子抜けした。わざわざスタルカーに声をかけてくるような科学者は腹の内に胡散臭いものを抱えている──というのが与太話の定番なので、グレブも道すがらこの男の正体について色々想像していたのだが。彼の流暢な発音に混じる若干の訛りには自分のものとは異なる母国語の存在を感じていたし、特に護衛が着込んでいるハイブリッド仕様の防護服には、どちらかと言うと"私企業の警備部門"という印象を持っていた。

 

「グレブだ。」

 

自分も気の利いた肩書を付け足したいところだったが、生憎それらしい持ち合わせは無かった。ルーキーであることを誇示しても仕方がない。何処かのスタルカー派閥に属している訳でもない。あるいはオレグなら、あの擦り切れたエンブレムの組織の名を出すのかもしれないが、グレブは借金返済の為に密入域し、ようやく一人歩きを始めたばかりだ。外の世界でのことやゾーン入りした事情も、この科学者に話しても仕方のないことだ。それらはまだ、オレグやパブロにも満足に話していないのだから。

 

アイザック教授も特に詮索せず、老いを感じさせない好奇心に光る目を眼鏡越しにグレブに向けている。

 

護身用の銃をその辺に散らかし、素性の知れないスタルカーを武装解除なしで部屋に招き入れる。この型破りな科学者にグレブはどこか親近感を覚えた。ゾーン知らずの都会者に振り回される暗緑色の護衛二人に多少の同情心も芽生えてくる。

 

そう言えば護衛対象の科学者がやらかした話をパブロから聞いたばかりだった。やらかした科学者の名前はアイザックではなかったか?後で聞いておかなければ。

 

◆ ◆ ◆

 

「そりゃぁ面白い、傑作だ!」

 

地下施設からの脱出劇。キツネがミュータントの尻を蹴り飛ばしてエレベーターホールに叩き込んだ件では、教授も膝を打って笑い声を上げた。その笑い方はどこかパブロに似ていて、ただし下品を半分削り、上品を半分足したような印象だった。

 

キツネに誘われ、ゾーンの荒野を歩いたこと。揺れる耳と尻尾の先を追って、信じられないほどスムーズにアノマリー地帯をすり抜けたこと。誰にも知られていない地下施設の隠された入口へ、恐らく最短距離で辿り着いたこと。暗闇の中でも軽やかな足取りで進み、いとも容易くアーティファクトの場所を指し示したこと──。グレブはキツネとの狩りのあらましを、この中年を過ぎた教授に話聞かせた。

 

酒場のスタルカー連中に披露した時と似たようなやり取りになったが、こうして1対1で聞かせるのも悪くない。『狐の巣』で流布されている与太話は、今やパブロが脚色したバージョンに置き換わっているし、そこではキツネはミュータントを酸のアノマリーに蹴り込み、グレブも奴らの群れ10体ばかりを7.62mmで──グレブの持つAKS74Uは5.45mmだ──なぎ倒したことになっている。

 

教授はグレブの話に熱心に耳を傾け、盛り上がる場面では身を乗り出し、話を遮らない範囲で科学者の視点からコメントを挟む。密室で科学者と対等に言葉を交わすこの状況はグレブに妙な心地良さを与えていた。ルーキーの殻を脱ぎ、一人前のスタルカーに近づいている──。そんな高揚感がまるで微かな酩酊のように彼を包んでいたのだ。

 

彼女の小さな手がアーティファクトの光に晒され赤く焼け爛れていたことだけは、今もグレブの胸に引っかかっている。しかし教授はそんなグレブの胸中を悟ったのか、指を立てて意味ありげに目配せする。「心配いらない。あの子は"スペシャル"だからね。次に会えば驚くよ?」

 

こんなところで嘘をついても意味はない。であれば、この科学者の言うことは真実なのだろう。グレブは想像した。次にキツネと会うとき、少女の手の平が元の綺麗な肌に戻っている──。まるでコミックスのスーパーヒロインのようだ。安堵感と合わさってグレブは小さく笑いを漏らした。

 

やがて話が一段落すると室内に静けさが降りた。グレブは机の上の紙コップを手に取り、しばしコーヒーを味わう。ほのかに苦い香りが嗅覚をくすぐる。

 

「しかし不思議ではある。」教授のぽつりとした独白が余韻を破った。彼もコーヒーを一口含む。「あの子はどうして君を選んだのだろう?本当に、あの子がああいった好意を見せる人間は滅多に居ないんだ…。君のどのあたりが"特別"なんだろうね?」そして笑みを讃えたまま尋ねる。

 

「あの子はアンタとも話していただろう?」

 

溜池で見た光景を思い出す。水面に石を投げ込む少女に、膝をついてチョコバーを差し出しながら根気よく話しかけるオレンジ色の化学防護服。実のところ教授の好意はキツネに受け流されているように見えてはいたのだが、しかし、この善良そうな人物を慰めたい気持ちが多少なりグレブの中にあった。

 

「私はダメだ。散々通い詰めてようやく顔を覚えてもらったにすぎんよ。」肩をすくめて残念そうに笑う。気難しい娘に振り向いてもらえない父親のようだった。先ほどのスタルカーへの問いかけに、ちょっとした嫉妬の色が隠れていたのも頷ける。

 

グレブはここらで切り出すべきだと感じた。

 

キツネとの最初の出会い、闇の中で命を救われたあの瞬間。ミュータントの群がグレブを囲み、死が目前に迫った時、キツネは現れ淡々と引き金を引いた。ミュータントたちは抵抗せずただ死を受け入れた。赤外線を湾曲させるアーティファクトのトリックで、闇の住人達の視界を欺いたこととは一線を画する、超常的で異様ですらある何か。あんなことが、どうやったら起こり得るのか。

 

グレブは重い口を開いた。

 

「あの日、俺は死にかけていた。あの子が現れなければ俺の命はなかった──。」

 

◆ ◆ ◆

 

「"跪いた"。つまり操ったのか。それは予想以上だ…。」

 

アイザック教授は髭の無い顎に指を当て虚空を見つめた。やや芝居がかった仕草にグレブは一瞬おかしさを覚える。そして彼の口から科学者としての見解が述べられることを待ったが、しかし教授の思案は意外に長く、数十秒ほども続いた。プレハブの部屋は静まり、アーティファクト風のインテリアが青い微光を放ち、用途不明の科学機器が静かに唸る。

 

「コントローラー計画は知っているか?」突如、科学者はぐっと顔を近づけてきた。

 

一応、ゾーンに関係ありそうな話題として前半部分はとあるミュータントの呼称と結びついた。しかしそこに"計画"が付くとグレブには聞き覚えが無い。ただ得体のしれない生物実験のイメージが漠然と頭に浮かぶだけだ。そもそも"コントローラー"だ。単なる操作機器の話かもしれない。

 

正確な回答に努めたかったので少し考えたが、やはり分からず首を振った。

 

「X計画は?ハハッ、知る訳ないよなぁ。」中年を過ぎた顔が妙に歪んだ。

 

「何年前だったかな。7年くらいか?コントローラー因子を移植された実験兵士がヌーンタイダーを掌握して一斉蜂起を起こした。ドゥガーでウォーデンと派手にやり合ったんだぞ。もっとも、君たち凡百のスタルカーには単にモノリサー残党が暴れ回った程度の認識だったろうがね。おっとキミは最近ゾーンへ来たんだったな、これは失敬。」

 

グレブには組織の名称に一つ二つ聞き覚えがある程度で話のほとんどは意味不明だった。科学者は構わず話し続けた。

 

「あの子がファウストの同類だという仮説は笑えそうだが、それではまるで辻褄が合わん。X計画はクソほど冒涜的だったが、子供を使った実験でそれらしいものは耳にした覚えがない。キツネを飼っていたというバンディットどもの行方を探させはしたが、結局全員くたばったそうだからな。何年も成長の様子が見られない理由は今や理解できているが、となるとアレがいかにして死を超越しているのか?発現のトリガーは?どこぞの迷惑者が死にぞこないのコモン・コンシャスネスに接触したか?いずれノウスフィアが関わるのだろうが、友人が新しいSIRCAAのラボに検体を山ほど集めたところで恐らく何の答えも得られまい。だとすると私はあの異形児を直接調べても無意味な気がしてきた。いっそスタニスラフ・レムの小説を参考にすべきかもしれん──。」

 

酒場でスタルカーが披露する与太話は、聞き手が居て初めて成立する。すなわち人に伝え"共有"するための物語だ。ウォッカに似合いの下品な笑い話はもちろん、西部劇のシチュエーションをそっくりそのままゾーンに置き換えたような冒険劇や復讐劇、チェルノブイリ原発事故にまつわる荒唐無稽な陰謀論、そして新入りへの警告を含んだミュータントの恐るべき殺戮譚でもそれは変わりない。

 

だがこの教授の与太話はグレブに何かを伝えようという意思がまるでない。徐々に言葉に陰湿さを深めながら、熱に浮かされた調子でまくしたてている。男はただ、壁に向かって話していた。

 

そして男は奇行を止めてこちらを凝視した。反応を求めていると気づくまで数秒が過ぎた。

 

「…死を、なんだって?」

 

グレブの声は間抜けだった。自分がひどく愚かに思えたが、アイザックは満面の笑みを浮かべた。

 

「分からなかったか。だから君に話したんだ。」

 

ゾーンの科学者にありがちな、無知な食い詰め者を見下す目だった。目の前の"教授"の嘲弄の意図を理解しグレブの不快感は確固たるものとなった。

 

「ありがとう、君の話はとても参考になったよ。すまないね、興奮するとつい喋り過ぎて相手を不快にさせてしまうんだ。どうか気にしないでくれ。」

 

即座に嘲弄は消え去り、気さくな好人物の表情が戻った。今は心底申し訳なさそうな声で謝罪をしている。彼は腕を伸ばし、壁際に立てかけられていたトランクを開いた。一瞬だけ中に詰まった大量の紙幣が見える。

 

「約束した通り、情報提供の報酬だ。受け取ってくれたまえ。」

 

科学者は予想していた額を軽く上回る枚数を数え、差し出す。スタルカーは相手から視線外さないまま報酬を受け取った。人が金を数える動作は拠点で見慣れている筈だが、そのことに何か違和感を覚えたのだ。

 

謝罪の言葉、気さくな笑顔、予想以上の報酬額。"凡百のスタルカー"なら、これで教授の奇行を水に流すかもしれない。だが、グレブの猜疑心は僅かながらそれに打ち勝った。

 

政府とも繋がりがあり、真っ当な目的でゾーンを訪れている研究者ならば、何故ゾーンに放置されている子供──半分ミュータント化し、犯罪集団に虐待された過去を持つ可能性のある──を保護しようとしない?

 

不快な憶測も脳裏に浮かんだ。キツネに対しては優し気な父親のように。グレブに対してはスタルカーと学者を融合した好人物のように。──この男は"観察対象"に対してそのような態度を使い分けるのではないか?

 

そして違和感の正体にも気付いた。

 

丁寧に髭を剃り、髪を整えるようなスマートを気取る都会人らしからぬ現金払い。それだけならまだしも恐らくはゾーンでの支払いを全て現金で済ませる思惑で持ち込まれた大量の紙幣。

 

それは、金の流れを追跡できる電子決済ではなかった。

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