STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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9節:生き残り

今宵も酒場『狐の巣』は活気に満ちていた。天井の照明が淡い光を投げ落とし、煙草の煙とともに空間を濁らせている。ざわめき、笑い声、酔いが運ぶ声の波が絶え間なく押し寄せては引いていく。

 

「で、そこで俺たちは弾を浴びせまくった。バババババッ!ってな。岩陰からミュータントどもがうじゃうじゃ出てきたが5人がかりで片っ端から返り討ちよ!俺もデケぇやつの頭に同じくらいデケェ7.62mmを叩き込んでやった!」

 

パブロはグラス片手に酒場の中央に立ち、声を張っていた。その周囲には椅子を引き寄せて耳を傾けるスタルカーたち。笑いと野次混じりの相槌を浴びながら、南米なまりのある語り口は酔いと熱気にほどよく溶け込んでいく。

 

「ガイガーカウンターがガリガリ言ってやがったが、俺たちは一歩も引く気はなかった。それでも俺らのリーダー、ここに座ってるオレグが弾き出したタイムリミットまであと1分とねぇ。いよいよ引き返さねえとヤベェって時に、キツネが何もねぇ岩陰を指さしたと思ったらよ、なんとそこにギラギラ光るアーティファクトが浮いてやがったのさ!」

 

再びどっと湧き上がる感嘆の声。パブロが語るのはキツネの道案内を受けた5人のスタルカーの狩りの話であり、グレブ達の今日の探索行の顛末だ。彼は誇張と身振りを交えてその詳細を語っていた。

 

もっとも、この話の結末を知らぬ者はいない。酒場に入るなり語り部自身が「キツネと狩りに行ったのに見つけたアーティファクトがとんだ紛い物だった!」と散々吹聴していたからだ。

 

だからこそ今の盛り上がりには妙な一体感がある。誰もが気を許して笑えるのはこの話が“失敗談”であると分かっているからだ。無用な疑いや嫉妬を招くこともない上に、探索に出た五人全員が無事に生還している。ゾーンにおいては珍しい、これ以上ないくらい健全で非の打ちどころのない笑い話だ。

 

鑑定士の店で一番感情を露わにしていたのは間違いなくパブロだったはずだが、こうして今、彼はその話を酒の肴に変えていた。その切り替えの早さはグレブにとって羨ましくはあるが、辟易することもある。

 

グレブは軽く息をつき、誰に言うでもなく腰を浮かせた。気づかれぬようにテーブル席を離れ、カウンターの方へと足を向ける。どうやら同じようにうんざりした極少数派──バラノフカの古参らしき連中が目立つ──の避難所と化しているらしく、カウンターや壁際に陣取るスタルカーたちは酒場の喧騒の中にあってもどこか冷ややかな目をしていた。

 

離れた壁際の定位置にあの老スタルカー、ワシリーの姿も見つけた。『釣り人』と呼ばれるゾーンの生き字引。その髭に覆われた顔は表情を読ませず、ただ黙って煙草を吹かしていた。「キツネと狩りに出て長生きした者は居ない」という自らの警句が無駄に終わったことに憮然としているのか、それともこの新入りが語り部として目立っているのが気に入らないだけかもしれない。

 

グレブはカウンターについた。衆目は酒場の中央に集中しており、壁際まで届いてきてはいない。カウンターの隣の男も半分溶けかけた表情でグラスを見つめており、どうやら脳に限界までアルコールが効いているらしい。ここはまだ多少なりとも静かだった。

 

「お前、グレブとか言ったな。偽物掴まされたそうじゃないか。」

 

カウンター越しに声をかけてきたのは『狐の巣』の店主、ミハイルだった。無精髭を生やしたその男は中年と呼ぶにはまだ顔つきに若さを残している。避難先でまでその話を蒸し返され、スタルカーはそっけなく返す。

 

「……まあな。」

 

「キツネが気に入ってるのはお前なんだろ?なのに他の連中を引き連れてったりしたら、そりゃあキツネは良い顔しねぇよ。」

 

肩をすくめたような言い草。気安く馴れ馴れしい口ぶりがどうにも引っかかった。この男もグレブと同じくあのキツネに気に入られている一人なようだが、本人の口からそれを当然の前提のように語られるのはあまり気分がいいものではない。まるでグレブがキツネの機嫌を損ねた責任者だと言わんばかりだ。

 

「そりゃアンタは外にも出ずにここに座ってるだけでキツネが土産を恵んでくれるんだからいいだろうさ。あれでいくら儲けてるんだ?」

 

つい棘のある言葉がでてしまう。口にしてから我ながら子供じみているとは思ったが、かと言って収める気にもならない。ミハイルは目を細め、グラスを置いて少し顔を寄せてくる。

 

「俺はキツネのアーティファクトを売った金を懐に入れちゃいねえよ。物資の密輸、宿舎の経費、バリケードの修繕、パトロールの報酬やなんかに使ってる。拠点の店の売り上げだけで全部賄えると思うか?」

 

不意打ちを食らった気がした。完全に初耳だった。彼が酒場の店主であるだけでなく、何らかの形でバラノフカの運営自体に関わっているのは窺い知れることだったが、今のはそれ以上の話だ。

 

そしてグレブはバラノフカの運営資金に関して飛び交っている噂──温水シャワーの給湯器から門番の給料など──に全てに説明をつけてしまったことに内心動揺していた。それが本当ならばバラノフカのスタルカー達はキツネに養われているようなものだ。

 

だが、同時に釈然としない想いも湧く。これは単に新入りである自分が知らなかっただけ──という話ではない筈だ。運営費をめぐる憶測がこれだけ広がっていたのに、キツネの“お土産”が拠点を支えているという話だけは、誰も口にしなかった。何か意図的に伏せられた秘密であるのなら、何故そのようなことを自分に対して口にするのか。

 

「…そうなのか?初めて聞いたぞ?」

 

ミハイルはふいに目を逸らし、声の調子をわずかに落とす。

 

「ん、まぁな…。」あきらかに言い淀んでいた。言うべきか迷った末に濁したような声音。

 

グレブは目の前の無精髭の男に“緊張”の気配を感じた。気楽そうな振る舞いとは裏腹に、何かを押し隠しているような硬さ。その馴れ馴れしい態度はこちらの反応を誘っているようにも思える。

 

「そう言えば、あの話は本当なのか?キツネは自分のことを誰かと勘違いしてるだけだ、って。アンタ前にここで誰かにそう言ってたろ。」グレブは多少興味が湧いたことで尋ねてみる気になった。

 

キツネが酒場に現れた翌日、スタルカーに詰問されたミハイルが煙に巻くように話を濁した場面が蘇る。そして今、目の前の男の黒い目は笑っていなかった。

 

「…あれはな、実を言うと違う。」含みのある口調だ。あの時は隠していたが今は続きを話すつもりらしい。

 

「つまりキツネは“アンタ”を気に入ってる、ってことなんだな?」グレブは相手を指差し、探るように言った。無精髭の男は何かを迷うようにしばらくカウンターに目を落としていたが、やがて大きく息を吐き視線を戻した。

 

「聞きたいか?」

 

その一言に静かな熱が宿っていた。空気が変わる。ミハイルの声も、眼差しも、まるで酒場のざわめきを押しのけてまっすぐ届いてくるようだった。

 

グレブが頷くと、店主はさらに身を乗り出して声を潜める。

 

「店を閉めた後、一人で裏口に来れるか?」

 

一体どんな秘密めいた話が隠れていると言うのか。正直言ってグレブはその手のものに深入りしたいとは思っていなかった。パブロあたりなら面白がって首を突っ込むのだろう。だが自分は違う。自分にとってこのゾーンは“稼ぐ場所”であり、“生きて去る場所”だった。それ以外は余計なノイズにすぎない。

 

しかし、ことキツネに関しては話が別だ。些細な情報であれ知っておいて損はないように思えた。あと数回、運が良ければ遠からずこの生活から足を洗えるかもしれないのだ。アーティファクトの見分け方、アノマリーの特性、ミュータントの急所──そしてキツネに関する情報。それらはこのゾーンで生きるために頭に入れるべき事柄に違いなかった。

 

グレブはもう一度ゆっくりと頷いた。あるいは、そこにはスタルカーらしい好奇心も少しばかり混じっていたかもしれない。

 

背後では紛い物のアーティファクトを巡る与太話の盛り上がりが最高潮に達していた。

 

「そんで鑑定士と睨み合ってると、あの守衛の大男が俺らの背中にAKを向けてやがった。ゴロツキども!俺の店で面倒起こすならこのAKが黙っちゃいねぇぞ!ってな──」

 

◆ ◆ ◆

 

宿舎の四人部屋は夜の静寂に沈んでいた。部屋の隅では闇がゆるやかに揺れている。枕元の卓上ランプだけが淡い光を放ち、グレブのベッドをぼんやりと照らしていた。彼は天井を見上げながら、酒場からの帰り道を反芻していた。

 

街灯もまばらな短い通りを五人で歩いた。パブロは酒場で十分に語り尽くしたと見え、比較的大人しかった。もっぱら口を動かしていたのはセルゲイとヴィクトルだ。そしてオレグが寡黙なのはいつものことだった。

 

熟練のスタルカーがアーティファクトを見誤った件については酒場でも数人が皮肉混じりに笑っていたが、少なくともグレブたちがそれを言うことはなかった。彼らの間にはこのリーダー格の男に対する、言葉ではなく経験で築かれた一定の敬意があった。

 

「なあ、グレブよぉ。」前を歩いていたセルゲイが振り返りもせずに言った。「もう一回だって。一回でいいからさ。キツネと狩りに行く時、俺をまた連れてけよ。」口調は軽く千鳥足だったが、言葉の端には本気が滲んでいた。

 

グレブが答える前にヴィクトルが口を挟む。「どうだかなぁ。あのガキの鼻がすげぇのは確かだったけどよ、見つけたブツが紛い物じゃ話にならねえ。アーティファクト探しの方はどうなんだか…。」

 

「ああ?そもそもキツネ抜きでアーティファクトを見つける方がよっぽど難しいだろうが。」セルゲイがすかさず正論で食い下がる。

 

「そうだな。」そこでグレブも続く。「それに見つけたものが高く売れるかどうかは、キツネの責任じゃないだろう。」それは半ば本音であり、半ば煙幕だった。

 

二人の主張はそのような堂々巡りだったが、結局のところ、狩りにまた連れて行けという点では一致していた。だが酒場の店主の助言と今日のキツネの態度を思えば、再び彼らを連れて行くのはあまり上手い考えではないように思える。

 

かと言って偽物の肩透かしで彼らを失望させた手前、強く断るのも気が引ける。結局グレブは狩りの約束については曖昧に頷くに留め、はっきりと答えることを避けた。

 

どちらにしろ、次にあの少女が現れるのがいつになるかも分からないのだ。

 

そしてミハイルからの呼び出しの件についても彼らには話さなかった。「一人で来い」と言われた以上、軽々しく話すべき内容ではないだろうからだ。果たしてあの男が何を明かすつもりなのか。帰り道のあいだグレブはずっとそればかり考えていた。

 

今、腕時計のデジタル表示は深夜をまわっていた。

 

『狐の巣』が閉店してから既にいくらか時間が過ぎている。そろそろいいだろう。グレブはベッドから上半身を起こし、足元に手を伸ばす。ブーツの紐を結びながら同室の仲間たちに視線を向けた。

 

パブロはベッドでいびきをかいている。オレグも横向きになって寝ているように見えるが、なんとも判断がつかない。新入りの目にはゾーンで七年生き延びたこのスタルカーの寝姿からは、睡眠中も全方位に神経を張り巡らせ物音一つで臨戦体制に入る──そんな印象を受けるのだ。

 

グレブはドアノブをそっと握った。ドアの軋みは最小限に抑える。音を立てないよう鍵の開閉を済ませ、静かに部屋を後にした。

 

バラノフカの深夜は先程よりも数段冷え込んでいた。

 

空気は乾いていて冷気が喉を刺すかのようだ。グレブは『狐の巣』に向かい、手ぶら同然で夜道を歩いていた。背嚢もライフルも持たず、腰にはPPKだけがぶら下がっている。同室の二人を信頼しての不用心ではあったが、ゾーンの夜道を武器無しで歩くことがこれほど心許ないものとは思わなかった。まるで救命胴衣もつけず冷たい海に放り出されたような心細さだ。

 

通りには人影がなかった。正門の詰め所には明かりが灯っており門番の姿もちらりと見えたが、この時間に出入りする者はいないだろう。ゾーンの夜闇を好き好んで歩むような猛者たちは太陽が沈んだ辺りで拠点を出発している。逆に今の時間に戻ってくるスタルカーがいるとすれば、そいつは何かに襲われ血を流しながら這い蹲ってようやく逃げ延びてきたに違いない。

 

『狐の巣』の正面入口は固く閉ざされていた。看板のネオンは消え、煤けた窓から漏れる光はない。深夜に酒を求める者が居ないわけではないが、そうした連中は大人しく宿舎のベッドでひとり飲んでいるか、あるいは工場跡の建屋で焚き火を囲んでいる。

 

グレブは酒場の脇に回り細い路地へと足を踏み入れた。この道を通るのは初めてだ。土の地面には割れた瓶のかけら、錆びたドラム缶、剥がれかけた古い広告がレンガの壁にへばりついていた。

 

路地の突き当たりに外灯に照らされた一枚のドアがあった。グレブは拳を作り、スチール製の扉を二度、三度と叩いた。静寂が戻る。しばし後、扉が軋んだ音を立ててわずかに開き、無精髭の男が顔を覗かせた。

 

「入りな。」ミハイルだ。ドアの陰になっていて表情はよく見えない。

 

裏口から続く通路の先は食材を備蓄したストックルームになっていた。棚が並び、食料の缶詰や干し肉、密輸品の野菜、小麦粉、酒瓶──それらが整然と積み上げられている。冷たい蛍光灯の光に照らし出された棚の列は外の世界のスーパーマーケットをぼんやりと思い起こさせた。

 

記憶の中の、すでに遠のきつつある世界の景色だった。

 

ミハイルは無言のまま先を歩く。グレブはその背中に視線を落とし、彼がわずかに右足を引きずっていることに気づいた。グレブはもっぱらオレグ達とテーブル席を利用していたし、カウンターの下に隠された店主の足元がどうなっているかなど観察しようがないことだったが。怪我か、事故か。であればそれを負ったのはゾーンへ来る前か、後か──。

 

やがて二人は店内へと至る。

 

客のいない『狐の巣』はまるで別の顔をしていた。中央の天井灯ひとつだけが煌々と輝き、無人のテーブルや椅子がまるで演劇の終わった舞台の残骸のような不自然な静けさの中に並んでいた。

 

ミハイルは手を軽く振り、ウイスキーのボトルの置かれた席を示した。「そこに座れ。飲むか?」

 

グレブは首を横に振った。椅子を引いて腰を下ろす。木の脚が床を擦る音が静寂をかすかに揺らした。ミハイルも向かいに腰を下ろし、無言でボトルを手に取ると自分のグラスに酒を注いだ。とろりとした琥珀色の液体がグラスの中に溜まる。

 

彼はしばらくその揺らぎを見つめていたが、やがて低く口を開いた。

 

「……さて、話すとするか。」その声はいつも通り飾り気のないものだったが、どこか張りつめた重みがあった。「ワシリーの爺さんの話は聞いてたんだったな。あの話は概ね正しいが抜けてる部分も多い。特にキツネを使ってたバンディットたちがどうなったのか、とかな。」

 

「"正しい"?」グレブは眉を上げた。今の言葉は与太話を伝え聞いた者のそれではなく事実を知る者の口ぶりだ。

 

ミハイルはグラスを指先で回し、その中の液体をゆらゆらと揺らす。

 

「俺は──」黒い瞳がグレブを真っ直ぐに見据えた。「──俺は、そのバンディットの生き残りだ。」

 

グレブの身体の底に戦慄ともつかない感覚がじわりと響いた。誘拐した子供たちにアーティファクトを探させた犯罪者集団、ワシリーの言葉を借りるならゾーンの”最底辺”。目の前の男は自分がそのバンディットの一員だったと言っているのだ。グレブはその真意を測りかね、黙ったまま言葉を待つ。

 

「俺が育った町は貧しくてな。鉱山は潰れて工場も閉まった。ロクな仕事なんざありゃしねぇ。生きたきゃ、しみったれた仕事を死ぬまで続けるか、ギャングになるかしかなかった。俺は後者を選んだ。兄貴とつるんで地元のチンピラの手下になって、15、6になる頃には、すっかりイキがった悪党気取りだったさ。まぁ、しょっちゅう殴られてたけどな。」

 

ミハイルは鼻で笑ったが、そこには苦味しかなかった。

 

「何年かしてゾーンの噂が広まり始めた。お前も外の世界じゃ散々聞いただろうが、"ゾーンには宝が眠ってる、運が良けりゃ一攫千金だ"ってな。で、ギャングの上の連中が言い出したんだ。“ゾーンで働く奴を探してる”って。俺は宝の話は半信半疑だったけど、仲間の何人かが行くことになって、兄貴も飛びついた。のし上がるチャンスだってな。兄貴が行くんなら、って俺も何も考えずについていった。」

 

男はグラスを傾け、ほんの舐める程度の少量、ウイスキーに口をつけた。

 

「ゾーン入りする為にトラックで何日も揺られてな。着いた先は、思ったよりマトモな拠点だった。俺達みたいにギャングから駆り出された連中が仕切ってたが、今にして思えば、どっかの企業か国が裏で手を引いてたんだろう。何だったのかは今でもわからねぇ。映画でしか見たことのねぇような自動小銃を渡されてさ。初めてミュータントを撃ったときは、まるで世界の王様になったような気分だったよ。怖いもんなんてなかった。まだ半分ガキみてぇな歳だ。体の良い下っ端でしかなかったんだろうが、完全に舞い上がってたよ。」

 

その口調にやや影が入り始める。

 

「もちろん、外に出て大怪我したり帰って来なくなる連中もいた。俺らもたまにミュータント退治の頭数に駆り出されることはあったけどな。でも、もっぱら俺と兄貴の仕事は拠点の番とか、捕まえた敵対してる連中の見張りとか、そんなもんだったよ。監禁だの暴行だのは地元じゃ、しょっちゅうだったからな…何とも思わなかったんだ。その頃は。」

 

ミハイルはグラスの中身をじっと見つめたまま言った。

 

「…そんなとき、ガキどもを乗せたトラックが拠点へ来た。」

 

酒場の空気が急速に重く沈んだ。グレブは目の前の顔に微かな苦悶を読み取った。

 

「ワシリーの爺さんが言ってた通りさ、俺達のギャング──バンディットは子供にアーティファクト探しをさせ始めた。それが誰の考えだったのかも分からねぇ。バンディットの上の連中が考えたのか、後ろ盾になってた他の誰かだったのか。」

 

「そこに、キツネが?」グレブの声は静かだったが、内心では荒波がぶつかっていた。

 

ミハイルは頷く。「ああ、居たよ。でも今のお前が知ってるアイツとは違う。最初に来たときのアイツには耳も尻尾もなかった。どこから連れて来られたのかも知らねぇ、身寄りも名前もない、そんな子供だった。」

 

そこからは老スタルカーの与太話と同じだった。誘拐や人身売買で集められた子供たちはアーティファクトを探す“道具”として扱われた。アノマリーの特性が解明される以前の愚かな試行錯誤。探索の度に子供たちはアーティファクトを持ち帰ったが、しかしアノマリーに焼かれ、ミュータントに引き裂かれ、一人また一人と命を落としていった。逆らえば飯抜きか、棒で殴られる。バンディットが彼らを直接殺さないのは探索で"消費"するため──。

 

それはゾーンが生み出した混沌ではなく、他ならぬ人間がこの地に具現化した"地獄"の一つだった。

 

「…それで、お前は何をしていたんだ?」

 

聞かずにはいられなかった。パブロだったらとっくにテーブルを叩いて怒鳴りつけていただろう。だが、グレブはただ目の前の男の顔を見つめていた。ミハイルはゆっくりと頭を垂れた。

 

「…なにも。」その声は変えようのない過去を押し込めるように低く、わずかに震えていた。「俺は、何も感じなかった。何も…疑わなかった。ガキの頃からギャングに憧れて、生きてくには誰かを食いものにするしかないと思ってた。食う側と食われる側、それが“世の中”だって。」

 

沈黙が落ちた。まるで空気すら言葉を拒んでいるかのように酒場の空間が閉じていく。グレブは背を椅子に預け、深く息を吐いた。

 

「…続けてくれ。」

 

促されたミハイルは一度だけ目を閉じた。

 

「それから…。それからキツネは少しづつ変わっていった。例の耳と尻尾が少しづつ生え始めた。態度も変わっていった。最初は怒鳴られて泣いてる普通のガキだったが、それが無くなってな。逆に"笑う"ようになった。バンディットの連中はミュータント化して頭がおかしくなったなんて薄気味悪がってたが、でも、子供たちが死んでいって──最後にアーティファクトを見つけて帰ってくるのはキツネだけになった。」

 

男は眉間に皺を寄せ、過去の映像を掘り起こすように言葉を探す。

 

「アイツだけが特別だったって誰の目にも明らかだったよ。ボスはアイツの力に取り憑かれた。でももう脅しても殴っても動じねぇ。今の俺達が知ってる、あのキツネそのものだった。ボスは手を変え品を変え、宥めすかして言うことを聞かせようともした。でもキツネは段々、何も持ち帰らなくなった。アーティファクトを見つけるどころかヘラヘラ笑うだけでろくに口も利こうとしねぇ。しびれを切らしたボスが、5、6人の手下をつけて無理やり探索に出した。夜になって戻ってきたのは…キツネ一人だけだった。」

 

彼の指先が震え、グラスの中の液体が波打つ。

 

「そこでとうとうブチ切れたボスが…銃を取り出した。そしてキツネの頭に突きつけて、それでも笑顔を止めないアイツを…撃った。」

 

その言葉にグレブは目を見開いた。「どうなった?」

 

「死んださ。普通に。脳味噌をぶちまけて、そのままバッタリと倒れた。俺はこの目で見てた。」

 

重い沈黙が酒場を包み、グレブの背筋に寒気が走る。しかしそれでは辻褄が合わない。それが事実ならば今自分達が知るキツネは何者なのか?ただ、一つ思い当たるものはあった。彼女の焼けただれた手の平が、数日後には何事もなかったように戻っていたことだ。

 

「"蘇った"…ってことか?」

 

その問いにミハイルがゆっくりと顔を上げた。しかしその表情は重苦しさを示すそれではない。口元に浮かぶ笑みは引きつり、正気と狂気の境目を曖昧にしていた。

 

「いや、死んだよ。死体は近くのドブに捨てられた。その次の日だ。拠点でいきなり銃声が何発か聞こえて、急いで見に行ったら仲間の一人が腹を押さえてのたうちまわってて、傍でキツネがまた死んでた。その死体がまたドブに捨てられて、ドブの中のキツネの死体がいくつになったと思う?2つだよ。」

 

理解が追いつかなかった。

 

「そこからだ、キツネの復讐が始まった。毎日毎日、どこから見つけたんだか古いナイフやら銃やらでキツネが拠点に突撃をかましてきた。撃退できた日もあれば何人か道連れにされた日もあった。ミュータントの群れに追いかけられながらそのまま拠点に突っ込んで来たときもあった。ドブにはどんどんキツネの死体が溜まっていって、ゾーンで山ほどおかしなもんを見てた連中ですら、おかしくなり始めてた。でもバンディットはビビッて引き下がったりしねぇ。むしろ意地になって、来るならいくらでも返り討ちにしてやるって防御を固めて襲撃を迎え撃った。でもあの日、拠点のデカい倉庫で、ボスがソファでふんぞり返ってて、俺と兄貴も居て、俺は何の気なしに天井を見上げたんだ。天窓から手榴弾を山ほど抱えたキツネが、笑いながら落ちて来る瞬間だった。」

 

無精髭の男は殆ど悲鳴のような声を上げていた。目には恐怖の色が浮かぶ。

 

「俺は床に投げ出されて、爆発があって、兄貴が俺を突き飛ばしたんだって気付くまでしばらくかかった。顔を上げたらそこら中、血だらけで、破片を浴びた奴らが転がりながら呻き声を上げて、兄貴は…半分になって俺にへばりついていた…。」

 

グレブは言葉を失っていた。彼の言葉は真実なのか、それとも信じがたいほど質の悪い与太話なのか、判断がつきかねていた。

 

「それから…。」ミハイルがようやく口を開いた。声は擦れ、どこか遠い場所を見ているようだった。「生き残った連中でゾーンを離れることにした。あのまま居たら、いつか全員やられるって誰もが思ってたから。ゾーン入りした時の経路を書き写した古い地図を頼りにゾーンを抜けようとしたよ。でもアノマリーもミュータントも、それにキツネも、全部が俺たちの行く手を阻んだ。ガキどもがそうだったみたいに、俺達は一人、また一人と死んでいった。俺は最後に生き残った何人かと歩きながら、疲れ切って、意識が飛びそうになってた時だった。そこへまた、手榴弾がドカンと来たんだ。」

 

彼の口調にわずかに苦笑が混じった。それは自嘲というには、あまりにも乾いた響きだ。

 

「もう終わりだって思った。誰の返事もなかった。俺は血まみれで泥の中に埋もれてた。兄貴みたいに俺もここで死ぬんだって、そう思った。その時、キツネが…、俺の顔を覗き込んでたんだ。あの笑顔で、笑ってた。“ミハイル、おやつちょうだい”って。」

 

その言葉は現実離れしていた。ミハイルの視線が虚空をさまよう。

 

「しばらく朦朧としてた。何日かは分からない。キツネに引っ張られて、地面を引きずられてるのだけは分かった。傷口を布で縛られて、口に水や食い物を押し込まれて…、生かされてた。目が覚めた時には知らないスタルカー達の小さな拠点のベッドの上だった。キツネもいたよ。」

 

そこで彼はようやく視線をグレブに戻した。言葉の調子が少し和らぐ。

 

「俺はキツネと、その人たちに助けられた。バンディットだったって素性は隠して、怪我が治って、ようやく歩けるようになって、拠点の手伝いを始めた。…恩返しってわけでもなかった。例の"食う側と食われる側"の哲学に従おうとしただけかもしれないな。最初の内は兄貴の仇を取ろうか考えたこともあったけど、キツネにはそんなもん通用しないし、キツネは、たまにふらっといなくなって、また戻ってきた。時々、今みたいに"土産"を持ってきたりして。拠点には色んなスタルカーが来て、去って、また新しい顔が増えて…そのうち、拠点も大きくなっていった。」

 

それがバラノフカであり、『狐の巣』か。グレブは悟った。バラノフカ──この場所はただの拠点ではなかった。キツネが育み、ミハイルが命をつないだ、忌まわしき過去の果てに生まれた彼女の"巣"だったのだ。

 

そしてミハイルとキツネの関係は、ただならぬ血と因縁に根ざしていた。バンディットに使い潰された子どもたちの命は二度と戻らない。赦されざる過去だ。外の世界の正義に則って目の前の男を憎むべきなのか、グレブには分からなかった。それとも今の二人の関係に何らかの"救い"を見出すべきなのか──。

 

グレブは無意識のうちに、救いの形を探していた。言葉が口をついて出る。

 

「バンディットは皆殺しにされた。でも…アンタは生きてる。」キツネが許すに足る何か。"優しさ"を彼が少しでも見せていたのなら、と願う言葉。「何故、許されたんだと思う?あの子に何かしてやったのか?」

 

「……俺は。」男の声が掠れた。「俺は、何もしてない。兄貴が投げて寄越した、美味くもないチョコバー、食いかけで地面に落としちまって。物欲しそうに見てたアイツに、蹴り転がしただけだ。アイツ、土を払って、嬉しそうに頬張って…。」

 

最後の言葉は、ほとんど囁きだった。「それだけなんだよ…俺が今生きているのは…。」

 

そう言い終えたミハイルは椅子の上で項垂れ、何も喋らなくなった。若さを残した無精髭の中年──そう見えていた彼の顔は、今や年相応に、あるいはそれ以上に老いて見えた。

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