陸八魔アル…………………便利屋68社長
浅黄ムツキ…………………便利屋68室長
鬼方カヨコ…………………便利屋68課長
伊草ハルカ…………………便利屋68平社員
ブラックリスタ……………ブラックスターのリーダー
ブラックレイジ……………ブラックリスタの部下
ブラックライシス…………ブラックリスタの部下
大隅ゲッコウ………………便利屋68臨時社員。
現在はゲヘナ風紀委員会委員
制御が効かなくなったからくり人形のように足を回転させながら、コンクリートの階段を早いテンポで駆け上がる。普段より肺が萎縮したようで、どんなに呼吸を速めても酸素を取り込めてない気がする。心臓が助けを呼ぶように体の内側を何度も叩き、心音が煩く鳴り響く。恐ろしい悪寒を感じているにも関わらず、額からは汗が吹き出して白いシャツは湿っている。
ミカン箱ほどの大きさの銀色のアタッシュケースを両手で抱えながら、制服のミニスカートが暴れるのを気にする余裕もなく、大隅ゲッコウは無我夢中で非常階段を駆け上がっていた。すぐ下の階から名も知らない少女の怒号が聞こえるが、すぐに大勢の足音にかき消される。何回折り返し地点を通っても変わらない景色のせいで、ゲッコウは自分が何階にいるのか分からなくなっていた。石造りの壁面は斜め十字に交差した鉄筋が、上階の闇に飲まれるまで伸びている。口を開けたまま犬のように呼吸をしていたが、空気が喉に引っかかるか肺に詰物をされたような感覚を覚え始めた。途中からは上を見るのを辞めて、駆け上がる足の爪先に意識を集中させていたが、少しずつ足音が大きくなり距離が狭まっていることで焦りが募る。ゲッコウの両足は中に鉛でも注入されたようにどんどん重くなる。膝裏の筋の辺りがミシミシと軋む。十六分の一ほどのテンポで動かしていた足も、今では半分ほどの速度しか出なくなっていた。
ゲッコウは左袖で銀髪に隠れた顔の汗を拭うと、アタッシュケースを持ち替えた。すぐさま左脇の下に吊るした化繊のホルスターから回転式拳銃を抜いて立ち止まると、体の正面を横に向けて右手を突き出し、投影面積を小さくする。右側の片膝立ちで発砲に最適な体勢を取った。撃鉄を引いて乱れた呼吸を整えながら、先頭を走るヘルメットが見える瞬間を息を飲んで待つ。これでどうにかなるとは思ってなかったが、これより他にどうしようもなかった。追撃の手を止めさせるために、一度脅かしてやるしかない。
ばたばたとやかましい足音が近寄ってくる。もう少し。よし、ヘルメットが見えた!
がーん!
先頭の藍色のヘルメットが顎を引くと、無様に後ろへ飛ぶ。そのまま後続のヘルメットにのしかかると、階段を登ってきた隊列が止まって崩れた。
ゲッコウはそれより後は見なかった。さっさと上に向き直ると、足音を気にせずに階段を一段飛ばしで駆け上がった。後ろで何か言い合っていたヘルメットたちの声が遠くなると、やがて非常階段に響く自分の乾燥した足音だけになる。危険が遠のいた事を確認したゲッコウは拳銃を収めると、両手にケースを抱えて早歩きで登っていった。
階段を登りきった終点の扉の先は、廃れたゲームセンターのような場所だった。丸々と太ったような筐体が無造作に置かれており、画面は割れているものもあった。電気は通っていないにも関わらず、廃物からは昆虫の羽音のような鳴き声が聞こえた。
ゲッコウは素早く周りを一度見渡すと、左にある筐体の影に縮こまって姿を隠した。
すでに膝は限界を超えて酷使したことで小刻みに震えており、心臓がひどく痛んだ。ヘルメットから死守したアタッシュケースをすぐ脇に置くと、ゲッコウも地面に腰を落ち着ける。ハンカチで顔を拭いて呼吸が整うのを待ちながらも、右手には弾を込めたままの拳銃が握られていた。どうしてこんなことになったんだっけ?昨日は風紀委員会の先輩から探し物を命じられた。よくある大きさのアタッシュケースで、迅速に見つけてほしいとのことだった。それでその後は?ヘルメットたちの目を盗んでケースを手に入れたが、すでに外にいた警備役まで連絡が届いてしまったようで建物は封鎖されてしまった。後はじわじわと上階へ追い詰められていった結果、こんな物陰でやり過ごすしかなくなってしまったのだ。時間の問題だ!外に逃げてないことが分かれば、奴らは建物中を念入りに探し回るだろう。戦闘が専門じゃない私を取り押さえるためには、腕利きが二人もいれば充分だ。ケースを取り返したら、次には地獄が待っている。どんな荒っぽい方法を使ってでも情報を吐かせたら口封じだ。永遠の口封じ!
ゲッコウは頭を横に振ると、筐体の側面から頭を少し出して周りの気配を探った。無機質な暗い部屋が嘲笑っているだけだった。追手はどうしたんだ?ゲッコウにはまたとないチャンスに思えた。ケースを物陰に置いたまま立ち上がると、残りの体力を振り絞って扉のところに行き完全に閉める。それが終わると、今度は近くにあった格闘ゲームの筐体に向かう。埃を被った十字ボタンと丸い持ち手のついたレバーが、いずれもピンク色に染められているやつだった。ゲッコウは筐体を両手で掴むと、体を水平に倒して全体重をかけて押し始めた。五分ほどかけて、蟻のような速度の運搬が完了すると、扉が動かないように密着させて止める。それから急いでケースを取りに戻ると、携帯電話を取り出して連絡先を探す。風紀委員全員が登録している同じ番号は、全ての情報が行政官の元へ行きつくようになっており、ゲッコウはこの番号を使うことで救援要請を出すことができた。
「はい、こちら風紀委員会」
ゲッコウには、電話口の向こうでマイクに向けて話す鋭い目をした青髪の行政官の姿が想像できた。割れた窓からビル群を見ながら、生真面目な相手に合わせて事務的な声になる。「行政官ですか?こちら3030号です。ケースを回収しましたが、追手に退路を塞がれ身動きが出来ない状況です。救援を要請します」ゲッコウはこの型通りの淡白なやり取りをおかしく思った。
「3030号、救援了解。ケースの中身は何だ」
仲間よりも目的の物か!ゲッコウはもう少しで上司への文句が出そうになるのを堪えて、ケースを床に置くと止め金を丁寧に外す。中身はキャップの付いた鉛筆と細かい文字の書類が五枚だけだった。
「3030号、書類の内容を口頭で説明せよ」
「了解。しかしもうすぐ追手が来ます。のんびり説明してる時間はないんです。今も入口を塞いでいますが、いつ突破されるか分かりません」
ゲッコウはこちらの切羽詰まっている状況を理解してもらいたかっただけだが、電話口の相手はこちらの発言には反応せず沈黙する。ゲッコウは渋々だが書類の内容を口頭で説明した。(この時細かい内容は幾らか省略して、少しでも書類と自分の身柄の重要性を高めようとした。ささやかな反抗だ!)まる一分ほどで内容の要旨の説明が終わると、沈黙していた電話口の相手はようやく口を開いた。
「3030号、説明感謝します。確かに目標のもので間違いないようですね。これは風紀委員会が追っているならず者集団"ブラックスター"を止めるために、非常に重要なものなんです。よくやってくれました。本来ならばこれで貴方の任務は完了となりますが、しかし今回はそうともいきません」ここで電話口の相手の声色が険しいものになった。
「なぜなら我々がブラックスターだからだ、大隅ゲッコウ」
電話口の相手は、困惑するゲッコウに構わず続ける。「お前は我々の指示に従い、任務を受けてくれた。最後の任務はお前自身の口を封じることだ。お前はここで捕らえられ、二度と口を聞けなくなる。エデン条約の件と重なって、風紀委員会が事に気づくことはない。良い夢を見るんだな。おやすみ」
電話が切れるのと同時に、ゲッコウの首の裏に鋭い衝撃が走った。痛みに反応した頭が大きく後ろにのけ反ると、天井の割れた電灯の影が三つに重なって見えた。
咄嗟にケースを握った腕は力が入って固まったまま、ゲッコウは床にのびてしまった。すでに意識のない背中を見下ろすもう一人の女は、一歩引いた位置からゲッコウをしばらく観察していた。やがて反撃の恐れがないことを確信すると、ゲッコウの体を俵のように右肩で抱え上げてケースは左手で持ち、悠々とその場を去っていった。
珍しく夜空が黒一色に染まった日だった。キヴォトスを巨大な天幕のように覆う雲は、月光がわずかに照らす箇所だけが白んでいるだけで、あとは闇と静寂が支配していた。いつも必要以上の明かりを提供しているミレニアム校区の街灯も、この日ばかりは頼もしく道を照らし示していた。
天敵たちが寝静まる時間になり、埃色のドブネズミはのそのそと動き始めた。まともに電気の通らないスラム街に住むドブネズミは、全員が顔に二つの白星を持っていた。地面に垂らした髭で周りを探りながら、二つの星はせわしなく辺りを見回す。ドブネズミはこの時間が好きだった。自分以外の生命が消失する夜は、日陰者が自由に世界を走り回れる時間だった。ドブネズミは自分がこの瓦礫の箱庭の王にでもなったように、悠々と歩を進めていった。
少ししてドブネズミは異常を感じると、動きを止めて闇の一部となった。地面に垂れた髭が異常を察知したのだ。すぐさま後ろ足と尻尾で上体を支えるように立つと、髭で周りの空間を探り始める。髭はこの空間には自分のもの以外に、もう一つの何倍も大きな呼吸音を感知してドブネズミに正確に警戒信号を発していた。
空気が大きく揺れると、ドブネズミはすぐさま前足を下ろして全力で逃げ出す準備をする。しかし次の瞬間には、闇から現れた巨大な毛深い手によって、ドブネズミは背中から叩かれ取り押さえられてしまった。手はとても柔らかく暖かかったが、鋭い爪の曲がった先が、体に食い込んでいる。髭は今では大地震のような衝撃と、命を刈り取る形をした爪の持ち主の危険性を本体へ訴えていた。一時の支配者は、さらなる支配者の強襲によってまさに捕食をされようとしていた。
こちらへ向かってくる足音の塊に、小さな命のやり取りに集中していた二匹は反応が遅れてしまった。ドブネズミを捕らえていた手は足音の正体を見て取るとすぐさまその場を離れて、一目散に建物の隙間を走り去っていった。ようやく自由を取り戻したドブネズミも、とっさに建物の影に姿を隠す。足音はすぐそこまで来ていた。ここでドブネズミにも事態がようやく分かった。足音は複数あるのだ。ドブネズミは安全でなくなった明かりの下を離れると、再び夜の闇の中へ紛れていった。
「ここ──で合ってるわよね」
柔らかな革のヒールから乾いた足音を立てていた陸八魔アルは、神妙な面持ちで立ち止まると目の前にそびえる廃れたビルを見上げる。建物は所々から錆びた茶色の鉄筋が飛び出して、ビルの屋上付近は夜空の闇に飲まれて見えなかった。入り口と思われる地上階の口は、左右が一際大きな石柱で支えられて緩やかな鉄板のスロープが取り付けられている。すでに元の持ち主は手放した後だろうが、階上のあちこちから漏れている光がこの朽ちた建物に住み着く人間たちの存在を知らせていた。
「なんだかお化け屋敷みたいなところだね」
浅黄ムツキが目の前の人を驚かすために造られたような建物を一蹴すると、アルは極力考えないようにしていたことを声に出されたことで反射的にムツキを咎めた。白いサイドテールは暗い日曜日の暗色に統一された世界に抗うように存在感を放っている。しかし髪色と対象的に黒を基調として、赤いラインをあしらった服装は自然に偽装効果を高めていた。
「ア、アル様を驚かせるような幽霊は私が爆破しますからご安心ください」
伊草ハルカは暗い風景や廃ビルを見ると落ち着くようで、発言も普段よりいくらか頼もしいものになっていた。しかしムツキの後ろに控えていたハルカにとって、夜の世界は保護色に近いようであまり存在感を放ってはいなかった。
「ムツキ、あまり社長を怖がらせないで」
携帯端末で位置情報を確認しながら、鬼方カヨコは目もくれずに注意する。端末の明かりで顔が下から柔らかく照らされて、鼻筋と頬の辺りに薄く影ができていた。右手の親指で地図情報とメールの画面を何度も往復して、ようやく確信すると顔を挙げて仲間を見る。「送られてきた位置情報はここで間違いない。人の目もないし、人攫いには絶好の隠し場所だね」呆れたように言うと、小さくため息をついて廃墟を見上げる。アルは軽く返事を返すと、同じく廃墟を見上げた。ムツキとハルカも二人に倣って、目線を上げる。
天に向けて平べったく伸びた廃墟を見上げながら、アルはかつての旧友──大隅ゲッコウのことを思い出していた。銀のはね髪を揺らして、柔らかな笑顔を向ける純粋な少女。全員傷だらけになりながらも、便利屋があの狂気の雪山から救い出した少女である。最後に会ったのはいつだっけ?風紀委員会では元気にやれているだろうか?アルは郷愁を払いのけると、廃墟に向かい先陣を切った。答えはこれから分かる。自分たちを頼ってくれた旧友の悲痛な叫びに応えるため、あくびをしているように大きく開いた口の中へさっと入った。カヨコも携帯をしまうと、集団の最後尾から静かに中へ入っていった。
カヨコの携帯には最初から入っているお決まりのアプリの他に、音楽再生用に独自に入れたアプリがある。ユーザー同士の簡単なやり取りができるメール機能がついたものだ。今から数時間前、位置情報と簡単なメッセージがカヨコの元へ送信されていた。
さっき送った位置まで来てくれない?委員会が来れないから助けに来てほしい。大隅ゲッコウ