気を失ってから、意識を取り戻して最初の反応は頭痛だった。額の上の氷嚢と首元に敷かれた氷枕で頭部は完全に冷えており、頭が内側から押されるように痛んだ。ゆっくりと氷嚢を退けると、瞼がくっついていることに気づいた。どれくらい寝ていたんだろう?目元を少しこすって、おずおずと開く。キヴォトス都心部の高級ホテルのような部屋だった。壁は濃茶色、床は柔らかな白い絨毯がぴったり敷いてあり、しゃれたデザインの椅子やソファには落ち着いたストライプ模様があしらわれている。白いレースの向こうには、ベッドを置いた空間があった。鏡のついた豪華な扉の向こうはバスルームだろうか。天井を静かに回るファンは、快適な空気を部屋の隅々まで行きわたらせていた。
落ち着いた雰囲気の部屋で気に入ったが、カヨコには気になることがあった。窓が一つもないのだ。ゆっくりと起き上がる。一通り見回したが、外に出る扉には把手も付いてなかった。体の調子を確認する。幸い痛むところは、頭以外なかった。傷跡も残ってない。だが恐ろしく空腹だった。最後に何か食べたのはいつだ?そもそも今までどれくらの時間が経っているのだろう。カヨコは慎重に記憶を辿った。そうだ、あのブラックリスタとかいう奴にやられたんだった。
痛む額に手を当てながら立ち上がって、三、四歩と歩いてみる。カヨコは部屋の角のソファで寝かされていた。今は何時だ?机の上の電波時計は午後一時だった。カヨコは自分が異常なほど意識を失っていたのに気が付いた。頭を強く打ったのは覚えているが、それ以外にも何か──カヨコは一服盛られたのではないかと感じていた。把手のついている扉を開けると、中はユニットバスだった。カヨコはひとまず顔を洗い始めた。
さっぱりすると、カヨコは自分の持ち物と部屋の物の確認を始めた。スマートフォンは無事だったが、圏外になっていた。どこかから部屋全体に妨害電波のようなものが出ているのだろう。拳銃もなかった。机の引き出しやあらゆる不審な場所を見て回ったが、盗聴器らしきものも見つからなかった。だからといってカヨコは警戒を解くつもりはなかった。
クローゼットの中には、薔薇の香りのする絹や麻の着物が何着か置いてあった。ここで不意にカヨコは自分の格好に気が付いた。顔は先ほど洗ったが、パーカーも丈の短いスカートも靴もすっかり埃を被ってしまっていた。髪を少し撫でると、指の間に砂ぼこりが付いてくる。
動き始めてから、三十分くらい経っていた。カヨコがシャワーを使おうかどうか考えていると、把手のない扉がいきなり開いた。部屋に入ってきた人物の顔を見て、カヨコはぎょっとした。
部屋に入ってきた女は、長い金髪を後ろで一括りにまとめていた。型通りの万魔殿のような軍服にズボンという格好だが、右目の黒い眼帯が目を引く。ベルトには、半年前に相対した時と同じものらしい二丁の拳銃と二つの革のホルスターをつけている。
「下尊アス!」
料理を乗せた盆を片手で運びながら、相変わらず軍人かぶれのその女は、口元に不敵な笑みを浮かべた。「元気かね、カヨコ?」彼女は至って気さくに声をかけると、机に盆を置いた。料理に被せていたフードカバーを取ると、ベーコンとコーヒーのうまそうな匂いが部屋に漂った。
「ああ、……無事だったとはね」
「お互い様だな」
カヨコを見る紺碧の目は、半年前と変わらず鋭いものだった。「打った頭はもう大丈夫そうだな。死んじまうより、今ここにこうやって生きている方が良かったと、お前が思っていてくれれば何よりだ。私がここに来たのは、お前がくだくだした質問をする手間をはぶくためだよ。今のお前の立場と、お前の身に何が起こったかを話してやろう。それからボスから一つ質問を預かっているから、それにはっきりとした返事をして貰いたい。お前はたいていの連中より物分かりが良いから、簡単に釘を刺しておくだけでいいな。嘘や誤魔化しや芝居はやめた方が良い。それから脱走を図ることもな。私はこれでも早撃ちの名人でね、文字通り瞬きする間に弾を撃ち込むことができる」アスはホルスターの一つに手をやると、人差し指で早撃ちの真似をした。
カヨコは言った。「心配しなくていいよ。こっちは襲いかかる武器なんて何も持ってないからね。ただし話は手短に済ませてほしい。こっちはせっかくの料理が冷める前にシャワーでさっぱりしたいからね」
「良いだろう」
アスはフードカバーを再び被せると、丸テーブルの近くの椅子に腰かけた。カヨコは先ほどまで自分が寝ていたソファに座り直した。「聞こうかな」
「そうだな、まず今のお前たちの状況から話そうか。昨晩、便利屋68はブラックスターの罠にはまって分断された。正確にはお前と、あとの三人だな。お前の仲間──陸八魔アルとその仲間たちは今のところは無事だよ。あの時もそうだが、まったくお前たちのしぶとさには舌を巻くよ。(それはこっちの台詞だよ。亡霊の名は伊達じゃないってことだね)そろそろお前の奪還のために動き出すはずだ。そしてお前はボスによってここに連れてこられた──私の今のボスはブラックリスタだ。ここはブラックスターの根城だよ。分かっているだろうが、外界との連絡手段は一切ない。外から便利屋の仲間たちがお前を見つけることも不可能だ──我々が招き入れでもしない限りはな。本来の予定ならあのビルでもろとも一巻の終わりのはずだったが、どういうわけかボスはお前に目をつけた。ボスが言うには、お前は
「いいよ」カヨコは言った。「あなたのボスに喜んで夕食のご招待を受けますと伝えて」
カヨコはこの危機とも好機ともとれる不可解な状況を、一つ一つ解きほぐしていった。どうやら相手は少なくとも私を殺すつもりはないらしい。言葉通り、私は招き入れられたんだ。謎の組織の内側まで入り込んだ。だが敵の頭に突き付けるために肝心の武器だけがなかった。
「よし、分かった」アスは言った。「そちらから何かあるか?」
カヨコは少し考えると口を開いた。「二つある。まずブラックスターの目的を教えてくれる?私たちを嵌めて、一体何が目的なの?」
「同じだよ。古代から現代に至るまで、権力を狙う連中の心理は常に同じだ。だが、これは夕食の時に直接ボスに聞くといいさ。ここで聞かずとも、彼女から面白い話が聞けるだろうよ。お楽しみは取っておくんだな」
アスは含むような物言いをすると、この話題でそれ以上話すつもりはないようだった。カヨコは諦めた。
「そうするよ。ところで今回は何千億くらい要求する気なの?」
「要求だって?」アスは声を立てて笑った。「要求は金じゃない。それを聞けばお前も驚くだろう。だがこれも後で聞くといいさ。政策は政治家に聞けというやつだよ。いずれにしてもボスは面白い女だ。それに恐ろしく優秀という点ではオアに引けを取らないだろうな。あの雪山から生還した私を発見して、すぐに拾ってくれたんだ。感謝してもしきれない恩ができたよ」
「そうみたいだね。なるほど、ネオ・チャレンジャー基地の事を知っていた謎が解けたよ。あなたが便利屋とゲッコウの情報を流したんだ。ただあなたがどう思っているかは知らないけれど、私たちはテロリストじゃない。勘違いしないでほしいね」
「それはすまなかった」アスは素直に謝罪した。申し訳ないとは微塵も考えてなさそうだった。
「それで他には?」
「もう一つ、この汚れた服を洗いたいんだけど」
「まとめてかごに放り込んでおけ。頃合いを見て取りに来る。洗ったら乾かして、明日の朝に届けよう」
「分かった。もう話は残ってないね。こっちはおとなしく罠のチーズをかじることにするよ」
二人は立ち上がると、アスは振り返って戸口へ向かう。
カヨコは短くアスを呼び止めた。「最後にネオ・チャレンジャー基地から生還したからくりを教えてもらえる?」
アスは何とも取れぬ笑い声を立てた。「強いて言うなら、亡霊は死なないということだ」把手のない扉に手をかざすと、かちんと勝手に鍵の外れる音がした。そのままアスは部屋の外へ出ていった。扉が閉まる直前、何かのエンジン音みたいなものがかすかに聞こえた。
再び一人になると、カヨコは今の会話を振り返る。そしてどうにもならない事を悟ると、深くため息をついた。アスの話には不安要素はなかったが安心要素もまたなかった。ただ自分はこの贅沢な牢獄で、仲間の奮闘を祈るしかないように思えた。言った通り、自分は完全に罠の中のネズミだった。なら罠のチーズをどうこう言っても始まらない。カヨコはクローゼットから適当にバスローブを一枚取ると、まっすぐバスルームへ向かった。