浴室には何から何までそろっていた。蛇口をひねって棚を物色している間も、カヨコは新品のまま置かれた用品に感心していた。キャンディーのような袋に入った固形溶剤を湯の中に放り込むと、すぐに浴室に柔らかな蘭のビニールハウスのような香りがこもる。押し込み式のボトルにシャンプーやボディソープ、珍しい固形石鹸もあった。歯ブラシに歯磨き粉、うがい薬にコットンの綿棒、デンタルフロスにスポンジに細々とした化粧品が並んでいる。
カヨコは目の下にくまが薄くできた顔を眺めると、鏡に映った徹夜明けのような人物に陰気に笑って見せた。飴はくどいほど甘いが、鞭は合金の鎖のように重いだろう。
カヨコはさっさとシャワーを被ると、一風呂浴びた。適度な加減の湯が体をほぐすのに任せると、自分のために奔走しているだろう便利屋の仲間たちの姿が浮かんだ。社長や皆が居て、ここが敵の根城でなければきっと喜ぶだろう。だが幸せアレルギーという奇病のハルカはどうなるんだ?ふと自分だけ贅沢な思いをしていいものか迷ったが、どうせやることもないのだから、すっかりもてなしに預かろうと思った。それにここのボスに会うのだから、せいぜいおめかしをしていかないとね。
風呂から出ると、白地の快適な着物を一枚羽織った。アスの言った通り、脱いだ服は籠ごとなくなっていた。カヨコは料理の置かれた低い丸テーブルの前に腰を下ろした。氷をいれたバケツの中に入ったオレンジジュースの瓶を取ると、コップにそそいで飲みながら料理の蓋を取ってみた。スクランブルエッグに炙り焼きのベーコンが二切れ、豚のソーセージ。それと厚切りのトーストが二枚にバター、マーガリン、苺のジャムがついていた。黒い魔法瓶には、さっき煮たようなコーヒーが入っている。カヨコは小さくため息をつくと、卵から片づけ始めた。
十五分後、コーヒーをちびちび飲みながら、カヨコは脱走の作戦を腹の中で巡らせていた。サービスは悪くないが、強固な防音室のような設計らしく外界からの物音が何も聞こえないのが気味悪かった。嫌でも自分自身と会話することを求められているようで、居ても立っても居られなかった。気を紛らわすために立ち上がると、監視されていても大丈夫なように何気なく部屋をうろつきながら物色を始めた。カヨコは何でもいいから武器になるものが欲しかった。楊枝の一本でもないよりはましだった。
壁に取り付けられた机にはルームサービスと書かれたメニューがあった。カヨコはそれを調べてみる。やはりどこかの高級ホテルから取ってきたような、大きな四ページ立てのものだった。小さな文字でメニューがびっしりとかかれている。少し読むと、元あった場所へ戻した。
少し経って、戸口からノックの音がしてアスが入ってきた。カヨコはお愛想の相手にならずに紅茶を注文した。
アスは昼食の盆を片付けながら言った。「それから、七時四十五分から八時でいいかと、ボスが聞いていたが」
カヨコはそれでいいと答えた。
「分かった。七時四十五分に迎えにこよう」
そう言うと、アスは把手のない戸口から出ていった。
武器を手に入れようという企みもここまでだった。周到に対策がされた部屋では、電球の一つすら抜き出せそうになかった。カヨコはクローゼットから外向けの着物を取り出すと着替えたが、今度は無地の黒いものにした。紅茶が来ると、カヨコはしばらく陰気な考え事にふけった。
やがて時間になると、戸口が再びノックされて開いた。カヨコはまたアスが迎えに寄こされたかと内心同情していたが、入ってきたのは黒い長髪の女だった。カヨコと同じくらい華奢な体つきで、季節感のない黒のロングコートにぴかぴかした黒の手袋、茶のロングブーツという装いだった。カヨコは部屋を出ると、人影もないしゃれた廊下を歩いて行った。エレベーターは中でヘルメットを被った部下が止めていて、二人が乗り込むとヘルメットは出ていった。
エレベーターが下っている間、カヨコは後ろから黒髪の女を見ていた。はて、どこかで会ったことがあるか?黄金色の瞳がはまった顔に横目で注目していると、ドアが開いた。何十メートル下ったか想像もつかなかった。重厚な扉が開かれて、カヨコは大きな部屋に出た。
第一級の絵画を展示している美術館のような部屋だった。奥に三十メートルはありそうな部屋の壁には、絨毯のような大きさの絵画が隙間なく飾られている。中央奥の壁には年季の入った石造りの暖炉が口を開けており、そこから舌を出したように長い木製のテーブルが、カヨコの目の前まで伸びていた。床は茶と白の規則正しいタイルで、部屋の脇に椅子やら小テーブルやらが追いやられていた。火をつけたろうそくを何本も立てた燭台は、壁やテーブルから部屋を淡く照らしている。その他にテーブルには、めいめいに果物が入った籠や金に塗られた陶器が飾りとして置かれている。電球を使ってないからか、ほんのり暗い印象を受けた。
黒髪の女は扉を閉めると、入り口のすぐそばに立ったまま動かなくなった。いたって無表情を貫いていた。ボスはまだ来てないようだった。カヨコは部屋を踏みしめるように歩いて一枚の絵画の前で止まった──林檎の中にはだけた羽衣を纏った女がいる絵だ。鑑賞するようにぼんやり眺めながら、こんな部屋を作ることができるブラックスターという悪党集団をますます不思議に思った。莫大な資金がいるだろう。彼女たちはどこから金を調達しているんだ?それに敵である私を、わざわざ夕食に招く理由はなんだろう?
「お待たせしたな」
低く威厳のある声が部屋に響いた。かすかに上機嫌な色がある。
カヨコはゆっくり振り返った。
ブラックリスタはカヨコと同じ扉から入ってきた。廃ビルの時と違って落ち着いた態度だった。
「カヨコ、突然の事にも関わらず、よく招待に応じてくれた。こっちは一人で、そっちも一人だから、少し話でもしたら良いと思ったんだ」
「お招きを受けて嬉しかったよ。こっちはあの静かすぎる部屋にうんざりしてたところだからね。あまり気晴らしになることもないし」
微笑を浮かべたまま、ブラックリスタはゆっくりと出てきた。深紅の楽なドレスの裾をひらひらさせず、音もなく歩く様子は優雅だと認めない訳にはいかなかった。ブラックリスタはカヨコよりも身長が拳一つ程低かった。ちょうどムツキと同じくらいだろうか。翡翠色の目はカヨコをじっと捉えている。
「握手は、失礼と分かっているが左で頼むよ」そういうと金のブレスレットをかけた白い左手を差し出した。「右手がないのでね」
右手を上げると、長い左の袖から鋼鉄の鉤の義手のようなものが出ていた。まるで威嚇でもするように、さあ見ろと言いたげだった。
カヨコは左手を差し出して、軽く握った。想像と違って、骨太な固い手だった。
「人間は文化を楽しむものだ。私は絵画を楽しむことにしたんだよ。この絵も腕の良い知り合いに描かせたものだ。ところが絵というのは、そこにあるだけで場を華やかにしてくれるんだね。カヨコはこの絵から、まず何を連想できる?」
カヨコは言った。「林檎の馬車かな」
「なるほど」リスタは独り言のようにつぶやいた。「便利屋の課長は案外ロマンチストなんだな。ところで君を連れてきたあの女に見覚えはないかな?最近会っているはずだが」
カヨコは石のように動かない女に振り返った。リスタはどうやら私を試しているらしい。色々な要素を検討していると、彼女の脇の椅子に置かれたヘルメットが目についた。顔を完全に覆うタイプのものだった。
「ひょっとして、ヘルメットライダー団?」
ブラックリスタはにやりとすると、一本指で彼女を呼んだ。彼女は無表情のまま歩くと、二人の前で止まった。
リスタはカヨコの方に振り返った。「正解だよ、カヨコ」薄笑いをうかべる。「ほんの座興だが、ブラックライシス、カヨコにあれを見せてやれ。コートは取れよ」
言いながら部屋の隅の三メートルはある白い彫像を指す。カヨコにはそれが誰だかすぐに分かった。吊り上がった目に特徴的な角を持つゲヘナ学園の長だった。ブラックライシスはコートを脱ぐと、丁寧に畳んで机の上に置いた。黒い無地のシャツだが、襟元は白で黄色のネクタイを巻いており、カヨコのものより少し長めのスカートにタイツをはいていた。
素直に彫像の前に行くと、像を見上げた。何をするつもりだろう?
カヨコは少し夢中になって見つめていた。彼女はしつけの良い猟犬のように、静止するとリスタの方を見た。リスタは素早くうなずいて見せた。黄金色の目が鋭い集中に光る。膝を充分に曲げて、両手を後ろから勢いをつけて振り上げると、ぱっと彫像の顔の辺りまで飛び上がった。空中で足がぴしっと揃う。体を横に倒し、下を向くと、揃った両足がピストンのように飛び出した。石が割れるがきっという音がした。白い自慢げな顔の欠片が床にばらばらと転がり落ちる。ライシスは両手から先に着地すると、四つん這いになる。衝撃を吸収するように両肘を曲げていたが、今度はその肘をぐっと伸ばすはずみで、飛び上がってまっすぐ立った。
あれだけのことをやったにも関わらず、顔は汗もにじんでおらず、自慢の色も見えなかった。もう一度飛び上がると、つるつるした彫像の断面に、斧か何かのように手刀を振り下ろした。もう一度石の割れる音がすると、今度は首から股下にかけて長い割れ目が浮かび、そこから縫合が突然切れたように床に倒れ割れた。今度は両足で着地すると、しゃんと姿勢を正して、次の指示を待った。
カヨコは腹の底から畏怖を覚えながら、ブラックライシスを眺めた。キヴォトス人は基本的に肉体は頑丈にできてるし力もあるが、しかし今見たこんなものに近づけるようなものは、見たり聞いたりした人の中にはないように思えた。風紀委員長くらいか?とにかく危険な生き物だ。カヨコもこんな恐ろしい人間には、兜を脱がざるを得なかった。こいつにかかれば、きっと膝をついて死を待つばかりだろう。握手しようと手を差し伸べる。
ブラックライシスはこちらに近づくと、手を取った。四本指を伸ばしたまま、親指だけそっと折り曲げる。こちらは骨がうっすら分かるほど繊細な手だった。彼女はカヨコの手を離すと、きちんと畳んだコートを取りに戻った。
「どうだったかな、カヨコ?以前会った時はきっとここまで強くなかったろう。こいつは自分にどんな力があるか知らなかったんだ──ずいぶんもったいない事をしていたもんだな。私はそれを引き出してやったんだ。ところで」ブラックライシスはコートを羽織って、静かに立っていた。「お疲れ様、よくやった。こっちはすぐ夕食にすると伝えてくれ」
ブラックライシスはお辞儀をすると、背を向けて行った。
カヨコはこれからの食事が喉を通るかどうか不安になった。今の見世物はカヨコに警告を伝えようとしているのだ。拳で軽く脅すようなものだ。「カヨコ。彼女の力を見たろう。その気になれば、お前殺すことだって造作もない。もちろん私もそうだ。今以上の事が出来る自信があるね。ゲヘナから一人の女が姿を消すだけだ。エデン条約事件はまだ終息に至ってないから、我々は間違いなく無罪になるな」と言ってるようなものだった。
「素晴らしいものが見れたよ。ああいう仲間は重宝するだろうね」
愛想のいい返事をすると、リスタは微笑を浮かべた。
「ああ、掘り出し物だよ。ではそろそろ卓につこうか。もっと和やかな食卓で話は続けられる。まず私の方から君も気になっているだろう事をお話ししよう」リスタの表情に影気が出てきた。「お互いに仲良く歓談といこうじゃないか。私がカヨコを選んだのは、君なら変な抵抗はしないだろうと考えたからだ。悪党同士、変な企みはなしだぞ」義手を袖から出すと、機械仕掛けの手を目の辺りに持っていった。
ブラックリスタは鋼鉄の手をゆっくり開くと、両目の前で止めて目の中心を軽く叩いた。
翡翠色の目は鈍い金属音を立てた。「この目はなんでもお見通しだからな」