ハルカは身をかがめて冷蔵庫を開くと、二リットルのお茶が入ったボトルを取り出した。赤、黄、紫の花の模様がついたコップを取ると、それぞれに氷をひとつかみ入れる。お茶をめいめいに注ぐと、少し回してお茶がよく冷えるようにした。それから社長机に一つ、応対用の低い折りたたみ机に二つ置いた。アルはぐっと一息にお茶を半分ほど飲み干した。コップを置いてようやく上着を脱ぐと、喉元はすっかり赤くなっていて、跡にならないかが気がかりだった。ムツキは右手の中がひどく痛んでいるらしく、肩を回すのもやっとのようだった。アルはシャツの上のボタンを外した。それからグラスを取り上げると、またぐっと一口飲んで、二人のところへ歩いて行った。
二人は疲れた顔を上げた。
「二人とも大丈夫だった?」
「危うく腕をやられそうだったよ」ムツキは言った。「ハルカは?」
「わ、私もなんとか無事です。一度心臓の辺りをやられましたが」
「でもハルカちゃんには、すーっごく助けられたよ。いなかったら私どうなってたか分かんないもん」
ムツキはすっかりハルカにくっついていた。ハルカは自分で汚れているからとか言ったが、ムツキは全員同じだからと気にしてないようだった。
「でもアルちゃんがやられなくて本当に良かったよ!心配したんだからね」
アルは言葉を詰まらせた。勢いとはいえ、大した策もなく出てきた挙句、仲間に心配をかけてしまった事を恥じた。
「それは、ごめんなさい。心配かけたわ。でもあの時はああやって言って止めるしかなかったのよ」
「少し前にハルカちゃんに言ってた事、自分にも言ってあげた方が良いんじゃない?」
ムツキはようやく元気を少し取り戻すと、口に手をやって笑った。つられてアルもハルカも笑うと、急に三人とも生きて事務所に帰れたことが奇跡のように思えた。ひとしきり笑うと、ムツキは低くヒュッと口を鳴らした。
「いやいや」彼女は感嘆したように言った。「何はともあれ、これでブラックスターに大打撃を与えてきたんだね。でも本当に、運が良かった!あのブラックライシスとかいう子が、危ないところを助けてくれたんだよね。あの子はこっちの役に立ちそうかな?」
「彼女に近づくことができればね」アルが言った。「でもどこに逃げるとも言わずに出てきちゃったし、過度な期待はしない方がよさそうかも」
「そのことはそのうちに考えるとして」ムツキが言った。「すぐ動いて準備を整えた方がよさそうだね。ハルカちゃんはさっき一番頑張ってくれてたから、先にシャワー浴びてきちゃっていいよ。皆きれいになったら、武器をたくさん準備してみよう。向こうから連絡が来ればラッキーだけど、代わりに新手が来た時のことを考えておいた方が良いかもしれないね」
ムツキが立ち上がると、アルは一人で笑った。ムツキの陽気な声を聞き、万事行き届いた見通しが立ちつつあると、疲れもいやな思い出も拭い去られた。
遠慮するハルカをムツキが連れて行く間、アルはときどきブラインドの間から外を確認していた。ムツキに三人で一緒に入ろうと言われたが、風呂の狭さと電話番をしなければならないと言って断った。二人が出てくると、アルは電話番を任せて入れ替わり、うんと熱いシャワーを浴びた。汚れと疲れを落とすと、やっとの思いできれいなシャツとスカートを身につけた。スナイパーライフルにありったけの弾丸を詰めて、それぞれが戦争でも始めるような大掛かりな荷造りをしていると、事務所の扉が軽くノックされた。
敵襲かと思って身構えたが、透き通るような女の声だった。低い吐息のような声で、ここが便利屋68の事務所かと尋ねてきた。
「どなたでしょうか?」アルは時を稼ぐつもりで聞き返した。ムツキとハルカが銃を構える。返事は分かっていた。
「陸八魔アルだな、分かってるよ」その声が言った。アルはその声が、扉のすぐそばで話していると分かった。「私だ、ブラックライシスだ」その名前は、扉の隙間に耳をやって聞こえるか聞こえないかぐらいのかすかな声だった。
アルは扉の向こう側では、どんな光景が展開されているかと、全神経を集中させて聞き耳を立てて待った。一人だろうか?他の仲間が冷酷に銃を構えていたりしないだろうか?それともブラックリスタを連れて、交渉に来てくれたのだろうか?
「もしもし」その声は言った。「怪しむのも仕方ない。だが信じてほしい。私はアスにたてついた。私もアルと同じように追われる身だよ」困ったような声だった。
「後生だから信じてくれ。私は自分で言ったことに嘘はつかない性格なんだ」
この一言にアルはぴんときた。ヘルメットライダー団のアジトでも同じことを言っていた。それにしても、ちょっとできない賭けだが、アルは肚を決めた。
「ブラックライシス、もし私たちを裏切ろうというなら、あなたを捕まえて、もしかするとひどい目に遭わすわよ。一人で来たの?」
「ああ」女は言った。「間違いなく一人だ」
アルは後ろの二人に振り返った。ムツキはやれやれと肩をすくめてみせた。ハルカも銃を抱えたままだが、臨戦態勢は解いた。
「開けるわよ」アルが言った。
扉が開いた。ブラックライシスは両手を頭くらいの位置まで上げていて、入ると鞄を置いて、扉の錠を閉めた。
ライシスは黒の動きやすそうなスーツを着ていた。手袋をはめた手はだらんと下げていたし、発電所での猟奇的な目はどこにもなかった。
彼女は黒髪の間から、さっとアルの目を見た。
「ありがとう。本当に信じてくれてありがとう。アルや皆にとってはきっと大変なことだっただろう」ライシスはアルに言われるまま、来客用のソファに腰を下ろした。
「信じてよかったわ」アルはこの女の謎を掴もうと考えながら、応対用のソファに座った。
「この事務所に逃げおおせるまでに誰かに見られたか?」
「私の知っている範囲では、見つかってなかったけど」アルはそう言った。彼女の目は少しやわらいだ。「あなたの方は?発電所から逃げ出す間に何かあったの?」
「アスはあの後追い返したよ。あいつの早撃ちは見事だったけど、接近してしまえばこちらのものだった。私は空手の稽古をしているんだ。互角の勝負だったが、そのうちに弾数が心配になったのか、捨て台詞を吐いて逃げ帰った。私はその後身を隠そうと、発電所を飛び出した。アスがブラックスターの仲間に報告してしまえば、きっと始末のために誰かが寄こされると思ったんだ。その時に発電所を囲っていたのが、ヘルメットライダー団の部下たちと気づいたときは驚いたよ。私も含めて、皆奴らの手玉に取られていたんだ。とにかく発電所の近くに停めたバイクに乗ってブラックマーケットを抜けて、ドラッグストアで湿布やらなんやらを買って、そしてここに来たんだ。生憎だが、今の手持ちはバイクとへそくりの金だけだ。でも結構ある。だからお金の面で皆のお荷物にはならないだろう」彼女の口元がにっこりした。「色々とすまなかった。私はアジトを潰されてから、ずっとブラックスターの言いなりにされていたんだ。抜け出せて良い気分だよ」
渡された袋の中には、湿布や消毒液などの救急用品が入っていた。アルは笑顔で言った。
「おあいこよ。私たちもあいつに騙されて、あなたたちのアジトを襲ってしまったし。でも発電所で、あなたは私たちの命を助けてくれた。ところで、あなたはこの後はどうするの?」アルは気になっていたことを聞いた。
「ああ、実は、行く当てがないんだ。アジトは知っての通り瓦礫の山だし、仲間は未だに奴らの手先のままだ。そこで少々無理な頼みになるんだが、私をしばらく匿って貰えないだろうか。私も役に立つ。あいつらの秘密はよく知っている。アルの仲間がどこにいるかも分かる」
アルはじっとライシスの目を見た。彼女の目つきは本物のように思えた。頭の中はぐるぐる回っていた。ハルカは心配そうにこちらを見る。やがてアルは背もたれに身を倒すと、仕方なく鼻で一息をついた。どうせ招き入れてしまったんだ。時計を見た。二本の針がちょうど十二に重なった。
「良いわ。なら第一に、少し寝て体を休めないとね。あなたも一風呂浴びて、そしたら交代で見張りをしながら寝ましょう。今晩中は警戒した方がよさそうだしね」あっさり申し出が通ったことで、きょとんとしているライシスを見て、アルは付け加えた。「ごらんの通り一緒なんだし、少なくともブラックスターを倒すまではお互い困ったもの同士よ。助け合うのがアウトローってものでしょ?難しいことを言っても仕方ないわ」アルはにやりとした。「それに、私たちの仲間になるってことは、あなたも便利屋68の一員だし、そのように振舞わなければならないわ。さしずめ臨時社員ってところね」
ライシスは笑った。何も言わずに、万事任せるといった様子だった。
「さて、日が登ったら、いよいよカヨコを助けに行くわよ。その前に英気を養っておかなきゃいけない。あなたも行っておいで」洗面所に姿を消す彼女にアルは言った。
ドアが閉まると、ムツキは嬉しそうに笑った。
「良かったの、アルちゃん?」
「あの子のことは別に心配することもないわ。ほら、早く寝る準備をするわよ」
満月の光が少しずつ部屋に差し込むに連れて、アルは敷布団に座る社員三人を見た。ライシスは臨時のため、今はカヨコの寝間着を着せている。今はムツキやハルカと情報交換をしていた。
「皆、決戦に備えて早いとこ寝てしまいましょう。最初は私が見張りをしておくから、三十分経ったらムツキを起こすわ。もう三十分経ったら、ハルカ。そしてライシスの順よ」
全員が布団に入ると、アルはスナイパーライフルを抱えて、眠気覚ましのコーヒーを一杯作った。布団からは、早くもムツキの規則正しいリズムの寝息が聞こえてきた。ライシスは目を閉じると姿勢を正したまま静かになった。アルはライシスの寝顔をしばらく観察していた。
良かれ悪しかれ、彼女はブラックライシスを引き受けたのだった。あるいは、彼女の憧れるアウトロー流の言い方をすれば、せいぜい利用することにしたのである。聞きたいことは山ほどあるが、今はその時間じゃない。差しあたっての彼女の関心事は、ブラックスターに与える次の打撃のことだった。特にブラックリスタ、彼女の自惚れをくじくには、どこが一番効果があるか、といったことだった。
ブラックライシスについても、ただの女として、話している分には面白いし、すでに仲間としてこっちの陣営に引き込んで、親近感すら持っているのは喜んでいいことだと思った。
アルの考え事は、布団の擦れる音で遮られた。ライシスが布団の中でもぞもぞ動くと、真ん中のムツキに背を向けるように少し寝返りを打った。慣れない環境のためか、寝付けないようだった。小さな声で言う。
「どうしたの?寒い?」
「いや、大丈夫だよ。ただ、こうして誰かと一緒に寝るのは久しぶりだから」
「アジトでは一人だったのね」
ちょっと沈黙。やがて囁くように言う。「大丈夫よ……あなたも私の社員たちの一人だもの……一緒にいるうちは寂しい思いはさせないわ……社長である私が保証するから」
「今はゆっくり寝なさい……すぐに代わらなきゃいけなくなるから」
「そう、分かった」静かな返事だった。「なあ。これが終わっても、仲間と呼んでくれるか?」
「当たり前よ」
「約束してほしい、約束してくれないと、私は、寝られそうにない。今までそう言って、私の周りから皆去っていったから」
アルは破れかぶれで言った。「もちろん約束するわ。おやすみライシス」
ライシスは勝ち誇ったように、声を殺して言った。「約束したんだからな。それじゃおやすみ」
「おやすみ、ライシス」