アルの肩を掴んだ掴み方は、ただ事ではなかった。すぐにアルは立ち上がった。
ハルカが激しい声で囁いた。「アル様、電話です!ブラックスターから電話が来てます!きっと交渉の話ですよ!」
ムツキも目を覚ました。心配そうに言う。「どうしたの?」
黒電話の受話器は、ライシスが取っていた。口を横一文字につぐんでいる。
アルは言った。「ハルカ、ライシス、ありがとう。後は私が引き受けるわ」すぐさまライシスのそばによると、受話器を受け取った。
「もしもし」
「陸八魔アルだな」あの低い声が聞こえた。
「おはよう。アスから話はすっかり聞いたよ。どうもお前たちはしぶとく生き延びる術を持っているらしいな。それに幸運の持ち主でもあるようだ」
アルはお世辞を言われても全く嬉しくなかった。適当に返事を返すと、向こうもそれを感じ取ったようだった。
「鉛筆と紙はあるか。いいか、耳をかっぽじってよく聞くんだ。仲間はスワンで合流できるようにしてやる。スワン空港だ。キヴォトス中心街からは、三十分ごとにシャトルバスが出ている。それに乗ってこい。空港に着いたら──いいか、このところをよく聞いておくんだぞ──正午きっかりに、空港内のラウンジスペースの、傘が立っている丸テーブルの真ん中のやつに行くんだ。分かったな?」
「ええ」
「そこの席でお前の仲間とこちらの仲間が座っている。お前は空いている一つの席に座って、私の仲間にディスクを渡すんだ。その場でディスクに妙な細工がされていないか確認する。言っておくが、こちらは機械技術に精通した奴を送る。いたずらを出来ると思うなよ。聞こえてるか?」
「ええ」
「ディスクの確認が終われば、お前と仲間は開放してやる。二人で席を立ったら振り向かずに空港を出るんだ。分かったな?復唱してみろ」
アルは言われた通りに復唱した。
「よし」電話口の女は言った。「妙な真似はするなよ。それにしゃべるな。我々も騒ぎは起こしたくない。それではな」
受話器を切る音。アルは受話器を置くと、考え込みながら速記したメモに視線を落とした。では、すでにもう、奴らと対等な交渉の立場に上がることができたのだ──ばーんと上がることが出来た。しかも向こうからやってきてくれるとは。アルは突然のメッセージを運んできた受話器を見た。朝日を受けて黒く白く光っているだけだった。しかしいま、数多の関門を潜り抜けて、アルは大きく一歩を踏み出したのだ。
「どうだった?」一番に聞いてきたのは、やはりムツキだった。ブラックスターとの短いやり取りの結果を知りたいというのは、この事務所にいる全員が同じに違いない。アルは全員を呼び集めると、はやる気持ちを抑えて、真剣な表情で切り出した。
「皆、ブラックスターが交渉の針に釣られたわ。今日の正午にスワン空港で、カヨコとディスクを交換することになったの」アルは一つも忘れない話を共有した。
ライシスは驚いたようだった。「スワン空港だって?」アルを問いただす。「なんてこった。そこは奴らの根城だ」
アルは問い返した。「どういう事?」
「奴らの潜伏している基地はスワン空港の地下にある。空港の修繕にブラックリスタは融資を出しているし、そこの株も持ってる。基地の責任者も懐柔しているんだろうな。一角を借りるくらい造作もないことだよ。基地は地下深くに作られていて、滑走路の真下まで伸びているんだ。だが、大切なのは、スワン空港はブラックスターの便宜が効きやすい所ってことだ。奴らの手中、罠に飛び込むようなものになる」
ライシスはため息をついた。考え考え髪をかく。「それにしても──」やっと彼女は口を開いた。「ブラックスター相手に一人で立ち向かうなんて、危険極まりない話だ。シャトルバスに乗って空港まで一緒に行くだけでも、こっちも危険になる。そんな相手だよ」
「そうね。でも、ここまできたらやるしかないわ」アルの決意は固かった。
「ライシスちゃん、ひょっとして怖くなっちゃった?」
「おい、ムツキ、君たちと一緒に仕事をしたいという気持ちは分かっているはずだろう」ライシスは真顔で言った。「だが、危険だということを伝えておきたかったんだ。確かにに奴らは鼻持ちならん
ムツキは軽く伸びをした。時計は六時だ。ここまで何事もなく一晩を明かせたことに、アルは感謝した。昼が山場だ。何が起こっても大丈夫なように、丹念な準備をしなければならない。
アルはすでに動き出せそうだったハルカとライシスに、朝食をうんと買ってくるよう伝えると、洗面所で顔を洗った。交代とはいえ、きちんと睡眠をとれたことで元気横溢している。ブラインドは全開にして朝日をたっぷり取り込むと、ムツキの動き回る音が聞こえた。大きく目を見開いて、鏡に映る自分の顔を見ると、クローゼットの所へ行き、いつもの白いシャツとスカート、羽織るためのコートを取った。ムツキは所持している着物を積み上げて、姿見の前で一枚一枚体に当ててみていた。今着ているのは、二つボタンのスーツだった。腿の辺りまでの短いズボンと一緒に着るやつだ。「それがいいわ」とアルは声をかけた。
ムツキはいたずらっぽい笑みで振り返ると、口に手を当てて笑った。「アルちゃんはいつも通り堂々としていけばいいけど、私はバレないように動いた方が良さそうだしさ。そうだ、アルちゃんネクタイ結んでよ!」
「いいわよ」アルは側に寄ると、白いシャツだけ着たムツキの首元へ手を回した。ムツキは笑顔で頭を上げている。自分の方が手先が器用なのに、私に頼むなんてどうしたのかしら。アルは赤いネクタイを結びながら、あと数時間でやってくる最大の勝負にそわそわしてるのだろうという結論にたどり着いた。
「ありがと!それじゃお礼にアルちゃんにも何かしてあげよっかな。マニキュアとかどう?」
アルはくすくす笑って言った。「こらムツキ。何も戦場にマニキュアは必要ないわよ。カヨコが見たらなんて言うか分からないわ」
着替えを済ませると、ハルカとブラックライシスが帰ってきて、そこからしばらくはコンビニのパンやらおにぎりを食べた。普段の食生活では考えられないくらい、豪勢な朝食だが腹持ちは頼もしくなりそうだった。
「ライシスは何を食べるの?」
「ああ、フライドチキンにマフィンとホットコーヒーを一杯で」
「また朝食にしては、えらくごついものを平らげるわね」
「一番精がつくんだよ」ライシスは平気な顔で言った。
朝食が済むと、便利屋の三人は久しぶりのまともな食事に満足したようだった。ここにカヨコがいればどんなに良かったか。金に糸目はつけないようハルカに伝えたが、帰ってきた後の事は考えないようにした。
「あの、アル様」ハルカはすまなそうに言った。「すみませんが、この後どうするか考えを話してもらえませんか?ライシスさんと二人で話したんですが、何だかさっぱり分からなくて」
「自分でも分からないわよ」アルは自分のコップにお茶を注いだ。「ただ、このまま奴らの言う通りに交換するつもりはないわ。カヨコを取り返すのは大前提だけど、危険なディスクを奴らに手に入れさせるわけにもいかない」
「少しいい?」ムツキが言った。「アルちゃんには交渉に向かってもらうとして、私とライシスちゃんは別の手段で空港に忍び込もうと思ってるんだ。何よりライシスちゃんは顔が割れちゃってるしね。ハルカちゃんはアルちゃんの側で守ってあげてて」
ムツキが親指を上げてハルカに向ける。ハルカは緊張しながらも大役を仰せつかった。「任せてください。アル様に近づく敵は全員ぶっ殺しますから……」
「空港でそれはやめてちょうだい」
ムツキはぐっとお茶を飲み干すと、アルの方を促すように見つめていた。
「それで、二人はどうするの?」アルは尋ねた。
「私とライシスちゃんは裏口から空港に入る。ライシスちゃんはそこで分かれて、従業員しか入れない通路を巡回して貰おうと思ってるんだ。ブラックスターが私たちに内緒で何かするなら、そこしかないと思う。それから交渉テーブルが良く見える二階の通路から、何かおかしな事がないか見張ってて貰おうかな。その方が安心でしょ?私はテーブルの近くに座って、正体がばれないように待機してるよ。新聞とか雑誌が必要かな。ディスクの確認のために電子機器を持ち込むつもりなら、こっちにも考えがあるよ。電波を飛ばせる機械が必要だけどね。とにかくこっちはアルちゃんとハルカちゃんを影からサポートしておくよ。他に伝えておくことはある?」
アルの決心はついていた。
「よし」アルは言った。「私とハルカは電話にあった通り、シャトルバスに乗って空港へ向かうわ。約束の一時間前くらいに着くように向かうわ。それまでに空港の地図を確認しておかないとね。あとは弾薬をありったけ詰めて持っていけば大丈夫よ。絶対にカヨコを取り返して見せるわ」
アルは一息ついて言った。「そうそう、それから飛行機への対抗手段がいるわ。吸着地雷に色々な導火線をつけてくれないかしら」