ブラックレイジはフルーツがグラスのふちにささったジュースをのんびり飲んでいた。室内にも関わらずスクエアのサングラスをして、正体を隠そうとする俳優のようだった。カヨコの前には紅茶が置かれていたが、全く手が付けられてなかった。足音に気づいたのか、肩が少し上がるのが見えた。
アルはカヨコの右側からテーブルに近づくと、座ったカヨコと目が合った。たまらず名前を呼ぶと、固くなっていたカヨコの顔が安心したためか少し緩んだ。ようやく会えた。正確な時間で言えば一日半ぶりの再開だが、アルには十年来の再開のように感じられた。カヨコの肩に手を伸ばす。
「触らないで」
冷たい声だった。驚いて手を引くと、カヨコはこちらを見つめたまま続けた。「感圧版が仕込んである。少しでも重さが変われば、椅子の下の爆弾が起動する仕掛けになってる」カヨコは事務的な口調で続けた。アルには、ブラックスターに言わされているように聞こえた。仲間に言われる方が効果がある、と考えたのだろう。どこまでも狡猾なやり口だった。
「カヨコ。絶対に助けるから」
アルはそう宣言すると、席についた。カヨコは頷いたが、すぐに口をつぐんでしまう。ここからはアルの勝負だった。銃撃戦が日常茶飯事のキヴォトスでは、珍しい舌戦だ。人海の中の孤島で行われる決闘だ!アルはムツキのように口が上手い方ではないと自覚していたが、それでもやるしかなかった。
ブラックレイジはオレンジを少しかじると、残った身から果汁を絞ってジュースに注いだ。皮がくっつくまで折ると、そのまま飲み物の中に入れて、ストローで残りを一気に飲み干した。グラスから残った水滴を啜る音が一瞬鳴ると、ようやくストローをくわえていた口を開いた。
「君たちには一杯食わされたよ。おかげで大変な手間がかかった。わざわざ空港へ呼んだりして、おまけにこんな火薬庫みたいな場所に放り込まれるしね」八つ当たりをするように、ぱっぱっと言葉を吐いた。「じゃ、早いとこ終わらせようか」その濃茶の目は怒ったように、ぎらぎらとアルをにらんでいた。「ディスクは持ってきたかい?」
「ええ」アルは頷いた。「なら、早く」
「その前に言いたいことがあるわ」
アルはきっぱりと言った。レイジもカヨコも思わずアルを見た。「この会話はブラックリスタに聞こえてるの?」
レイジの片眼が一瞬だがぎらりと光った。だがすぐに元の濁った泥のような目に戻った。
「聞こえてるよ。私の持っているマイクから、会話の音声を拾って聞こえるようにしている。もっとも向こうからは私にしか話しかけられないけどね」
レイジは見破られたといった具合に、両手を広げてみせた。焦っている様子はなかった。アルはブラックレイジを見ると、マイクの先にいるであろうブラックリスタに話すように言った。
「ライシスがあなたたちの計画をすべて暴露してくれたわ。海上要塞とか物騒な話は色々あったけど、特に気に入らないのはあなたのやり口よ。仲間に危険を押し付けて自分は安全な場所から見ているだけ。部下は自由意志じゃなく、洗脳して無理やりこき使っている。確かにビジネスでは成功したかもしれないけれど、それ以外はまったく最悪ね。同じ組織の長として言わせてもらうけど、あなたリーダーに向いてないわよ。オアとの輝かしい過去があったみたいだけど、オアならこんなせこい事をしなくても組織を動かせていた。あなたはオアもどきのちんぴらよ」
アルは身を乗り出しそうになる勢いで、言ってやりたかった事を全部吐き出すと、すっきりして席に腰をおろした。レイジのマイクの向こうで、舌打ちをするリスタの姿が想像できた。だが目の前のブラックレイジは、自分に向けられた言葉ではなかったことから、つまらなそうに氷をかき回していた。話し終えた事に気づくと、無言で人差し指を曲げて「ディスクを寄こせ」の合図をする。
アルはポケットからディスクを取り出した。銀色の面がアルの鋭い表情を映していた。手渡しでレイジの手が受け取ると、グラスを避けてノートパソコンをテーブルに出した。
キーボードを次々に打つ軽い音だけが、三人の間に流れた。パソコンを操作する間も、ブラックレイジはときどき目線を上にしてアルの姿を観察していた。アルは特に気にせずカヨコを見ると、安心させるためににやりと笑って見せた。カヨコは微笑みで返してくれた。嫌いな上司が目の前で仕事をしている現場に呼ばれた友達同士のようなやり取りだった。
やがてデータの安全確認が済んだようで、ブラックレイジは一度ため息をついた。キーボードで素早く何とかと入力した後に、エンターキーを強く叩くと腕を組んで背もたれに寄りかかった。目はずっと画面を睨んでいる。
そばに座って雑誌を読んでいたムツキは、もぞもぞして座り直すと流れるような手つきでテーブルに置いたスマホの上部をブラックレイジのパソコンに向けた。
腕を組んでいたブラックレイジの眉間に突然しわが寄ると、腕が伸びてまた何か短く操作し始めた。アルはその瞬間を見逃さなかった。
「待ちなさい」ぴしゃりとした声で言った。パソコンを操作していた手が止まる。「何をしているの?データが無事か確認するだけで、そんな時間はかからないはずよ。データをリスタの所へ送信しようとしてないかしら。そんなことはさせないわ。こちらは約束を守ったのだから、今度はそっちが約束を守る番よ。カヨコを開放しなさい」
ブラックレイジは間を置いてから、エンターキーを強く叩いて腕組みをする。少し待つと、今度はさっきよりも早く腕組みが解けて舌打ちが洩れた。アルは作戦が上手くいった事でにやけそうになるのを堪えて、鋭い表情のままレイジを見た。心の中では、妙案を思いついたムツキに感謝をしたいくらいだった。電子妨害は驚くほど効き目があった。
「……リスタ、データはあったが送信できない。どうすればいい」ここで初めてレイジはリスタに小声で話しかけた。表情を読み取らせまいとしていた顔に、汗がつたった。足がせわしなく動いているのを、ムツキは見逃さなかった。
「アルちゃん……あいつかなり焦ってるよ……」ぼそぼそ声で話す。アルにとってはうれしい知らせだった。確認はできないが、おそらく今レイジはリスタとの通信が途切れている。これも全てムツキの電子妨害装置の賜物だった。ブラックレイジはこの空港で完全に孤立していた。この機を生かさない手はなかった。
「どうしたの?何かあったの?」アルは不思議そうに──オークション会場で彼女が哀れなスパング氏にやったように──レイジの顔を覗いた。口元が固く結ばれていた。「ねえ──いい加減にしなさいよ。何とか言ったらどうなの?データを持ってるのはあなただし、それをここに持ってきたのは私よ。カヨコは関係ない。だから、早くカヨコを開放しなさい」今度は鬼気迫る声で言ってやった。カヨコは横目で、滅多に見られない毅然とした態度のアルを見ていた。
ブラックレイジは右手を額にやると、ため息をついた。一度小さくブラックリスタの名を呼んだが、やはり返事はないようだった。レイジの顔は今では若干青くなっていた。
「ブラックレイジ。これ以上手間をかけるようなら、考えがあるわ。私の仲間がパソコンに狙いをつけてる。三数える間に、カヨコを開放しないとパソコンを破壊してやるわ──私は本気よ」
ブラックライシスは二階から交渉の様子を眺めていた。ライシスの位置からはレイジの後頭部と、アル、カヨコの顔が見えた。おそらく自分がその役目だろうと察知すると、隠していた拳銃に手をかける。
ブラックレイジはとうとう顔を上げて、自分をこんな風に追い込んだアルの目を睨んだ。アルは少し肩をすくめた。レイジの目線がカヨコに向くと、俯いて独り言のように数字を一つずつ喋った。カヨコが体に括りつけられたダイヤルに十三桁の数字を入力すると、椅子の下から何かの鍵が外れる音がした。
カヨコはダイヤルを外すと、立ち上がった。アルに何から伝えるべきか少し迷っているようだったが、アルは次の場面に備えてカヨコをなるべく避難させなければならなかった。
「カヨコ、お互い言いたい事はたくさんあるけれど、今はハルカとここを離れて。大丈夫よ、必ず何とかするから」
優しい声で話すと、カヨコは察したようで無言で頷いた。代わりに目で短く感謝を伝えると、一歩下がった場所で待機していたハルカに連れられて、爆発寸前の火薬庫を後にした。
テーブルにはアルとブラックレイジだけが残った。相変わらず通信は繋がらないようで、レイジはどう動くべきか迷っていた。アルは再び彼女に声をかけ始めた。
「あなたを助ける仲間はいない。頼みの生体電流も、これだけ大勢の人がいては分からないはず。最後に良い事を教えてあげるわ。
レイジはがっくりとうなだれていた。アルは少しも心は痛まなかった。後は目の前のディスクを破壊すれば目論見は途絶える。アルは全員ヴァルキューレにしょっぴいてやろうと考えていた。こういう奴らは一度叩きのめしても、すぐに復活する草の根だ。いたちごっこだ。牢屋に押し込んでおくより他に良い手立てはなかった。
「分かった、分かったよ」顎に汗を流しながら、彼女は降参したように両手を挙げた。一瞬だが注意がわきにそれた。何を見たんだ?
「しかし全く」レイジは言った。「こんなことになるとは思わなかったな」
一瞬で辺りが真っ暗になった。
ここで、彼女は全神経をこわばらせた。群衆のざわざわした声が、明かりと共に消えていった。この後どんな騒ぎになるかは分かっていた。
「ムツキ」アルはそっと呼んだが、ムツキも困惑しているようだった。
しまった!アルは思った。
テーブルの向こうで椅子を引く音が聞こえると、アルは直感でテーブルを思い切り蹴とばした。椅子は背もたれから倒れて、グラスは地面で割れると氷をぶちまけた。レイジとパソコンはすでに消えていた。そこからは地獄のような騒ぎになった。
「明かりをつけろ!」誰かが叫んだが、すぐに群衆の悲鳴に飲み込まれる。アルはムツキの腕を取ると、走り出した。群衆に紛れてその場を離れようとした時、ヘルメットライダー団の一人が、「あいつらを逃がすな、捕まえろ」と叫んだのが耳に入った。自動小銃の弾丸が、ばらばらとアルの座っていたテーブルの辺りを叩いた。すぐにパニックの群衆がアルとムツキの姿を隠してくれた。
階下からバンバン、ダダダッという銃声が鳴りやまぬ中で、ブラックライシスは暗闇の群衆を跳び越えていく影を見逃さなかった。あちこちに動き回る人々を押しのけて、ブラックレイジを追う。どうせ暗闇に目が慣れるまでは、誰に突き飛ばされても一緒だと思った。二階通路を駆けていくと、目の前に一階から跳びあがってきたレイジが着地してきた。
二十メートル先に向けて、ブラックライシスは追跡の足を止めもしなかった。片手をすっと拳銃にやると、ちらっと狙いをつける。銅色の弾丸の列がうなりを上げて宙を飛んだ。その先頭が、狙い違わずレイジのうなじに当たった。声も立てずに、彼女は通路へ横に倒れた。ライシスは飛び上がると、右手でレイジの方に、拳銃を金槌のように振って殴りかかった。レイジは肩をすくめて、杖に電流を流す。杖はライシスのあばらの辺りに当たったのだが、宙を飛んできた勢いで、杖はレイジの手から飛んだ。通路にからんという音がした。ライシスの拳銃はパソコンを捉えた。内臓が麻痺したが、このくらいでは勢いは落ちなかった。唸りを上げて振り下ろすと、グリップが薄い板にめりこんで、細かいガラスが割れる音がした。ライシスはまだ襲い掛かる。またがって胸倉をつかむと、レイジを持ち上げて肚の辺りをがっしり抑えて逃げられなくする。腰をありったけ反らせると、レイジの後頭部が強く通路に叩きつけられた。最後の短い悲鳴を上げて、大きなあまり響かない鐘をついたような音がすると、ブラックレイジは動かなくなった。腕を開放して、立ち上がって見てみた。
ブラックレイジは死にかかっていた。仰向けに大の字になっている。縞のネクタイは、ぐちゃぐちゃに曲がって顔に垂れていた。ライシスは何も感じなかった。パソコンがないかと周りを探ると、手元の辺りにひび割れたパソコンが落ちていた。中にはディスクが込められているだろう。拳銃をベルトに戻すと、割れたパソコンを手に取った。
膝で半分に折ると、ディスクをほじくり出す。まだディスクは無事なままだった。ライシスはディスクを右手で持つと、右手に目いっぱいの力を込めて握り潰そうとした。
気が付いた時には、全身が異常な力で強張った。ディスクを持った右手が動かずに、指の間からするりと抜け落ちて軽い音を立てる。首が痙攣しながら反り返った。全身の筋肉という筋肉が結び目のように浮き上がって、手足の指には関節が白くなるほどの力が込められた。口がだらしなく開くが、呼吸が出来ず声も出せなかった。脇腹の辺りに強く押し付けられた固い棒は、ライシスを逃がすまいと絶えず高圧の電流を流し続ける。数十秒経つと、酸欠で意識が遠くなってきた。電流を流していた棒が離れると、ライシスは膝からくずおれた。頭はぐったりと垂れていたが、全身はまだ節々が痙攣していた。
ライシスが瞼を震わせながら開くと、床に落ちていたディスクが拾い上げられた。ディスクの拾い主はしゃがむと、こちらの顔を覗き込んだ。翡翠色の瞳が軽蔑するように見ていた。ライシスは床にうつぶせになりながら、いよいよ死の一撃だぞ、と考えた。だが打撃は来なかったし、ライシスのくらくらする目に、ブラックリスタが通路を歩いて人だかりの中に消えてゆく姿が見えた。