悪夢のような出来事から一夜が明けた。メグレ公園は広大なゲヘナ校区の中にオアシスのように存在する自然豊かな場所の一つだった。公園の中心から全体に向けて枝を広げる広葉樹は艶の良い若葉をはためかせている。それを少し離れた位置から箱型に刈られたバラの苗が囲うように植えられていた。
日夜銃火と混沌の渦巻くゲヘナでは、草木や花なんてすぐ灰になっては生徒たちの器官に引っかかることで一矢報いる事しか出来ないくだらない自然物といった認識しかされていなかったが、シャーレに先生が着任して以来その認識も少しずつだが改善されていた。この公園も少し前までは再開発用資材置場という空き地だったものをシャーレが買い取って美化委員会が管理することで、現在では有り余る休日を有意義に消化しようと企む一部のゲヘナ生徒のたまり場になっていた。
メグレ公園に沿う通りを歩いて5分のところに現在の便利屋68のオフィスは構えられていた。二階に収まっているオフィスはようやく新居特有の輝かしい化粧が剥がれ始めて、日常生活が板につき始める頃だった。社長椅子に収まって天井のしみ一点を見つめるアルの表情は珍しく厳しい。ここ数時間の記憶が目まぐるしく浮かんでは、目を休めるためにより深く座り込んでため息をつく。かれこれ二時間ほど同じことを続けていたアルは、ハルカが淹れてくれたお茶にもほとんど手をつけていなかった。これもまた珍しいことだった。誰も座ってない来客用と応対用の向かい合うソファの側で、ハルカは立ったり座ったりを繰り返していた。深刻なアルの姿を見て、かける声が見当たらずしどろもどろしていた。
埃っぽい瓦礫の中で足を押さえつけられた状態でアルは目を覚ました。全身の痛みに耐えながら上へ這い出て最初に見たのは、灰色に埋め尽くされた地上だった。大地震か何かによって有り余る建物が壊され尽くしたように感じられた。先程まで存在した文明の無残な姿の上で、アルは魂を抜き取られたように途方に暮れてしまった。ハルカの暴走で建物がなくなるのはいつものことだったが、今回の被害はその比ではなかった。ひどい有様だ!やがて騙されたことへのショックから、気を失う直前の記憶が蘇り始めると、アルは気が動転したように周りを警戒することなく、大声で仲間の名前を呼び始めた。返事はなかった。何度呼びかけても、声は暗い世界に虚しく吸い込まれていくだけだった。
内蔵まで抉られそうな孤独の寂しさ。目の奥にこみ上げるもの。アルは訳もわからず散らばった瓦礫を闇雲に避けて仲間の姿を探した。キヴォトス人は頑丈だからこんなことで死ぬはずがない、と自分に必死に言い聞かせた。その虚勢も時間が経つに連れて崩れていく。仲間どころか誰の気配もないことが不気味だったし、呼びかけに答えてくれればもう誰でも良いとさえ思ってしまっていた。
そんなアルの悲痛な願いに答えたのは重い石が小さな砂利を踏んだ音だった。ボウリング球ぐらいの岩が転がる音でアルは振り返った。岩を転がしていたのは地面から生えるように伸びた白い腕だった。前腕は切り傷と赤黒いあざが付いており、アルには死体が這い出てくる直前のようにも思えた。構うもんか!藁でも掴むように手を掴むと、見覚えのある紫の服の端が見えた。手の主が誰だかすぐに分かると、アルは不慣れな力仕事にかかった。
ハルカの顔を出すと続けて上体が持ち上がった。ハルカは小柄なムツキを守るように抱きかかえる形で埋まっていた。最初のアルの呼びかけにムツキは答えなかったが、完全に地上へ引っ張りだされると意識を取り戻して口の中の砂を吐き出した。
カヨコの姿だけはなかった。アルは自分が小道具(とんでもない、大道具だ!)にかかってからの経緯を二人から聞くと、卒倒しそうな激しい目眩に襲われた。
その後はどう行動するかで三人はかなり迷った。真っ先に出てきたのは先生を頼るという案だ。提案したのはムツキだった。良からぬことを企む敵組織によるカヨコの誘拐。もはや先生に応援を頼むのが最善策だというのがムツキの言い分だった。
だがアルはこの提案を拒否した。先生は今はゲヘナとトリニティという二大校を巻き込んだエデン条約の混乱の処理で追われている。シャーレもこの件でてんやわんやしているし、これ以上負担を増やしたくないという気持ちがあった。
その後、結局考えはまとまらず夜が遅かったこともあって、一旦オフィスに戻り立て直すことで一致した。油断したら消えてしまいそうなくらい細長い三日月は、今では雲膜から離れて仄かに帰り道を照らしていた。とぼとぼとオフィスに戻る間、三人はほとんど口を聞かなかった。
そしてオフィスに戻り、悪夢の一夜は明けた。ムツキは武器やら食料やらの買い出しに行くといって、それきり姿はなかった。心配したアルからのメールへの返信はいつもの楽天的な口調でのものだったが、アルにはそれが逆に不審に思えた。その心配もまたブラックスターの影響なのだろうか。
ゲッコウからのメッセージ──今思えば疑うべきだったこの罠──を真っ先に鵜呑みにしてしまったのは自分だ。大した裏取りをすることもなく仲間を危険にさらしたのは自分なんだ。最悪大切な仲間を失ってさえいたかもしれない。いや、実際に一人は未だに連絡がついていない。アルはこの事で激しく自分を責めていた。カヨコは何のために連れて行かれたんだろう?もし拷問を受けるようなことになっていたら、彼女は私を恨むだろうか。そうだ、少し調べれば罠なんて事は分かったはずだった。これではまるで小説の典型的なトラブルメーカーだ!出来ることなら、いや、カヨコに何か危害が及ぶことがあれば絶対に自分が代わってやる。この馬鹿につける薬になれば何だって構わない。ここでアルははっとして一過性の否定的な考えを追いやった。もう少しで自己否定の連鎖に落ちるところだった!
アルは背もたれから体を離すと、ぐっとお茶を一飲みした。ここでうだうだしていても仕方がない!
「ハルカ、ムツキを探しに行きましょ。それからカヨコを助ける方法を考えるわよ。いつまでもこんな感じじゃいけないわ!」
ハルカはアルの気迫に驚いたものの、いつもの調子に戻った彼女を見て安心したようだった。目に敬愛の色が浮かぶと勢いよく立ち上がり、畏れながらもアルの机の前へ向かう。
「は、はい!どこまでもアル様にお供します!」
「決まったわね。それじゃ早速」
くぐもったコツンという音で話の腰は折られた。音のした扉の方を見ると、赤い小さな七つの四角が付いた大きな白封筒の頭が郵便受けから見えた。なんて間の悪いやつだ!文句を言いそうになりながら角形二号の封筒を取り出すと机に持っていく。表の住所から裏の送付人まで特徴のない印刷文字だった。慣れた手つきでカッターナイフを滑らせて開封すると、片面だけの書類が二枚出てきた。一枚は型通りの見積書、もう一枚は時間がない中で作成したような簡素な手紙だった。
便利屋68
突然の連絡と書面での挨拶で失礼する。
私はブラックマーケットのユニバーサル兵器運用会社幹部のMとする。(イニシャルなのはプライバシー保護のため容赦願いたい)
この書簡の内容を簡潔に申し上げると、今夜ブラックマーケットで開かれるオークションの護衛を依頼したいというものだ。以下、詳細を記す。
私たちが欲しいのは、このオークションで出品される予定のマイクロディスクだ。何のディスクかはいずれ分かるだろうが、これにはある新兵器に関わる情報が秘められている。それが何なのかは我々にも分からない。一つ確かなのは、このディスクの元の持ち主がカイザーであるということだけだ。このディスクは後日出品される予定のもう一枚のディスクと照合することで初めて意味をなす。この特徴のため主催のお蔵の中で長いことくすぶっていたのだが、二枚目が手に入る目途が立ったため遂にオークションにかけられることとなった。そのうちの一枚でカイザーが所持していたものが今回出品されるのだ。
ところで今回の依頼がこのような急なものとなってしまったのは、主催側が急遽オークションの前倒しを決めたためだ。しかも今朝のまだ出勤すらしていない時間にこの前倒しが決まったのだ。主催側でなんらかの心変わりがあったことは確実だが、いずれにせよ依頼が緊急のものとなってしまったことを代わりに詫びよう。
依頼に答えて頂けるならば、今夜の十九時に会社本部まで来て欲しい。会場までは車で移動する。そこから品を手に入れて会場から出る間の護衛が主な業務内容だ。
もし予定が付かないなどの理由で引き受けられない場合、早急にこの書類は処分願いたい。