会場は一瞬、しーんとなった。司会のあわてたような声が、静けさを破った。
「一億五千万!」爆発のようなどよめきがあがった。「一気に跳ね上がりました!一億五千万です!」
スパング氏はあっけにとられたようだったが、我に返るとすぐに切り返した。「二億に上げる」「二億五千万」「なら三億」「三億五千万」金額の応酬に混じって、ざわざわ言う声。遠くの方でオークションを見物していた客が隣と頭を近づけて何か話していた。辺りの視線は常識外れの金額を言い放つ少女に集まっていた。
スパング氏は今ではすっかり焦っていた。「よかろう。やろう。まさかあんたのような少女に尻を叩かれるとは思わなかったな。どうもそっちは中々の資金があるようだが、一か八かそいつを潰してみよう。五億だ」
女は座ったままスパング氏の顔を見ようともしなかった。アルには彼女の横顔がはっきり見えた。帽子の下からのぞく髪は黒だが、目は濁ったような茶色だった。「そうだなあ──十億」
このコールに続く沈黙に続いて、立ち上がった女の姿を見たアルははっとした。白いシャツにサスペンダー、そして持ち手の曲がった杖。名刺を盗んだ相手に違いなかった。
「なんだって?」スパング氏はびっくりしたような声で言うと、あわてて念のため自分の軍資金を側に座っていた部下に確認した。
「このぬいぐるみに十億を出そうというのか?」酔っぱらったような事を言う相手を怪訝そうに見て尋ねた。
アルは動かなかった。アル自身の顔は無表情だったが、驚きを隠すように組んだ腕を掴む手は汗を握っていた。彼女はまるで怖いような気持ちで、このやり取りを見守っていた。女の資金は無限にあるように見えた。スパング氏には手痛い罰が待っているだろう──この会場で決して逃げることのできない罰だ。
スパング氏は非常に悩んでいた。今までこうした場で勝ちまくってきた体裁があるだけに、このまま勝負を続けるのも降りるのも叶わないようだった。可哀そうに──アルは他人事のように考えていた。やがてスパング氏は長い葛藤の末に、詰まるようにしながらやっと声を出した。「ならば十五億」
「二十億」
スパング氏はとうとう黙りこくってしまった。
今、女はゆっくりと頭を上げて、帽子の作る影越しにスパング氏を不思議そうに眺めていた。スパング氏は視線に気づくと、しょんぼりして席に座ってしまった。その瞬間、これ以上勝負を続けても無駄だと悟ってしまったのだ。女の目がそう言っているのだ。降参するよりしようがないのだった。
他の誰かが声を上げないか確認するより早く、司会は木槌を激しく叩いた。勝負は決したのだ。
女はゆっくり立ち上がった。椅子から離れて立つと、片手で帽子のつばを押さえる。彼女は周りに向き直り、「どうも」とだけ言いながら、口元だけに笑みを浮かべて一同の顔を眺めた。口元以外は一切笑ってはいなかった。
舞台に向かう間に、会場のあちこちから小さく話す声がした。この突然現れて一人の大富豪を打倒した少女の噂が、いろんな方向に飛び回っている。Mもあっけにとられていた。舞台に上がると、司会が支払能力の調査をしようとするのを押さえて一枚のカードを取り出した。舞台袖からポーターが持ってきた読み取り機に差し込むと、あっという間に支払いを終えてぬいぐるみを手に取る。一瞬アルの顔を見ると、さっさと舞台袖へ入っていった。
アルは今のドラマを感心したように見ていた。彼女は鮮やかにスパング氏を負かして去っていったのだ。件のスパング氏は、すっかり肩を落としている。周りから何か同情に近いことを言われてたが、耳に入ってないようだった。あの様子じゃ、当分は戻らないわね。
「珍しいこともあるもんだなあ」Mはなんてことないといった調子だった「スパングさんに競り合って勝つなんて、これは貴重なものが見れましたね。今までもああやって立ち向かう蛮勇はいましたが、今日ほど完璧に叩き潰されたのは初めてでしょうね」
確かに最初の勇ましい感じでは、負けることなど微塵も考えていないようだった。きっと今日の出来事は、彼にとって汚点のように残るだろう。ところで彼女は一体何者なんだ?会場にいる誰も見たことがないようだった。新参だろうか。あれだけ噂話が盛り上がってたのだから、きっとそうだろう。カードの電子送金でスマートに支払いを終える辺りも、現金しか信用しない富豪たちを批判しているようだった。やたら小道具を携えているのも特徴的だった。
「それでは次はいよいよ──」
いきなり、あの女が怪しく思え始めた。なぜ彼女は舞台袖に消える前に私を見たんだ?名刺を盗んだのも、おそらく彼女だ。どうして?こういう場ならスパング氏やMのように、面と向かって話しかければいい。数少ないキヴォトス人同士、こんなやり方をする必要はない。本人に知られずに身元を確認したかったのか。彼女はずっとアルに注目しているようだった。
何か重大なものを見落としている気がして、アルはぞっとした。
「──次は本日の目玉となる──」
全身が震える。言い終えるより先に、ハルカに護衛を任せると、返事も待たずに立ち上がり、Mの何とかいう問いかけに応えもせず足早に会場後方を通り抜けて舞台袖へ向かった。その間に舞台と駐車場に丹念に目をやる。アルの目についたのは、舞台を守る数人の屈強な機械人たちだけだった。会場でのもめごとだけは避けたかった。ついてきたムツキに駐車場を見張るように言うと、急いで非常口へ向かった。さらに足取りを早める。
非常口の扉に手をかけるが動かなかった。扉には鍵がかけられている。
様子に気づいたポーターの一人が近づいてきた。
「何かお困りでしょうか?」
アルは手短に、舞台袖から非常口は繋がってるかを聞いた。ポーターはにこやかに、確かに繋がっていると答えた。
アルは非常口を開けるよう頼んだが、非常時以外は施錠しているとしか答えない。地上に出るなら駐車場から上がるしかなかった。
罵りの言葉が出そうになるのを堪えて、駐車場へ走る。非常口から少し離れた辺りで、舞台袖から悲鳴めいた声が聞こえ、発砲音も聞こえてきた。続けて断続的な発砲音があがると、甲虫めいた体格の機械人が影から勢いよくスポットライトの中に飛び出してきた。白く磨かれた装甲が割れて、前方に座っていた客席までまき散らす。
倒れ込んだ機械人の顔面が、砂嵐のように荒々しい音を立てていた──今まさに壊れようとしているテレビのようだった。
会場はいきなりパニックになった。慌てて席から飛び出すと、それぞれの護衛に守られるようにして一目散に駐車場へ走っていく。一瞬で地下のオークション会場は走り回る人たちでいっぱいになり、警備員たちが一斉に銃器を展開した。ほとんどの客が駐車場へ流れ込んでいて、車の荒々しい唸り声が次々に聞こえ始めてもすぐには動けずにいた。クラクションがやかましく叫ぶと、開いた人波の間を出入口のゲート目指して突き進み始める。Mもハルカに守られながら少しずつ車に近づいていた。
アルには、銃撃の犯人があの女だと分かっていた。人がはけた舞台に駆け上がると、銃を向けながら舞台袖を調べた。倒れたまま動かない機械人の周りを仲間がうろちょろしていた。
舞台袖に置かれた商品たちはすっかり床に散らばったりしていた。駆け寄ると、茶色のケースだけが開いており中身だけ取られている。鍵の金具は無理やり壊されていた。
やはりそうか!アルは自分の勘の良さを褒めたたえると、同時に運のなさを呪った。アルは、彼女はブラックスターの手先と信じて疑わなかった。急いで舞台袖に走ると、非常口を示す緑色の光が見えた。
足元にどこからか出てきた赤い光の線が触れると、舞台袖の暗闇が炎の一瞬の閃光でまぶしく照らし出され、すぐに恐ろしい熱風を受けてアルの体は舞台中央まで吹き飛ばされた。爆発音が響き渡り、人混みから来る悲鳴が一段高くなる。仰向けに倒れたアルは、舞台照明の裏──金網の足場の上にあの特徴的な杖を持っている、動く人影が見えた。
狙いも定まらないままスナイパーライフルを構えると、照明でほとんどの視界が遮られるのに気づいて、すぐに起き上がると足場を吊り下げているワイヤーの先に狙いをつけた。アルの顔のすぐ側でライフルが二回銃声を発した。ワイヤーが垂れていた天井もろとも崩すと、足場の片方が振り子の先のように降ってきて、重量のある金網が”ひゅん”と歌いながらアルの肩をかすめて床を引っ搔いた。
床が落ち始めるのに気づいた女は、すぐに金網の隙間に片手をかけると、そこにしがみついた。帽子が落ちないようにもう片方の手で支えている。
アルははっと息を飲むと、振り返って高い金網の壁の途中にぶら下がっている女を見た。
女は歯をむき出して、こちらを見下ろしながら笑っている。
「良いセンスだ。聞いていた通りだね」女の声はおどけたようだった。
声のした方向に警備員たちが一斉に銃を向けた。発砲音が聞こえると、女は手を放して金網を滑るように頭上五メートルはありそうな高さから飛び降りた。杖をライフルのように持つと、先から雷のような閃光が走って、次々と警備員に命中させる。皆痛ましい声を上げながら、回路が焼き切れたように倒れて動かなくなった。
女は静かに着地した。膝を柔らかく使うバレエのような優雅な着地だった。杖を元の持ち方に戻すと、濃茶色の目でアルが立ち上がるのを眺めていた。
「まさか本当に生き延びていたとは。聞いた通り、しぶといみたいだ」
「アルちゃん!」舞台下からムツキの声がすると、立て続けに唸る機関銃に反応してアルは後ろへ飛びのいた。
その瞬間、アルはにわかに信じがたいものを見た。
女が片足を軸にして駒のように回ると、弾を受け流すように手足で捌いていく。驚きで、思わず声が詰まってしまった。アルからは銃弾の雨が彼女を避けるように飛んでいるように見えた。ひとしきり銃弾を撃ち終えると、ムツキもさすがに驚きを隠せずに唖然としてしまう。女は一度深呼吸すると、腰をかがめて喜劇の終わりのようなお辞儀をした。
「電流はこの世で最も優れた武器なんだ。どんな銃弾よりも、空気の振動よりも、神経の信号よりも早く、極めて正確に動く」女は不敵な笑みを浮かべた。「そして全てを私に伝えてくれる。君たちも筋肉は電流で動くことは知っているね?生体電流は体の動きの全てを司っている。体は正直者なんだよ。私には電流の気持ちがよく分かる」
女は両手を大きく広げて、胸を張った。聖者が磔に処されたような体勢だった。
「私はブラックスターの刺客、ブラックレイジ。以後、よろしく」左手でズボンのポケットを探ると、小さな円盤を取り出した。「ディスクは私が預かったよ。これを確保して私達の首根っこを押さえるつもりだったかもしれないけど、そうはいかない」
アルはスナイパーライフルを構えたまま、押し黙ってしまった。ブラックレイジが狂気をはらんだ笑みを浮かべると、濃茶色の瞳が眩しく輝いた。
汽車のように一息しゅっと吐くと、微動だにしないままブラックレイジの影が頭上に消えた。照明が落ちて暗くなった天井を見上げると、一瞬膝を大きく曲げた姿勢で跳躍をしているのが見えた。銃口が上を向く。すでにレイジの姿はなかった。
すぐに首筋に冷たい何かが触れた。背後から静かな呼吸音も聞こえる。だがいつの間にか腕を取られていて、反射行動が出来なかった。
視界の端に杖の先が見えると、首筋にピリッと電流が走り、次に全身の筋肉が一斉に硬直した。肘がすごい力で勝手に曲がり、頭と肩はくっつきそうなほど引っ張られた。握力が入りっぱなしの手は汗が一気ににじみ、開こうにも開けない。口は歪んだ形で開いて、石のように固まった肺から空気が抜けていくが吸い込むことはできなかった。一定の間隔で強弱がついた苦悶の声が洩れる。足も両方つりそうだった。
冷たい杖が離れると電流地獄は止んだが、全身の神経がおかしくなってしまったようでアルは舞台にくずおれた。ムツキが何か言うと、また機関銃を撃ち始めたがアルは頭が麻痺してしまって何が何だが分からなかった。
今度はブラックレイジはムツキの正面に着地した。ムツキはすぐに後ろに飛びのきつつ、機関銃を乱射する。やはり当たらなかった。アルは無理やり体を起こすと、ふらふらした手でスナイパーライフルを構える。呼吸は荒くなっており、万全の態勢ではなかったがやれるだけやってやろうと思った。
会場から客はほとんどいなくなっていた。ハルカはMを地上まで送り届けられただろうか。そんなことが頭をよぎると、トリガーにかけた指に鞭打って力を込める。指は軽く痙攣して、気をつけないと引き金を勝手に引きそうだった。
ムツキは銃を放り出して、倒れた椅子を取り上げると四つの足をブラックレイジに向けた。レイジは少し距離を取って出方を窺う。威嚇するように椅子を突き出したりして、ムツキは少しずつ後ろに下がっていた。ここでアルは、ムツキがレイジの気を引いて狙いやすくしてくれているのに気づいた。今、ブラックレイジはアルに完全に背を向けている。「援護して」とムツキが言っているようだった。
トリガーを引くと、銃弾はレイジにまっすぐ飛んでいった。背中に突き立てるように刺さり爆発する。命中したかアルが確認しようとすると、火の中から椅子が転げるように出てきた。次には、ブラックレイジと腰の辺りに頭を埋めて取っ組み合いを仕掛けるムツキ。頭を押さえられると、ムツキは引きはがされて倒れ込む。アルはすかさずもう一発撃った。今度は視認されていたためか、その場でぱっと躱される。ムツキが片足を捕まえるが、大胆な跳躍についていけず振り落とされてしまう。幸いカーテンを掴んだため、ムツキは床に打ち付けられずに済んだ。
天井を睨むとブラックレイジは蝙蝠のようにあちこちに着地しては飛ぶを繰り返していた。アルは闇雲に連射した──しかしブラックレイジは身をひるがえし、明かりの届かない天井の闇に消えた。いずれにしても二十メートル以上離れている、高速で飛び回る保護色の相手を撃ち抜くのは容易ではない。熱くなった銃をアルが下すのと同時に、ブラックレイジの不気味な笑い声が響いた。アルは舞台の上から、逃げてゆく相手があげる笑い声が木霊になって消えていくのに耳を傾けた。
会場はすっかり静かになっていた。武器を回収したムツキが倒れた椅子やテーブルの間を歩いてくるのを、アルはぼんやりと眺めていた。地下の会場は硝煙の臭いが立ち込めていた。
アルは頭を左右に振った。一体奴はなんなんだ?十人にものぼる数の警備員が壊された。ブラックレイジはディスクを手に入れた後、すぐにでも非常口から逃げられたはずだ。舞台の上で一体何をしていたんだ?それにあの銃弾を躱す動きも尋常ではない。まるで悪夢だ!
ムツキは舞台に上がると、アルに駆け寄ろうとした。落ちた金網を見て、すぐに走り出した。
「アルちゃん、爆弾!」短い言葉で察したように、二人は舞台袖から非常口へ飛び込んだ。無我夢中で階段を駆け上がると、急に足が震える感覚がすると、下にいたムツキが浮き上がるようになり、地面が隆起したように出口の扉もろとも地上へ投げ出された。間髪入れず、トタン造りの倉庫がばらばらと崩れると、爆発の轟音が轟いた。
投げ出された二人は、しばらくそのまま動かなかった。アルは地上の冷たいすっきりした夜風が頬を撫でるのに任せていた。
呆然としているうちに、慌てた様子のハルカが走り寄って体を揺する。
はっと息を取り戻したのは、そのおかげだった。腕に力を入れて、やっとのことで上体を持ち上げると辺りを見まわした。
第一に目に入ったのは、埃を立てながら崩れている倉庫だったもの。地下会場への入口だった場所はくぼんで完全に埋まっている。今夜ここで起きていた一幕の証拠は何も残らなかったということだ。アルはムツキを叩き起こすと、ハルカの手を借りてやっとの思いで立ち上がった。まだ電流を流された首筋から肩に嫌な痺れが残っていたし、埃で目は赤くなっていただろう。
Mや他の客たちの姿はなかった。ハルカにそのことを尋ねると、なんとか地上に出た後Mたちは会社まで帰らせてハルカだけ残ったという事だった。ムツキも立ち上がる。幸い三人とも怪我はなかった。
だがディスクは奪われてしまった。アルが途方に暮れていると、ムツキが声をかけた。にやりとしながらポケットを探ると、銀色の小さな円盤を取り出したのだ。
「ムツキ!あなた、いつの間に!」
「ふっふーん、アルちゃんの攻撃が当たった時に取ったんだよ。なんとかバレずにすんで良かったけどね」
「さ、さすがですムツキ室長」
胸を撫で下ろすと、自然と次の行動は決まった。
「早くここから離れましょう。あいつがいつ気づくか分からないわ。その前にどこかに隠れないと……」
「近くに工場があるから、そこまで行こっか!後は朝になったら、あいつに交渉を持ち掛けるだけだね」
「そうね、早く行きましょ」
三人はまだ埃がたったままの瓦礫の中を、小走りで抜けていった。目指す方向には、城のような工場の黒い影が見えた。
今度は三人とも無事だ。作戦とはだいぶ異なったがディスクも無事手に入った。
「ああ」アルは不意に深い感謝を込めて言った。「まったく最高の夜ね!」