トレーナーの言葉に
トウカイテイオーも、駆けだした。
聞いてくれよ!
ああ、誰にって、そりゃあ君にさ!
君しかいないんだ、こんなボクの、心の叫びを聞いてくれるのは!
あんまりじゃないか?ひどいじゃないか?あの人――そう、ボクのトレーナーさ!あの人が何を言ったと思う?耳を疑ったよ、本気でね!
「テイオー、明日は予防接種だからな。朝イチで頼むぞ」
だってさ!
予防接種!
予防接種!!
予防接種だってぇ!?
聞こえたかい、ボクの今の言葉!
あの、鋭くて、冷たくて、ちくっとする、アレ!ボクがどれだけ、どれだけアレが苦手か、あの人は知っているはずなんだ!知っていて当然だ! ボクのトレーナーなんだから! それなのに、なんだい、あの他人行儀な口ぶりは!「朝イチで頼むぞ」だってぇ!?まるで、ニンジンを一本多くお皿に乗せるみたいに、簡単に言ってくれるじゃないか!
ボクはトウカイテイオーだぞ!
奇跡の復活を遂げた帝王だぞ!
ターフの上では誰にも負けないはずなんだ!
なのに、それなのに!あの小さな、小さな針一本に、こんなにも心が震えるなんて!恥ずかしい?ああ、そうかもしれないね!でも、怖いものは怖いんだ!理屈じゃないんだよ!
あの人は言うんだ。
「テイオーのためなんだ。病気になったら大変だろ? レースにも出られなくなるかもしれないんだぞ」
って。分かってるさ、そんなこと!ボクだってバカじゃない。健康が第一だってことくらい分かってる。でもね、でもだよ!ボクのこの、胸の奥で暴れる黒いモヤモヤは、どうしてくれるんだい?「テイオーのため」っていう言葉で、何もかも正当化されてたまるもんか!ボクの気持ちは、どこへ行っちゃうんだい!?
思い出しても身震いがする。小さい頃、まだトレセン学園に来る前だったかな。一度だけ、ひどい風邪をこじらせて、お医者さんに太っとい注射を打たれたことがあるんだ。痛くて、熱くて、涙が止まらなかった。その時の恐怖が、今でもありありと蘇るんだ。針が皮膚を突き破る、あの鈍い感触!液体が体に入ってくる、あの異物感!ああ、もうやめてくれ!思い出すだけでも鳥肌が立っちゃうよ!
「大丈夫、すぐ終わるから」
って、あの人はきっと明日も言うんだろうな。でもね、その「すぐ」が、ボクにとっては永遠みたいに長いんだ!まな板の上のコイってこういう気持ちなのかな?いや、ボクはコイじゃない、ウマ娘だ!帝王だ!なのに、どうしてこんな惨めな気持ちにならなきゃいけないんだ!
ハチミーを三杯飲んだって、この憂鬱は晴れやしない。マックイーンにだって、こんな弱音は吐けないよ。彼女ならきっと、
「何を甘えたことを言っているのですか、テイオー」
って、冷静に言い放つんだろうな。カイチョーだって、きっと涼しい顔で注射を受けるんだよ。シンボリルドルフだもん、あの人は。…ボクだけなのかな? ボクだけが、こんなに臆病で、情けなくて、注射の一本くらいで大騒ぎする、ちっぽけな存在なのかな?
違う!
断じて違うはずだ!ボクは特別なんだ!だから、この恐怖も特別なんだ!…なんてね、強がってみたって、膝はガクガク震えてる。
ああ、誰か、誰か助けてくれよ!明日の朝が来なければいいのに!時間が止まってしまえばいいのに!トレーナーが急に、「やっぱり注射はやめだ!」って言ってくれればいいのに! そんな奇跡、起きないって分かってる。分かってるから、苦しいんじゃないか!
あの人は、ボクを最強のウマ娘にするって言ってくれた。その言葉を信じて、ボクは何度も立ち上がってきた。あの人のためなら、どんな厳しいトレーニングだって耐えてみせる。
でも、注射は別だ!これは、これはボクの魂への冒涜だ!…なんて言ったら、大げさだって笑うかい?でも、ボクにとっては真剣なんだ!
もうどうすればいいんだか分からないよ!逃げ出したい。どこか遠くへ。注射針の届かない、安全な場所へ。でも、そんな場所、どこにもないんだろうな。
聞いてくれてありがとう。
少しだけ、ほんの少しだけ、胸のつかえが取れたような気がする。
でも、明日になったら、やっぱりボクは、あの冷たい診察室で、恐怖に震えるんだろうな。
それでも、ボクは…ボクは、トウカイテイオーだからね。
…ああ、やっぱり嫌だ!
嫌だ
嫌だ!
嫌だ!!
誰か、トレーナーを説得してよぉ!