TSウミガメのスープ 作:AJT
まぶたの裏が、じんわりと明るくなる。
意識がぼやけながらも浮上してきて、やがて視界が、霞のように薄く開いていく。
最初に気づいたのは、自分の寝息の音が妙に高いということだった。
それから、身体が重たいような、違和感のような、得体の知れない感覚がつきまとっている。
薄いカーテンが、朝の光をやんわりと透かしている。窓の位置、部屋の家具。見慣れたものばかりだ。
だけど、全てがほんのわずかに違うように思えた。
僕は――
(……いや、“私”は……)
喉元で引っかかるような思考に、無意識のうちに眉を寄せていた。
ベッドの上、起き上がろうとした瞬間、重力のかかり方がおかしいことに気づく。胸元に、今までにない重量感がある。長い髪が頬をくすぐり、肩にかかっている。
息を呑んで、手を伸ばす。スカートの裾が、自分の太ももに触れた。
ベッドの脇の姿見に映った“自分”は、どう見ても、女の子だった。
頬をつねる。柔らかい。瞬きをする。長く整った睫毛。目元と口元に、どこか自分の面影があるような気がして、むしろ状況の異常さを引き立てていた。
「……え?」
その声さえ、知らない誰かのもののように、耳に反響した。
自分の脳が自分の発声に対応しきれていない。だが確かに、あれは“私”の声だった。
頭が割れそうに痛い。混乱している。これは夢? 悪い冗談?
どれも現実味がないが、すべての感覚は明瞭すぎるほど明瞭だった。
(待て……落ち着け。とにかく、なにか説明が……)
そのとき、脳の奥に焼き付けられるような感覚と共に、声がした。
『ある男は、目を覚ましたら女になっていた。なぜか?』
「…………は?」
唐突すぎる問いかけ。しかも、頭の中に直接響く。
(……これって、“ウミガメのスープ”の出題……? いや、なんで、こんなタイミングで?)
まるでゲームの冒頭のように、すべての状況が“提示”されただけで、説明は皆無だった。
混乱のまま、私は問いを口にした。
「……男の性別を変えたのは、薬か何かですか?」
『NO』
即答だった。
そして、次の瞬間、また脳内に焼き付くようにして別の文字列が浮かぶ。
『次の質問可能まで4時間』
「は……? はああっ⁉」
叫びそうになるが、声は喉で詰まった。
……何が起きてる? 4時間?
答えが出る前に、現実が私を飲み込みに来る。
私は鏡の中の“誰か”を、ただ呆然と見つめ続けていた。
『次の質問可能まで4時間』
その声が、脳の内側で燃えるように焼き付いたまま、消えない。
皮肉なことに、この“クールタイム”が、私の混乱にささやかな落ち着きを与えていた。だって、そうだろう。これは夢でも幻覚でもない。ルールがある。制約がある。つまりこれは、“ゲーム”のようでいて、現実だ。
私は鏡の前で、ゆっくりと深呼吸した。
動悸が、胸を圧迫する。なにより、その“胸”の存在が、呼吸のたびに違和感として主張してくる。
肌の質感。指先の細さ。喉元に触れても、喉仏はなく――そのすべてが、今や疑いようもなく“女”の身体であることを証明していた。
それでも。
制服に袖を通さないわけにはいかなかった。
ぎこちなくリボンを結び、スカートのファスナーを上げる。中学の家庭科で一度だけやったことのある動作の、なにかひどく手順化された版を、手探りで繰り返す。
そして鞄を持ち、足元のローファーを履いて玄関の扉を開いた。
朝の光が、容赦なく降り注いでいた。
◆
「おはよー蒼!」
登校路で振り返ったのは、楓だった。
ウルフカットの髪が朝日にきらめいて、私に手を振っている。まるで、昨日となんにも変わらない。
……そう、何もおかしいとは思っていない顔だった。
「……お、おはよう、楓」
ひとつ息を整えてから応えると、楓は私のすぐ横に並んできた。少し顔を覗き込むようにして、にやっと笑う。
「今日はちょっとメイク変えた? かわいくなったじゃん」
その言葉に、私は呼吸が止まりそうになる。
変わっている。確かに変わっている。なのに、それがメイクの違いとしか認識されていない。
つまり――この世界では、私が女であることは“当然の前提”として存在している。
(昨日までの私……“男の私”を覚えているのは、私だけ?)
周囲を見渡す。
いつもの通学路、いつもの制服、いつものクラスメイト。
誰一人として、「違和感」を抱いているようには見えない。
鳥肌が立つ。
自分だけが、違う時間軸に存在しているような気分。
いや――違う、“答え”を知ってしまった観客のような立場に追いやられている。
◆
学校に着いても、状況は変わらなかった。
クラスメイトたちは、笑い、話しかけ、席を並べる。男子も女子も、いつも通り。
「蒼ちゃん、昨日のレポート見せてくれない?」
「なにそれー、ズルー!」
普通だ。すべてが、普通だ。
だけど、私の内側だけが、異様に発熱している。
(……私だけ、変わってるの? でも、私の“中”には確かに“あの私”がいる……)
だが、それを説明する言葉も、信じてもらえる根拠もない。
そして、問いかけるべき“スープ”は、クールタイム中。あと3時間以上も残っている。
私はただ、笑顔をつくって、その中に沈んだ。
この世界に適応するしかない。“普通の女子高生”として。
でも。
(本当に、私だけが……?)
――その疑念は、静かに、だけど確かに、脳裏に芽吹いていた。
スープは、私ひとりだけに与えられたものなのか?
それとも、他にも、“解いている誰か”がいるのか――
⸻
ミステリ研究会の部室は、どこか書斎めいた静けさに包まれていた。窓からは斜陽が差し込み、壁際のスチール本棚には乱雑に並んだ文庫と古びた雑誌が積まれている。空気はほこりっぽく、コーヒーと紙の匂いが混ざったような、学校の他のどことも違うにおいがした。
楓は、窓際の椅子に脚を組んで座り、スマホをいじっていた。
長く伸ばしたロングウルフの髪が頬にかかるたび、彼女は無意識にそれを耳にかける。鋭い目つきのわりに、どこか猫のように緩慢で、気だるげな仕草。
これが三嶋楓という人間の、デフォルトのテンポだった。
「……楓。ちょっと、話があるんだけど」
呼びかけると、彼女はスマホから視線を上げた。
そのまま、私をじっと見て、そして言った。
「なんか、告白前みたいな空気してんね。何かあった?」
……一瞬、本当に心臓が止まりかけた。
「なんで、いきなり……?」
「さっきからずっと蒼の言葉選びと声色が不自然だったから。あと、その座り方も、目線の落とし方も、なんか変。意識して“女の子のふるまい”してるって感じがする」
……楓は、時々とんでもなく勘が鋭い。
ミステリ研の部員としてというより、そういう生き物として生まれてきたような、異質な嗅覚を持っている。
「……そう。朝起きたら、女になってた」
私は、座っていた机の角に手をついて、静かにそう告げた。
楓はしばらく私を見つめ、それから「ふぅん」とだけ言って、スマホをポケットにしまった。
「それで? 世界はどう変わった?」
「……誰も、私が男だったことを覚えてない。親も、先生も、クラスメイトも。唯一、自分だけが覚えてるっていうのが……いちばん怖い」
「うん、それはSFというよりホラーの構造だね。記憶と実在がずれる恐怖。世界から存在を上書きされるような感じ」
「……じゃあ、ホラーとして笑い飛ばしてくれたら楽だったんだけど。問題は、これがただの現象じゃないってこと。
朝、目が覚めたとき、頭の中に“出題”された。“ある男は目を覚ましたら女になっていた。なぜか?”って」
そう言った瞬間、楓の目が明確に輝きを帯びた。
「ウミガメのスープか。水平思考推理ゲーム――あの、“YES/NOで答えられる質問を重ねて、真相を導くやつ”ってことだよね?」
「そう。しかも、私が答えを導くまで、“質問→待機時間”の制約付きで、脳内に常駐してる。思考するたびに、返される。まるで……」
「……まるで、なにかの物語みたいだね」
楓は椅子を軋ませながら、立ち上がると、本棚から一冊の本を抜き出した。
表紙は擦り切れていたが、金文字でこうあった。『ソクラテスの弁明』
「ねぇ、ソクラテスって“産婆術”って言葉使ってたの知ってる? “人間の魂の中にある真理を引き出すには、問いかけが必要だ”って。彼は答えを与えなかった。問いを繰り返すことで、相手自身に気づかせようとした」
「……それと、スープが?」
「質問しないと何もわからない。でも、答えは、すでに“ある”。スープって、“強制的に哲学させるゲーム”なんだよ。
で――今、蒼はその“内なるソクラテス”に出題されてるってわけだ。面白いじゃん、めちゃくちゃ」
楓の目は冗談めかしていたけれど、その奥にあるのはまぎれもない真剣さだった。
彼女は私を疑っていない。狂ったとも思っていない。
「面白いから首を突っ込む」という楓の態度は、誰かを傷つけない。彼女なりの誠実さなのだ。
「……じゃあ、信じてくれるの?」
「うん。信じるというか――私も知りたい。“なぜ、女になったのか”。
あと、質問のクールタイムって、どれくらい?」
「今のところ、最初は4時間。そのあと、質問を間違えるごとに変化していってるみたい」
「ふーん……なら、効率のいい質問と情報整理が必要だね。いい? 蒼、あんたはもう、探偵なんだよ。不可視の殺人事件の。これは、推理ゲームで、人生の選択肢で、たぶん……物語の構造そのものなんだから」
楓は私の目を真っすぐに見て言った。
その視線は、決して軽くない。
そして私は思い出した。最初に楓がこの部室で言ったことを。
『事件の本質は、死体じゃなくて動機。人間の中にある、“なぜ”が好きなんだよ、私は』
今、私はまさにその“なぜ”のただ中にいる。
そして楓は、そこに手を伸ばしてくれる数少ない人間だった。
それは、昼休みの終わりごろのことだった。
私は購買のパンを手に教室へ戻ろうとしていたが、その途中、不意に頭の奥が「揺れた」ような感覚にとらわれた。
次の瞬間――
『ある男は、毎朝起きるたびに“鏡に映る自分に文句を言う”のが日課だった。なぜか?』
脳の奥、言葉でも音でもない、“意味”そのものが直接流れ込んでくる。
それは明らかに、あの“出題”だった。
(また……きた)
身体が冷たくなる。思わず教室のドア前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。
(今回は、軽い? いや、ちょっと意味がわからない……)
正直、何か陰惨な出来事を想像して構えていた分、肩透かしを食らったような気持ちだった。
放課後、私は急いでミステリ研の部室へ向かった。
既に楓はいつもの席にいて、机の上に謎解きアンソロジーとチョコバーを並べていた。
「また来た?」
「うん。今回は、ちょっと変化球っぽい」
私は机に座り、パンの袋を雑に置いた。口の中にほのかなジャムの甘さが残っているけど、それどころじゃない。
「“ある男は、毎朝起きるたびに鏡に映る自分に文句を言うのが日課だった。なぜか?”って」
楓は瞬きひとつせずにこちらを見た。その視線は真剣だ。少し間を置いて、彼女は口を開く。
「まず確認。……その“文句”って、ネガティブなもの?たとえば、“お前はダメなやつだ”とか」
楓の質問を脳内で復唱する。
『YES』
「YESだって」
「なるほど。じゃあ次、その男は“自分”に向けて話しかけてる……つまり他人じゃなく、あくまで“鏡の自分”に対して?」
『YES』
「これもYES」
「よし。次、その行動にはルールがある?つまり、ランダムじゃなくて、毎日続けてるのは目的や意味があって?」
『YES』
「YES」
楓は頷き、ポケットからスマホを取り出す。検索するかと思いきや、画面にメモを開いて指で条件を並べ始めた。
理詰めで構造を削っていくのが、彼女の癖だ。
「次。男は精神的な病気、たとえば解離性同一性障害とか、そういう可能性はある?」
『NO』
「NOだって」
「よし、それなら自己否定が目的じゃない。じゃあ次にいこう。
……その“文句を言う”のは独り言としてやってる?それとも、誰かに見せるため?」
『YES』
「YES……独り言としてやってる、のほうかな」
楓の目がわずかに細まった。
「つまり、“自分に対して文句を言う”って行動には、なんらかの練習や儀式的な意味があるかも。じゃあ、こう聞く。
“その行動は職業に関連してる?”」
『YES』
「YESだ……」
蒼は息を呑んだ。
確信に近づいている気がした。楓の思考の速さと鋭さには、改めて舌を巻く。
「なら……彼の職業は、人と接する職業?たとえば接客とか、教育とか?」
『YES』
「YES」
彼女は頷いた。指がメモ画面を滑る。
「もしかして、理容師とか……美容師? 朝、鏡を使って自分で練習するって、ありがちじゃない?」
『YES』
「……YES」
その瞬間、頭の奥で重たい音が鳴った。
『正解:男は美容師で、自分の髪を使って毎朝ヘアセットの練習をしていた。鏡に向かって文句を言っていたのは、その出来栄えに納得がいかなかったから。』
体内に鐘のような振動が響いた。どこか空洞になったような感覚と、そこへぴたりと嵌るような満足感。
そのまま答えを伝えると、楓がにやりと笑った。
「ね。ロジックでいけるでしょ、こういうの」
「……本当に凄いね、何者?」
「“スープマニア”、ってとこ?」
冗談めかして言う彼女の横顔は、どこか誇らしげで、でも少しだけ楽しげだった。