レモン   作:灯火011

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レモン

 曇天の鉛色によく似た色が、私の心にはずっと張り付いていた。足首の鈍い痛みと同じように、じっとりと、そして確実に。

 

 三冠、皇帝を超える。

 

 そう信じて疑わなかった未来は、あっけなく崩れ去った。ターフの歓声は、今はただ遠い世界の響きに聞こえる。自分の脚は、もうかつてのように動かない。そう思うたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 

 トレーニングルームの明るさも、チームメイトたちの屈託のない笑顔も、今の私にはまぶしすぎた。

 痛む脚を引きずって歩くたびに、視線が集まるような気がして、それがたまらなく嫌だった。

 誰かの優しい言葉も、どこか上滑りしているように感じてしまう。

 

 ごめん、今はそっとしておいてほしいんだ。

 

 そう叫びたい気持ちを抑え込み、薄っぺらい笑顔を貼り付けるのが精一杯だった。

 

 リハビリメニューが積まれた机の上には、見たくもない自分の診断書が置いてある。そこには、かつての栄光のかけらも、未来への希望も何も書かれていない。

 ただ、数字と専門用語が並んでいるだけだ。それを見るたびに、まるで自分という存在そのものが、この無機質な紙切れに閉じ込められてしまったような気がした。

 

 そんなある日、気分転換に、といってもどこに行くあてもなく、学園の近くの商店街をぶらついていた。いつもは賑やかな通りも、私の目にはくすんで映る。美味しそうな匂いも、楽しそうな話し声も、遠い世界のことのように感じられた。

 

 ふと、小さな果物屋の前で立ち止まった。色とりどりの果物の中で、ひときわ鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。檸檬だ。

 

 なぜだろう。その鮮やかな黄色が、私の心を強く掴んだ。それは、この鉛色の世界には存在しないような、強烈な光の色だった。 

 

 まるで、遠い日のターフの上で見た、眩しい太陽の色みたいだ。

 

 檸檬を一つ手に取ってみる。ずっしりとした重みが、手のひらに伝わる。ひんやりとしていて、少しざらついた感触。

 鼻を近づけると、ツンとするような、でもどこか爽やかな香りがした。それは、消毒液の匂いや湿布薬の匂いに慣れてしまった私の鼻には、とても新鮮だった。

 

 だからだろう。衝動的に、それを一つ買った。スカートのポケットに入れると、その存在がじんわりと伝わってくる。

 それは、この淀んだ空気の中で、私だけが掴んだ、小さな異物のような気がした。

 

 部屋に戻り、机の上に買ってきた檸檬を置いた。転がらないように、そっと。

 

 その檸檬を、私はじっと見つめた。真ん丸ではなく、少し歪な形。表面には小さな傷がいくつかある。完璧じゃない。まるで、今の私みたいだ。でも、その黄色は、やっぱり鮮やかだった。

 

 ふと、悪戯心が芽生えた。あの診断書の上に、この檸檬を置いてみたらどうだろう?

 

 私は、積み重ねられたリハビリメニューと診断書の上に、そっと檸檬を乗せた。

 

 どうだ。

 

 まるで、仕掛けられた爆弾みたいじゃないか。

 

 無機質な紙の山の上に、鮮やかな黄色の爆弾。いつか、これを起爆させて、このつまらない現実を、この痛みを、この不安を、全部吹き飛ばしてしまいたい。そんな、荒唐無稽な考えが頭をよぎった。

 

 それは、決して現実になることのない、ただの妄想だ。わかっている。でも、そう考えている間だけは、ほんの少しだけ、心が軽くなったような気がした。

 

 檸檬の香りが、部屋の中にほんのり漂う。それは、希望の香りなのか、それとも皮肉の香りなのか。私にはわからなかった。

 

 ただ一つ言えるのは、この檸檬は、今の私にとって、この淀んだ世界の中で見つけた、唯一の鮮やかな色だということだ。

 そして、この小さな爆弾に、私はほんの少しだけ、未来への、あるいは現状打破への、歪んだ願いを託しているということだ。

 

 しばらくの間、私はその檸檬を、爆弾に見立てたまま、ぼんやりと眺めていた。 

 部屋には、私の呼吸音と、檸檬の香りだけがあった。それは、孤独な時間でありながら、どこか満たされているような、不思議な時間だった。

 

 この檸檬は、いつか爆発するのだろうか。

 

 それとも、ただ静かに、しなびていくだけなのだろうか。

 

 それは、誰にもわからない。でも、私は、この檸檬がここにある限り、まだ何かできることがあるかもしれない。そう思いたかった。

 

 檸檬は、相変わらず鮮やかな黄色で、そこに鎮座していた。まるで、私に何かを問いかけるように。

 

 あるいは、何も語らず、ただそこにあるだけのように。

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