レモン   作:灯火011

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奇跡の復活の、その後のひとかけら。


私のレモン

 師走の寒さをものともしない歓声が、まだ耳の奥に残響している。有マ記念。あの舞台で、私は確かに勝ったのだ。

 

 奇跡なんて言われたけれど、これは、私だけのものではない、皆で掴んだ勝利だ。トレーナーの涙、チームメイトの笑顔、スタンドを埋め尽くした沢山の顔。その全てが、今の私を支えている。

 

 取材や祝勝会の嵐が一段落し、ようやく自室で一人になれた時、深い安堵と共に、何かがふっと軽くなるのを感じた。重くのしかかっていたものが、全部溶けて消えたみたいだ。

 

 ベッドに寝転がり、天井を見上げる。かつて、この天井を見つめながら、どれだけ先の見えない不安に苛まれただろう。

 痛む脚をさすりながら、もう二度と走れないかもしれない、あの輝きを取り戻すことはできないかもしれないと、何度絶望しかけたことか。

 

 あの頃、私の部屋にはいつも鉛色の空が張り付いていた。心も、体も、何もかもがくすんで見えた。

 

 そんな時、私はあの檸檬を手にしたんだった。

 

 立ち上がり、机に向かう。かつて、あの診断書やリハビリメニューの上に、檸檬を乗せて「爆弾」に見立てた場所だ。

 今は、その机の上には、たくさんのファンレターや、有マ記念のゼッケン、そして真新しい優勝レイが置かれている。

 

 ふと、あの時の檸檬の感触を思い出した。ひんやりとしていて、ずっしりとした重み。鼻腔をくすぐる、あのツンとした香り。鮮やかな黄色。

 

 今の私なら、あの時の檸檬を、どんな気持ちで手に取るだろう?

 

 部屋を出て、近くの果物屋まで足を延ばした。師走の街はどこか気ぜわしいけれど、人々から放たれる賑やかな空気は、あの頃のように遠い世界の響きには聞こえない。むしろ、その活気が心地よかった。

 

 果物屋の店先に、見覚えのある鮮やかな黄色を見つけた。檸檬だ。

 

 一つ手に取る。あの時と同じ、ずっしりとした重みとひんやりした感触。少しざらついた皮の感触。そして、鼻腔をくすぐる、爽やかで、少しだけ切ない香り。

 

 おじさんに頼んで、あの時と同じように一つだけ包んでもらった。

 

 部屋に戻り、机の上を少し片付けて、買ってきたばかりの檸檬をそっと置いた。

 

 あの時と同じ場所。

 

 でも、その周りにあるものは、全く違う。診断書も、リハビリメニューもない。あるのは、勝利の証と、たくさんの人々の想いが詰まった品々だ。

 

 檸檬を見つめる。

 

 あの時、これは私の鬱屈した心を「爆発」させてくれる、起爆剤のようなものだと考えた。現状を吹き飛ばしたい、そんな衝動をこの小さな果実に託した。

 

 今、この檸檬は何に見えるだろう?

 

 爆弾?

 

 もう、違うだろう。

 

 あの時願った「爆発」は、別の形で、でも確かに起こったのだから。

 

 でも、この檸檬を見ると、あの鉛色の空の下で、痛む脚を抱えて一人だった自分を鮮明に思い出す。勝利の輝きの中にいても、あの苦しみを知っている自分が、確かに私の中にいるのだ。

 

 檸檬にそっと触れる。ひんやりとした感触は、あの時の孤独や不安を思い起こさせる。

 ずっしりとした重みは、乗り越えてきた日々の重さを物語っているようだ。

 そして、このツンとした香り。それは、清々しさだけじゃない。どこか、苦くて、切ない匂いも混じっている。

 

 この檸檬は、あの時、私が絶望の中で見つけた、ほんの一筋の光だったのかもしれない。あるいは、現状を打ち破りたいという、内なる衝動の塊だったのかもしれない。

 

 そして今、勝利を手にした私にとって、この檸檬は、あの苦しい日々が決して夢ではなかったこと、そして、その日々があったからこそ、今の自分がいることを静かに語りかけてくる存在だ。

 

 机の上の檸檬。それはもう爆弾ではない。

 

 でも、完全に過去のものになったわけでもない。勝利の輝きと、心の奥底に沈む痛みの記憶。その二つを繋ぐ、奇妙な接点のように、檸檬はそこにある。

 

 私はただ黙って、檸檬を見つめていた。

 

 部屋には、勝利の余韻と、静かな孤独、そして檸檬の香りが満ちていた。それは、祝福されているにも関わらず、どこか満たされない、複雑な空気だった。

 

 

 コンコン、と部屋のドアがノックされた。間もなく、遠慮のない声が響く。

 

「テイオー!入るよーっ!」

 

 返事をする間もなく、勢いよくドアが開いた。そこに立っていたのは、私のルームメイト、マヤノトップガンだった。ターフの上では激しく競り合っているライバルであり、学園では一番近くにいてくれる親友だ。

 

「テイオー!遅くなってゴメンね!すっごい人だかりでさー!でも、改めて、おっめでとーうっ!!!」

 

 マヤノは満面の笑顔で、パタパタと私の方へ駆け寄ってくる。その屈託のない明るさに、私の心に張り付いていた重い空気が、少しだけ和らいだ気がした。

 

「マヤノ!ありがとう。わざわざ」

「何言ってんの!ルームメイトのテイオーがすごいことしたんだもん!当然じゃん!」

 

 そう言って、マヤノは私の肩を軽く叩いた。その力の籠った祝福に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

 マヤノは部屋を見回し、散らかったファンレターやゼッケンを見て目を輝かせている。

 

「うわーっ!すごーい!やっぱりテイオーはテイオーだねぇ!すっごく愛されてる!」

 

 そう騒ぎながら、マヤノの視線が机の上に留まった。他の紙類や布物の上に、ぽつんと置かれた鮮やかな黄色。

 

「ん?なにこれ?」

 

 マヤノは首を傾げ、机の上の檸檬を指差した。

 

「へー!レモンだ!なんでレモンなんて置いてんの?まさか、疲労回復?風邪予防?それとも、もしかして…オシャレぇ~?」

 

 マヤノは立て続けに質問を浴びせてくる。悪気はない。ただ、見慣れないものが置いてあるのが気になっただけだろう。

 

 私は、マヤノの純粋な問いかけに、一瞬言葉に詰まった。この檸檬に込めた、あの時の鬱屈とした思い、そして今の複雑な感情。

 それを、この明るい親友にどう説明すればいいのだろう。

 

「うーん、まあ、ちょっとね…」

 

 曖昧に言葉を濁そうとしたけれど、マヤノは私の顔をじっと見つめている。

 その真っ直ぐな瞳に、私は少しだけ、本当の気持ちを話してみようかと思った。全てじゃなくても、ほんの一端だけでも。

 

「なんていうか……これはね、あの頃、ボクが……、うん、ボクがすごく辛くて、どうしようもないって思ってた時に、見つけたものなんだ」

 

 私の口から出た「あの頃」という言葉に、マヤノの表情が少しだけ曇る。彼女もまた、私が怪我で苦しんでいた時期を知っているからだ。

 

「辛かった時…?このレモンが?」

「うん……。これを見ると、あの時の自分を思い出すんだ。真っ暗な中に、これだけがすごく鮮やかな色に見えて……。変な話だけど、このレモンで全部、全部吹き飛んでほしいって願ってたんだ」

 

「吹き飛んでほしい?」

 

 マヤノはますます不思議そうな顔をする。

 私は、あの「爆弾」の話まではできなかった。ただ、「全部」という言葉に、当時の私の絶望の深さを込めたつもりだった。

 

「まあ、そんなことはさ、本当にできるわけないんだけどね。でも……これを見ると、あの時の私をちゃんと覚えていられる気がするんだ。あの苦しさがあったから、今、ここに立ててるんだって」

 

 私は、優勝レイとファンレターに挟まれた檸檬に目を落とした。

 

 鮮やかな黄色は、あの時と同じ。

 

 でも、それを見る私の心は、もう絶望だけじゃない。勝利の光と、乗り越えてきた影。その両方を抱きしめている。

 

 マヤノは黙って、私の言葉を聞いていた。そして、ふと優しい声で言った。

 

「そっか…テイオーは、すごいね」

 

 マヤノの瞳が、揺れているように見えた。彼女なりに、私の言葉の奥にあるものを感じ取ってくれたのだろうか。

 

「辛かった時も、ちゃんと覚えてるんだね。それが、今のテイオーを強くしてるんだね」

 

 そう言って、マヤノは机の上の檸檬にそっと指先で触れた。私と同じように、ひんやりとした感触を確かめるように。

 

「じゃあこのレモンは、テイオーのお守り、みたいなものなのかなもね」

 

 お守り。そう言われて、少し笑ってしまった。

 爆弾に見立てていたものを、お守りなんて。でも、もしかしたら、今はもう、そんな存在なのかもしれない。過去の苦難を忘れずに、未来へ進むためのお守り。

 

「ふふ、そうかもしれないね」

 

 私は、そう答えるのが精一杯だった。マヤノの無邪気な問いかけは、私の心の奥にある複雑な感情を、少しだけ溶かしてくれた気がした。

 

「そっかー!なんか、テイオーらしいや!よしっ、じゃあ、マヤ、ちょっとだけ片付け手伝っちゃおーかな!」

 

 マヤノは、先ほどの少し神妙な顔つきから一転、いつもの明るい笑顔に戻り、散らかったファンレターを手に取った。

 

「あ、いや、いいよ。大丈夫だから」

「いーのいーの!せっかく勝ったんだし、ルームメイトとして当然でしょ!」

 

 そう言いながら、マヤノは楽しそうに手紙を眺め始めた。私は、そんなマヤノの後ろ姿を見ながら、再び机の上の檸檬に目を向けた。

 

 

 マヤノはこの檸檬の本当の意味を、全て理解したわけではないだろう。

 

 でも、それでいい。彼女の明るさと優しさが、あの頃の私と今の私を繋ぐ、もう一つの光のように感じられた。

 

 檸檬は、静かにそこにある。

 

 それは過去の私、そして今の私を見守ってくれている、小さな相棒。

 

 爆弾でもなく、ただのお守りでもない。私だけが知っている、私だけの檸檬。

 

 私は、檸檬の香りを、もう一度深く吸い込んだ。

 

 勝利の余韻と、マヤノの笑い声、そして檸檬の香りが混ざり合い、私の部屋に新しい空気が満ちていくのを感じた。

 

それは清々しくもあり、どこか切なく、そして、とても温かい空気だった。

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