蒼穹の魔王 ~F-2乗りのクソバカエース、異世界にて絶望的劣勢を覆す~ 作:サークル『熊の巣穴』
央暦1969年5月31日
夷俘島 松後藩立屋岸総合病院
葦原国大和幕府空軍第1航空団『彰義隊』
志村“Chase”良介二等空尉
時刻は正午過ぎ。
日本の、数少ない故郷の残り香である腕時計で再確認。
今回は唯一の同郷人であり上官、
週一度の手紙と同封された写真で近況は把握していたが───
忘れてはいけない、葦原を支配する大和幕府は将軍が支配する独裁国家なのだ。
文面や写真に写る画角の外では、どんなことをされているかわかったものではない。
とはいえ、約束の時間は午後1時。
到着するにはまだ早過ぎた。
「まだ定刻には早過ぎますね。広間で待ちますか?」
今回もお目付役として同行している田中空軍歩兵が提案してくれるが───
せっかくのフリー。観光してみたいという気分が湧いてきた。
「……15分くらい、散歩して時間を潰そうかな?」
「では、お供します」
良介に女の子以外を連れ歩く趣味はないが、彼は監視する事が任務なのだ。
拒否権はないのだから、仕方がない。
大人しく田中空軍歩兵を伴い、一度病院を離れた。
日本と似ているようで、明らかに異なる景色の街並みを歩いていると、不意にエンジン音が遠くから響いた。
反射的に空を見上げる。
東の上空、戦闘機の4機編隊が雲を引きながら南へと向かっていた。
「あれは最近契約した合衆国の傭兵部隊ですね」
「へぇ……」
目を凝らしてみると、銀色のボディに特徴的な鼻と後退翼が目に入った。
先の船団を助けた時に戦った、旭光に見える。
彼らも葦原の機体に乗り換えたのだろうか。
「葦原の旭光と同じ機体?」
「厳密には、旭光はライセンス製造されたもの。あちらは合衆国製造の原型機、
タルワールになります」
タルワール───インドの剣がそんな名前をしていたはずだ。
そして、あの機体の外観はF-86セイバーに酷似している。
どうやら世界や技術が変わっても、人の発想は似通ってしまうもののようだ。
これはタルワールに限った話ではないが。
しかし、傭兵。
航空傭兵はこの世界では少数ながら、やはり普通の存在ではない。
イグルベ傭兵中隊は特殊例として、大多数は政府から送り込まれた事実上の特殊要員であるとされていた。
地球の歴史で表すなら、フライング・タイガースのような存在だ。
合衆国は大和幕府のみならず、葦原政府とも取引のある勢力だ。
隣国としてはどちらが勝ってもいいように、ギリギリの肩入れをしておきたいのだろうが───これはいささか度が過ぎているように思えた。
「っていうか、合衆国って政府側とも取引してるんだろう?
人員まで送って大丈夫なの?」
「それがですね……ここだけの話、志村二尉が果ての雲の飛行を
成功させて以来、状況が変わったようで」
ここで良介が話に関わってくるとは思わなかった。
合衆国の事情はエラに聞けば詳細を話してもらえるが、これは自分の将来に関わる話だ。
葦原側の情報も聞いておきたい。
「と言うと?」
「それは……」
話しながら病院の敷地沿いを歩いていたその時。
走る気配。
田中空軍歩兵と同時に視線をやると、そこには少女がいた。
ひと目見て、服装は一般人の範疇にあると見えた。
しかしその衣服に込められた意匠の数々は、明らかに職人の細やかな技術が込められている。
佇まいも単なる少女ではない。
拙く走る姿ですらどこか高貴な印象をまとい、気品がある。
つまり。
普通の人を装っているが、一般人のそれではない凄味を感じられたのだ。
彼女は良介と田中空軍歩兵の姿を見つけると、駆け寄ってきた。
「助けて下さい!」
ふたりの中でスイッチが入ったのがわかった。
彼女の背後には病院───あれはトイレの窓だろうか。
そこが開いたまま。
そして病院の正面出入り口からは、やはり只者ではなさそうな集団が駆け出てきた。
「自分が事情を尋ねてきます……」
そう言って、田中空軍歩兵は早足で彼らに向かっていく。
良介はその背中を見送っていたが、彼女は良介の袖を引いた。
「た、助けて」
声を荒げている訳ではない。
パニックを起こして怒鳴り散らしているわけではない。
一見冷静。
しかし彼女の瞳を見れば、心にある怯えが見えた。
良介が育った施設には、そんな感情を抱えている孤児が大勢いたのだ。
「……よし。逃げるか!」
「ひゃっ!」
決めればこの男は驚くほど行動が軽い。
驚くほど軽かった身体を抱えると、あまり走るのが得意でなさそうな彼女に代わって駆け出した。
「あーっ! 志村二尉っ、そのお方はっ……!」
「ごめん! すぐ戻るからさ!」
どうやらあの様子だと、軍の人間に手を出す類の組織ではないらしい。
服装も整った洋装で、チンピラの類とは違うように見える。
なら、田中空軍歩兵は安全だ。
街での逃げ足なら今も昔も速い。
普段の走り込みの成果か、あっという間に追っ手を振り切り。
適当な公園を見つけると、彼女をベンチに座らせた。
「ふぅ。久々に生身で鬼ごっこしたぞ……平気?」
「はい……でも。胸が、ドキドキしています」
苦しんでいる様子がないのならば、心拍数が増加しているだけだろう。
良介が率先して深呼吸をすると、彼女もそれに
その間、彼女の様子を確かめる。
歳の頃は───良介の半分、14歳くらいといったところか。
当然ながら守備範囲外である。
手当たり次第と評されるナンパ野郎の良介でも、子供を食い物にするほど腐ってはいない。
とはいえ、相手は清楚かつ高貴な雰囲気を纏う美少女。
良介があと10歳若ければ、口説いていたかもしれない。
下衆な分析は終了。
深呼吸を2、3回繰り返して呼吸を整えると。
改めて、良介は尋ねた。
「君、名前は?」
「名前……ありさ、です。その、春川ありさです」
葦原では姓を名乗れるのは武士のみ。
そして武家であっても、女性には適用されない。
一部豪商には姓を名乗ることを許されるパターンもあると歴史を取り扱った書籍にはあったが、ありさは例の内に入らない。
竜司と同じく、いわゆる姫武者というやつなのだろうか?
しかし、その場合男性名を名乗るような法則性を良介は感じていた。
姫武者に関してはまともな資料がないため、良介の知る実例から法則性を導き出すしかないのだ。
色々と疑問はあるが、とにかく。
目前の少女の名前はハッキリした。それが一番肝要である。
「ありさちゃんか……苗字が春川親王と同じなんだ」
「えっ⁈ そっ、そう。そうなんです」
あるいは、名前がそもそも偽名なのか?
この反応を見てそう分析したが───いちいち詰めるのもみっともない。
「俺は……」
こちらも自己紹介───少し待て。
───な、なんだよ。
お前は今、仮にも幕府軍から神輿に祭り上げられた状態だ。
気安く名乗ってしまっては、問題があるのではないか?
───確か、俺の名前はTACネームしか報道されてないはずだ……
なるほど。なら逆に、本名を名乗れば足がつかないはずだ。
そうすればよかろう。
───最初っからそうするつもりだったよ!
0.1秒で瞬時に判断すると、良介は口を開いた。
「俺は志村良介。よろしくね、ありさちゃん」
「はい、良介さん」
「で……行きたい場所は?」
「……わかりません。無我夢中で、逃げて来たので」
軽く休憩を挟むと、ふたりは歩き出した。
もとより土地勘のない場所だ。
ありさにも行くあてがないのならば、あてもなく歩き回るしかなかった。
ただ、人が多い方が色々と安全だろう。
そう考えた良介は、ガタンゴトンと車輪が鳴く駅の方角へと向かった。
その道中、ありさが尋ねた。
「その、良介さん」
「なに?」
「お尋ねにならないのですか? どうして追われていたのかを」
至極当然の疑問である。
人から、それも複数人から追われる状況など尋常でない事態である。
良介個人としても、好奇心から尋ねてみたい欲求はある。
しかし───
まず、ありさを追っていた連中を回想する。
整った衣服に、軍人には手を出さない立場。
装備は奉行所の同心や岡っ引き(そう、軍はあっても警察はいないのだ)には見えないが、それに近い立ち位置の人間だと見ていた。
一方で、ありさが過ちを犯すタイプには見えない。
身なりが整っていて、かつ拘束されていた気配もない。
なにより、奉行所の
病院に来るような怪我を負ったとすれば、逃げられる状態ではないだろう。
導き出した結論は、日常に飽き飽きしたお嬢様が逃げ出した。
というわけである。
彼女が抱えているであろう、怯えについては。
それは機を見て尋ねるか、本人の口から聞くべきだろう。
「デート中にしては、暗い話題だと思わない?」
というわけで、良介は話を逸らすことにした。
「で、でぇと?」
「うん。せっかくの機会だ、楽しもうよ」
ちょうど、ふたりは駅前の商店街にたどり着いた。
人がどっと増え、街の活気を全身に浴びた。
「で、でも……」
「ありさちゃん、お昼がまだなら奢るよ」
くぅ。
タイミングよく、小さな体が小さな音を鳴らした。
「おねがい、します……」
「よし来た」
内戦という情勢下ながら、夷俘島の食糧事情は意外にも逼迫していなかった。
これは夷俘島そのものの事情が影響していた。
既知の通り、夷俘島は元流刑地。
そして100年ほど前からは農地開拓のための植民が開始されていた。
地球の歴史であれば農地を開拓しても維持するのに多大な努力と技術が必要になるが、ここを錬金術がカバーしていた。
農地に向く土地と安定した気候、そして水があれば作物は順調に育つ。
夷俘島には必要な全てがあった。
こうして辺鄙な隅っこの土地はいつしか、葦原最大の食料生産地となっていたのだ。
冬天軍閥が侵攻を企図した理由であり、幕府が拠点を移す決め手であり、政府が無茶な侵攻を躊躇う理由でもあった。
ざっと商店街の看板を眺めていると、慣れ親しんだ文字が目に入った。
「おっ。ありさちゃん、お寿司はどう?」
「寿司、でございますか? でも……お下品では?」
「げ、下品って……寿司って下品かな?」
寿司といえば。
カウンター席しかなく、目前には新鮮なネタが並び。
『大将、2万くらいで適当に握ってくれ』
みたいな、ツウっぽい注文をするような店ではないのか。
当然回転寿司のような俗っぽいものは想像していない。
回転寿司は広い土地が必要になるのだ。
人混みを進んでいくと、良介の見つけた寿司屋は屋台だと気付いた。
そういえば、屋台の寿司を学校の教科書で読んだ事がある。
江戸時代ごろ、黎明期の寿司はこういったスタイルで供されていたはずだ。
「ありさちゃん、ここにしよう」
後ろをついて歩いていた彼女を振り返る。
街角で佇む、帽子をかぶった男が妙に気になったが───
「でも、手掴みなんて……」
「嫌なら別を考えるよ」
少しだけ、ありさは考えてから。
こくりと頷いた。
「ようし、じゃあ入ろう。ちわーす」
「お邪魔します……」
承諾を得た良介は暖簾をかき分けて店主と向き合った。
「……らっしゃい」
ぶっきらぼうな口調の店主が新聞を広げたまま、ふたりを出迎えた。
令和の現代であれば速攻で低評価爆撃を喰らいそうな接客態度だが、葦原ではぶっきらぼうな人間は珍しくない。
「うーん、何があるの?」
「クロボウの握り、それしかない」
「……どうやら、ハンバーグ握りは期待出来なさそうだ」
良介が思い描いていたショーケースの中身は彩豊かだったが、この屋台に並べられたネタは赤身魚一色。
食糧事情そのものは逼迫していないが、内戦の影響で広大な航行禁止海域が予想出来た。
夷俘島の経済活動も、政府側の妨害が予想出来る。
飢えはしないが、多様性が失われているのだろう。
クロボウとやらの切り身はマグロに酷似している。
色が黒ずんでいるのは、醤油などに漬け込んでいる影響だろうか。
錬金術でも安定した温度調整は至難の業らしく、冷凍はともかく冷蔵技術は民間に普及していなかった。
あるにしても、保冷性の高い箱に氷を収めるようなもの。
鮮度に不安があるからこそ、古い技術がいまだに用いられているのだろう。
「じゃあ、2つ頼む」
注文を告げると、店主はようやく新聞を畳んだ。
当然のように、口には紫煙を漂わせる
現代日本であれば、大慌てで保健所が検査を行うだろう。
「2つだな。120銭」
120銭は体感600円ほどである。
寿司2貫の値段にしては高いように感じられるが、それは日本の常識。
葦原では恐らく物価が違うのだろう。
ましてや、こんなものを給金代わりに刷っているのだから。
ポケットを探り、財布を取り出す。
「
「……断ることは出来ないな」
その時、店主の良介を見る目が変わった。
実のところ、葦原において軍人のヒエラルキーは恐ろしく低い。
特に幕府軍においては『戦国時代気取りの
実際彰義隊では旗本の大安売りをしていたのだから、事実ではある。
なお軍人は武士とは別階級である。
内戦が始まってからは、なおのことそう扱われていた。
仮にも夷俘島は冬天軍閥の侵攻という、明確な外敵による攻撃を受けた土地だ。
それでもなお、そういった風評は消えていない。
日本やアメリカでも似たような事例があった。
きっとこれは、どこでもある話なのだろう。
「釣りはいらないよ」
良介は一度言ってみたかったセリフを口走った。
軍票を受け取った店主は額を一瞥すると、調理を始めた。
寿司桶から拳に収まりきらないほどの米の塊を素手で取り出すと、握る。
やたらネタが大きいと思っていたが、シャリも相応に大きいのだ。
「うーん、おにぎり以上に糖質の塊だ……」
シャリをギュッと握り締めて拳大に圧縮し、ワサビを塗りたくったネタを載せて完成。
「ほらよ、1つ」
良介の手にボトンと握りが置かれた。
なるほど。上流階級にとって、これは下品に感じるかもしれない。
続いてありさの分に取り掛かったが、ここで彼女が口を開いた。
「あの……」
「なんでしょう」
「おワサビは、抜いて頂けますでしょうか?」
こういった店、適当な経営をしているように見せかけてその実、従業員はプライドを持ってやっている場合がある。
なのでこういった要望はそのプライドを傷つけてトラブルにつながるリスクがあるのだが───
「おう。サビ抜き」
妙にぎこちない言葉遣いをした店主だが、握り捌きは鈍らない。
手早く握り、しっかりとワサビを塗らず、ありさの手に握りを置いた。
「はいよ」
「ありがとうございます」
良介とありさは互いに顔を見合わせると、握りにかぶりついた。
ネタの味は───見た目通りマグロの漬けであった。
「……もしかして、魚は俺の世界と一緒なのか?」
「はい?」
「いや、こっちの話……」
日本の寿司以上に単調で、簡素な料理だが悪くない。
糖質と塩分がかなり気になる味ではある。
良介が3分の1ほど胃に収めると、店主が尋ねた。
「お前、軍人らしくないな。どこのモンだ?」
「……」
少し考えた。
確かに軍票、幕府軍が発行している通貨代わりの札を出せば、誰でも軍との繋がりを考える。
彰義隊くらいは明かしても問題はないか?
ただ、彰義隊のチェイスまで明かしてしまえば、トラブルの種になるだろう。
「彰義隊。ほら」
念の為、幕府軍から渡されていた身分証を提示する。
そこにTACネームは書かれていないので、チェイスだと悟られる心配はない。
「え?」
隣で小さくありさが漏らした息を、店主の敬礼が遮った。
「先程は失礼しました。元松後藩海軍兵卒、
「ああ、これはご丁寧にどうも……」
現状は無帽なので、良介は10度の敬礼で応じた。
「先の空襲では、仕入れなどで
彰義隊隊長に守って頂きました。ぜひ、感謝の意をお伝え頂ければと存じます」
「ああ、うん……伝えておくよ」
───だとよ、チェイス。
うむ、伝え終わったな。
しかし考えてもみれば、屋岸の寿司屋が屋岸港とつながりがあるのは当然ではないか。
「軍人らしくない者が軍票を利用していたので、窃盗を想像してしまいました。
早計でした、謝罪します」
「いやあ、俺もちょくちょく軍人らしくないって言われるからさ。
気にしないでよ」
実際、自衛官時代で見抜かれたのは頭を丸めていた航空学生時代のみ。
以降は一度たりとも自衛官を見抜かれた経験はなかった。
恐らく、いつもヘラヘラしている影響だろう。
流石に、窃盗犯だと警戒されるとは思わなかったが。
「……彰義隊の方が、なぜこのお方とお食事をされているのかは、
あえてお尋ねしません」
「え?」
店主、泰造の視線の先にはありさがいた。
一体どうして、彼女と泰造が結び付くのか?
良介の疑問をよそに、泰造はありさに囁いた。
「私は昔、氷室丸で勤務しておりました……お久しぶりです」
「……あっ。あの時の、水兵さん」
氷室丸。先の船団で旗艦のような扱いを受けていた船である。
詳しくはわからないが、あの船団の中で最も民間の旅客船に似たフォルムをしていた。
もしや、元民間船なのだろうか?
ありさは、例えば有力商人の令嬢で───
いや、となると水兵の泰造と会う理由が繋がらない。
「志村殿」
泰造の声で、良介の思考が現実に戻された。
「なに?」
「最近は、屋岸の街も
どうか、この方をお守りください」
「……うん」
彼の様子からして、ありさは相当な背景を持つ女の子らしい。
ありさは良介の守備範囲外だが、女の子を守るのは使命のようなもの。
望むところである。
暖簾の外に人の気配を感じた。
そろそろお暇する時間だろう。
「それじゃ、機会があったらまた来るよ」
「私も……きっと、また来ます」
「お待ちしています」
ぶっきらぼうだった初対面とは打って変わって、泰造は敬礼を以てふたりを見送った。
腹を満たしたらやる事はひとつ。
身体を動かして楽しむのだ。
「さあて、ありさちゃん。じゃあ次は……」
良介は10年ほど前、学生時代に少々面倒な集団と揉めたことがある。
いわゆる珍走団という連中で、周囲に騒音を撒き散らしながらバイクを乗り回す迷惑な連中である。
そういった連中と揉めると、外で時折感じるのだ。
敵意を。
寿司屋に入る前にも見た男。
あの5メートルほどの距離を保つ人影から、似た害意を感じたのだ。
「どう、しました?」
「いや。ありさちゃんって、普段は同心さん達と会いにくい関係だったり?」
「えっ……と。よく会っていると思います」
違和感を持たれないように、周囲を見渡す。
側溝の上で岡っ引きの集団が紫煙を燻らせていた。
この集団がいつからいたのかはわからないが───
寿司屋で仕掛けなかったのは岡っ引きの介入を恐れて、様子を伺っていたに違いない。
油断してひと気のない場所へ行った途端───
いや、権力の目が遠ざかった瞬間に仕掛けてくるだろう。
「良介さん。私、奉行所へは行きたくありません」
「ごめん、そういう意味じゃないんだ……」
行き先候補のひとつが潰された。
良介もこの世界で命や身柄を狙われる覚えはあるが、街中で行動を起こされた経験が現状ではない以上、恐らく狙いはありさだろう。
さて、どう出るべきか。
向こうからのアクションがないのなら、嫌がるありさを岡っ引きに保護させるわけにもいかず。
とりあえず追跡者を振り切るべきだ。
はぐれないよう、そっとありさの手を握る。
「あっ……」
「ちょっとごめんね」
なにかの拍子で離れ離れになるのが最悪の状況だと判断したうえでの行動だったが───
追跡者を刺激してしまったかもしれない。
足早に歩く足音がふたりに迫っていた。
良介はありさに身を寄せると、手短に囁いた。
「どうも、尾行されてるらしい」
「尾行? 私の……」
「振り返らないで。ありさちゃん絡みだったら、コソコソついて来ないはずだ。
同心や岡っ引きと協力出来るはずだからね」
それにしても、かつての陰謀論者、現陸自空挺団の後輩に尾行のイロハを教わった経験がこんな場所で活きるとは。
人生わからないものである。
もう間もなく、手が届く距離まで迫る。
先手を打たれれば、状況は悪くなるばかりだ。
「ちょっとごめんっ」
素早くありさの手を離すと、回し蹴りで背後の男の伸びていた右手を蹴り飛ばした。
直後、乾いた爆音が轟いた。
「銃⁉」
ナイフだと思い込んでいたのは、間違いなく良介の油断だった。
ここは日本ではなく葦原。
異世界の、内戦中の国なのだ。
銃は一発だけでは終わらない。
素早く懐に飛び込んで銃撃を封じ、帽子の男に頭突きを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
相手の意識を散らし、銃身を掴むと内側上方向に向けて捻る。
そのまま蹴り飛ばして距離を取ると、衝撃で拳銃が男の手から抜けた。
「……!」
最大の武器を奪っても、戦意は萎えていない。
そう見た良介は拳銃を向けつつも油断せず、素早く距離を取って踵を返した。
今回は油断と不意を突けたが、恐らく相手は格闘の覚えがある。
真っ向からやり合えば勝ち目がない。
「行こう!」
「う、あっ……!」
ありさの手を握り、走り出すが───背後は駆け寄る岡っ引き、彼らは銃を持たない。
正面からは尋常でない目をした集団が懐に手をやっていた。
岡っ引きはともかく、あれは味方ではない。
馬鹿正直に事情聴取を受ければ、その隙を強襲される。
相手はその覚悟で仕掛けて来たのだ。
表通りは危険だ。
横丁へ飛び込むと、背後で銃声が轟いた。
岡っ引きは正規の法執行官ではないため、銃の携行を許されていない。
戦いは成立しなかっただろう。
直線は危険、とにかく射線を避けながら遠ざかるしかない。
走りつつ、良介は奪った拳銃を確かめた。
葦原製の、民間で流通している拳銃だ。
免許制なうえ金額は馬鹿みたいに高く設定されているので、普及はしていない。
が、高価な理由は幕府が価格調整しているためだ。
彼らが政府側の軍人や諜報員ならば、問題なく揃えられる。
外観は武器学校で見たような、見なかったような。
現代では一般的な構造をしていて、初見でも薬室に装填された弾が出来た。
スライドが引けるなら、安全装置は解除済みだろう。
発砲の用意をして、狭い路地へ。
想定はしておくべきだっただろう。
待ち伏せの可能性くらいは。
ふたつの銃口が睨み合った。
相手は女。
体型ですぐにわかったが、歳は頭巾をしていてわからなかった。
「……」
大きく見開かれた目。驚愕の感情が伺える。
銃口を向けられてはいるが、発砲はしない。
仲間を待っているのか、それとも───
一か八か、良介は賭けに出た。
「なあ。お互い、痛い思いは嫌だろ?」
「……」
「だからさ。見なかったことにしない?」
正面からでは相手の撃鉄は見えなかったが、恐らく起きている。
つまり、引き金を撫でただけで銃は発砲される状態だ。
そしてこれは、良介も同じ状態。
互いに外しようがなく、かつ腕や足は届かない絶妙な距離。
撃てば双方、最低怪我はする。
相手の保身に頼った交渉だ。これはうまくいくのか?
頭巾の隙間から見えている瞳が良介を見て、続いてありさを見る。
そしてまた、良介へ向く。
「……わっかんないなぁ」
状況に似つかわしくない、明るい声が相手の女から響いた。
交渉の内容を聞き取れなかったのだろうか?
「繰り返した方がいい?」
「あー、違う違う。そういう事じゃなくってぇ……」
驚いた事に、彼女は銃を下ろして安全装置を掛けた。思いがけない展開だ。
そうやって気を抜いたのがいけなかったのだろう。
頭巾の向こうにある瞳が、突如目前に現れた。
───まずいっ!
まさに縮地というやつだろう。
一瞬のうちに互いの距離は、息遣いを感じられるほどに迫っていた。
完全に銃の間合いの内側。生殺与奪の権は、相手が握っていた。
「うーん、やっぱり初めてだ。こういうの、さっぱりだ」
攻撃は、来なかった。
圧倒的優位にあるというのに、飛んできたのは言葉。
交渉の余地ありだ。良介は軽い口を開いた。
「逆ナンかぁ、久しぶりだな……」
目前の瞳がしっかりと良介へ向いたのを確認して───
後ろ手でありさに逃げるよう合図を送った。
「ごめん、そういうことすると殺すよ?」
脇腹に固い感触を覚えると共に、ありさの足が止まった。
目前の彼女は視線をピクリとも揺らさなかった。
ただものではないと思っていたが、死角の動きすら捉えるか。
しかし、彼女からすればこの場で良介を殺さない理由はないはずだ。
交渉の余地は変わらずある。
「そうだな……要望は? 例えば時間に余裕が出来た時、
ご飯を奢ったりしてもいい」
「えーっ、この状況でそれ言えちゃうんだ?」
「ああ……俺は言えるんだ。日本一のナンパ野郎だからさ」
頭巾の向こうで笑みが浮かべられた───気がした。
「ふんふん。じゃあ、さ。あたしを驚かせたら、見逃したげる」
圧倒的優位にあるからこそ、口に出来た言葉だろう。
距離は至近距離。
銃の間合いの内側で、ナイフはなく、逆に銃を突きつけられている。
これを逆転出来れば───
不可能と見ているから、条件として提示したのだろう。
幸いにも拳銃に手は加えられていない。
なら、相打ち覚悟で彼女を撃てば。
そうすればありさだけでも逃がすことが出来るだろうか?
妥当だが、ありふれた手段だ。
それにその後はあまり明るくない。
ありさが独りでプロの集団から逃げ切れるとは思えない。
遠くから複数の気配が迫っている。
タイムリミットは間近だった。
「本当にいいの? 俺、昔からサプライズは得意なんだぜ」
「いいよー。ビックリドッキリ、心臓が止まるくらい驚かせてよ」
ならば。
呼吸を整えて、行動する。
顎を引く。すると、輝いていた瞳は光を失う。
まだ決断を下すには早い。そう教えるため、良介は顔を寄せた。
頭巾越しの唇は、柔らかかった。
失意に沈んでいた瞳に、感情があふれ出した。
「……はっ、は、はぁっ⁈」
痛みはなく、衝撃もなく。
良介を殺そうとしていた女は、大きく後ずさった。
「じょっ、状況わかってる⁈ だっていま、殺されそうだったんだよ⁉」
「経験豊富な俺でも、一番刺激的なキスだったよ……」
「……えーっ……えー、あー……マジかぁ……」
頭巾越しにもわかる驚愕を見せた彼女はややおいて、破顔した。
「まぁじか! アッハッハ! 本ッ当、お兄さんわかんない!
フツー、マジで殺そうとしてくる相手に
やっば、こんなひと初めて!」
「意外性の男と呼ばれてるんだ……それで、ドキドキさせられたかな?」
「……うん。いいよ、合格。急ぎなよ、あいつらは冗談が
わかんない奴らだからさ」
どうやらひとまず危機は脱したらしい。
振り返ってみると、ありさは完全に腰を抜かして座り込んでいた。
無理もない話だ。
命の危機に陥れば動けなくなるのが、生物として正常な反応である。
そういう意味では、
「さ、行こうか」
「りょ、良介さん……わ、私……」
「気にすることはない。歩けないなら、運ぶよ」
返答を待つ時間も惜しい。
最初に会った時のように、良介はありさを抱えた。
「私の後ろ、誰もいないから安心して……出来ないか」
「いや、信じるよ。ありがとう」
「殺そうとした相手に感謝されるって……」
食事を奢るなどのお礼をしたいところだったが、状況がそれを許さなかった。
名前も知らない彼女とすれ違うその時、囁き声が鼓膜を揺らした。
「じゃ、またね。蒼い機体の神兵さん」
ありさの危機は脱したが、どうも良介の危機は依然として残り続けているようだった。
気がつくと、ふたりは海沿いまで来ていた。
ウミネコ(かどうか不明だが)が甲高い鳴き声を響かせる港に、自分達を追う気配は皆無。
さすがの良介も、一時間近くありさを抱え続けるのは限界だった。
「そろそろ……撒いたかな」
「み、見当たりません」
適当な長椅子に腰を下ろし、腕を伸ばす。
酷使した影響か、ハイGターンで破裂した腕の毛細血管が再び破裂していた。
「ひっ、酷い怪我……!」
「ああ、いや、これ職業病みたいなやつ。ちょっと痛いだけで、
すぐ治るから心配しなくていいよ」
「そう、なんですか……?」
「そこら中にいる人間がなるやつじゃないから、驚いて当然か」
屋岸の水平線へ視線をやる。
あの水平線の向こうに、葦原本州がある。
良介が目指すべき───目指すことを強いられている場所。
事が順調に運べば、あの地で殺しをすることになるのだ。
その対価は、生まれ故郷である日本への帰還。その可能性。
果たしてその報酬は、殺しをしてまで得るべきものなのか。
そもそも、支払われるのだろうか。
「良介さん……」
遠い地に思いを馳せていると、隣のありさが語り掛けて来た。
「どうかした?」
「良介さんは、彰義隊なんですよね?」
寿司屋で泰造が口にしたのを覚えていたのだろう。
そこはもう自称したのだから、隠す必要はない。
「うん。彰義隊で戦闘機乗りやってる」
「では、隊長の方ともお知り合いでしょうか?」
乱破の彼女はその旨を囁いていたが、どうやらありさの耳には届いていなかったらしい。
「もちろん、神兵の奴でしょ?」
「……私は、あの人が戦う姿を真下で見た事があります。凄い動きで圧倒して、
不利な状況でも一瞬の隙を突いて勝つ戦い方を」
───あれれ? 俺って、屋岸の上空で戦った事あったっけ?
疑問は浮かぶが、あまり素性を広めるべきではないな。
「まあ、無茶をする人だね」
「なぜ、そんなことが出来るんでしょう? 私は血を見ただけで震えあがって、
何も出来なくなって、怖くなって……」
看護師? いや、何らかの戦闘に巻き込まれて救護活動をしていたのだろうか。
それでパニックか何かを起こした自分に、深く悔いているのだろう。
人を守るために懸命に働いている女の子の、見過ごしては置けない悩みであった。
「それは仕方のない事だよ。俺だって、訓練の結果色々やれるようになった
だけで、普通の人はそんなもの。それが正常だよ」
「ですが、お役目があるのです……私にしか出来ない、と」
「お役目、か……」
ある意味、戦闘は良介のお役目といえる。
自衛官として本来の指揮系統から外れた、私戦行為に近いが。
ただ、帰還のための手段と上司の安全を人質にされているとはいえ、まだ現状では戦闘のすべては誰かを守るためのものではあった。
最初の空戦は自衛戦闘。
爆撃機迎撃は屋岸の人々を守るため。
輸送船団の救助は戦えない人々を守るため。
なぜそれをやったのかと問われれば、こうなる。
「困るよね。向いてないのに、自分しかできないってやつは」
「……私には、耐えられません。誰も彼もが私を利用するだけで、
何も見てくれない気にも留めてくれない。見ているのは、
私に流れている血だけ……血筋の権威を利用して、使おうとして……」
───なんだかありさちゃん。想像以上に凄い状況に置かれているみたいだぞ。
良介如きの人生経験で、彼女の傷を癒せる言葉など見つかるはずがない。
恩師から賜った考え方『どんな辛い境遇でも、楽しんでしまおう』も、今の彼女に耐えられる言葉ではない。
その程度のデリカシーは良介にもあった。
この状況下で、掛けられる言葉は。
慎重に思考を巡らせながら、良介は口を開く。
「深くは尋ねないけど、ありさちゃんは耐えられなくなって逃げてきたわけだ」
「……はい」
「それはまあ、仕方のない事だよ。ありさちゃんにしか出来ない事だとしても……
やっぱり物事には限界があるんだからさ」
無責任ながらも、彼女の話には肯定するしかなかった。
どんな超人にも限界はある。ましてやありさは普通の女の子。
どのような仕事か定かではないが、心を落ち着ける時間は間違いなく必要になる。
それが、求めていた言葉だったのだろう。
ありさは良介に抱きつくと、声をあげて泣き始めた。
「わたしっ、わたしっ……どうしてこんな事をっ!
ただ普通生きたいだけなのにっ、お父様は殺され、お母様は行方知れずで、
弟と殺し合う事になり……どうして……」
詳細は相変わらず掴めないが、彼女の置かれた状況は見えてきた。
両親を失い、肉親と敵対する。
葦原の情勢的に、弟が政府側にいるのだろうか?
なんとも酷い話だった。
そして。彼女もまた、産みの親を喪っている。
その共通点が良介の心を打った。
その小さな肩を、良介はそっと抱き寄せた。
「俺も小さい頃、両親が死んだ。ありさちゃんと違う理由だけど、
親がいなくなったって不安はなんとなくわかるよ」
殺されたという言い方からして、この内戦によるものだろう。
良介の場合は事故死だったが、目の前で死んだことに変わりはない。
物心つく前の事故だったが、ふとした拍子に、意図せぬタイミングで。
その不安は幼心に突きつけられるのだ。
ましてや、ありさは求められる立場。その不安はひとしおだろう。
彼女の不安に寄り添って、数分が経った。
嗚咽は徐々に収まり、やがて。
自ら、沈黙の殻を破った。
「わかっているんです。今の葦原には、私が必要だと。弟もまた同じく」
戦争の継続には良介のような兵士だけでなく、後方を支える人間も同程度の必要性がある。
もちろん、人々の心を支える象徴も。
何ひとつ、欠かしてはならない要素である。
「良介さん。あなたは、なぜ戦うのか。お聞かせ願えませんか?」
その口調から先ほどまでの動揺は消え失せていた。
不安を口にして、心の重荷が減ったのだろう。
今問い掛けているのは純粋な疑問に違いなかった。
「そうだな……」
最も大きな理由は、哲也を人質に取られた件だが───
そういえば、今回の外出は彼を出迎えるためだったか。あとで謝らなければな。
それはさておき、こんな理由を女の子に話すべきではないだろう。
だとすれば、本能的に動いた理由を話すべきだ。
「俺以外に出来る人間がいなかったから、かな。咄嗟の事だった」
最初の空戦は撃墜されたボスのため。爆撃機迎撃は屋岸のために。
先の船団を助けた時は、まさに良介以外に向かえる人間はいなかった。
「戦えない人が一方的に、理不尽に殺される……そういうのが嫌だったんだ」
「では戦える人が相手であれば……?」
「覚悟してる奴らが相手なら、遠慮は出来ない」
軍人らしくない軍人を自称する良介でも、結局のところ
殺し殺される覚悟はあり、甘さは死に直結すると理解している。
「こんな風に、軍人っていうのはぶっ壊して火事を止める火消しだ。
間違いなく必要だけど、主導権を握っちゃダメだ」
つい、良介は聞かれてもいない持論をぶち込んでしまった。
「ダメ、なのですか?」
「火の粉を払うと同時に、撒き散らす仕事だからさ。
誰かが首輪を引っ張らないと、火事は際限なく広がる。
葦原みたいな情勢じゃ、なおの事だ」
おい。愚かな志村良介。
ここが葦原という封建制が生きる異世界の国である事を忘れるな。
幕府という封建制の中で、その考えは異端に違いない───
「あー、つまり。将軍様や、春川親王殿下みたいな偉い人がしっかりしてないと、
ただでさえ酷いこの内戦がさらに酷い結果になる……って事!」
危ない発言だが、及第点か。
それに、要点も伝わったと見える。
「……軍は火事を収め、
「偉い人がそうすれば、全部そうなるってわけじゃないけど。
どうすればいいかっていう、手本が必要だろ?」
命じられるまま動くだけでは、真の解決には繋がらない。
軍隊は性質上そうならなければならない。
破壊での解決を任務とする集団なのだから、強い枷がなければ際限なく破壊してしまう。
だからこそ、軍が政治を変えてはならない。
国家そのものではなく、国の矛と盾でなくてはならないのだ。
民主主義を称する者たちですら共有しきれていない、少なくとも葦原では異端の思考である。
「……帝が、民の模範となる」
「葦原の場合、そうなるのかな。ある程度、状況は見てないと危ないけど」
政治というやつは多角的に情勢を読まなければ、四方八方から袋叩きにされる世界である。
実権なき権威がやり過ぎると、疎ましく思う勢力から暗殺などの危険を招く。
しかし、ありさがそこまで気にする必要はないだろう。
「ありがとうございます、良介さん。少しだけ、勇気が湧いてきました」
「うんうん、力になれたのなら何よりだよ」
やっぱりありさの背景はわからないままだが、まあよかろう。
少なくとも、迷える少女を助けたのだから。
ありさに続いて立ち上がると、彼女はとてとて歩いて公衆電話へと向かった。
愚かな志村良介よ、公衆電話がわかるか?
「ふん、馬鹿にするなよ。令和でも1キロおきに設置が義務付けられてるんだ」
しかし───この数字とリングの集合体は一体?
良介の困惑をよそに、ありさは輪に指を入れて番号を入力していく。
「それ、そうやって使うんだ……」
「他にどのような方法を?」
「ああ、いや……公衆電話もないような、田舎から来たんだ」
日本の皆様、誠に申し訳ありません。
羅宮凪島の皆様、いつも申し訳ありません。
謝辞はさておき。
ありさが二、三言で通話を終えるとあっという間に奉行所の同心と空軍の改め方が現れた。
それも、空軍最高司令官である松平宗治郎を筆頭に。
同心は肩を怒らせながら良介とありさに歩み寄ると、あっという間にふたりを引き離してしまった。
引き離したひとりが、良介を後ろ手に拘束して手錠を持ち出したが───
「なりません! そのお方にご無体は!」
「ですが、この者は……!」
「此度の一件、全て私によるもの……良介さんに責は、一切ございません」
彼女の言葉は効果てきめんで、同心は一瞥するとありさの周辺警護に入った。
良介が思っていた以上に、彼女の血筋が持つ権威は強いようだった。
すると。人混みを掻き分けて、必死の形相をした田中空軍歩兵がやって来た。
「しっ、志村二尉ぃっ! あなたって、あなたって人はぁっ……!」
「ははは、ごめんごめん……なんか、すごい騒ぎになってるね」
「そりゃ、当たり前ですよぉっ……だって、だってあのお方はっ……!」
視界の隅に宗治郎の姿が入った。
ありさから何事か聞いている様子で、度々ふたりの視線は良介に向けられた。
彼女に向けて笑みを返すと、恥ずかしそうに視線をそらした。
「聞いてますかっ、志村二尉っ!」
「ああ、うん……可愛いよね、ありさちゃん」
「ありさ……? 志村二尉、聞いてなかったの誤魔化してます?」
「うんうん。ところで、俺たちが特殊部隊に襲われたのは知ってる?」
本格的に誤魔化すため、良介は逆に尋ね返した。
真面目な話題を、真面目な田中空軍歩兵が逃げられるわけもなく。
「……ええ、耳にしております。商店街で発砲した集団は、
奉行所の追跡を振り切り逃走。
「犠牲なし?」
「皆無です。その手際から、屋岸の防空網を破壊した部隊と同一ではないか。
というのが、我々空軍改めと奉行所が出した結論です」
戦闘機乗りとはいえ、まともな訓練を受けていない自衛官がそれほどのプロを相手に逃げ回っていたのだ。
弾の1発も貰わず、5体満足で逃げ伸びるとは。
本当に運が良かったわけだ。
しかし、犠牲なし。それはつまり、良介とありさを見逃してくれた女の子。
彼女も咎められることなく逃げおおせた事を意味する。
少なくとも、この場においては。
「そっか、それはよかった」
「よっ、よかったぁっ⁈ あんたなぁっ、岡っ引きが犠牲になってるんだぞ!」
もちろん、良介と彼女の間に何が起きたのか。田中空軍歩兵が知るはずもない。
それはそれとして不用意な発言であった。
「ごめん、あの部隊の娘と、ちょっと色々あってさ」
「ま、まさか女子を……? あの方と一緒で、短期間に……?
ああもう、俺はなんて人を任されてしまったんだ……!」
「田中くん、ちょっと気づくのが遅いぜ」
「誰のせいだと……!」
田中空軍歩兵が挙手敬礼のまま硬直する気配で、すぐに誰が来たのかわかった。
あの男に敬意を払う必要はない。適当に視線で応じ───
「良介さん」
「ああ、ありさちゃん。大丈夫だった?」
「はい、お陰様で」
即座に立ち上がって、良介はありさと向き合った。
隣に宗治郎もいたがそれは気にしない。
「良介さん。私はあなたのお陰で、少しだけ自分の立場と
向き合う勇気が出ました。本当に、ありがとうございます」
「うんうん。ありさちゃんが元気になって、俺も嬉しいよ」
深く頷いていると、ありさがすっと良介に身を寄せた。
そして、囁いた。
「どうか、私のことは
「……春川現公?」
「いいえ。私はただの、現公です。良介さんには、そう呼んで頂きたいのです」
そういえば、彼女の名前を偽名と疑った事があったが───
なるほど、あの名前は本名から字を抜いていたわけだ。
親族か、相当親しい間柄の人間でなければ知る事のない本当の名前。
そのような大切な名前を教えてくれたのだ。
ならば、こちらも別の名前を教えなければアンフェアではないか?
「本名はもう話しちゃったけど……俺も、もうひとつの名前を教えてあげる」
「もうひとつ?」
「チェイス。それが俺の
この名前は新聞などのメディアで既に報道されている。
諱ほど重要な意味はないが、信頼出来る人間にしか伝えられないという点に違いはないだろう。
現公はそう聞くと目を見開き───息を吐いた。
「ひどい。こんなに、近くに居たなんて」
「ふっふっふ。何を隠そう、俺様こそが彰義隊のリーダー、チェイスなのだ……」
単なる人殺しが何を偉ぶっている。
と、お前。急に手帳とペンを取り出して、どうするつもりだ。
カキカキカキと連絡先を書いて、一体どうした?
それをまさか、手渡すつもりか?
お前は昭和のナンパ野郎か?
いいや、令和のナンパ野郎だったな。
「現公ちゃん、もし俺と話したくなったらここに電話してよ」
「ぎゃーっ! 志村二尉ぃっ⁈」
「……こいつ、マジか」
背後で田中空軍歩兵と宗治郎が騒いでいるが、良介は止まらない。
連絡先を書いた紙を、現公に手渡した。
「もし現公ちゃんが辛い時は、出来る限り力になるからさ」
「彰義隊隊長さんのご連絡先……嬉しいです」
お前は人殺しに従事する兵士であり、いつ死ぬかもわからない人間だ。
そんな事をして、もし彼女が電話したその時。
幕府空軍の電話交換手に、「その男はもう死んだ」と告げられたら。
どう思うか考えたことはあるのか?
期待させておいて、無責任過ぎるのではないか?
「……俺は誰かから、特に女の子から求められてる限り、死なないよ」
これは志村良介の妄想たる私に向けて告げられた言葉だが。
同時に現公の心にあった疑念にも届いたらしい。
「……はい! 信じています!」
極めて軽い問答を行ったふたりは、少しだけ距離を離した。
すると宗治郎と田中空軍歩兵が良介に詰め寄った。
「にっ、二尉っ……!」
「お前なぁっ……!」
「な、なんだよふたりとも」
やはり一般人に対して行動が軽過ぎたか?
いや、現公は一般人ではなく何らかの要職にある人間の親族で、やはりまずかったのか?
ちょっとだけ、流石の良介も反省しようとしたが───
「お二方。どうか、私の件は良介さんにはご内密に」
「えっ」
現公の言葉で、良介を挟むふたりが硬直した。
「その方が、面白いので!」
彼女は初めて見せた明るい笑顔のまま、同心を伴って去って行った。
その場に残された空軍の面々。
特に宗治郎の呆気に取られた顔。
現公の言葉は気になったが、これが本当に痛快であった。