戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
漆黒の闇が、まるで意志を持ったかのように黒森を飲み込んでいた。木々の枝葉は天蓋のように複雑に絡み合い、空を覆い隠す。その隙間から漏れる月光は頼りなく、湿った土と腐葉土の濃密な匂いが鼻腔を満たした。時折、正体不明の獣の低い息遣いや、夜鳥の鋭い警戒音が、張り詰めた静寂を切り裂く。三人の荒い息遣いだけが、茨や木の根が複雑に絡み合う獣道の静寂を破っていた。カリナの呼吸は特に浅く速く、その顔色はわずかな月の光の下でさえ、陶器のように青白く見えた。ヴァナネルサは、猫科特有の鋭敏な感覚で絶えず背後の気配を探りながら、カリナの腕を力強く支え、先導する。シオリは最後尾で、闇に溶け込むように気配を消し、研ぎ澄まされた五感で周囲のあらゆる変化を捉えながら、冷静に彼らの後を追った。
背後から、断続的に、しかし確実に複数の馬蹄の音が近づいてくる。それは森の木々に不気味に反響し、実際よりも近く、そして数を多く感じさせた。湿った土を踏みしめる音、強引に枝を掻き分ける音、そして追っ手の荒い息遣い。それら全てが、彼らの逃避行の過酷さと、迫りくる脅威を物語っていた。
「はぁ……っ、はぁ……ヴァナネルサ……も、う……少しだけ……休ませて……」
カリナの声は、木の葉が擦れる音にかき消されそうなほどか細く、今にも途切れそうだった。数日間に及ぶ逃亡と、先程の城門突破の激しい緊張が、王女としての矜持で支えてきた彼女の体力と気力を、容赦なく削り取っていた。
「カリナ様、もう少しの辛抱です。この森を抜けきれば、追っ手も容易には手出しできなくなります……!」
ヴァナネルサの声には、焦りと、カリナを励まそうとする必死さが滲む。しかし、その言葉を無情に遮るように、背後から獣のような鋭い声が飛んだ。
「そこかっ! いたぞ、王女だ! 逃がすな!」
松明の揺らめく光が、木々の間から数カ所、まるで地の底から湧き出た鬼火のように現れた。追っ手の斥候だ。騎馬ではなく、森での活動に適した身軽な装備の歩兵が五名。彼らは馬を乗り捨て、執拗に森の中を追ってきたのだろう。その目には、追い詰めた獲物を見据える狩人の、残酷なまでの獰猛な光が宿っていた。
「カリナ様、伏せて!」
ヴァナネルサが叫ぶと同時に、カリナを地面に押し倒し、自らの体を盾にするように覆いかぶさった。
シオリの身体は、警告の声が響くよりも速く反応していた。彼女の動きには一切の躊躇も無駄もない。腰の愛刀「月影」が、鞘から滑り出る音すら立てずに抜き放たれる。月光を鈍く反射するその刃は、闇に一条の冷たい銀線を描いた。森の闇に溶け込むような黒衣の彼女は、まるで夜風そのもののように、最も近くにいた斥候の一人へと躍りかかった。
一番槍をつけようと功を焦って飛び出してきた斥候の剣が、空を切って虚空を薙ぐ。シオリは、その大振りな攻撃を紙一重でかわし、斥候の体勢が前のめりに崩れた瞬間、体重を乗せた剣の柄頭で鳩尾を寸分違わず打ち据えた。
「ぐっ……ぉえっ……!」
短い獣のような呻きと共に、斥候は胃の内容物をまき散らしながら膝から崩れ落ちる。シオリは返す刀で、二人目の斥候が突き出してきた槍の穂先を「月影」の刃で受け流し、そのまま滑らせるようにして相手の手元を狂わせ、がら空きになった脇腹に体重を乗せた肘を深々と叩き込んだ。肋骨の砕ける鈍い音が、闇に響いた。
ヴァナネルサもまた、カリナを守りながら応戦する。彼は武器を持たぬが、そのしなやかな四肢から繰り出される爪は鋼のように鋭く、猫亜人特有の驚異的な俊敏さと跳躍力は、障害物の多い狭い森の中でも遺憾なく発揮された。斥候の一人が、倒れたカリナに無防備に手を伸ばそうとした瞬間、ヴァナネルサは低い姿勢から猛獣のように飛びかかり、その腕を狙って鋭い爪を振り下ろした。肉を裂く生々しい音と共に、斥候の腕からは鮮血が迸る。
「ぎゃあああっ!」
甲高い悲鳴を上げた斥候が、傷ついた腕を押さえて後ずさる。
「怯むな! 囲んでしまえ! 王女を生け捕りにすれば莫大な報奨が出るぞ!」
斥候のリーダー格らしき男が、仲間を鼓舞するように叫び、残りの手負いでない二人がシオリとヴァナネルサを挟み撃ちにしようと左右に展開する。しかし、シオリの動きは彼らの稚拙な連携を嘲笑うかのように、予測を遥かに超えていた。彼女は一人の斥候の薙ぎ払うような剣撃を屈んで避け、その勢いを逆に利用して相手の懐深くに潜り込み、流れるような動きで背後に回り込むと同時に、首筋の急所に寸分の狂いもなく手刀を叩き込んだ。声もなく、まるで糸の切れた人形のように斥候が崩れ落ちる。
残るはリーダー格の男と、腕を負傷した斥候のみとなった。リーダー格の男は、屈強な仲間が赤子の手をひねるように次々と無力化されたことに愕然としながらも、最後の手段とばかりに腰に下げた角笛に手を伸ばした。
「な、化物どもめ……! だが、これで本隊に……終わりだ!」
本隊に合図を送り、応援を呼ぶつもりだ。
「させるか!」
シオリが追撃のために踏み込もうとした瞬間、男は焦って角笛を口に当てた。しかし、甲高い救援の音が森に響き渡る寸前、ヒュッ、と風を切る音と共にどこからか飛んできた石塊が、男の手元を正確に、そして強烈に打ち据えた。
「ぐあっ!」
鈍い衝撃音と共に角笛が地面に転がり、男は手を押さえて呻いた。投げたのは、恐怖に顔を蒼白にさせながらも、奥歯を食いしばり、必死の形相で石を握りしめていたカリナだった。彼女はヴァナネルサに庇われながら、震える手で足元に転がっていた手頃な石を拾い上げ、ただ一点、男の持つ角笛を目掛けて、ありったけの思いを込めて投げつけたのだ。狙いなど定まるはずもなかった。だが、その絶体絶命の状況で振り絞った一念が、奇跡的に男の手元を捉え、最悪の事態を回避した。
シオリは一瞬、驚いたようにカリナに目を向けたが、すぐにリーダー格の男へと向き直り、その喉元に「月影」の冷たい切っ先を突きつけた。男は恐怖に顔を引きつらせ、戦意を完全に喪失し、がっくりと膝をついた。シオリは、彼が完全に抵抗の意思がないことを確認すると、刃を静かに引いた。
「ヴァナネルサ、今のうちに。もっと森の奥深くへ。気配を完全に消せる場所を探せ」
シオリは冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で指示を出す。ヴァナネルサは力強く頷き、カリナの手を引いて再び立ち上がらせた。カリナはまだ動揺と安堵で肩を震わせていたが、シオリとヴァナネルサの真剣な視線を受け、こくりと頷き返した。
斥候たちを縛り上げ、猿轡を噛ませる時間はなかった。シオリは彼らの武器を手早く取り上げると、追っ手が容易に回収できないよう、森の奥深くの茂みへと力任せに投げ捨てた。追っ手の本隊がこの場に到着するまで、わずかな時間稼ぎにしかならないだろう。だが、そのわずかな時間が生死を分ける。
三人は再び闇の中へと駆け出した。先程にも増して、慎重に、一切の音を立てぬように。ヴァナネルサの猫亜人としての天性の能力が、この絶望的な状況で最大限に活かされた。彼は人間には到底感知できない微かな匂いや音の差異を頼りに、獣すら避けて通るような道なき道を選び、執拗な追っ手の気配から遠ざかろうとした。
夜明けが近いのか、東の空が微かに白み始めていた。やがて、ヴァナネルサは苔むした巨大な岩壁に巧妙に隠れるように存在する、小さな洞窟を見つけ出した。入り口は狭く、大人一人が屈んでようやく入れる程度だ。
「ここなら、一時的に身を隠せるかと。風向きも、我々の匂いを運びにくいようです」
ヴァナネルサは息を切らしながら、しかし安堵の表情を浮かべて言った。
洞窟の中は湿っぽく、ひんやりとした空気が漂っていたが、外の風雨や追っ手の目から逃れるには十分だった。カリナは洞窟の壁にずるずると寄りかかり、そのまま力なく座り込んでしまった。彼女の体力は完全に限界に達していた。蒼白な顔には脂汗が滲み、呼吸は浅く速く、瞳の光も弱々しい。
「カリナ様、しっかり。水をお飲みください」
ヴァナネルサが革の水筒を取り出し、カリナの口元へそっと運ぶ。カリナは数口、ゆっくりと水を飲むと、少しだけ顔色が戻ったように見えた。シオリは洞窟の入り口近くに音もなく立ち、身を隠しながら外の気配を細心の注意で窺っていた。彼女の研ぎ澄まされた聴覚は、夜明け前の森のざわめきの中から、追っ手の接近を知らせる微かな音だけを選り分けていた。
「シオリさん……ヴァナネルサ……本当に、ごめんなさい……私、足手まといで……情けないわ……」
カリナが途切れ途切れに、絞り出すように言った。その声には、深い自己嫌悪と、拭いきれない絶望が滲んでいた。先程、偶然にも石を投げることができたものの、それはまぐれであり、基本的には二人に守られているだけの自分の無力さが、彼女の心を苛んでいた。
ヴァナネルサはカリナの傍らに静かに膝をつき、その冷たくなった手を優しく握りしめた。
「カリナ様、そのようなことを仰らないでください。カリナ様が無事でいてくださること、それが我々にとって何よりの希望なのです。それに、先程の機転、本当に見事でした。あの石がなければ、我々は今頃……」
シオリは背を向けたまま、静かに、しかし芯の通った声で口を開いた。
「……生きている。今は、それが全てだ。感傷に浸る余裕があるなら、呼吸を整え、次の一歩に備えろ」
その声は相変わらず冷徹に聞こえたが、その奥には微かな、しかし確かな気遣いと、カリナの行動を認める響きが含まれているようにも感じられた。ヴァナネルサは、シオリの言葉の裏にある真意を感じ取り、小さく、しかし深く頷いた。
カリナは、二人の言葉に、そしてヴァナネルサの温かい手の感触に、堰を切ったように涙を流した。しかし、それはもはや絶望だけの涙ではなかった。自分を信じ、命懸けで守ってくれる者たちがいる。その揺るぎない事実に、彼女は打ちのめされると同時に、心の奥底から熱い、新たな力が静かに湧き上がってくるのを感じていた。
しばらくして、カリナは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。その潤んだ瞳には、先程までの弱々しさは消え、困難に立ち向かおうとする強い意志の光が宿り始めていた。
「ありがとう……二人とも。私は……私はもう、ただ守られるだけの存在ではいたくない。無力かもしれないけれど……それでも、私にできることがあるはずだわ」
その言葉に、ヴァナネルサはハッとしたようにカリナを見つめ、そして彼の青い瞳に深い安堵と敬愛の色を浮かべて微笑んだ。シオリも、わずかに肩の力を抜き、その横顔がほんの少しだけ和らいだように見えた。
「カリナ様……」
「まず、現状を正確に把握しましょう」
カリナは、王族としての冷静さを少し取り戻し、毅然とした口調で話し始めた。
「追っ手は執拗です。この森を抜けたとしても、街道は間違いなく封鎖されているでしょう。ヴァナネルサ、この森の先に、何か当てはあるの?」
ヴァナネルサは頷いた。
「はい。この黒森を東に抜けきると、古い鉱山町ザルツブルグがあります。かつては栄えましたが、今は寂れ、忘れられたような場所です。そこなら一時的に身を隠せるかもしれません。また、そこから更に南へ下れば、自由都市連邦の領域もそう遠くはありません」
「自由都市連邦……」
カリナはその名を口の中で反芻した。かつて父王が、その独立性と多様性を尊重し、友好関係を築こうとしていた場所だ。
「父上は、連邦との関係を重視していたわ。もしかしたら……彼らは、正当な王位継承者である私に、助力を惜しまないかもしれない……」
シオリが、洞窟の入り口から視線を外さずに口を挟む。
「ザルツブルグへ向かうとしても、追っ手は我々の行動を予測し、先回りする可能性がある。警戒は決して怠れない。それに、王都からどれだけの規模の追跡部隊が出ているか不明だ。斥候の装備から見て、本隊はかなりの練度と規模を持つだろう」
「斥候から何か情報を引き出すことはできませんでしたか?」
カリナが尋ねる。
ヴァナネルサは静かに首を横に振った。
「尋問している時間的余裕はありませんでした。ですが、彼らの装備は王都の正規兵のものとは異なり、粗雑ながらも実戦的なものでした。言葉遣いにも独特の訛りがあり、おそらく近隣の野心的な領主が、カリナ様捜索の報奨目当てに駆り出した私兵、あるいは金で雇われた傭兵の類でしょう。だとすれば、王都軍本隊との連携は必ずしも密ではなく、統制も甘い可能性があります。そこが我々の僅かな突破口になるかもしれません」
「情報が必要ね……そして、私たちに力を貸してくれる、真の味方が」
カリナは唇をきつく噛んだ。
「今はとにかく、ザルツブルグを目指しましょう。そして、そこで今後の具体的な策を練るのよ……」
長い夜が、ようやく明けようとしていた。洞窟の入り口から、東の空が乳白色に白み始めているのが見えた。森の木々の間から差し込む最初の朝日は、まるで天からの啓示のように、あるいはささやかな希望の筋のように、薄暗い洞窟の奥まで微かに届いた。
三人は短い休息を取り、残されたわずかな保存食を黙って分け合った。カリナの顔にはまだ深い疲労の色が濃く残っていたが、その瞳には昨夜とは明らかに違う、困難に立ち向かう決意の輝きがあった。
「行きましょう」
カリナが、震えながらも、しっかりとした声で言った。
ヴァナネルサは力強く頷き、シオリは無言で立ち上がると、音もなく洞窟の外に出て、周囲の安全を最終確認した。追っ手の気配は、まだ完全に消えたわけではない。しかし、彼らの心には、もはや絶望だけではない、新たな決意が芽生えていた。