戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第十一話

 黒森の息苦しい闇をようやく抜け出した時、三人の眼前に広がったのは、鉛色の空の下、荒涼とした岩肌が続く谷間の風景だった。木々のざわめきは遠のき、代わりに吹き抜ける風の音が、まるで世界の終末を告げるように物悲しく響く。空気は乾燥し、土埃が舞い、足元の草もまばらで生命の気配は希薄だった。これが、ヴァナネルサが言っていた「谷間」の入り口なのだろう。

 

「……風が、冷たいわね」

 

 カリナは、黒森の湿った空気とは異なる、乾いて肌を刺すような風に身を震わせた。数日間の逃避行で擦り切れた外套では、この谷間の寒さを十分に凌ぐことは難しい。しかし、彼女の瞳には、森を抜けたことによるわずかな安堵と、これから先の道を見据える強い光が宿っていた。

 

 ヴァナネルサは、常にカリナの数歩前を、あるいは傍らを歩き、その身を盾にするように周囲を警戒していた。その青い瞳は、訓練された憲兵騎士らしく、微細な地形の変化や遠くの物音にも鋭く反応する。

 

「街道は避け、この谷沿いに東へ進みます。目指すザルツブルグは、この谷の奥深く、かつて鉄鉱石で栄えた古い鉱山町です。今は寂れ、忘れられたような場所だと聞いていますが、それ故に追っ手の目も届きにくいかと。カリナ様、ご無理なさらないでください。何かあればすぐに」

 

 その声は穏やかだが、カリナへの深い忠誠心と献身が滲んでいた。

 

 シオリは最後尾で、まるで影のように気配を消し、一定の距離を保って追従していた。彼女の視線は常に森の奥深く、あらゆる方向へと鋭く注がれている。追っ手の斥候を始末し、本隊の到着を遅らせることはできたはずだが、油断はできない。彼らは執拗だ。

 

「この谷は開けている。森の中より視界は効くが、隠れる場所も少ない。夜を待って行動するか?」

 

 シオリの簡潔な問いに、ヴァナネルサは首を横に振った。

 

「いえ、ザルツブルグまではまだ距離があります。夜まで待てば、カリナ様のお身体に障ります。それに、この谷は夜になると想像以上に冷え込みます。日のあるうちに、少しでも距離を稼ぎたい」

 

 その言葉通り、カリナの顔色は芳しくなかった。唇は乾き、頬はこけ、足取りもおぼつかない。それでも彼女は弱音を吐かず、必死にヴァナネルサの背中を追った。シオリは、そんなカリナの様子を感情の乗らない瞳で観察していた。彼女にとってカリナは、現状、王都の情報を引き出すための、そしてエストンという共通の敵に関する手掛かりを持つ、利用価値のある存在だった。その生存は、シオリ自身の目的達成のためにも必要と判断されていた。

 

 道中、彼らはいくつかの小さな困難に直面した。崩れやすい崖っぷちを慎重に渡り、涸れかけた川底にわずかに残る濁った水を濾して飲み水にした。食料は底をつきかけており、ヴァナネルサが、かつて奴隷として生き延びるために身につけた狩猟の知識と、憲兵騎士としての野営技術を活かし、罠を仕掛けて捕らえた数匹のトカゲや野ウサギが、貴重なタンパク源となった。カリナは最初、その血生臭さに顔をしかめたが、空腹には勝てず、シオリが手際よく解体し、ヴァナネルサが火で炙ったそれを黙って口に運んだ。生きるためには、選り好みなどしていられない。その事実が、彼女の王族としての繊細さを少しずつ削ぎ落とし、代わりに現実を生き抜くための強さを与えていた。

 

 ある日の夕暮れ時、彼らは風雨を凌げる小さな岩陰を見つけて野営の準備をしていた。ヴァナネルサが周囲の枯れ木を集め、シオリが火打石で火を熾そうとしていると、カリナが傍らの石に腰掛け、疲れた顔でヴァナネルサが差し出した水筒を受け取った。彼女が小さく咳き込むのを見て、ヴァナネルサは眉を寄せ、心配そうに声をかけた。

 

「カリナ様、お加減が優れませんか? 少しですが、私の力で……」

 

 彼の手のひらが淡い治癒の光を帯び、カリナの背中にそっと触れようとした。しかしカリナはそれを穏やかに制した。

 

「大丈夫よ、ヴァナネルサ。ありがとう。あなたの力は、本当に必要な時まで温存しておいて。私は……このくらい、平気」

 

 その言葉に、ヴァナネルサは一瞬、不安げな表情を見せたが、カリナの意志の強さを感じ取り、静かに手を下ろし、「……かしこまりました」とだけ答えた。

 

 シオリが、無駄のない動きで火を熾し終え、淡々と告げた。

 

「見張りは交代で行う。まずは私が立つ。お前たちは休め」

 

 その声には感情がなく、ただ事実を述べているだけだった。ヴァナネルサは「承知いたしました。後のことはお任せください」と応じ、カリナはシオリの背中を見つめながら、この異質で強大な剣士の存在が、自分たちの唯一の希望であるという現実を改めて噛み締めていた。

 

 数日後、彼らの目の前に、ようやくザルツブルグの町並みが見えてきた。遠目にも分かるほど、町は荒廃していた。赤茶けた岩肌を背景に、煤けた家々が密集し、いくつかの煙突からは、頼りなげに細い煙が立ち上っているだけ。活気というものはまるで感じられず、まるで時間が止まってしまったかのような、深い静寂と物悲しさが漂っていた。

 

「これが……ザルツブルグ……」

 

 カリナが呟いた。

 

「父の書斎にあった古い地図には、活気あふれる鉱山の都と記されていたけれど……」

 

 かつては良質な鉄鉱石を産出し、王都へも供給していたというこの町は、鉱脈の枯渇と共に急速に寂れ、今では忘れ去られた存在となっていた。

 

 三人は、人目を避けるように丘の稜線を辿り、町の外れへと近づいた。粗末な木の柵で囲まれた町への入り口は、番兵の姿もなく、寂れた商店が数軒並んでいるだけだった。すれ違う住民たちの顔は一様に暗く、その目はうつろで生気がない。彼らは見慣れぬ三人組を警戒するように一瞥するだけで、すぐに目を伏せて足早に去っていく。町全体が、まるで巨大な墓場のようだった。

 

「まずは情報を集めましょう。そして、安全な潜伏場所を確保しなければ」

 

 ヴァナネルサが、常にカリナの半歩前に立ち、周囲への警戒を怠らずに言った。

 

「この町には、かつて父の代から王家に仕えていた古い家系の者がいると聞いています。今もこの町に留まっているかは分かりませんが、もし見つけられれば、何らかの助けが得られるかもしれません」

 

 彼の言葉には、わずかな希望と、それを裏切られるかもしれないという不安が混じっていた。

 

 ヴァナネルサの記憶を頼りに、三人は埃っぽい裏路地を選んで進んだ。道端にはゴミが散乱し、不快な臭いが漂っている。時折、路地の暗がりから鋭い視線を感じたが、シオリがその方向へ一度だけ冷たい視線を送ると、すぐにその気配は消えた。この町では、誰もが他人を警戒し、深く関わることを避けているようだった。

 

 やがて、比較的大きな、しかし今は寂れ果てた屋敷の前にたどり着いた。門は固く閉ざされ、庭は荒れ放題だったが、煙突からはかろうじて煙が上がっている。

 

「ここかもしれません。ザルツブルグの代官を長く務めた、バルトロ家の屋敷です」

 

 ヴァナネルサが重々しく扉を叩くと、しばらくして、中から警戒するような老人の声がした。

 

「……何用かな」

 

 カリナが一歩前に出て、落ち着いた声で言った。

 

「突然の訪問、申し訳ありません。私たちは旅の者ですが、この町のバルトロ様にご挨拶させて頂きたく参りました。王都の……ある方からのご紹介で」

 

 彼女はあえて曖昧な言い方をしたものの、その声には隠しきれない気品があった。

 

 しばらくの沈黙の後、軋む音と共に扉がわずかに開かれ、やつれた顔の老人が顔を覗かせた。彼はカリナの顔をじっと見つめ、そして息を呑んだように目を見開いた。

 

「……まさか……そのお姿、その声……カリナ王女、殿下……?」

 

 その時だった。屋敷の角から、武装した数人の男たちが現れた。彼らは王都の兵士ではなく、地元の自警団を名乗る者たちらしい。粗末な革鎧に身を包み、手には錆びた剣や棍棒を握っている。リーダー格の男は、熊のように大柄で、顔には深い傷跡があった。

 

「おい、バルトロの爺さん! 見慣れねえ奴らを匿っているって密告があったぞ! そいつらを出せ!」

 

 男の濁った声が、静まり返った路地に響き渡った。その獣のような視線が、カリナたち三人を捉える。

 

 ヴァナネルサが即座にカリナの前に立ち、腰の剣に手をかけた。

 

「カリナ様、お下がりください!」

 

 しかし、それよりも早く、シオリの姿が消えていた。

 

「──ッ!?」

 

 自警団の男たちが何事かと周囲を見回す間もなく、彼らの背後や側面に、まるで瞬間移動したかのようにシオリが現れ、鞘のままの「月影」で的確に急所を打ち据えていく。ゴッ、バキッという鈍い音と共に、屈強な男たちが短い呻き声を上げて次々と地面に崩れ落ちていく。それはあまりにも一方的で、あまりにも速い制圧だった。シオリの動きには一切の無駄も躊躇もなく、まるで精密な機械が作業をこなすかのようだった。彼女にとって、彼らは目的の障害でしかなく、排除するのに時間はかけない。

 

 リーダー格の男だけが、恐怖に顔を引きつらせながらも、かろうじて立っていた。シオリが、その男の喉元に「月影」の冷たい切っ先を音もなく突きつける。

 

「……次はない」

 

 氷のように冷たい声。男は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 

 バルトロと呼ばれた老人は、目の前で起こった出来事に呆然としていたが、すぐに我に返り、カリナに向かって深く頭を下げた。

 

「カリナ王女殿下……よくぞご無事で……! なんという無礼な者どもを……! さあ、中へ。このような場所では危険です」

 

 彼は慌てて三人を屋敷の中へと招き入れた。

 

 屋敷の中は、外見同様に寂れていたが、最低限の生活は保たれているようだった。バルトロは、震える手で三人に粗末な茶を出しながら、語り始めた。

 

「王都での変事はこちらにも伝わっております。エストンめ……許しがたい暴挙。殿下、このザルツブルグも、もはや安全ではございません。王都からの役人が頻繁に訪れ、不審者の捜索と称して横暴な取り調べを行っております。先程の自警団も、役人に媚を売ろうとする者どもの一部でしょう」

 

 カリナは静かに頷いた。

 

「エストンは、私を生け捕りにしようとしているのでしょう。私には……彼らが欲しがる『価値』があるから」

 

 その言葉には、王族としての重い宿命を自覚する響きがあった。

 

「バルトロ様、自由都市連邦へ抜ける道をご存じありませんか? 父は生前、連邦との繋がりを重視しておりました。そこならば、助力を得られるかもしれません」

 

 バルトロは、しばらく黙考した後、重々しく口を開いた。

 

「……一つだけ、古い言い伝えがございます。この町の南にある、今は完全に閉鎖された古い鉱山……その最深部に、古代の民が掘ったとされる秘密の坑道があり、それが自由都市連邦の領域へと繋がっていると。しかし、その廃坑は『呪われた場所』として忌み嫌われ、近寄る者はおりません。鉱山の精霊の怒りに触れるとか、恐ろしい化け物が住み着いているとか……真偽は定かではございませんが」

 

 その意味深な言葉に、カリナが息を飲んだ。ヴァナネルサは、カリナの顔を案じるように見つめていた。役人の甲高い声が、扉の向こうから響き渡る。

 

「バルトロ! 開けろ! 王女を匿っていることは分かっているのだぞ!」

 

 バルトロの顔から血の気が引いた。

 

「役人どもです……! どうやら、先程の騒ぎで嗅ぎつけられたか……!」

 

 ヴァナネルサが即座にカリナの前に立ち、剣に手をかける。カリナもまた、絶望的な状況を悟りながらも、唇を固く引き結んだ。

 

 しかし、シオリは動じなかった。彼女は無表情のまま、バルトロが語った「呪われた廃坑」の方向──屋敷の南側の窓の外──に視線を向けた。その瞳には、常人には読み解けない冷徹な計算が宿っているようだった。

 

「……道は、一つではない」

 

 シオリが静かに呟いたその言葉は、迫りくる役人の怒号にかき消されそうだったが、カリナとヴァナネルサの耳には確かに届いた。彼女が見据える先には、一体何があるというのか? そして、その「道」は、彼らにとって希望となるのか、それとも更なる絶望への入り口となるのか。役人たちの足音が、屋敷の扉を激しく叩き始めていた。

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