戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第十二話

 屋敷の扉を叩き破ろうとする役人たちの怒号と、重い木材が軋む衝撃音が、壁を震わせる。バルトロ老人は恐怖に顔を青ざめさせ、床に膝をつきそうになるのを必死で堪えていた。その皺深い顔には、長年この寂れた町で耐え忍んできたであろう疲労と、それでもなお消えぬ王家への忠誠が複雑に浮かんでいる。ヴァナネルサはカリナを背に庇い、柄を握る手に力を込めた。その額には脂汗が滲み、青い瞳には死をも覚悟したような、しかし決して諦めないという決意の炎が宿っている。絶望的な空気が、埃っぽく黴臭い部屋に満ち満ちていた。

 

「シオリ殿、あなたの言う『道』とは……? この状況で、一体どこへ……!」

 

 ヴァナネルサが、絞り出すような声で背後のシオリに鋭く問いかける。その声には、切迫した焦りと、この常識外れの剣士に対する、もはや祈りに近いわずかな期待が混じっていた。

 

 シオリは、南の窓から見える廃坑の方角から視線を外さず、静かに答えた。その声は、周囲の喧騒とは無関係であるかのように、水面のように不思議なほど落ち着いていた。

 

「……障害は排除する。その後、あの老人が言っていた『呪われた廃坑』へ向かう。他に選択肢はない」

 

 その言葉は、感情を一切排した、冷徹なまでの結論だった。まるで、熟練の棋士が盤上の数手先を読み切り、最善手を告げるかのように、状況を客観的に判断し、最も効率的な次の一手を告げているかのようだった。

 

「し、しかし、役人の数は先程の者共とは比べ物になりませぬぞ! それに、廃坑は……あそこはまこと、人の立ち入るべき場所ではございません! 生きて戻った者は、儂の知る限り一人も……!」

 

 バルトロ老人が震える声で訴える。その言葉は、単なる噂話への恐怖ではなく、長年この土地で聞き、感じてきたであろう、廃坑の持つ不気味な実体感から発せられているようだった。

 

「危険を避けていては、何も得られぬ。生存の可能性が僅かでもあるならば、それに賭けるまでだ」

 

 シオリは短く言い放つと、その姿がふっと掻き消えた。まるで、陽炎が揺らめいて消えるように、何の予兆もなく。

 

 次の瞬間、屋敷の玄関の方から、役人たちの短い悲鳴と、甲高い金属が激しくぶつかり合う音、そして骨を砕くかのような鈍い衝撃音が連続して響き渡った。それは先程の自警団の制圧よりも激しく、そして信じられないほど短い時間で終わった。あまりにも一方的で、抵抗の音すらすぐに途絶えた。やがて、不気味な静寂が訪れる。床に何かが崩れ落ちる重い音が、数度響いただけだった。

 

 カリナとヴァナネルサが息を飲んで見守る中、シオリが音もなく部屋に戻ってきた。その黒衣には、返り血一つついていない。まるで、激しい嵐の中心にいながら、その風雨に一切濡れなかったかのようだった。ただ、彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬、何か獣のような、あるいは遥か昔の戦場を思い起こさせるような、冷たい光が宿ったように見えたのは、カリナの気のせいだったろうか。

 

「……片付けた。行くぞ」

 

 彼女の言葉通り、玄関ホールには数人の役人が意識を失って倒れ伏していた。彼らの鎧は歪み、武器はあらぬ方向に転がっている。シオリは、彼らの命までは奪っていないようだが、再起不能に近いほどのダメージを与えたことは明らかだった。

 

「シオリさん……」

 

 カリナが、畏怖と安堵の入り混じった声で呟いた。彼女の圧倒的な力を目の当たりにするたびに、その存在の異質さと、自分たちがどれほど危うい綱渡りをしているのかを思い知らされる。しかし、同時に、それが唯一の希望であるという事実もまた、否定できない。

 

「時間がない。バルトロ、廃坑への最短ルートを教えろ」

 

 シオリは、感情の揺らぎを見せない瞳で老人に指示を出す。

 

 バルトロ老人は、まだ目の前の惨状とシオリの人間離れした力への動揺を隠せない様子だったが、シオリの有無を言わせぬ気迫に押され、震える指で屋敷の裏口を指差した。

 

「は、はい……こ、こちらから……町を抜け、南へ向かえば……古いトロッコの線路跡が……それが廃坑の入り口まで続いております。しかし、まことに……あの場所は、お若い方々が行かれるにはあまりにも……」

 

 彼の言葉は、老婆心からの忠告というよりも、呪われた場所への本能的な恐怖から発せられているようだった。

 

「ヴァナネルサ、カリナを頼む」

 

 シオリはヴァナネルサに一言告げると、先に裏口から飛び出した。その動きには一切の迷いがない。

 

 ヴァナネルサは「承知いたしました! カリナ様、参りましょう。シオリ殿の判断を信じるしかありません。彼女は……我々を生かすために最善を尽くしてくれているはずです」と力強く応え、カリナの手をしっかりと握った。彼の言葉には、シオリへの複雑な感情──畏怖、警戒、そしてわずかな、しかし確かな信頼──が込められているようだった。

 

 カリナは頷き、バルトロ老人に深く頭を下げた。

 

「バルトロ様、ご迷惑をおかけいたしました。このご恩は決して忘れません。どうか、お気をつけて」

 

「王女殿下こそ……どうか……ご無事で……儂には、もはや祈ることしかできませぬが……」

 

 老人は、祈るように三人の背中を見送った。彼の目には、諦観と、そしてほんのわずかな希望の光が揺らめいていた。

 

 ザルツブルグの裏路地を駆け抜け、町外れに出ると、確かに古びたトロッコの線路跡が、南の荒涼とした山肌へと伸びていた。錆びつき、所々で途切れている線路は、まるで冥府へと続く道のようにも見える。周囲には、打ち捨てられた鉱山の機械や、風化した木材が散乱しており、かつての賑わいを偲ばせるものは何もなかった。時折、乾いた風が吹き抜け、錆びた金属がキーキーと不気味な音を立てた。

 

 三人は、息を切らしながら線路跡を辿った。背後からは、新たな追っ手の気配はまだ感じられないが、安心はできない。役人たちが全滅したわけではないだろう。いずれ応援が駆けつけ、この廃坑へも捜索の手が伸びるはずだ。

 

 やがて、彼らの目の前に、巨大な岩壁にぽっかりと口を開けた、不気味な廃坑の入り口が現れた。入り口周辺には、腐りかけた木材や錆びた鉄くずが散乱し、冷たい風が奥から吹き付けてくる。その闇の奥からは、何かが蠢くような不気味な気配と、微かな硫黄の匂い、そして湿った土の匂いが混じり合って漂っていた。入り口の上部には、かろうじて「ザルツブルグ中央鉱山 第三坑口」と刻まれた石板が残っていたが、その文字は苔と風化でほとんど読み取れなくなっている。まるで、太古の獣の喉笛を覗き込んでいるような、圧倒的な威圧感があった。

 

「ここが……呪われた廃坑……」

 

 カリナが、ゴクリと唾を飲み込んだ。その表情には、恐怖だけでなく、未知なるものへのわずかな好奇心も混じっているように見えた。

 

 ヴァナネルサは剣を抜き放ち、松明に火を灯した。しかし、彼が懐から取り出した松明は、これが最後の一本だった。その事実に、彼の表情に一瞬影が差すが、すぐに気を取り直し、カリナには気づかせないように努めた。その炎が、入り口付近の湿った岩肌を不気味に照らし出す。岩肌には、奇妙な幾何学模様のようなものが刻まれている部分もあったが、それが自然の浸食によるものか、あるいは何者かの手によるものかは判然としなかった。

 

「カリナ様、私の傍から離れませんよう。シオリ殿、内部の状況は?」

 

 ヴァナネルサの声は、努めて冷静だったが、その緊張は隠せない。彼は、剣を握る手に汗が滲むのを感じた。

 

 シオリは、すでに坑道の入り口に立ち、闇の奥を凝視していた。彼女の研ぎ澄まされた五感は、常人には感知できない微細な空気の流れや音、匂いの変化を捉えようとしている。

 

「……複数の気配。人ではない。そして……何か、奇妙な反響がある。構造が複雑なようだ。松明の火は、長くはもたないだろうな」

 

 シオリの最後の言葉に、ヴァナネルサはハッとした。カリナも不安げに、揺らめく松明の炎を見つめる。その炎は、まるで廃坑の闇に吸い込まれるのを恐れるかのように、弱々しく震えていた。

 

「松明が……これ一本しかないとは、計算外だったわね」

 

 カリナが、小さな声で言った。彼女の声には、自嘲と、そしてヴァナネルサへの気遣いが含まれていた。

 

「私の荷物にも、予備の松明はもう……」

 

「申し訳ありません、カリナ様。私の準備不足です。まさか、これほど早く消耗するとは……」

 

 ヴァナネルサが頭を下げる。彼の声には、痛恨の念が滲んでいた。

 

「いいえ、ヴァナネルサ。あなたはいつも最善を尽くしてくれているわ。それに、予測できないことばかりですもの。それよりも、この状況でどうするかを考えましょう」

 

 カリナは、彼の忠誠心に報いるように、毅然とした態度を見せた。その瞳には、困難に立ち向かう決意が宿っていた。

 

 シオリは、二人の会話を黙って聞いていたが、特に何も言わなかった。彼女にとって、それは現状認識の一つに過ぎず、感傷や責任の所在を議論する時間は無駄だと考えているようだった。しかし、その横顔は、わずかに何かを思考しているようにも見えた。

 

 三人は、頼りない光を頼りに、廃坑の奥へと足を踏み入れた。ひんやりとした湿った空気が肌を刺し、壁からは水滴が滴り落ちる音が、まるで誰かの足音のように不気味に響く。道は狭く、天井も低い。所々で落盤の跡があり、行く手を阻むように巨大な岩が転がっていた。空気は重く、硫黄の匂いが強くなってくる。その匂いに混じって、何か獣の体臭のような、あるいはもっと古い時代の腐敗臭のような、言いようのない不快な臭気が鼻をついた。

 

「この匂い……有毒なガスが発生している可能性も考えられます。カリナ様、もし気分が悪くなったらすぐに仰ってください」

 

 ヴァナネルサが、布で口元を覆いながら言った。

 

 しばらく進むと、最初の「住人」が現れた。それは、人間の背丈ほどもある、巨大な蝙蝠のような生物だった。全身が赤黒い体毛で覆われ、鋭い爪と裂けたような口からは、おびただしい数の牙が覗いている。その血走った赤い目が、松明の光を反射して不気味に輝いた。

 

「クリムゾン・バットか! 伝承通りの化物だな!」

 

 ヴァナネルサが叫び、カリナを庇いながら剣を構える。

 

 数匹のクリムゾン・バットが、耳障りな甲高い鳴き声を上げながら、天井や壁から一斉に襲いかかってきた。その動きは素早く、予測しづらい。羽ばたきはほとんど音を立てず、闇に紛れて襲い掛かる。

 

 ヴァナネルサが巧みな剣捌きで応戦する。彼の剣は的確にバットの翼を切り裂き、あるいは胴を薙ぐ。しかし、敵の数は多く、次から次へと現れる。狭い坑道での戦いは、彼の動きを制限し、カリナを庇いながらでは全力を出し切れない。

 

 一匹が、ヴァナネルサの防御をすり抜け、カリナに迫った瞬間、闇の中から一条の銀閃が走った。シオリの「月影」だ。音もなく飛来したバットの首が、胴体から綺麗に切り離され、壁に叩きつけられた。その切断面は、まるで鋭利な剃刀で切られたかのように滑らかだった。

 

 シオリは、まるで舞うように、しかし一切の無駄のない動きでクリムゾン・バットの群れを切り裂いていく。その剣技は、もはや人間の域を超えていた。松明の光に照らされた彼女の姿は、まるで死を司る女神のようであり、そのあまりの美しさと恐ろしさに、カリナは一瞬、呼吸を忘れた。シオリの剣は、殺戮のための道具ではなく、何か崇高な儀式を執り行っているかのような、一種の荘厳さすら感じさせた。

 

 激しい戦闘の末、クリムゾン・バットの群れを退けた時、三人は坑道の分岐点にたどり着いた。道は三方向に分かれている。床には、倒されたクリムゾン・バットの死骸が転がり、鉄錆のような血の匂いが漂っていた。松明の炎は、先程の戦闘で激しく揺れ、かなり小さくなっていた。まるで、風前の灯火だった。

 

「どの道を行くべきか……」

 

 ヴァナネルサが息を整えながら呟く。彼の額には汗が光り、呼吸も荒い。焦りの色が濃くなっていた。

 

「このままでは、松明が……」

 

 カリナは、父から託された古い地図を思い出し、懐から取り出した。それはザルツブルグ周辺の古い地質図の一部で、鉱脈の走向などが記されているものだった。彼女の指先が、微かに震えている。この地図が、自分たちの命運を左右するかもしれないという重圧が、彼女の肩にのしかかっていた。

 

「待って……この地図……もしかしたら、廃坑の古い坑道の一部が記されているかもしれないわ」

 

 彼女は残り少ない松明の光にかざし、必死に地図を読み解こうとする。その真剣な表情には、もはや以前の弱々しさはなかった。王女としての教養が、今、生き残るための武器になろうとしていた。彼女の脳裏には、父王と書斎で過ごした日々、古い書物を読み解く楽しさと難しさを教わった記憶が蘇っていた。

 

「この記号……確か、父の書斎にあった古い鉱山学の書物に載っていたわ。これは、古い時代の通気孔を示している可能性がある。そして、この線の流れ方……おそらく、一番右の道が、より深く、そして古い区画へ続いているはず。もしこれが正しければ、途中で外光が差し込む場所があるかもしれない。あるいは、もっと安全な場所に……」

 

 カリナの指差す先を、シオリとヴァナネルサが見つめる。

 

「……確証はあるのか」

 

 シオリが静かに問う。その声には、わずかながら真剣みが含まれているように感じられた。それは、カリナの知識に対する評価というよりは、状況の打開に必要な情報かどうかの確認だった。

 

「いいえ……でも、父は常々、古い伝承や記録には、忘れられた真実が隠されていると仰っていたわ。時には、最も不確かな情報の中にこそ、活路が見出せるものだって。私たちは、それに賭けるしかない」

 

 カリナは、強い意志を込めて答えた。その瞳は、揺らめく松明の光を反射し、爛々と輝いていた。彼女は、ただ怯えるだけの王女ではない。自らの知識と判断で、この窮地を切り開こうとしていた。

 

 シオリは、カリナの瞳を数秒見つめた後、「……ならば、行け。時間の猶予はない」とだけ言った。それは、カリナの判断を信頼したというよりは、現状で最も合理的な選択肢として受け入れた、というニュアンスだった。彼女の言葉には、感情の代わりに、冷徹なまでの効率性が常に優先されていた。

 

 三人は、カリナの示す右の坑道へと進んだ。道はさらに険しくなり、足元には不気味な粘液が広がり、壁には奇妙な発光する苔が点々と生えていた。その苔の光はあまりにも弱く、松明の代わりには到底なりそうにない。空気はさらに重くなり、硫黄の匂いが鼻を突き、喉を刺激した。

 

 坑道を進むうち、ヴァナネルサの呼吸が徐々に荒くなっていることにカリナは気づいた。彼の額には脂汗が浮かび、顔色が悪い。時折、バランスを崩しそうになるのを、壁に手をついて堪えている。

 

「ヴァナネルサ? 大丈夫?」

 

 カリナが心配そうに声をかける。

 

「……問題、ありません、カリナ様。少し……息が苦しいだけです」

 

 彼は努めて平静を装うが、その声はかすれ、言葉の端々に苦痛が滲んでいた。

 

 シオリが、ふと足を止め、ヴァナネルサの腕を掴んだ。その動きは、まるで獲物を捉える猛禽のように素早かった。そして、彼の袖を無造作に捲り上げる。そこには、先程のクリムゾン・バットとの戦闘で負ったと思われる、深い切り傷があった。アドレナリンで気づかなかったのだろう、出血は止まっているように見えたが、傷口が不気味な紫色に変色し、周囲の皮膚が腫れ上がっていた。

 

「これは……」

 

 ヴァナネルサ自身も、その傷を見て息をのんだ。彼の手が微かに震えている。

 

「毒だ」

 

 シオリが短く告げる。

 

「あの蝙蝠の爪には、神経系の毒が含まれていたらしい。呼吸困難を引き起こす類のものだ。進行が速い」

 

「毒……!? 私が持っている薬草では……」

 

 カリナが慌てて薬袋を探るが、この特殊な毒に効くようなものは見当たらない。王宮の薬草園には様々な薬草があったが、こんな辺境の、それも廃坑に潜む魔物の毒に対応できるものなど持ち合わせているはずもなかった。彼女の顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。

 

 ヴァナネルサが、苦悶の声を漏らし、膝をついた。

 

「くっ……申し訳……ありま……せん……カリナ様……この、私が……不甲斐ないばかりに……この役立たずめ……」

 

 治癒魔法を使おうとするが、体力の消耗と毒の影響か、彼の手のひらから放たれる光は弱々しく、傷はほとんど塞がらない。それどころか、光が霧散してしまい、魔法を発動させることすら困難になっているようだった。彼の額からは、大粒の汗が流れ落ち、呼吸は浅く速い。

 

「ヴァナネルサ、しっかりして! そんなことを言わないで!」

 

 カリナが彼の肩を支える。彼女の声は、必死だった。

 

 松明の炎が、いよいよ消え入りそうに揺らめき始めた。まるで、ヴァナネルサの命の灯火と呼応するかのように。闇がすぐそこまで迫っている。ヴァナネルサは動けず、カリナは有効な治療手段を持たない。このままでは、ヴァナネルサは危険な状態に陥り、そして全員が闇の中で立ち往生してしまう。焦燥感と絶望感が、カリナの心を押し潰そうとしていた。

 

 シオリは、静かにヴァナネルサの傷口を見下ろし、そして消えかける松明に目をやった。彼女の顔には何の感情も浮かんでいないが、その瞳の奥では、冷徹な計算が高速で行われているようだった。この状況で、最も合理的な判断は何か。ヴァナネルサを見捨て、カリナだけを連れて進むことか? それとも……。彼女の視線が、一瞬、カリナの絶望に歪む顔を捉えた。ほんの僅かな時間だったが、その瞬間、シオリの瞳の奥に、何か読み取れない微かな揺らぎのようなものが生じたように見えた。それは、かつて失った何かを思い起こさせるような、あるいは新しい感情の芽生えを示唆するような、捉えどころのないものだった。

 

 カリナは、絶望的な状況の中で、必死にシオリを見上げた。その瞳には、懇願の色が浮かんでいた。

 

「シオリさん……お願いします。ヴァナネルサを見捨てることはできません。彼がいなければ、私はここまで決して辿り着けなかった。彼もまた、あなたと同じように、私にとってかけがえのない存在です」

 

 カリナの声は震えていたが、そこには明確な意志があった。彼女の言葉は、シオリの冷徹な計算に、ほんのわずかな波紋を投げかけたのかもしれない。それは、合理性だけでは割り切れない、人間の絆という不確定要素だった。

 

 シオリは、カリナの言葉を聞き終えると、周囲の壁に生える発光する苔に一瞥をくれた。その光は弱いが、広範囲に集めれば、あるいは。そして、彼女の視線が、坑道のさらに奥、微かに何かの気配がする方へと向けられた。そこには、先程のクリムゾン・バットとは異なる、より大きく、そして不気味な何かが潜んでいる気配が濃厚だった。その気配は、バルトロ老人が言っていた「呪われた場所」の核心に近づいていることを示唆していた。それは、シオリですら警戒を要するほどの、強大な存在の気配だった。

 

「……時間がない。選択肢は限られている」

 

 シオリの声は、相変わらず平坦だったが、その言葉の重みはカリナにもヴァナネルサにも痛いほど伝わった。

 

「あの苔を集め、光源を確保する。その間に、毒の進行を遅らせる手立てを探す。この坑道の奥に、何か手がかりがあるかもしれん。あるいは……毒を持つ生物がいれば、その体内に解毒の成分がある可能性も否定できない」

 

 それは、極めて危険な賭けだった。しかし、現状ではそれしか道がないのかもしれない。そして、その言葉の裏には、ヴァナネルサを見捨てないという、シオリなりの結論が示されているようにも感じられた。

 

 松明の炎が、最後の抵抗のように一度だけ大きく燃え上がり、そして……ぷすりと音を立てて静かに消えた。完全な闇が、彼らを包み込んだ。肌を刺すような冷気と、ヴァナネルサの苦しげな息遣い、そして自分自身の心臓の音だけが、暗闇の中でいやに大きく響いた。闇は、彼らの恐怖を増幅させ、未知の脅威への想像を掻き立てる。しかし、その絶望的な闇の中で、カリナはシオリの言葉の奥にある、かすかな可能性に懸けようとしていた。

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