戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
音もなく、最後の灯火が息絶えた。ぷつり、という断末魔すら残さず、それは虚空に吸い込まれ、後に残されたのは純粋な闇の質量だった。視界を塗り潰すというより、存在そのものを希薄にし、意識の輪郭すら曖昧にするような深淵。肌を刺すという紋切り型の表現では追いつかない、骨の髄まで染み入るような冷気が満ち、ヴァナネルサの荒く、しかし途切れがちな息遣いだけが、カリナ自身の恐怖に波打つ心臓の鼓動と不協和音を奏でながら、この閉ざされた世界の唯一の律動となっていた。闇は、もはや壁の染みや岩の凹凸といった具体的な恐怖の対象すら許さず、ただただ内側から湧き上がる不安そのものを無限に増殖させていく。一寸先どころか、自らの指先すら覚束ないこの絶対的な虚無が、カリナの魂をじわじわと締め上げていた。
「シオリさん……」
声は震え、闇に溶けて消え入りそうだった。返答はない。しかし、あの黒衣の剣士が、この虚無のどこかに存在しているという確信だけが、荒波に漂う小舟を繋ぎとめる、あまりにも細く、頼りない錨だった。シオリが告げた言葉──苔を集め、光源を確保する。毒の進行を遅らせる手立てを探す──その無機質な響きの言葉たちが、今は祈りのようにカリナの内で繰り返される。
「ヴァナネルサ……しっかり……」
手探りで触れた彼の肩は、高熱を帯びて小刻みに震えていた。衣服越しに伝わるその熱は、毒という見えざる敵が彼の生命を内側から侵食しているという、残酷な現実を突きつける。
「……カリナ様……お逃げ……くだ……さい……私が……この身が……足手まと……いに……」
闇の底から絞り出されるような声。その一つ一つの音節が、研ぎ澄まされた刃のようにカリナの胸を抉った。忠誠という名の呪縛が、彼を今際まで苦しめている。
「いいえ! 決して……見捨てたりしないわ!」
熱いものが込み上げるのを、奥歯を噛み締めて押し殺した。今は涙を流す時ではない。シオリの指示。そうだ、光源を。カリナは壁に震える手をつき、僅かでも光を放つ苔の存在を信じて、暗闇の中へおそるおそる一歩を踏み出した。しかし、闇に目は馴染まず、ただ冷たく湿った岩肌の感触が手のひらに伝わるばかり。足元もおぼつかず、見えぬ小石につまずき、体勢を崩しかけた。
その刹那。
「……動くな」
氷を思わせる静謐な声が、カリナの鼓膜を打った。背後から伸びた何かが、彼女の肩を軽く、しかし抗いがたい力で押さえつける。間髪を入れず、闇の奥底から、シャアア、と湿った粘液が擦れるような音、カチ、カチ、と無機質な硬いものが触れ合う微音が、複数、こちらへとにじり寄ってくるのが分かった。それは先程のクリムゾン・バットの空を切るような獰猛さとは異質の、より地を這い、粘着質で、本能的な嫌悪感を呼び覚ます気配だった。
「カリナ様、伏せて!」
ヴァナネルサのかすれきった絶叫。それと重なるように、闇を切り裂く鋭利な風切り音が数条走り、骨が砕ける鈍い音と、甲高い、しかし短い断末魔の残響が、湿った壁に吸い込まれていった。シオリが動いたのだ。
「ひっ……!」
カリナは反射的にその場に身を縮こませた。見えないという事実が、恐怖を際限なく肥大させる。闇の中で繰り広げられるであろう死闘の残忍な光景を、網膜の裏に焼き付けまいと固く目を閉じた。
金属が擦れる音、何かが潰れる粘質な音、そしてシオリのものと思われる、乱れぬ呼吸音だけが、濃密な闇に染みのように広がる。それは永遠にも感じられる数十秒、あるいは数分。やがて、物音は途絶え、再び全てを飲み込むような重苦しい静寂が支配した。
「……片付けた。だが、まだ来る。お前がいたずらに声を上げたことで、奴らが誘引されたのだ」シオリの声は、研ぎ澄まされた冬の刃のように冷え冷えとしていた。わずかに、常よりも深く息を吸い込む気配が、その言葉の端々に滲んでいた。闇に目が慣れたわけではないが、カリナにはシオリが周囲への警戒を解いていないことが肌で感じられた。その言葉に含まれる非難は、カリナの罪悪感を容赦なく抉り出す。
「わ、私が……? でも、ヴァナネルサが……!」
声はうわずり、言葉にならない。己の軽率さが新たな危機を招いたという自覚が、鉛のように彼女の心に沈み込む。
「戦場において、斃れた兵卒を見捨てて前進するのは定石だ。感傷は、個人のみならず、部隊全体を致命的な危険に晒す要因となる」
シオリは、まるで普遍の真理を語るかのように淡々と告げた。そこには感情の揺らぎはおろか、一片の同情すら感じられない。
「そんな……! ヴァナネルサは、ただの兵士などでは……! 彼がいなければ、私はここまで……!」
カリナは声を荒げた。シオリの冷徹な合理性は理解の範疇を超えていた。彼を見捨てるという選択肢は、彼女の世界には存在しなかった。
闇の中で、シオリが微かに動く気配。カリナのすぐ傍らに膝をついたのだろう。そして、その声は、耳元で囁くように、しかし心の臓腑を直接掴むような鋭さで響いた。
「では、どうする? このままここで、彼と共に緩やかな死を待つか? それとも、彼という重荷を捨て、お前だけでも生存の可能性を追求するか?」
残酷な問い。しかし、その言葉の裏には、逃げ道を許さぬ厳然たる現実が横たわっていた。カリナは息を呑み、唇を血が滲むほど噛み締めた。どちらも選べない。選ぶことなど、できるはずがない。
「……彼を救いたいと、真に願うのであれば、道は一つしかない」
シオリは言葉を継いだ。
「お前が、ヴァナネルサを運べ。そして、私の指示に寸分違わず従うのだ。それが履行できぬのなら、お前のその感傷は、ただの自己欺瞞に過ぎぬ。結果として、彼を死に至らしめるだろう」
「わ、私が……ヴァナネルサを……?」
カリナは絶句した。あの屈強な騎士を、王宮育ちで非力な自分が背負うなど、想像の埒外だった。しかし、シオリの瞳は(見えなくとも、その射抜くような視線は肌で感じられた)闇の中で揺らぐことなく自分を捉えている。その双眸には、甘えも言い訳も一切許容しない、鋼のような意志が宿っていた。
ヴァナネルサの、浅く、苦しげな呼吸がすぐ間近で聞こえる。彼の命の砂時計は、今この瞬間も、確実に砂を落とし続けているのだ。
もし、自分がここで立ち尽くせば、彼は間違いなく死ぬ。
シオリの言葉は冷酷無比だが、その言葉の棘の奥に、僅かながら「道」──あまりにも細く、あまりにも険しい、しかし唯一残された道──が示されているようにも思えた。
カリナは、震える指先で濡れたスカートの裾を固く握りしめた。熱い塊が喉元まで込み上げてくる。しかし、それを意志の力で押しとどめた。今は、その感情に溺れる時ではない。彼女は深く息を吸い込み、心の芯に冷たい炎を灯すような決意を固めた。
「……やります」
絞り出すような、ほとんど吐息に近い声だった。
「私が……私が、ヴァナネルサを運びます! ですから……どうか……お力添えを、シオリさん!」
シオリは沈黙した。ただ、闇の中で微かな金属音が響いた。おそらく、抜き身の剣を鞘に戻す音か、あるいは新たな覚悟を固める音か。
「立て。奴らの次の波が来る前に、少しでも安全な場所へ移動する。ヴァナネルサを背負え。時間は、ない」
カリナは、見えぬシオリに向かって深く頷き、震える膝に力を込めて立ち上がった。手探りでヴァナネルサの体を探り当て、彼の腕を自分の首に回そうと試みる。しかし、意識が朦朧とした彼の体は、まるで鉛を詰めた袋のようにぐったりと重く、持ち上げるどころか、僅かに動かすことすらままならない。華奢なカリナの骨格にとって、それはあまりにも絶望的な重量だった。全身の血が逆流するような圧迫感と、無力感に襲われる。
「くっ……!」
奥歯を砕けんばかりに食いしばり、なけなしの力を振り絞る。膝は意思とは無関係に震え、腕の筋肉は断末魔の叫びを上げていた。呼吸が浅くなり、視界の端が暗くなるのを感じた。それでも、カリナは諦めなかった。背に感じるヴァナネルサの微かな呼吸と、彼の命の重さが、彼女の細い体に、まるで内側から湧き上がるような、制御不能な熱い奔流となって力を注ぎ込んでいるかのようだった。
何度かの無益な試みの後、ようやく彼の巨躯の上半身を、己の背に乗せることができた。だが、そこから立ち上がることができない。あまりの重圧に、背骨が軋み、そのまま後ろへ崩れ落ちそうになる。
「……足を肩幅に開き、腰を落とせ。背負うのではなく、体幹全体で支えるのだ。意識を、足の裏から大地へ」
シオリの冷静な、しかし的確な指示が闇を貫く。カリナは言われた通りに体勢を立て直し、最後の一息を吐き出すと同時に、ゆっくりと、ミリ単位で立ち上がった。ヴァナネルサの全体重が、容赦なく彼女の細い肩にのしかかる。一歩を踏み出すことすら、途方もない難事のように思えた。
「……行けるか?」
シオリの声は、感情の温度を一切排していた。
「は、はい……行けます!」
カリナは、自分自身に言い聞かせるように叫んだ。実際には、足は生まれたての小鹿のように震え、呼吸は既に激しく乱れていた。だが、その瞳の奥には、先程までの怯えとは質の異なる、硬質な光が宿り始めていた。
「よし。私の左斜め後ろを、三歩の間隔を保ち追従しろ。何があっても声を出すな。私の指示があるまで、決して足を止めるな」
シオリが先に動き出す気配。カリナは、ヴァナネルサという生命の重荷を背負ったまま、震える足で、しかし確かに一歩を踏み出した。重い。息が詰まるほどに。だが、止まるわけにはいかない。この一歩が、彼を生かすための唯一の道なのだから。
闇の中を、三つの影が進み始めた。シオリは、まるで闇そのものに溶け込むように、音もなく進んでいく。彼女の研ぎ澄まされた第六感が、この迷宮の微細な変化を全て捉えているのだろう。時折、鋭い風切り音と共に、短い獣の悲鳴や、何かが壁に叩きつけられ崩れる音が、カリナの耳朶を打った。その度に、彼女の体は反射的に強張ったが、シオリの厳命通り、声を上げることも、歩みを止めることもなかった。
ヴァナネルサを背負って歩くという行為は、カリナのこれまでの人生で経験したことのない、想像を絶する苦行だった。肩には灼けるような痛みが走り、両足は鉛を括り付けられたように重い。額から流れ落ちる汗が目に入り、滲む視界の中で、ただシオリの気配だけを頼りに進む。何度、意識が遠のき、その場に崩れ落ちそうになったか分からない。しかし、その度に、背中で感じるヴァナネルサの微かな呼吸と、彼を守らねばならぬという、まるで本能から突き上げてくるような強靭な意志が、彼女を奈落の縁で踏みとどまらせた。彼を守りたい。彼を生かしたい。その一心だけが、もはや限界を超えた彼女の肉体を突き動かす唯一の燃料だった。
どれほどの時間が、この地獄のような暗黒回廊で経過したのだろうか。カリナの意識は朦朧とし始め、思考は停止し、ただ機械的に、一歩、また一歩と足を前に運ぶだけの存在と化していた。
「……止まれ」
シオリの声が、まるで遠い世界の天啓のように聞こえた。カリナは、その声に導かれるように足を止め、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。背中のヴァナネルサを、できる限り衝撃を与えぬよう、そっと横たえる。全身の細胞という細胞が悲鳴を上げ、肺は酸素を求めて激しく収縮を繰り返していた。
ふと気づくと、周囲が僅かに、しかし確かに明るくなっていた。壁一面に、幽玄な青白い光を放つ苔が、まるで星空のようにびっしりと生えている空間に出たのだ。そのあまりに幻想的な光景が、ここが死と隣り合わせの坑道の奥底であることを、一瞬忘れさせた。
「ここなら、少しはマシだろう。奴らの数も、あらかた片付けた」シオリが、剣についた何かを無造作に振り払う仕草をしたのが、苔の淡い光の中でぼんやりと見えた。彼女の黒衣には、やはり一滴の返り血すら付着していない。しかし、その静かな佇まいには、先程までの激しい戦闘の余韻ともいえる、張り詰めた空気が残滓のように漂っていた。彼女の呼吸は僅かに深く、闇の中よりも、その鋭敏な感覚が幾分か周囲の光に馴染もうとしているかのように見えた。
カリナは、荒い息を必死に整えながら、ヴァナネルサの顔を覗き込んだ。彼の顔色は依然として土気色で、呼吸も浅いが、先程の危機的な状態よりは、幾分落ち着いているように見えた。
「ヴァナネルサ……」
カリナが彼の名を呼ぶと、ヴァナネルサの重い瞼がかすかに震え、薄っすらと目が開いた。
「……カリナ様……ご無事……で……?」
その声は、ほとんど空気の振動に近かった。
「ええ、大丈夫よ。あなたも……」
言葉が詰まる。大丈夫とは、とても言えない状態だった。
シオリが、音もなくヴァナネルサの傍らに屈み、彼の傷口を再び検分した。そして、感情の読めない瞳で、静かに首を横に振る。
「毒の進行は止まっていない。この苔の光では、これ以上の治癒は望めまい。解毒薬そのものか、あるいは毒を持つ生物の体内に、何らかの拮抗物質が存在する可能性に賭けるしかない」
その言葉は、束の間の安堵を無慈悲に打ち砕くのに十分だった。カリナの顔に、再び絶望の影が差す。しかし、今度の彼女は、ただ打ちひしがれるだけではなかった。
「なら……探しましょう。解毒薬を。この先に、何か手がかりがあるかもしれないのでしょう?」
カリナは、苔の青白い光に照らし出されたシオリの顔を、真っ直ぐに見据えて言った。その瞳には、先程までの筆舌に尽くしがたい苦行を乗り越えたことによって培われた、確かな自信と、揺るぎない決意の光が宿っていた。もはや、ただ守られるだけの脆弱な王女の面影はそこにはない。自らの意志で運命を切り開こうとする、一人の人間としての峻烈な強さが、その小さな体躯から放たれていた。
シオリは、カリナのその射るような瞳を、数秒間、黙したまま見つめ返した。そして、ふっと、その常に氷のように無表情な口元に、ほんの僅かだが、笑みとも、あるいは皮肉ともつかぬ微細な変化が浮かんだように見えた。それはあまりに刹那的で、カリナの疲弊した精神が見せた幻だったのかもしれない。
「……ああ。だが、この先は、さらに危険な領域だ。バルトロ老人が口にしていた『呪われた場所』の核心に、我々は近づきすぎているのかもしれん。引き返すという選択肢も、まだ残されてはいる」シオリは、まるで最後の試練を与えるかのように、しかしその声には微かな探るような響きを乗せて言った。
カリナは、迷うことなく首を強く横に振った。その動きには、一片のためらいもなかった。
「引き返しません。ヴァナネルサを助けるためならば、いかなる危険な場所へも参ります。今度は……私が、彼を守る番です」
その毅然とした言葉を聞いたヴァナネルサが、弱々しくも、しかし確かにカリナの冷えた手を握り返した。彼の薄く開いた瞳にも、感謝の色と、そしてカリナのこの驚くべき変貌を目の当たりにした純粋な驚嘆のような光が、微かに灯っていた。
シオリは、ゆっくりと立ち上がった。
「……覚悟は、定まったようだな」
彼女の声には、ほんの僅かだが、今までにはなかった種類の響き──それはあるいは、カリナという存在に対する、シオリなりの認識の変化を示唆するものだったのかもしれない。
カリナは、ふと視線を傍らのヴァナネルサの腰元へ落とした。彼の長年使い込まれた愛剣が、苔の光を鈍く反射しながら、鞘に収まったままそこにある。これまでは、ただ守られることしか考えていなかった。ヴァナネルサやシオリのような、常人を超越した剣技など、自分には永遠に縁のないものだと、そう信じて疑わなかった。
しかし、今は違う。
彼を背負い、あの筆舌に尽くしがたい闇の中を歩いた時、自分自身のあまりの無力さを、骨の髄まで痛感した。そして同時に、この人を守りたいという、腹の底から湧き上がるような、原始的で強烈な想いが、彼女の存在の核を揺さぶったのだ。
カリナは、震えを押し殺した指先で、ヴァナネルサの剣の冷たい柄にそっと触れた。ひんやりとした硬質な鉄の感触が、彼女の内に芽生えたばかりの決意を、確かな現実へと引き戻す。
お守り代わりに持たされた、儀礼用の小さな短剣くらいしか、まともに手にした経験はない。それでも。
「私も……戦います」
それは、か細い、しかし芯の通った声だった。自らの言葉に背中を押されるように、カリナは意を決してその長剣を鞘から抜き放った。ずしりとした、彼女の腕にはあまりにも不釣り合いな重みが、両肩にのしかかる。慣れない手つきで両手で柄を握りしめ、切っ先は頼りなく震えていたが、それでも、坑道のさらに奥へと続く暗黒の虚無へと、その震える切っ先を真っ直ぐに向けた。その立ち姿は、武人とは程遠い、あまりにもぎこちなく、危うげなものだった。だが、その小さな顔に浮かぶ瞳には、恐怖を乗り越えた先に見出した、揺るぎない意志の焔が、静かに、しかし力強く燃え盛っていた。
シオリは、そのカリナの姿を、表情を一切変えることなく、ただ静かに見つめていた。あの細腕では、あの剣をまともに振るうことすら叶わぬだろう。それは火を見るより明らかだった。しかし、その瞳の奥深く、今まさに燃え上がらんとする光は、シオリがかつて血と硝煙の舞う戦場で、幾度となく目にしてきた、絶望の淵に立たされながらも、なお不屈の意志で立ち上がろうとする者たちが放つ光と、どこか通底する何かがあった。