戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
壁面の苔が放つ幽玄な青白い光が、カリナの握る剣の冷たい刀身にかすかな光芒を生んでいた。汗の滲む額、固く結ばれた薄い唇。その両手で、まるで祈るかのように抱え持った長剣は、彼女の華奢な体躯にはあまりにも不釣り合いで、切っ先は未だ小刻みに震えていた。その立ち姿は、熟練の武人とは程遠い、あまりにもぎこちなく、危うげなものだった。しかし、その小さな顔に浮かぶ瞳には、先程までの筆舌に尽くしがたい苦行と恐怖を乗り越えたことを物語る、揺るぎない光が宿っていた。もはや、ただ守られるだけの脆弱な王女の面影はそこにはなく、自らの意志で運命を切り開こうとする、一人の人間としての峻烈さが、その小さな体躯から放たれていた。
シオリは、そのカリナの姿を一瞥した。表情はいつものように読み取れず、ただその黒曜石のような瞳が、坑道のさらに奥へと続く暗黒の虚無を射抜いている。
(……形だけは戦うつもりか。だが、あの瞳の光……以前の怯えとは質が違う。ヴァナネルサという男への執着か、あるいは追い詰められた獣の虚勢か。どちらにせよ、今の状況で足手まといになることだけは避けねばならん)
シオリは、カリナの変化を冷静に分析しつつも、その「瞳の光」という一点に、ほんの僅かながら意識を向けていた。やがて彼女は、音もなく歩き出した。カリナがついてくることを、当然のこととして疑っていないかのように。その黒衣の背中は、これまでと変わらず、絶対的な自信と、周囲を寄せ付けない孤高の雰囲気を漂わせていた。
「待って……ください、シオリさん!」
カリナは声を上げたが、シオリは足を止めない。ヴァナネルサが横たわる苔の傍らに、彼女の視線が一度だけ留まる。彼の土気色の顔、浅く苦しげな呼吸。その一つ一つが、彼女の行動を促すかのようだった。今は感傷に浸っている暇はない。ヴァナネルサを救うと決めたのだ。この手で、彼を守ると誓ったのだ。
カリナは、ヴァナネルサの傍に、彼の愛剣をそっと置き直した。その剣は、彼がどれほどの戦場を潜り抜け、どれほどカリナを守り続けてきたかの証だった。今は自分が、その役割の一端でも担わねばならない。彼女は自らが抜き放った長剣を、まるで大切な宝物のように、しかしやはり不格好に抱え直した。ずしりとした鉄の重みが、改めて彼女の非力さを突きつけてくる。それでも、この剣は、今の彼女にとって唯一の武器であり、そして決意の象徴だった。指に食い込む柄の硬さが、彼女の覚悟を現実に繋ぎ止める。
「ヴァナネルサ、必ず……必ず助けるから。だから、待っていて……」
苔の光に照らされる彼の苦悶の表情にそう囁きかけると、カリナはシオリの後を追った。重い剣を、引きずるのではなく、必死に持ち上げようとしながら。時折、重心がぶれ、よろめきそうになる。だが、その度に、柄を握りしめる手に力を込めた。一歩踏み出すごとに、剣の重さが肩に、腕に、そして全身にのしかかる。足元の覚束なさは相変わらずで、見えぬ小石につまずきそうになることもしばしばだった。
坑道の奥は、苔の光も徐々に届かなくなり、再び濃密な闇が支配を始めていた。シオリは、その闇の中を、まるで昼日中を歩くかのように淀みなく進んでいく。その足音はほとんど聞こえず、闇に溶け込んでいるかのようだ。カリナは、彼女のかすかな気配と、時折岩肌を擦る衣擦れの音だけを頼りに、つまずきそうになりながらも食らいついた。剣の重さが肩に食い込み、呼吸はすぐに荒くなる。数分も経たないうちに、全身から汗が噴き出し、足は鉛のように重くなった。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
息が切れ、肺が灼けるように痛む。額から流れ落ちる汗が目に入り、視界が滲む。それでも、彼女は足を止めなかった。第十三話で、あの地獄のような暗闇をヴァナネルサを背負って歩いた経験が、彼女の精神的な耐久力を僅かながら、しかし確実に押し上げていた。あの時の絶望的な重さと、骨身に染みる苦しみに比べれば、まだ耐えられる。耐えなければならない。あの経験は、カリナの肉体だけでなく、魂にも消えない刻印を残していたのだ。
不意に、シオリが立ち止まった。カリナは危うく彼女の背中にぶつかりそうになり、慌てて剣の柄を握りしめ、前のめりになる体を必死で支える。その反動で、剣の切っ先が岩壁を擦り、甲高い音を立てた。
「……静かにしろ。気配が変わった。ここからは、さらに慎重に進む必要がある」
シオリの声は、いつも通りの平静さを保っていたが、その言葉には先程よりも明確な緊張が滲んでいた。カリナも息を殺し、周囲の闇に神経を集中させる。湿った空気はより濃密になり、カビ臭さと、何かが腐敗したような甘ったるい悪臭が混じり合って鼻をついた。滴り落ちる水滴の音は不規則で、まるで何者かの足音のように聞こえてくる。そして……先程の蟲の気配とはまた異なる、より粘つくような、不快な蠢き。
カサカサ、カサカサ……。シャアアア……。
壁や天井から、無数の小さな音が聞こえ始めた。それは、乾いた葉が擦れるような音と、粘液質の何かが這いずる音が混じり合ったような、本能的な嫌悪感を呼び覚ます音だった。カリナの背筋を、悪寒が駆け上る。握りしめた剣の柄が、汗で滑りそうになる。
「シオリさん……今度の敵は……?」
「先程の蟲の同種、あるいは亜種だろう。だが、数が多い。そして、この先に奴らの『巣』がある可能性が高い」
シオリの言葉と同時に、闇の中から緑色の燐光を放つ小さな点が、無数に、それこそ星空のように現れた。それは、無数の複眼だった。体長三十センチほどの、蜘蛛と百足を合わせたような、おぞましい姿の蟲型モンスターが、壁や天井を覆い尽くすようにして、こちらへとにじり寄ってきていた。その歪な顎からは、絶えず毒々しい緑色の粘液が滴り落ち、ポタポタと音を立てて地面を濡らしている。先程遭遇した個体よりも、わずかに体躯が大きく、動きも俊敏に見える。そのうちの何体かは、腹部が不自然に膨らんでおり、まるで卵を抱えているかのようだった。
「ひっ……! ま、また……! しかも、数が増えてる……!」
カリナは短い声を上げ、両手で口を覆った。剣を握る手が、再び激しく震え始める。あの緑色の粘液がヴァナネルサを苦しめているのだという認識が、彼女の行動を縛ろうとする。しかし、完全に思考が停止するわけではなかった。ヴァナネルサの傍を守る。その一点に意識を集中させる。
「ヴァナネルサを守れ。奴らを一体たりとも近づけるな。それがお前の『戦場』だ。私に余計な手間をかけさせるな」
シオリは、カリナに背を向けたまま、淡々と告げた。その言葉は冷酷に聞こえるが、同時に、カリナに明確な使命を与えるものでもあった。そして、音もなく剣を抜き放つ。その動きは水が流れるように滑らかで、闇の中にあっても一切の淀みがない。カリナに振り返ることもなく、彼女は無数の蟲型モンスターの群れへと、静かに踏み込んでいった。
瞬間、闇が閃光で切り裂かれた。シオリの剣が描く銀色の軌跡が、次々と蟲の硬い甲殻を砕き、緑色の体液を撒き散らす。キシャアアア! ヂヂヂヂ! という甲高い断末魔の悲鳴が、坑道内にいくつも木霊した。しかし、蟲の数はあまりにも多い。一体倒しても、すぐに二体、三体と新たな個体が、壁や天井、さらには地面を埋め尽くすようにしてシオリに襲いかかる。それはまるで、黒い津波が押し寄せてくるかのようだった。
カリナは、その凄絶な戦いを、固唾を飲んで見守っていた。シオリの剣技は、もはや人間のそれを超越しているように見えた。闇の中で、彼女の動きは目で追うことすら困難で、ただ正確無比な斬撃だけが、恐るべき速度で敵の数を確実に減らしていく。しかし、そのシオリですら、全ての蟲を一度に相手にするのは難しいように見えた。彼女の周囲には、常に数匹の蟲が群がり、その鋭い顎や毒液を繰り出してくる。シオリの呼吸が、常よりも早く、深くなっているのが、カリナにも感じ取れた。
そして、やはりシオリがどれほど強くとも、全ての敵を一人で捌き切れるわけではない。数匹の蟲が、シオリの猛攻をかいくぐり、あるいは最初から目標を定めていたかのように、カリナと、その背後、苔の微かな光の中に横たわるヴァナネルサ目掛けて突進してきた。その動きは、飢えた獣のように獰猛だった。
「来、来ないで……! 来るなぁっ!」
カリナは、引きつった声を上げながらも、ヴァナネルサの前に立ちはだかり、震える腕で剣を構えた。それは構えと呼ぶにはあまりにも拙く、ただ剣を前に突き出しているだけの姿だった。だが、その瞳には、先程までのただ怯えるだけではない、必死の抵抗の意志が宿っていた。ヴァナネルサを守る。その一点が、彼女の震える体を支えていた。
キシャア! と威嚇の声を上げ、一匹の蟲がカリナの足元に飛びかかってきた。緑色の毒液を撒き散らしながら。その複眼が、カリナの恐怖を映しているように見えた。
「きゃあっ!」
カリナは反射的に目をつむり、剣をめちゃくちゃに振り回した。ガキン、という硬い感触。手首に鈍い衝撃が走る。そして、ブシャア、という生々しい音と共に、何かが顔にかかった。生温かく、鼻をつく臭い。恐る恐る目を開けると、目の前の蟲が真っ二つになり、緑色の体液を撒き散らして絶命していた。カリナが偶然振り回した剣が、運良く蟲を捉えたのだ。
「た、倒した……? 私が……?」
カリナは呆然と、自身の血と蟲の体液に濡れた剣先を見つめた。手には、蟲の甲殻を断ち割った感触が生々しく残っている。しかし、安堵する暇もなく、別の二匹が左右から迫る。カリナの体が再び硬直しかけたが、背後のヴァナネルサの、か細く、しかし途切れない呼吸が、彼女を踏みとどまらせた。彼が生きている。まだ、生きている。その事実が、彼女の四肢に力を呼び戻す。
カリナは、奥歯を食いしばり、再び剣を構え直した。今度は、ただ闇雲に振り回すのではなく、シオリの動きを、あの正確無比な剣筋を必死に思い出そうとした。もちろん、あんな神業のような動きができるはずもない。だが、少なくとも、恐怖に任せて目を閉じて振り回すよりはましなはずだ。
狙う。的を。いや、的を狙う余裕などない。ただ、この剣を、ヴァナネルサへの盾とするのだ。
蟲が、壁を蹴って飛びかかってくる。カリナは、恐怖を押し殺し、その緑色の複眼を睨みつけ、剣を薙いだ。重い剣は、やはり彼女の意図した軌道からは大きくずれ、空を切る。しかし、その振り抜いた勢いと、長剣のリーチが、偶然にも別の方向から迫っていた蟲の側面に当たり、壁に叩きつけた。蟲は甲高い悲鳴を上げ、動きを止める。
「くっ……! 重い……! でも……!」
腕が痺れ、肩が悲鳴を上げる。しかし、休む間もなく次の蟲が。カリナは、もはや自分が何をしているのかも分からなくなりながら、ただ必死に剣を振るい続けた。それは剣技と呼べるような代物ではなく、ただの暴風のような、なりふり構わぬ抵抗だった。だが、その必死さが、そしてヴァナネルサを守るという一点集中の想いが、かろうじて蟲の侵入を食い止めていた。彼女の質素なドレスはあちこちが裂け、顔や腕にはおびただしい量の緑色の粘液と、蟲の黒ずんだ体液がこびりついている。その姿は、王女とはおよそかけ離れた、泥まみれの戦士のようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。ふと気づくと、周囲の蟲の気配が急速に薄らいでいた。キシャアという断末魔の悲鳴も、徐々に遠のき、やがて完全に途絶えた。シオリが、ほとんどの蟲を片付けたのだ。彼女の黒衣は、やはり一滴の血も、蟲の体液すらも付着していないように見えた。ただ、その呼吸が、常よりもわずかに、しかし確実に乱れているのが、カリナにも分かった。そして、彼女の額にも、微かに汗が滲んでいるように見えた。
「……どうやら、終わったようだ。しばらくは、次の群れは来ないだろう」
シオリが、剣を鞘に納めながら静かに言った。その声には、わずかな疲労の色が感じられた。カリナは、その言葉を聞いて、ようやく全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。剣が、ガラン、と音を立てて地面に落ちる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、カリナは自分の手を見た。緑色の粘液まみれで、小刻みに震えている。しかし、その手で、ヴァナネルサを守り切ったのだという、確かな感触があった。無我夢中で剣を振るっただけだったが、結果として、数匹の蟲を仕留め、あるいは追い払った。それは、彼女にとって、信じられないような体験だった。
シオリが、カリナの傍らに落ちた蟲の死骸の一つを、剣の鞘の先で器用にひっくり返し、その顎から滴る毒液を検分した。そして、その腹部を浅く切り裂き、内部を覗き込む。
「やはり、この毒……ヴァナネルサを蝕むものと同質、あるいは極めて類似したものだ。そして、これらの蟲の体内、特にこの器官には、ごく微量だが、その毒に対する拮抗物質が含まれている可能性がある」
シオリの言葉に、カリナははっと顔を上げた。疲労困憊の体に、一条の光が差し込む。
「本当……!? 本当ですの、シオリさん!? なら、ヴァナネルサを……!」
「だが、この量では気休めにしかならん。ヴァナネルサの体内に深く浸透した毒を中和するには、あまりにも微量すぎる。もっと大量の拮抗物質か、あるいは、この蟲たちの『巣』の最深部……おそらくは女王個体のようなものの体内に、より純度の高いものが存在するかもしれない」
シオリは、蟲の死骸から顔を上げ、坑道のさらに奥、闇が濃さを増す方向を見据えた。その瞳には、先程までの戦闘の疲労の色は既になく、ただ冷徹な分析と、目的への揺るぎない意志が宿っている。
カリナは、汚れた手で自分の顔の汗と蟲の体液を拭った。その行為すら、以前の彼女からは考えられないものだった。先程の戦闘で、彼女は自分の無力さと、そして同時に、守るべき者のために行動することの重要性を、身をもって理解した。剣を振るうことは恐ろしかった。蟲の姿は今思い出しても身の毛がよだつ。しかし、それ以上に、ヴァナネルサを失うことの方が、比較にならないほど恐ろしかったのだ。
「行きましょう、シオリさん。その『巣』へ。女王がいるかもしれない場所へ」
カリナは、震える足でゆっくりと立ち上がり、地面に落ちた長剣を再び拾い上げた。その鉄の重さは、先程よりもさらに増したように感じられたが、今の彼女には、その重さこそが、自らの覚悟の重さのように思えた。この剣を振るうたびに、彼女はヴァナネルサへの想いを、そして生きる意志を再確認するのだ。
シオリは、カリナのその言葉と、再び剣を握りしめた姿を、数秒間、黙って見つめていた。その視線は、まるでカリナの魂の奥底まで見通そうとしているかのようだった。
そして、ほんの僅かだが、その常に氷のように無表情な口元に、以前苔の光の中で見せたような、微細な変化が浮かんだ。それは、もはや皮肉だけではない、何か別の感情……あるいは、彼女の行動に対するある種の認識の変化が混じっているように、カリナには感じられた。
「……この先に何が待ち受けていようとも、か? おそらく、これまでの比ではない危険が潜んでいる。恐らく『呪われた場所』の核心だ。並の人間では、死ぬ確率の方が高いかもしれんぞ」
シオリの問いは、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。それは最後の確認であり、ある種の警告でもあった。
カリナは、力強く頷いた。その瞳には、先程までの怯えは完全に消え去り、代わりに、困難に立ち向かう者だけが持つ、硬質で、そして美しい光が宿っていた。まるで、研ぎ澄まされた鋼のような光。
「ええ。ヴァナネルサを助けるためなら。そして……私も、もうただ守られるだけではいたくないから。彼が私にしてくれたように、今度は私が彼を守りたい。たとえ、この身がどうなろうとも」
その言葉は、誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように、しかし確かな響きを持っていた。それは、もはや王女としての責任感だけではない、カリナ個人の、魂からの声だった。
シオリは、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がり、再び音もなく歩き出す。その背中が、ほんの少しだけ、以前よりもカリナに対して開かれているように見えたのは、彼女の願望が生み出した幻想だったのかもしれない。しかし、シオリが進む速度は、以前よりも心なしか緩やかになったような気がした。カリナが、重い剣を抱えながらでも、なんとかついてこられるように配慮しているかのようにも。
シオリの胸中に、かつて感じたことのない種類の、微かな興味が芽生え始めていた。
苔の光も完全に届かぬ、深淵のような闇の奥へ。カリナは、重い剣を手に、今度は迷いなく、シオリの後に続いた。この剣は、重い。本当に重い。一歩ごとに腕が悲鳴を上げ、肩が砕けそうだ。しかし、この重さが、今の私を支えてくれている。この重さが、ヴァナネルサの命の重さなのだ。そして、この道の先に、必ず希望があると、カリナは信じていた。彼女の内で燃え始めた小さな焔は、過酷な試練を経るごとに、その勢いを増し、より確かな光となって、彼女の行く道を照らし始めていた。たとえそれが、地獄の底へと続く道であったとしても、彼女はもう、一人ではない。
しばらく進むと、坑道の様相が明らかに変わってきた。壁は粘つくような半透明の液体で覆われ始め、足元には夥しい数の蟲の抜け殻や、フットボールほどの大きさの、白い繭のようなものが散乱している。空気はさらに淀み、甘ったるい腐臭と、ツンと鼻を突く酸っぱい刺激臭が混じり合い、呼吸をするたびに喉がひりつくようだ。天井からは、時折、粘液の雫がポタリ、ポタリと落ちてきて、カリナの髪や肩を濡らした。その粘液はひどくべたつき、不快極まりない。
「これが……『巣』の入り口、ということでしょうか」
カリナは、声を潜めてシオリに尋ねた。剣を握る手に、嫌な汗が滲む。
「おそらくは。警戒を怠るな。ここからは、いつ何が出てきてもおかしくない。この臭いと粘液……女王個体がいるなら、そう遠くはないはずだ」 シオリの返答は短く、鋭い。彼女の視線は、絶えず周囲の闇を縫うように動き、微細な物音や空気の揺らぎも見逃すまいとしている。その姿は、まるで研ぎ澄まされた刃そのものだった。
その時だった。前方、闇のさらに奥から、これまでとは比較にならないほど大きな物音が響いてきた。地響きにも似た低い唸り声と、何か巨大なものが壁を擦るような、ズズズ……ザザザ……という重く湿った音。そして、複数の蟲の甲高い悲鳴が、恐怖に染まって聞こえてきた。それは、捕食される者の断末魔の叫びのようだった。
「……何かいる。蟲ではない、もっと大きな何かが」 シオリの表情が、初めて明確な警戒の色を帯びた。彼女は剣の柄に手をかけ、臨戦態勢に入る。その瞳が、闇の奥の一点を鋭く捉えている。
カリナも息を呑んだ。本能が、この先にいる存在の途方もない危険性を告げていた。全身の毛が逆立つような、原始的な恐怖。しかし、彼女は逃げ出すことも、立ちすくむこともしなかった。シオリが前にいる。そして、自分も戦うと決めたのだ。ただ、ヴァナネルサの剣の柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。
シオリの隣に並び立つことはできないかもしれない。でも、彼女の背中を守るくらいのことは、できるかもしれない。いや、してみせる。
闇の奥から、二つの巨大な赤い光点がゆっくりと姿を現した。それは、まるで溶岩のように不気味な赤黒い光を放つ、巨大な眼窩だった。その眼は、人間のような瞳孔はなく、ただ爛々と赤く輝いているだけだ。そして、その眼窩の下から、おびただしい数の太い触手が、まるで意思を持った蛇のように蠢きながら現れた。触手の表面はぬらぬらと光り、無数の吸盤がびっしりと並んでいる。その触手が、周囲の壁や天井に張り付いていた蟲をいとも簡単に捕らえては、その中央にある、縦に大きく裂けた巨大な口へと運んでいく。バリバリ、ゴリゴリという、硬い甲殻が砕けるおぞましい音が響き渡る。
「あれは……!?」 カリナは言葉を失い、その場に立ち尽くした。それは、名状しがたい、悪夢の具現のような怪物だった。体長は目測で五メートルを超え、不定形に近い肉塊のような胴体から、無数の触手を生やしている。その姿は、蜘蛛とも蛸ともつかない、この世のものとは思えぬ異形だった。
シオリは、カリナを背後にかばうように一歩前に出た。その小さな背中が、今はカリナにとって何よりも頼もしく感じられた。
「……厄介なのが出てきたな。あれが、この巣の主か、あるいはこの巣を乗っ取った侵入者か。いずれにせよ、避けては通れまい。ヴァナネルサに必要な拮抗物質は、あれを倒すか、あるいはあれがいる場所のさらに奥にある可能性が高い」
その言葉と共に、怪物は耳をつんざくような咆哮を上げた。それは、坑道全体を震わせるほどの、絶望的な響きを持っていた。カリナの心臓が、恐怖で鷲掴みにされたように縮み上がる。
しかし、彼女の瞳の奥の光は、消えることなく、むしろその勢いを増して燃え盛ろうとしていた。
「シオリさん……下がっていろと言われるのは分かっています。でも……! 私も、戦います! シオリさんの足手まといにだけは、ならないように……!」
カリナは、震えながらも、シオリの隣……いや、半歩後ろに立ち、重い剣を構えた。その切っ先はまだ頼りなく揺れていたが、その瞳は真っ直ぐに、前方の怪物を睨み据えていた。
シオリは、そのカリナの言葉と、半歩後ろに立ったその姿に、一瞬だけ何かを言いかけるが、結局何も言わずに怪物へと向き直った。しかし、その横顔には、これまでにはなかった複雑な感情(呆れ、あるいは微かな期待、あるいはかつての戦友を思い出すような感傷)が、ほんの僅かだが浮かんでいるように見えた。この「呪われた場所」の核心で、彼女の運命が、そして彼女自身の存在意義が試されようとしていた。重い剣を握る彼女の腕は震えていたが、その足は、しっかりと大地を踏みしめていた。二人の少女の、絶望的な戦いが、今まさに始まろうとしていた。