戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
ズズズ……ザザザ……。地を揺るがすおぞましい音と共に、闇の奥から現れた二つの巨大な赤い光点が、カリナとシオリを捉えた。それは、生命の熱を持たない、ただただ破滅的な光。名状しがたい異形の怪物は、無数の太い触手を蠢かせ、坑道を埋め尽くさんばかりの巨躯を誇示していた。その縦に裂けた巨大な顎門からは、先程まで周囲の壁を覆っていた蟲共を捕食したであろう、生々しい体液が滴り落ちている。バリバリ、ゴリゴリという咀嚼音は止み、怪物の全ての注意が、新たな侵入者へと向けられたようだった。その異様なプレッシャーは、先程の蟲の群れとは比較にならない。本能的な恐怖が、カリナの全身を支配しようとする。
グォオオオオオオオオンッ!
怪物が咆哮を上げた。それは音というよりも、直接脳髄を揺さぶるような衝撃波だった。坑道の壁がビリビリと震え、天井からは粉塵や小石がパラパラと落下する。カリナは思わず耳を塞ぎ、その場に膝をつきそうになった。心臓が恐怖に鷲掴みにされ、呼吸すらままならない。目の前の存在は、これまでの蟲型モンスターとは比較にならない、絶対的な捕食者としての威圧感を放っていた。ヴァナネルサの苦しげな呼吸が、すぐ後ろから聞こえてくる。彼を守らねばならない。その一心だけが、彼女をその場に繋ぎ止めていた。
「……来るぞ。カリナ、下がっていろ。そして、何があってもヴァナネルサから目を離すな。お前の今の役割は、それだけだ。余計な真似は、するな」
シオリの声は、怪物の咆哮の中でも不思議と鮮明にカリナの耳に届いた。彼女は既に黒曜石の剣を抜き放ち、その切っ先を微動だにさせず怪物に向けている。その小さな背中が、今はカリナにとって唯一の防壁だった。シオリの言葉は、先程の蟲との戦いでのカリナの行動を認めつつも、この強大な敵の前では、彼女の直接的な戦闘参加は無意味であると暗に告げていた。そして、その言葉には、彼女の消耗を悟らせまいとするような、僅かな焦りにも似た響きが含まれていることに、カリナは気づかなかった。
シオリの言葉が終わるか終わらないかのうちに、怪物の触手が数本、鞭のようにしなり、凄まじい速度で襲いかかってきた。それはまるで、闇から伸びる巨大な蛇の群れのようだった。シオリは、その初撃を紙一重で回避すると同時に、地面を蹴って前進した。彼女の動きは、相変わらず目で追うのが困難なほど素早く、そして淀みない。銀色の閃光が闇を走り、触手の一本が断ち割られ、緑黒い体液を撒き散らしながら地面にのたうった。
キシャアアアアアアア!!
怪物は、痛みを感じたのか、あるいは怒りを感じたのか、甲高い金切り声を上げた。残りの触手が、より一層激しく、縦横無尽にシオリに襲いかかる。シオリは、その猛攻を捌きながら、巧みに怪物の巨躯へと接近していく。彼女の剣は、触手を切り裂き、時には盾のように受け流し、確実にダメージを与えているように見えた。しかし、触手の数はあまりにも多く、切り裂いても切り裂いても、次から次へと新たな触手が再生するかのように襲いかかってくる。その再生速度は、先程の蟲とは比較にならない。シオリの額には、既に玉の汗が浮かび、その呼吸も、普段の沈着冷静な彼女からは想像もできないほどに荒くなっている。肩で息をし、時折、剣を握る手が微かに震えているのが、カリナにも見て取れた。先程までの蟲の群れとの激戦は、確実に彼女の体力を奪っていたのだ。
(シオリさんだって、万能じゃない……! あの蟲の群れとの戦いで、既に消耗していたはず……! 私が、私が何か……!)
カリナは、震える手で長剣を握りしめた。シオリは下がっていろと言った。しかし、このままではシオリが危ない。ヴァナネルサの苦しげな呼吸が、すぐ後ろから聞こえてくる。彼を守る。そして、シオリの助けになる。その二つの想いが、彼女の中で激しく葛藤していた。しかし、この圧倒的な力の差を前にして、自分に何ができるというのか。剣を振るう? あの触手に届きもしないだろう。シオリの足手まといになるだけだ。それでも、何かしなければ。
その時、シオリが怪物の懐に深く踏み込み、巨躯に一太刀浴びせようとした瞬間だった。怪物は、まるでそれを読んでいたかのように、胴体部からさらに数本の細く鋭い触手を、槍のように突き出してきた。それは、シオリの死角を突く、回避困難な一撃に見えた。
「シオリさん、危ないっ!」
カリナは、考えるよりも先に叫んでいた。そして、ほとんど無意識に、手に持っていた長剣を、力の限り、その鋭い触手の一本目掛けて投げつけていた。先程の蟲との戦いで、偶然にも敵を倒せた経験が、彼女の無意識の行動を促したのかもしれない。もちろん、そんな付け焼刃の投擲が、この怪物に通用するはずもない。長剣は虚しく回転しながら、怪物の手前で岩壁にぶつかり、甲高い音を立てて跳ね返った。
しかし、そのカリナの絶叫と、剣が岩壁に当たった金属音が、ほんの一瞬だけ、怪物の注意を引いたのかもしれない。あるいは、シオリ自身がカリナの声に反応し、コンマ数秒だけ動きを変えたのか。シオリは、紙一重でその槍のような触手を回避し、体勢を立て直すと、逆にその触手を掴み、引きちぎった。
「……余計なことを。だが、助かった」
シオリが、背後のカリナにちらりと視線を送った。その声には、いつもの冷たさの中に、ほんの僅かな、しかし確かな安堵のようなものが滲んでいた。その瞳には、驚きと、ほんの少しの呆れ、そして何故かほんの僅かな、以前にはなかった種類の光が宿っているようにカリナには見えた。カリナは、自分の行動が結果的にシオリを助けたかもしれないという事実に、驚きと、そして微かな高揚感を覚えた。
(私にも……できた……? ほんの少しでも、シオリさんの役に……?)
しかし、感傷に浸る暇はない。怪物は、シオリの反撃にさらに猛り狂い、今度はその巨大な赤い眼窩から、眩いばかりの赤黒い光線を迸らせた。光線は、坑道の壁を溶解させながら、シオリに迫る。
「くっ……!」
シオリは、光線を剣で受け流そうとするが、その威力は凄まじく、彼女の体勢が大きく崩れた。その隙を突き、数本の太い触手が、シオリを捕らえようと四方八方から襲いかかる。
(ダメだ……! このままでは……! シオリさんが……!)
カリナは、跳ね返って自分の足元に転がってきた長剣を、再び拾い上げた。そのずしりとした重さが、今の彼女には頼もしく感じられた。ヴァナネルサの命の重さ。そして、シオリを守りたいという、新たな想い。彼女の中で、恐怖を凌駕する何かが、燃え上がろうとしていた。
彼女は、シオリの戦い方を必死に思い出そうとした。あの正確無比な剣筋。もちろん、真似などできるはずもない。だが、ただ闇雲に振り回すだけでは、先程のように偶然が重ならない限り、何の意味もないだろう。
(狙う……! どこか、一箇所でも……! あの触手の、動きを止める! シオリさんが、体勢を立て直す時間を稼ぐ!)
カリナは、シオリを拘束しようと迫る触手の一本に狙いを定めた。それは、他の触手よりもわずかに動きが鈍いように見えた。彼女は、全身の力を込めて、長剣を両手で握りしめ、大きく振りかぶった。それは、剣術とは程遠い、ただの力任せの振り下ろしだった。しかし、そこには、彼女の全ての意志が込められていた。
ガギィンッ!
鈍い衝撃と共に、カリナの腕が痺れた。剣の切っ先が、狙った触手の側面に、浅くではあるが食い込んだのだ。怪物の硬い外皮は切れなかったが、その衝撃で、触手の動きが一瞬だけ止まった。ほんの僅かな時間。しかし、その一瞬が、シオリにとっては十分だった。
シオリは、その隙を逃さず、体勢を立て直すと、拘束しようとしていた他の触手を一閃のもとに切り払い、再び怪物との距離を取った。そして、カリナの方を振り返ることなく、低く呟いた。
「……悪くない。だが、無茶はするな。お前はヴァナネルサを守れ。それが、今の最善だ」
その言葉は、突き放すようでありながら、どこかカリナの行動を認め、そして彼女の安全を気遣っているかのようにも聞こえた。カリナの胸に、熱いものがこみ上げてくる。シオリは、自分をただの足手まといだとは思っていない。少なくとも、今は。
戦闘は、さらに激しさを増した。怪物は、その巨体からは想像もできないほどの敏捷さで動き回り、触手だけでなく、溶解液のようなものを口から吐き出したり、地響きと共に岩盤を砕いて落石を引き起こしたりと、多彩な攻撃を繰り出してくる。シオリは、それらを驚異的な集中力と剣技で捌き続けるが、その表情には隠せない疲労の色が濃くなっていた。彼女の黒衣には、珍しく泥や粘液が付着し、肩で大きく息をしている。
カリナは、シオリが戦いやすいように、そしてヴァナネルサに被害が及ばないように、必死に周囲の状況に気を配った。落石があれば、ヴァナネルサの傍に駆け寄り、自分の体で庇おうとした。シオリの死角から新たな脅威が迫れば、声を上げて知らせた。そして、隙あらば、重い剣を振るい、怪物の攻撃をわずかでも逸らそうと試みた。そのほとんどは空振りに終わるか、怪物の硬い外皮に弾かれるだけだったが、それでも彼女は諦めなかった。剣を振るうたびに、腕が悲鳴を上げ、肩が砕けそうになる。しかし、その痛みが、彼女が今、ここに立って戦っているという実感を与えてくれた。
どれほどの時間が経過しただろうか。不意に、怪物の動きが鈍った。シオリの執拗な攻撃が、ついに効果を現し始めたのかもしれない。怪物の赤い眼窩の光が、先程よりも明らかに弱々しくなっている。触手の再生速度も、心なしか遅くなっているように見えた。
「……好機だ」
シオリが、低く、しかし確信に満ちた声で言った。彼女は、一瞬だけ深く息を吸い込むと、次の瞬間、これまでの戦闘で最も速い、閃光のような速度で怪物に肉薄した。そして、渾身の力を込めた一撃を、怪物の弱った赤い眼窩の一つに叩き込んだ。
グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!
怪物は、これまでとは比較にならない、絶叫とも悲鳴ともつかないおぞましい声を上げた。眼窩から、黒い煙と火花のようなものが噴き出し、その巨体が大きく痙攣する。そして、バランスを崩したかのように、ゆっくりと横倒しになり始めた。
ズウウウウウウウウウウン……!
地響きと共に、怪物は完全に動きを止めた。赤い眼窩の光は消え失せ、夥しい数の触手も、だらりと力なく垂れ下がっている。
「……倒した、のか……?」
カリナは、呆然と呟いた。信じられない光景だった。あれほどの怪物を、シオリは本当に一人で……いや、自分もほんの少しだけ、ほんの僅かだけ、力になれたのだろうか。全身の力が抜け、その場に座り込みそうになるのを、かろうじて長剣を杖代わりにして堪えた。
シオリは、剣を鞘に納めることなく、警戒を解かずに倒れた怪物に近づいた。そして、その巨躯を検分し始める。カリナも、ふらつく足取りでシオリの後に続いた。シオリの呼吸はまだ荒く、肩で息をしている。彼女の額から、汗が一筋、白い頬を伝って落ちた。その光景は、カリナにとって衝撃的だった。あの絶対的な強さを誇るシオリが、これほどまでに消耗している姿を見るのは初めてだったからだ。
「シオリさん……ヴァナネルサの毒の、拮抗物質は……」
カリナが、息も絶え絶えに、しかし切実な願いを込めてシオリに問いかける。
シオリは、倒れた怪物の巨躯を一瞥し、その緑黒い体液を指で少量すくい取ると、僅かに顔を顰めた。
「……これではない。この怪物の体液は、むしろ蟲の毒に似た成分を含んでいる。だが……」
シオリの視線が、怪物の腹部、先程カリナが偶然にも長剣で一撃を加えた箇所へと注がれた。そこは硬い外皮がわずかに裂け、内部の組織が覗いている。シオリは剣の切っ先でその裂け目を慎重に広げると、中から拳ほどの大きさの、脈打つように淡い光を放つ奇妙な器官を取り出した。それは、まるで真珠のような輝きを秘めていた。
「……この怪物は、蟲の毒を取り込み、体内で変質させていたのかもしれない。この器官……あるいは、これが何らかの解毒作用を持つ可能性が、僅かだが、ある」
その言葉は、絶望の淵にいたカリナにとって、一条の光だった。
シオリは、その器官を手に、怪物が守るように陣取っていた坑道のさらに奥、崩落した壁の向こうから漏れ出る青白い光へと視線を向けた。
「あの光……。バルトロ老が言っていた『呪われた場所』の奥にあるという、聖なる泉かもしれん。あの水と、この器官を併用すれば、あるいは……」
その言葉には、確信とまではいかないものの、わずかな期待が込められているようだった。バルトロ老人が語った、忌み嫌われた廃坑の言い伝え。その奥に、もし本当に救いがあるのなら……。
「行きましょう、シオリさん。あの光の奥へ……! ヴァナネルサを、早く!」
カリナは、先程の戦闘で刃こぼれし歪んだ長剣を再び握りしめ、ふらつく足取りながらも、シオリに促される前に光の方向へと歩き出そうとした。その瞳には、疲労の色は濃いが、ヴァナネルサを救うという一点に集中した、燃えるような意志の光が宿っていた。
シオリは、そのカリナの背中を数秒見つめた後、静かに頷き、先導するように崩落した壁の隙間へと進んだ。彼女の動きは、先程の激戦の疲労を微塵も感じさせないほど淀みなかったが、その呼吸は常よりも深く、肩が微かに上下しているのが、背後のカリナにも見て取れた。あの怪物との戦いは、シオリにとっても決して楽なものではなかったのだ。カリナは、シオリが通りやすいように、小さな瓦礫をそっと脇にどける。シオリはそれに気づいたようだが、何も言わなかった。
崩落した岩壁の先は、言葉を失うほどに幻想的な空間だった。天井からは乳白色の鍾乳石が無数に垂れ下がり、その先端から滴り落ちる水滴が、静謐な音を立てて床の泉へと吸い込まれていく。その泉こそが、淡く、しかし力強い青白い光の源だった。空気はひんやりと澄み渡り、心が洗われるような清浄な気に満ちている。
「これが……聖泉……」
カリナは、その光景にしばし見入っていた。
「ヴァナネルサをここに」
シオリの声で我に返ったカリナは、苔むしたヴァナネルサの傍らに膝をつき、シオリが差し出した怪物の器官をどうすればよいのか戸惑った。
「その器官を潰し、泉の水と混ぜて飲ませろ。効果があるかは分からん。だが、何もしなければ確実に死ぬ」
シオリの言葉は、相変わらず冷徹だが、そこには微かな可能性に賭けるという、彼女なりの合理的な判断があった。カリナは、震える手でその器官を硬い石で潰し、泉の水と共にヴァナネルサの口元へと運んだ。彼の喉が、ごくりと動く。
どれほどの時間が経っただろうか。泉のほとりで、三人は息を殺してヴァナネルサの様子を見守っていた。カリナは彼の冷たくなった手を握りしめ、必死に祈り続けていた。シオリは壁に寄りかかり、目を閉じていたが、その全神経はヴァナネルサの状態に集中しているようだった。彼女自身の疲労も限界に近いのかもしれない。時折、彼女の肩が微かに震えているのを、カリナは見ていた。それは寒さからくるものなのか、それとも極度の疲労からくるものなのか。
不意に、ヴァナネルサの体が大きく痙攣し、激しく咳き込んだ。その口から、黒紫色の粘液が吐き出される。
「ヴァナネルサ!?」
カリナが悲鳴に近い声を上げる。しかし、その直後、彼の呼吸が、先程までの浅く苦しげなものから、ゆっくりと、しかし確実に深くなっていることに気づいた。顔色も、土気色から僅かに血の気を取り戻し始めている。
「シオリさん……ヴァナネルサの呼吸が……!」
カリナの声が、安堵と期待に震える。シオリは薄く目を開け、その変化を静かに見つめていた。
「……峠は越えたか。だが、完全ではない。毒の影響は残るだろう。この泉の水は浄化の力が強いが、毒そのものを完全に消し去るものではない。体内の毒素を薄め、生命力を僅かに回復させる程度の効果だ。彼の体力がどこまで持つか……」
やがて、ヴァナネルサは呻き声を上げ、ゆっくりと目を開いた。その虚ろだった瞳がカリナを捉え、次いで泉の傍らに立つシオリの姿を認識した。
「……カリナ様……? ここは……守護者は……どうなったのですか……?」
掠れた声だったが、意識ははっきりとしてきたようだ。
「倒した。お前も、間一髪だったな」シオリは簡潔に答える。
「このヴァナネルサ、またもやカリナ様とシオリ殿にご迷惑を……。しかし、この命、確かに繋ぎ止められました。このご恩、決して忘れませぬ」
ヴァナネルサは、まだ弱々しいながらも、カリナの手をしっかりと握り返した。その瞳には、深い感謝の色が浮かんでいる。
シオリは、その様子を一瞥すると、泉の奥、岩壁に刻まれた古代文字らしきものと、奇妙な儀式の図へと視線を移した。それは、彼女が転生した際に見た魔法陣の構造と酷似しており、その傍らには「祝福」という言葉と、星々を繋ぐような複雑な紋様が刻まれていた。
(この世界の理……そして、私のこの身体。無関係ではないはずだ。エストンが求める「祝福」とは、これのことか……? この壁画の情報を持ち帰ることが、エストン打倒の鍵になるかもしれない。そして、私の蘇りの謎にも繋がるやもしれん)
シオリの中で、新たな探求の対象が芽生え始めていた。この「呪われた廃坑」は、単なる逃げ道ではなかった。思いがけず、世界の核心に触れる手がかりを得たのかもしれない。
ヴァナネルサの容態が安定したのを見届け、三人はこの聖泉の空間でしばしの休息を取ることにした。シオリは、カリナが怪物の攻撃からヴァナネルサを庇った際に裂けた彼女の外套を、無言で自身の背嚢から取り出した予備の布で手際よく補修した。その手つきは、剣を扱うそれとは異なる、意外なほどの器用さだった。カリナは、そのシオリの思いがけない行動に驚きながらも、胸に温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「シオリさん……ありがとう」
「……気にするな。風邪を引かれては、足手まといが増えるだけだ」
相変わらずの口調だったが、その言葉の裏には、僅かながらも気遣いが感じられた。カリナは、先程の戦闘で自分が少しでも役に立てたかもしれないという思いと、シオリのこの小さな優しさに、これまでの苦労が報われたような気持ちになった。
休息の後、シオリは泉のさらに奥に見つかった細い亀裂──外光が差し込む場所──の調査を提案した。
「ここから脱出できる可能性がある。ヴァナネルサ、歩けるか?」
「はい、シオリ殿。カリナ様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。この毒の影響で、しばらくは以前のような力は出せぬかもしれませんが、足手まといにだけは……。この身体に刻まれた毒の感覚……完全に消え去るには、まだ時間がかかりそうです」
ヴァナネルサは、まだ万全ではないものの、カリナに肩を借りながら立ち上がった。その瞳には、先程までの弱々しさは消え、再び忠実な騎士としての強い意志が宿っている。しかし、彼の言葉の端々には、自身の力の低下に対する悔しさと、毒の残滓への不安が滲んでいた。
三人がその亀裂を抜けると、そこは穏やかな陽光が降り注ぐ、広大な丘陵地帯へと繋がる洞窟の出口だった。廃坑の閉塞感から解放され、カリナは思わず深呼吸をした。
「ここは……! バルトロ様からお聞きした、ザルツブルグの南に広がる丘陵地帯……。このまま進めば、いずれ街道に出られるはずです!」
ヴァナネルサが、興奮を隠せない様子で言った。
「街道……。そこから、どこへ向かうべきかしら。父上が生前、もしもの時のためにと話してくださった、自由都市連邦という場所……。そこには、父の信頼できる知己がいるかもしれないと……」
カリナの瞳に、新たな希望の光が灯る。しかし、その道は遠く、そしてエストンの追手は執拗だ。まだ、安息の地は見えていない。
シルヴァリアを目指す道中、カリナはシオリに、廃坑での戦いについて、そして自分が剣を振るったことについて、おそるおそる尋ねた。
「シオリさん……あの時、私が剣を振るったことは……やはり、無謀だったでしょうか。あなたの足手まといになったのでは……」
シオリは、しばらく黙って前を見据えていたが、やがて静かに口を開いた。
「……あの状況下では、結果として敵の注意を引き、時間を稼いだ。だが、お前の技量は赤子のそれに等しい。しかし……」
シオリはそこで言葉を区切り、ほんの一瞬だけカリナに視線を向けた。
「……以前よりは、無駄な恐怖に呑まれなくなった。そして、ヴァナネルサを守ろうという意志は、見苦しくはなかった。お前のその『覚悟』が、僅かながら戦況に影響を与えたことも事実だ。だが、勘違いするな。次も同じようにいくとは限らん。力なき者の蛮勇は、時として自滅を招くだけだ」
その言葉は、シオリなりの最大限の評価であり、そして厳しい現実の指摘でもあった。カリナは、その言葉を胸に刻み込むように、強く頷いた。先程の戦闘で握りしめていた長剣は、シオリが回収し、ヴァナネルサに返されていた。カリナの手には、彼女が元々持っていた儀礼用の短剣だけが残っている。しかし、彼女の心の中には、あの重い鉄の感触と、守るために戦うという決意が、確かに残っていた。この短剣でも、今の自分なら何かできるかもしれない。いや、何かをしなければならない。そう思えるようになっていた。
数日後、三人は人目を避けながら丘陵地帯を抜け、ようやく小さな街道へと辿り着いた。そこには、時折、商人や旅人の姿が見える。彼らは警戒しながらも、ザルツブルグから離れ、新たな目的地へと向かう人々の流れに紛れ込もうとした。
その夜、野営の準備をしながら、カリナはシオリに改めて向き直った。
「シオリさん。私、決意しました。ただ逃げるのではなく、エストンと戦います。父の無念を晴らし、王国を……民を救いたい。そのために、私はもっと強くならなければなりません。そして……もしよろしければ、あなたのお力をお借りしたいのです。もちろん、これは私のわがままです。あなたは、ご自身の目的のために旅をされている。それを邪魔する権利は私にはありません。でも……もし、私たちの道が、わずかでも交差するのであれば……」
カリナは、深々と頭を下げた。その声は震えていたが、そこには廃坑での死闘を乗り越えた者だけが持つ、確かな強さが宿っていた。
シオリは、カリナのその真っ直ぐな瞳を見つめ返す。彼女の内に燃える強い意志の光。それは、廃坑の奥で見た、どんな闇にも屈しない希望の光に似ていた。
「……利害は一致する。エストンは、いずれ私が斬らねばならぬ相手かもしれん。そして、廃坑で見たあの壁画……『祝福』の謎。それもまた、私の関心を引く。お前のその覚悟、悪くはない。だが、足手まといになるようなら、容赦はせんぞ」
シオリの口元に、ほんの僅かな、しかし確かな変化が浮かんだ。それは、孤高の剣士が、初めて他者と道を共にするという、小さな予兆なのかもしれない。
「明日からは、また騒がしくなるだろう。休めるうちに休んでおけ」
その言葉は、新たな戦いの始まりを告げていた。カリナは、シオリの背中に、以前とは異なる何か──信頼、あるいは仲間意識のようなもの──を感じながら、静かに頷いた。彼女の心には、恐怖よりも強い、未来への確かな希望が灯っていた。この手に握る短剣は小さくとも、彼女の意志は、もはや何者にも屈しない強さを持ち始めていた。そして、いつかまた、あの重い剣を振るえる日が来るかもしれない。その時は、もっと上手く、もっと強く。そんな想いが、彼女の胸に静かに芽生えていた。自由都市連邦という、まだ見ぬ地へ。三人の新たな旅が、今、始まろうとしていた。