戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第十六話

 聖泉の青白い光は、いつしか洞窟の入り口から差し込む明け方の薄明かりへとその役目を譲り渡していた。乳白色の靄が立ち込め、ひんやりとした朝の空気が、廃坑の奥深くにまで流れ込み、三人の肌を撫でる。ヴァナネルサの呼吸は、昨夜とは比べ物にならないほど穏やかで、その寝顔には苦悶の色はもうなかった。カリナは、シオリが夜通し見張りを続けていたであろう入り口近くの岩陰から、静かにその様子を見守っていた。彼女自身も、外套にくるまり浅い眠りを得たが、緊張と興奮で心の昂りはまだ収まっていなかった。

 

 やがて、ヴァナネルサが身じろぎし、ゆっくりと瞼を開いた。その焦点の定まらなかった瞳が、まずカリナの姿を捉え、次いで周囲の状況を把握しようと巡らされる。そして、自身の身体の状態を確かめるように、ゆっくりと手を握りしめ、開いた。顔色はまだ完全には戻っておらず、目の下にはうっすらと疲労の影が残っている。

 

「カリナ様……」掠れていた声は、まだ完全ではないものの、以前よりもしっかりとした響きを取り戻していた。「このヴァナネルサ……どうやら、最悪の事態は免れたようです。これも、シオリ殿の的確な判断と、そして何より……カリナ様が、あの絶望的な状況下でも諦めずにいてくださったお陰です」

 

 彼は、カリナの目の前にそっと片膝をつき、その手を取ろうとしたが、まだ力が入らないのか、その手は微かに震え、ふとした瞬間に眉間に皺を寄せる。毒の残滓が、まだ彼の身体の奥深くで疼いているかのようだった。

 

「ヴァナネルサ……! よかった……本当によかった……」カリナは、彼のその震える手を両手で包み込むように握りしめた。温かい涙が、彼女の頬を伝って落ちる。それは安堵の涙であり、そして、共に死線を乗り越えた仲間への感謝の涙だった。

 

 シオリは、いつの間にか洞窟の入り口近くに立ち、外の気配を探っていた。彼女の黒衣は朝靄に溶け込むようで、その横顔は夜明け前の空のように静謐だった。ヴァナネルサは、そのシオリの背中に向かって、できる限りの力で声を張った。

 

「シオリ殿! この度のこと、改めて御礼申し上げる! 貴公がいなければ、私はとうに冥府の住人となっていたでしょう。この恩義、いずれ必ず……!」

 

「……礼は不要だ」シオリは振り返ることなく、短く応じた。「お前が生きていれば、カリナの護衛という役割を多少は果たせるだろう。私にとっては、それが現状、最も効率的な利点となる。それだけだ」

 

 その言葉は相変わらず感情の起伏を感じさせないものだったが、ヴァナネルサは、以前ほどその言葉に反発を覚えなかった。むしろ、その飾り気のない、ある意味で正直すぎる物言いに、奇妙な信頼感すら抱き始めていた。この剣士は、嘘やごまかしを嫌う。その一点において、騎士である自分と通じるものがあるのかもしれない、と。

 

「いずれにせよ、このヴァナネルサ、カリナ様をお守りするという使命を全うするためにも、一刻も早くこの身体を立て直さねばなりません。しかし……この身体に刻まれた毒の感覚は、まだ完全に消え去ってはいないようです。以前のような力を取り戻すには、まだ時間がかかりそうです」彼は、悔しさを滲ませながら、自身の腕を見つめた。そこには、まだ微かに紫色の痣が残り、時折、鈍い痛みが走るのを隠すように、無意識に腕をさすっていた。

 

 シオリは、洞窟の亀裂──外光が差し込む場所──へと視線を向けた。

 

「ここから脱出できる可能性がある。ヴァナネルサ、自力で歩けるか? 無理ならば、私が担ぐ。だが、その場合、お前の役割は完全に失われることになるが」

 

 その言葉は、挑発とも、あるいは彼の騎士としての矜持を試すものとも受け取れた。ヴァナネルサは、カッと目を見開き、奥歯を食いしばった。

 

「ご心配には及びません、シオリ殿。この程度のことで、カリナ様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。この足で、必ずや!」彼は、カリナの肩を借りることもせず、ふらつきながらも自力で立ち上がった。その姿には、まだ万全とは程遠いものの、不屈の闘志が漲っていた。しかし、その立ち上がる動作の端々に、僅かな痛みを堪えるような硬直が見て取れた。

 

 三人が亀裂を抜けると、そこは穏やかな陽光が降り注ぐ、広大な丘陵地帯へと繋がる洞窟の出口だった。廃坑の閉塞感から解放され、カリナは思わず深呼吸をした。草いきれの匂い、鳥のさえずり、吹き抜ける風。その全てが、生きていることの喜びを彼女に実感させた。

 

 ヴァナネルサが、周囲の地形を注意深く観察しながら言った。

 

「ここは……! バルトロ様からお聞きした、ザルツブルグの南に広がる丘陵地帯のようですね。しかし、ここからどちらへ向かうべきか……街道に出るにしても、どの道が安全か……」

 

 カリナも、広大な丘陵を見渡し、不安げな表情を浮かべる。

 

「自由都市連邦を目指したいけれど……具体的な地名も、道筋も、私には……」

 

 その時、これまで黙って周囲を観察していたシオリが口を開いた。

 

「……この丘陵を東に進めば、古い街道に出るはずだ。その街道を辿れば、かつて『シルヴァニア』と呼ばれた交易都市があった。もし、その都市が今も存在し、自由都市連邦の勢力下にあるのならば、そこが我々の目指すべき場所になるかもしれん」

 

 ヴァナネルサとカリナは、シオリの言葉に驚いて顔を見合わせた。

 

「シルヴァニア……? シオリ殿、その都市について何かご存知なのですか?」とヴァナネルサが尋ねる。

 

「私が『いた』時代には、それなりに栄えた場所だったと聞いている。もっとも、それは遠い昔の話だ。今の時代にどうなっているかは分からん。だが、地理的に考えれば、自由都市連邦への入り口となり得る位置にあるはずだ。まずはそこを目指し、情報を集めるのが合理的だろう」

 

 シオリの言葉には、どこか確信めいた響きと、同時に過去の情報であることの不確かさが滲んでいた。

 

「シルヴァニア……。その名前に、何か聞き覚えがあるような……父の書斎で、古い地図か何かで見たような気もします。もし、シオリさんの言う通り、そこが自由都市連邦に繋がる場所なら……」

 

 カリナの瞳に、新たな希望の光が灯る。

 

 陽が中天に差し掛かる頃、三人は丘陵地帯を見下ろせる、風当たりの少ない岩陰を見つけ、そこで本格的な休息と、今後の行動計画を練ることにした。シオリは、昨夜のうちに狩ってきていた小鹿の残りを手際よく解体し、焚き火で炙り始める。ヴァナネルサは、まだ本調子ではない身体を押して、周囲の偵察と、水場の確保に向かった。一人残されたカリナは、岩に腰掛け、ぼんやりと遠くの景色を眺めていた。

 

 廃坑での出来事が、まるで昨日のことのようであり、同時に遠い昔の出来事のようにも感じられた。あの恐怖、あの絶望、そして、シオリと共に戦った(と言えるのかは分からないが)あの瞬間。自分の手で、ヴァナネルサを守ろうとしたあの時の高揚感。そして、あの重い剣の感触。

 

 カリナは、自身の腰に差された儀礼用の短剣にそっと手を触れた。それは、飾りとしての意味合いが強く、実戦で役立つような代物ではない。しかし、今の彼女には、この短剣すらも、何か大きな意味を持つように感じられた。

 

(私は……もう、ただ守られるだけではいたくない)

 

 その想いが、胸の奥で確かな形を取り始めていた。

 

 やがて、ヴァナネルサが戻り、シオリが焼き上げた肉が三人に振る舞われた。久しぶりのまともな食事に、カリナもヴァナネルサも、そしてシオリでさえ、僅かながら表情を和らげているように見えた。硬く、少し焦げ付いた肉だったが、今の彼らにとっては、これ以上ないご馳走だった。

 

 食事が一段落し、ヴァナネルサが今後の行程についてシオリと話し合い始めた。その内容は、カリナにも断片的に聞こえてくる。

 

「シルヴァニアへ向かう街道は、シオリ殿の記憶では、おそらくこの丘陵を抜けた先にある古い東街道でしょう。ですが、その街道の現在の状況は不明ですな。山賊の類が出るという噂も耳にしますし、最悪の場合、エストン側の検問が敷かれている可能性も捨てきれません。我々の現状を考えれば、多少時間をかけてでも迂回路を探るべきか、あるいは……」

 

「……迂回路を取れば、食料と水の確保がさらに困難になる。この丘陵地帯は、思ったよりも水場が少ない。追手の斥候も、完全に撒いたとは言い切れない。街道に出るのであれば、夜間、あるいは早朝の人の少ない時間帯を狙うべきだ。シルヴァニアが交易都市として機能しているなら、人の往来はそれなりにあるはず。それに紛れるのが得策かもしれん。だが、その分、見つかるリスクも高まる」

 

 シオリとヴァナネルサは、それぞれの視点から、シルヴァニアへの道のりについて冷静に、しかし真剣に言葉を交わす。彼らの会話からは、一つ一つの選択が命懸けであることがひしひしと伝わってきた。

 

 その議論を聞きながら、カリナは意を決したように、ゆっくりと立ち上がった。そして、シオリの前に進み出て、深々と頭を下げた。

 

「シオリさん……私、決意いたしました」

 

 その声は、まだ少女のあどけなさを残しながらも、どこか芯の通った、強い響きを持っていた。シオリとヴァナネルサが、訝しげな表情でカリナを見つめる。

 

「ただ逃げるのではなく、エストンと戦います。父の無念を晴らし、王国を……虐げられている民を救いたい。そのためには、私はもっと強くならなければなりません。今の私では、シオリさんやヴァナネルサの足手まといになるばかりです。それは……もう、嫌なのです」

 

 カリナは顔を上げ、その潤んだ瞳で、真っ直ぐにシオリを見据えた。その瞳の奥には、廃坑の深淵で見た、どんな闇にも屈しない希望の光が、より一層強く輝いていた。

 

「そして……もし、もしよろしければ、シオリさん……私に、剣を教えていただけないでしょうか」

 

 その言葉は、静かな丘陵に、しかし確かな重みを持って響き渡った。ヴァナネルサが、息を呑む音が聞こえる。彼は、カリナのそのあまりにも突飛な申し出に、言葉を失っているようだった。

 

「カリナ様! そ、それはあまりにも無謀です! 剣の道は、血と硝煙に塗れた修羅の道。王女である貴女様が、そのような……!」

 

「分かっています、ヴァナネルサ」

 

 カリナは、彼を遮るように、しかし穏やかな声で言った。

 

「でも、私はもう、ただ守られるだけの存在ではいたくないのです。あなたやシオリさんが、命を懸けて私のために戦ってくださっているのに、私だけが安全な場所で震えているわけにはいきません。この手に何もできないとしても、せめて、自分の身くらいは守れるようになりたい。そして、いつか……いつか、あなたたちの背中を守れるような、そんな力が欲しいのです」

 

 その言葉には、もはや以前のような弱々しさはなく、ただひたすらに純粋な、そして切実な願いが込められていた。

 

 シオリは、焚き火の揺らめく炎を、感情の読めない瞳で見つめていた。彼女の周囲の空気だけが、まるで時が止まったかのように静まり返っている。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、カリナの瞳を射抜くように見つめた。

 

「……剣の道は、お前が思うほど甘くはない。それは、血と死と、そして絶え間ない鍛錬の道だ。お前のような、王宮育ちのか弱い娘が、安易に足を踏み入れて良い場所ではない。生半可な覚悟では、間違いなく、すぐに命を落とすことになるだろう。それでも、お前はそれを望むのか?」

 

 その声は、いつも通りの、氷のように冷たい響きを保っていた。しかし、その奥には、カリナの覚悟の深さを試すような、鋭い問いかけが隠されているように感じられた。

 

 カリナは、一瞬も怯むことなく、力強く頷いた。

 

「覚悟は……できています。廃坑の暗闇の中で、それを学びました。恐怖も、痛みも、そして……誰かを守るために、自らが傷つくことを厭わずに剣を振るうことの意味も。ほんの僅かですが」

 

 彼女の脳裏には、ヴァナネルサを背負って歩いたあの時の絶望的な重さと、蟲の群れに囲まれた時の圧倒的な恐怖、そして、シオリと共に戦った(と彼女自身は思っている)あの瞬間の、形容しがたい高揚感が鮮明に蘇っていた。あの経験が、彼女の中で眠っていた何かを、確実に呼び覚ましたのだ。

 

 シオリは、カリナのその真っ直ぐな瞳から、目を逸らさなかった。その小さな体躯の奥に宿る、鋼のような意志の光。それは、シオリがかつて、血と硝煙の舞う戦場で、幾度となく目にしてきた光景だった。絶望的な状況下でも、決して希望を捨てず、最後の最後まで抗い続けた者たちが放つ、魂の輝き。そして、その輝きは、時に奇跡と見紛うほどの力を生み出すことを、シオリは経験として知っていた。

 

(この小娘……。単なる感傷や、一時的な興奮で言っているのではない、か。あの廃坑での経験は、確かにこいつの中で何かを変えたのかもしれん。あるいは……元々、こいつの奥底に眠っていたものが、ようやく目覚めただけなのか)

 

 シオリは、ふっと、ほとんど誰にも気づかれぬほど微かに、息を吐いた。それは、ため息のようでもあり、あるいは、何か厄介なものに関わってしまったという諦観のようでもあり、そして、ほんの僅かながら、この小娘の途方もない願いに対する、奇妙な興味のようでもあった。

 

「……よかろう」

 

 その一言は、あまりにも静かに、しかし決定的な重みを持って告げられた。

 

「ただし、条件がある。第一に、私の指導に一切の口答えは許さん。第二に、手加減は一切しない。途中で泣き言を言うようなら、その時点で終わりだ。そして第三に、私が教えるのは、あくまで『生き残るための術』だ。お前が夢見るような、物語に出てくる華麗な騎士の剣技などではない。泥臭く、効率的で、時には卑怯とそしられるかもしれん技だ。それでも良いというのなら、この話は成立する」

 

 カリナの顔が、ぱあっと輝いた。それは、まるで暗闇の中に一条の光が差し込んだかのような、純粋な喜びの表情だった。

 

「はいっ! 望むところです! シオリ先生!」

 

 その「先生」という言葉に、シオリの眉が微かにピクリと動いたのを、カリナは見逃さなかった。しかし、シオリはそれ以上何も言わず、ただ静かに立ち上がった。

 

 ヴァナネルサは、そのやり取りを、信じられないものを見るような目で、しかしどこか納得したような、複雑な表情で見守っていた。カリナの決意の固さ。そして、シオリという剣士の、常人には理解し難い行動原理。彼には、もはやこの流れを止めることはできないと悟ったのだろう。だが、彼の胸には、カリナを戦場に立たせることへの深い懸念と、そして、シオリという存在への、拭いきれない不信感が渦巻いていた。彼の顔色が、シオリの言葉を聞くうちに、再び僅かに青ざめていく。後遺症の痛みがぶり返したのか、あるいは精神的なものか。

 

「カリナ様……。シオリ殿の指導は、おそらく想像を絶するほど苛烈なものとなるでしょう。もし、カリナ様が剣を取られるというのであれば、このヴァナネルサ、回復次第、及ばずながら稽古のお相手をさせていただきます。シオリ殿の剣は、あまりにも危険すぎる。私の剣は、あくまでカリナ様をお守りするためのものですから」

 

 彼の言葉には、カリナへの揺るぎない忠誠と、シオリへの明確な牽制、そして、シオリに先を越されたことに対する、騎士としての僅かな嫉妬のような感情が複雑に絡み合っているように聞こえた。

 

 シオリは、ヴァナネルサを一瞥したが、その言葉を意に介する様子もなく、近くに落ちていた手頃な長さの木の枝を拾い上げると、その先端を愛刀で器用に削り始めた。それは、あっという間に、稽古用の木剣へと姿を変えた。その手つきは、まるで長年武具の手入れをしてきた職人のように滑らかだった。

 

「明日からだ。夜明けと共に始める。準備は、今からしておくことだな。まずは、その貧弱な体力をどうにかする必要がある。そして、剣を振るう以前に、その身体で、大地にしっかりと根を張ることを覚えろ。それができなければ、お前は一生、ただの的だ。今日のところは、素振りの型だけ教える。後は、日が暮れるまで、私が指示した回数を繰り返せ」

 

 その言葉は、新たな、そしておそらくは地獄のような日々の始まりを告げていた。シオリは、カリナに木剣を渡し、基本的な素振りの型──力任せではなく、体の軸を意識した、効率的な力の伝え方──を、言葉少なに、しかし的確な動作で示してみせる。その動きは、華美ではないが、洗練されており、一挙手一投足に無駄がない。

 

 カリナは、緊張と期待で胸を高鳴らせながら、シオリのその言葉と動きに力強く頷いた。彼女の心には、恐怖よりも遥かに強い、未来への確かな希望が、そして自らの手で運命を切り開くのだという、燃えるような決意が灯っていた。この手に握る小さな短剣は、今はまだ頼りないかもしれない。だが、いつか必ず、この手で大切なものを守れるようになる。その日を目指して。

 

 その夜、カリナはなかなか寝付けなかった。焚き火の炎がパチパチと音を立て、遠くで夜鳥の鳴く声が聞こえる。隣では、ヴァナネルサが静かな寝息を立てているが、時折、苦しげに顔を歪めるのが見えた。そして、少し離れた場所で、シオリが岩に背を預け、見張りを続けている気配がした。その姿は、まるで闇に溶け込む石像のように静かで、しかし絶対的な存在感を放っていた。

 

 カリナは、そっとシオリの方へ近づいた。彼女が何かに気づいたのか、僅かに顔をこちらへ向けたのが分かった。

 

「シオリさん……。先程は、ありがとうございました」

 

「……何がだ」

 

「私の、わがままな申し出を聞き入れてくださったこと、です。本当に……感謝しています」

 

 シオリは、何も答えなかった。ただ、揺らめく焚き火の炎を、感情の読めない瞳で見つめている。

 

「あの……一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか。なぜ……なぜ、私に剣を教えようと? あなたにとっては、何の得にもならないはずなのに……」

 

 それは、カリナがずっと抱いていた疑問だった。この冷徹で合理的な剣士が、自分のような足手まといになる可能性の高い者に、時間と労力を割く理由が見当たらなかったのだ。

 

 シオリは、しばらくの間、沈黙を守っていた。やがて、彼女は、まるで独り言のように、静かに、しかし確かな響きを持つ声で呟いた。

 

「……お前の瞳の奥に見た光が、ほんの少しだけ、かつての私に似ていた、のかもしれんな。ただ、それだけだ」

 

 その言葉の意味を、カリナは完全には理解できなかった。しかし、その声には、いつもとは異なる、ほんの僅かな温かみのようなものが感じられた。それは、シオリが初めて見せた、人間的な感情の欠片だったのかもしれない。

 

「それと……お前が本当に強くなれば、いずれ私の役に立つ日が来るやもしれん。それは、十分に合理的な投資だ」

 

 最後に付け加えられた言葉は、いつものシオリらしい、どこか皮肉めいた響きを持っていた。しかし、カリナは、その言葉の裏にある、言葉にできない何かを感じ取ったような気がした。

 

「……そのご期待に沿えるよう、精一杯努力します」

 

 短い会話の後、再び静寂が訪れた。しかし、その静寂は、以前とは異なり、どこか温かいものに満ちているようにカリナには感じられた。シオリという存在が、少しだけ、ほんの少しだけ、近くなったような気がしたのだ。

 

 夜明け。東の空が乳白色に染まり始め、鳥のさえずりが森に響き渡る。シオリは、既に身支度を整え、カリナの前に立っていた。その手には、昨日削り出した稽古用の木剣が握られている。その佇まいは、厳格な師のそれだった。

 

「始めるぞ。昨日の素振り、百回。その後、体幹を鍛えるための基礎訓練だ。剣を握る以前に、その貧弱な身体で、大地にしっかりと根を張ることを覚えろ。それができなければ、お前は一生、ただの的だ」

 

 シオリの声は、いつものように平坦だったが、その瞳の奥には、新たな弟子(と呼ぶにはまだ早すぎるかもしれないが)に対する、ほんの僅かな期待のような光と、そしてそれ以上に厳しい試練を与えるであろうという、容赦のない光が宿っているように、カリナには見えた。

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