戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
太陽が東の空にその姿を現し、丘陵地帯を黄金色に染め上げる頃には、カリナは既に汗だくになっていた。シオリに指示された素振り百回は、彼女の貧弱な体力では想像を絶する苦行だった。木剣を握る腕は鉛のように重く、肩は灼けるように痛み、呼吸はすぐに乱れる。何度も途中で木剣を取り落としそうになり、その度にシオリの氷のような視線が突き刺さった。
「……それで終わりか。そのような体たらくで、戦場で何ができる。敵は、お前が疲れるのを待ってはくれんぞ」
シオリの声には、一切の感情が込められていない。ただ、淡々と事実を述べているだけだ。しかし、その言葉の一つ一つが、カリナの自尊心を容赦なく抉り出す。
「ま、まだ……やれます……!」
カリナは、奥歯を食いしばり、震える腕で再び木剣を構え直した。悔しさと、自分の不甲斐なさで涙が滲む。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。自分で選んだ道なのだ。
ヴァナネルサは、その様子を複雑な表情で見守っていた。彼の体調は少しずつ回復してきてはいるものの、まだ満足に動ける状態ではない。カリナのあまりにも過酷な訓練を目にして、何度も口を挟みそうになるが、シオリの「これは彼女自身の問題だ」という言葉と、カリナ自身の必死な形相が、彼を押しとどめていた。
(カリナ様……。あのシオリ殿の指導は、あまりにも……。しかし、あれほど真剣なカリナ様のお姿は、かつて王宮では見たことがなかった。何かが、確かに変わり始めているのかもしれない……)
素振りが終わると、休む間もなく体幹を鍛えるための基礎訓練が始まった。シオリが示すのは、一見すると単純な、しかし全身の筋肉を極限まで使うような奇妙な体勢の維持だった。地面に手をつき、体を一直線に保つ。片足で立ち、ゆっくりと膝を曲げ伸ばしする。そのどれもが、カリナにとっては拷問に近い。数十秒も経たないうちに、全身が悲鳴を上げ、汗が滝のように流れ落ちる。
「……軸がぶれている。意識を丹田に集中しろ。足の裏で、大地を掴むように。お前の身体は、ただの肉袋ではない。一本の揺るがぬ樹木となれ」
シオリは、カリナの体勢の僅かな乱れも見逃さず、的確に、しかし容赦なく指摘する。時には、その細い指で、カリナの腹部や背筋を強く押し、正しい筋肉の使い方を叩き込んだ。その度に、カリナの口からは苦悶の呻きが漏れた。
数日が経過した。三人は、シルヴァニアを目指し、丘陵地帯を東へと進み続けていた。昼間は移動し、夜は野営する。そして、その合間を縫うように、シオリによるカリナの訓練は続けられた。カリナの身体は、日に日に悲鳴を上げていた。全身は筋肉痛で軋み、手には豆ができ、潰れてはまた新しい豆ができた。夜、眠りにつこうとしても、疲労と痛みでなかなか寝付けないこともあった。
ある日の午後、三人は小さな森のはずれで休憩を取っていた。カリナは、木陰に力なく座り込み、ヴァナネルサが差し出した水筒の水を、震える手で受け取った。その顔は土気色で、唇は乾ききっている。
「カリナ様、少し顔色が悪すぎます。シオリ殿、今日の訓練はもう……」
ヴァナネルサが、見かねてシオリに口を挟もうとした。しかし、シオリは静かに首を横に振る。
「……まだだ。この程度で音を上げるようでは、話にならん。戦場では、これ以上の疲労と苦痛の中で、それでも剣を振るわねばならぬ時が来る。その時に備え、精神と肉体の限界値を引き上げておく必要がある」
その言葉は、どこまでも冷徹だった。しかし、その直後、シオリは懐から小さな革袋を取り出し、中から干し肉の欠片と、何か苦そうな匂いのする薬草を取り出すと、それをカリナに差し出した。
「……食え。そして、これを噛め。気休め程度にはなるだろう」
カリナは、驚いたようにシオリの顔を見上げた。差し出された干し肉は硬く、薬草はひどく苦かったが、それを口にすると、不思議と身体の奥から僅かな力が湧いてくるような気がした。
(シオリさん……。厳しいけれど……ちゃんと、私のことを見てくれている……?)
それは、ほんの些細な気遣いだったかもしれない。しかし、疲労困憊のカリナにとっては、何よりも大きな励ましとなった。
訓練は、剣術の基礎だけではなかった。シオリは、カリナに索敵の技術、気配の消し方、野営の際の注意点、さらには簡単な罠の作り方まで教え込んだ。それは、彼女がかつて戦場で生き抜くために身につけた、実戦的な知識と技術の数々だった。
「敵は、常に正面から来るとは限らん。背後から、あるいは死角から、音もなく忍び寄る。お前は、周囲のあらゆる変化に気を配り、五感を研ぎ澄ませる必要がある。風の音、鳥の声、草の匂い、地面の感触。その全てが、お前に何かを伝えようとしている」
シオリは、森の中で、カリナに目隠しをさせ、周囲の音だけを頼りに自分の位置を探させるという訓練も行った。最初は戸惑うばかりだったカリナも、シオリの根気強い(そしてしばしば手厳しい)指導によって、少しずつではあるが、その感覚を掴み始めていた。
ある夜、見張りをしていたシオリの元に、カリナがおずおずと近づいてきた。その手には、昼間にシオリが仕留めたウサギの皮を、不器用ながらも懸命に鞣そうとした跡のあるものが握られていた。
「シオリさん……。あの、これ……。まだ上手くできませんでしたけど……いつか、ちゃんとしたものが作れるようになったら……その……」
カリナは、言葉を詰まらせながら、鞣しかけの毛皮をシオリに差し出した。それは、シオリが以前、自分の破れた外套を繕ってくれたことへの、彼女なりの恩返しのつもりだったのかもしれない。
シオリは、その不格好な毛皮を一瞥すると、静かに受け取った。
「……悪くない。だが、まだ血抜きが甘いな。それに、この部分はもっと薄く削がないと、硬くて使い物にならん。だが……その意志だけは、受け取っておこう」
シオリは、そう言うと、その毛皮を自身の背嚢に丁寧にしまった。その仕草は、いつもの彼女からは想像もできないほど、どこか優しいものに見えた。カリナの胸に、温かいものが込み上げてくる。
ヴァナネルサの体調も、少しずつではあるが回復に向かっていた。彼は、シオリの訓練の合間に、カリナに王宮騎士団で教えられていた剣の型や、盾の使い方などを、無理のない範囲で教え始めた。シオリの教える実戦的な「生き残るための術」とは異なる、正統的で美しい剣技。それは、カリナにとって新鮮であり、同時に、自分が目指すべき「強さ」とは何かを改めて考えさせるきっかけとなった。
「シオリ殿の剣は、確かに恐ろしいほどの強さだ。だが、それはあまりにも……血の匂いがしすぎる。カリナ様には、そのような道は歩んでほしくない。王女として、民を導く者として、必要なのは、力だけではない。慈しみと、気高さだ。私の剣は、そのためのものだ」
ヴァナネルサは、木剣を構えるカリナに、そう語りかける。彼の言葉には、カリナへの深い愛情と、シオリの剣への複雑な思いが込められていた。
カリナは、二人の師から、それぞれ異なる「剣」を学び始めていた。シオリの教える、生存に特化した効率的な剣。ヴァナネルサの教える、騎士道精神に則った守るための剣。その二つは、時に相反するように見えて、しかし、カリナの中で少しずつ融合し、彼女自身の「剣」の形を模索し始めているかのようだった。
丘陵地帯を抜けるのに、予想以上の時間がかかった。食料も乏しくなり、追手の影に怯える日々。しかし、カリナは弱音を吐かなかった。シオリの厳しい訓練に耐え、ヴァナネルサの言葉に耳を傾け、必死に前へ進もうとしていた。
そして、ある日の夕暮れ時。三人は、ついに丘陵の切れ間から、遠く眼下に広がる平野と、そこに続く一本の古い街道を発見した。街道の先には、夕日に照らされて赤く染まる、大きな街のシルエットが見える。
「あれが……! あれが、シルヴァニア……!?」
カリナが、息を呑んで呟いた。
「……ああ。おそらくはな。だが、油断するな」シオリは街を睨み据えた。「あの街が、我々を歓迎してくれるとは限らん」
その言葉通り、街道に近づくにつれて、三人は異様な雰囲気に気づき始めた。街道の脇には、いくつかの見張り台のようなものが設けられ、武装した兵士たちの姿が見え隠れする。そして、街道の中央には、粗末ながらも頑丈そうな木の柵で作られた検問所が設置されていた。
「……やはり、か。エストンの手が、ここまで伸びているとはな」シオリが苦々しげに呟く。
「あの兵士たちの数と装備……力攻めは愚策ですな。カリナ様のお身体を考えると、無用な戦闘は避けたいところです」ヴァナネルサが険しい表情で分析した。
絶望的な光景に、カリナの顔が青ざめる。しかし、彼女はただ怯えるだけではなかった。シオリとの訓練で培われた観察眼──それは、風の音、鳥の声、人の気配、その全てから情報を読み取ろうとする訓練の賜物だった──で、必死に検問所の様子を窺う。兵士たちの動きには覇気がなく、見張り台の兵士は時折あくびを噛み殺している。そして、風は丘陵から検問所へと緩やかに吹き下ろしていた。
「シオリさん」カリナが、おそるおそる、しかし真剣な眼差しで声をかけた。「あの検問所……もしかしたら、正面からぶつからずに済む方法があるかもしれません」
「ほう? 聞こう」シオリの黒曜石のような瞳が、カリナを捉えた。その視線は、彼女の言葉の真意を探るように鋭い。
「父の書斎で読んだ古い戦記に……いえ、それだけではありません。シオリさんの訓練で、音や気配に注意を払うようになって気づいたのです。あの兵士たち、とても油断しているように見えます。そして、風は私たちから彼らに向かって吹いています。もし……もし、夜陰に紛れて、風下から静かに近づくことができれば……そして、見張り台の注意をほんの一瞬でも逸らすことができれば……」
カリナの声は、自信に満ちたものではなかった。むしろ、自分の考えが果たして通用するのかという不安と、それでも何とかしたいという必死さが滲み出ている。それは、誰かに教えられた完璧な作戦ではなく、彼女自身の観察と、乏しい知識と、そして何よりもこの状況を打開したいという強い想いから生まれた、拙いながらも真摯な「可能性」の提示だった。
シオリは、カリナの言葉を黙って聞いていた。その能面のような表情の奥で、何が思考されているのかは窺い知れない。しかし、やがて彼女は、ふっと、ほとんど誰にも気づかれぬほど微かに息を吐いた。
「……悪くない気づきだ。確かに、あの兵士たちの練度は低い。風下からの夜襲は、隠密行動の基本でもある。だが、お前が『注意を逸らす』と言ったが、具体的にどうする? お前が囮になるというのか? それは自殺行為に等しいぞ」
シオリの言葉は、カリナの案の甘さを指摘しつつも、完全に否定するものではなかった。むしろ、その可能性を探ろうとしているかのようだ。
「いえ、私が直接囮になるのではありません。ヴァナネルサ様が、以前、森で獣の声を真似ていたのを思い出しました。もし、検問所の反対側、森の奥から、何か大きな獣の咆哮や、あるいは山賊の襲撃を思わせるような物音を立てることができれば……兵士たちの注意は、一斉にそちらへ向くのではないでしょうか? その隙に……」
ヴァナネルサが、目を見開いた。
「なるほど……。確かに、私の声帯模写ならば、あるいは。しかし、陽動に成功したとして、検問所の柵をどうやって……?」
「そこは、私がやる」シオリが静かに、しかし断言した。「お前たちの役目は、兵士たちの注意を最大限に引きつけ、そして私に時間を稼がせることだ。ヴァナネルサ、お前は陽動の後、検問所の反対側で合流地点を確保し、カリナを待て。カリナ、お前は私の指示があるまで、絶対に動くな。そして、合図と共に、ヴァナネルサの元へ全力で走れ。いいな?」
それは、カリナの気づきを元に、シオリが瞬時に最適化した作戦だった。各々の役割は明確で、リスクは伴うものの、力攻めよりは遥かに勝算があるように思えた。
作戦は、月もない新月の夜に決行された。シオリとカリナは、風下の闇に紛れ、音もなく検問所へと接近していく。シオリの動きは、もはや影そのものだった。気配を完全に消し、地面の小石一つ踏む音も立てない。カリナも、訓練の成果で必死にその後に続いた。
やがて、検問所の反対側の森の奥から、ヴァナネルサによるものと思われる、おぞましい獣の咆哮と、木々がなぎ倒されるような轟音が響き渡った。
「な、なんだ!? あの音は! まさか、熊か!?」
「いや、もっと大きいぞ! 山賊の襲撃か!?」
検問所の兵士たちが、一斉にそちらへ注意を向け、武器を構えて騒ぎ始める。見張り台の兵士たちも、松明をかざし、必死に森の奥を窺っている。
その瞬間だった。シオリが動いた。彼女は、見張り台の支柱を、まるで重力がないかのように駆け上がり、兵士たちが気づく前に、その首筋に正確無比な手刀を叩き込んでいく。声もなく、次々と崩れ落ちる見張り。それは、まさに「人斬り」としての技術の粋だった。
しかし、最後の一人を仕留めようとした時、その兵士が偶然にも振り返り、シオリの姿を捉えてしまった。
「き、貴様、何者だあっ!」
兵士が叫び、腰の剣を抜こうとする。シオリは舌打ちし、瞬時にその喉笛を掻き切ろうと──いや、思いとどまった。カリナとの約束。「殺さない」。その一瞬の逡巡が、兵士に反撃の隙を与えかねない。シオリは、持っていた剣の柄で兵士の鳩尾を強打し、意識を奪った。だが、その叫び声は、下の兵士たちにも届いてしまった。
「おい! 見張り台で何かあったぞ! 侵入者だ!」
隊長格らしき男が叫び、数人の兵士が見張り台へと駆け上がろうとする。陽動の効果が薄れ、作戦が崩壊しかけていた。
「カリナ! 今だ、行け!」
シオリの鋭い声が飛ぶ。カリナは、恐怖で体が竦みそうになるのを必死で堪え、闇の中を駆け出した。しかし、彼女の存在にも兵士たちが気づき始める。
「小娘がいるぞ! 捕まえろ!」
数人の兵士が、カリナの行く手を阻もうと迫る。絶体絶命かと思われたその時、見張り台から飛び降りたシオリが、彼らの前に立ちはだかった。
「……邪魔だ」
シオリの愛刀が、闇の中で銀色の軌跡を描く。それは殺意を伴わない、しかし的確な打撃。兵士たちは、その超人的な動きに対応できず、次々と体勢を崩し、あるいは武器を弾き飛ばされる。
その間に、カリナは検問所の柵へとたどり着いた。しかし、柵は思ったよりも頑丈で、彼女の力ではどうすることもできない。
「シオリさん!」
シオリは、追撃してくる兵士たちを巧みにいなし、時には小刀を投げつけて足止めをしながら、カリナの元へと駆け寄る。そして、愛刀を一閃。頑丈な木の柵が、まるでバターのように両断された。
その頃、ヴァナネルサも陽動の役目を終え、森の中から駆けつけ、カリナの手を掴んだ。
「カリナ様、こちらへ!」
三人は、混乱する兵士たちを後に、シルヴァニアへと続く闇の中へと消えていった。背後から聞こえる怒号は、次第に遠ざかっていく。
「やりましたね……! なんとか……!」ヴァナネルサが息を切らしながら、しかし興奮した声で言った。作戦通りとはいかなかったが、結果として突破できた。
カリナも、心臓が張り裂けそうなほどの緊張から解放され、その場に座り込みそうになった。自分の気づきが、本当に役に立った。そして、シオリとヴァナネルサの、想像を絶する力と機転があってこそ、この危機を乗り越えられたのだ。
「ええ……! 皆のおかげですわ。本当に……」彼女の声は、安堵と感謝で震えていた。
シオリは、黙って前を見据えていたが、その横顔には、ほんの僅かだが、予期せぬアクシデントを乗り越えたことへの安堵と、そしてカリナの成長──それは単なる知識ではなく、土壇場での判断力と、仲間を信じる心──を認めるような、微かな変化が見られた。
(この小娘……ただ守られるだけの存在ではなくなってきた、か。戦場の駒として、思考し始めた。そして、運も味方につけている。面白い)
検問所の突破は、三人の連携と、そしてカリナの大きな成長を示す、最初の確かな成果となった。