戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第十八話

 古びた水路の出口から、息を潜めてシルヴァニア旧市街の活気ある路地裏へと這い出した。陽は既に中天を過ぎ、傾きかけた陽光が、所狭しと並ぶ露店や行き交う人々の間を縫って差し込んでいる。

 

「わあ……!」

 

 思わずカリナが小さな声を漏らした。目の前には、多様な種族の言葉が飛び交い、香辛料や革製品、そして得体の知れない何かの匂いが入り混じる、猥雑ながらも生命力に満ちた光景が広がっていた。

 

「これがシルヴァニアの……市場なのですね!」

 

 数日前に丘陵地帯で目の当たりにした、エストン兵が厳しく検問を行う物々しい雰囲気は、この街の中心部では嘘のように消え去っていた。

 

「エストン兵の姿は、ここには見当たりませんな」

 

 ヴァナネルサが周囲を見回しながら呟く。

 

「丘陵地帯とは大違いだ」

「油断しないで」

 

 シオリは短く言った。彼女の視線は、活気の中にも異質なものを探している。街の警備兵はシルヴァニア独自の洒落た制服を身にまとっているが、カリナが不安げにシオリを見上げた。

 

「警備兵の方々の数……以前父様と来た時より、少し多い気がしますわ。それに、あの剣……」

 

 シオリも気づいていた。彼らの腰の剣は、見かけ倒しの儀礼用ではなく、明らかに実戦を意識したものに変わっている。

 

「ああ、あれは戦場で使う代物だ」

 

 表面的には、自由都市シルヴァニアの活気は健在に見える。商人の威勢の良い呼び込み、荷車の車輪がきしむ音、遠くで響く鍛冶の槌音。シオリが若き日に傭兵として何度も訪れた頃の、自由で混沌とした「銀の森の都」の面影は残っていた。

 

「この猥雑さは変わらない。でも……」

 

 シオリは眉根を寄せた。門の兵はエストンの息がかかった兵士だった。それが街中にいないことに、言いようのない違和感を覚える。ギルドと裏で手を結んでいるのか、あるいは……。

 

 その時、シオリの目が路地の奥で何かを捉えた。シルヴァニア警備兵に囲まれ、青白い顔で何かを懇願する露天商の老人。警備兵の一人が老人の商品を乱暴に掴み、もう一人が威圧的に何かを囁いている。老人の隣では、孫娘らしき少女が怯えたように俯いていた。その警備兵たちの傍らには、見慣れない、しかしどこかエストン兵の装備に似た外套を羽織った男が二人、腕を組んで冷ややかにその様子を眺めている。

 

「……取り合えず、行きましょうか。逃げるような状況になることはまだないですから」

 

 ヴァナネルサも目を細め、苦々しげに呟いた。

 シオリの胸に、冷たいものが広がる。──エストンは表立ってはいない。でも、この街の『実』を、巧妙に、そして確実に握ろうとしている。

 

「まあ……! これほど賑やかだとは……!」

 

 カリナの声が、シオリの思考を引き戻す。彼女はまだ市場の活気に目を奪われていたが、シオリとヴァナネルサの険しい表情に気づき、はっと息を呑んで周囲への警戒を強めた。

 

「シオリ殿、どうしますか? この街の『裏』は、思ったより根が深そうだ」

 

 ヴァナネルサが小声で尋ねる。

 

「まずは潜む場所を確保して、変装しよう」

「変装ってことは、髪型とかも変えるんですか?」

「まぁ、そうなるでしょうな」

「髪型……衣装変え……!」

 

 カリナの瞳がキラキラと輝く。視線の先にいるシオリを捉えていた。

 

「……その、私に何かあるか?」

 

 そう聞こうとすると、カリナが「あっ」と声を出して露店に目を向ける。

 露店を観察すれば、輸入品が目立ち、異常な高値がついている。

 

「見てください、あの香辛料!」カリナが小さな声で指さす。「エストン監修と書かれていますけど、父様が取り寄せていたものよりずっと質が悪いのに、値段は倍以上ですわ……。これって、おかしいですよね?」

 

「ええ、足元を見られているわね」

 

 シオリは静かに頷いた。

 人々は笑顔で会話しているように見えるが、時折周囲を気にし、特定の話題──エストンや王国のこと、あるいは不審な出来事──になると口をつぐむ。そのぎこちない沈黙こそが、この街の真実を物語っていた。

 

 シオリは市場の空気に目を細めながら思った。──この『自由』には、必ず裏がある。エストンはギルドや有力者と水面下で手を結び、街を縛る見えない「目」として機能している。自分たちのような「イレギュラー」は、表にも裏にも疎まれる存在だ。

 

「ですが、あまりにも治安の悪い場所に潜むのは……それに、長旅の疲れも……」

 

 カリナの声が僅かに震える。シオリはその小さな肩が微かに震えているのを見逃さなかった。

 

「……分かった」シオリは頷いた。「旧市街の中でも比較的落ち着いた、商人街に近いエリアで宿を探す。目立たず、情報を集めやすい場所を」そして付け加えた。「何よりもまず、姿を変えるわ」

 

 三人は、運河に面した商人街に近いエリアへ向かい、シオリの記憶を頼りに石造りの三階建ての宿屋「銀の舵亭」を選んだ。古びてはいるが手入れの行き届いた石造りの壁、玄関脇に灯るランタンには港町らしい船具を模した細やかな鍛金細工が施され、この交易都市の粋と歴史が滲み出ているようだった。そこそこの評判で、宿主も抜け目のなさそうな男だったが、金さえ払えば余計な干渉は少ないだろう。

 

「静かな部屋を頼む。三人だ。それなりに清潔ならいい」シオリが銀貨を数枚カウンターに置くと、宿主は慣れた手つきで重さを確かめ、にやりと笑って鍵を渡した。

 

 案内された二階奥の部屋は、これまでの野宿とは比べ物にならないほど清潔で、窓からは運河と対岸の街並みが見渡せた。

 

「わぁ……! 素敵な眺めですわ!」

 

 カリナが窓辺に駆け寄り、久しぶりに安堵の色を浮かべる。

 

「感心している暇はない。姿を変えるぞ」

 

 シオリは早速、用意していた平民の衣服や染料を取り出した。

 

 カリナの金色の髪は簡易的な染髪料により手際よく暗い茶色に染められた。服も、目立たない木の葉の刺繍が施されたシルヴァニアの古い様式のチュニックをまとう。ヴァナネルサもターバンと外套で猫亜人の特徴を隠す。シオリ自身も黒装束から、旅慣れた傭兵風の茶色の革ベストとズボンに着替えた。

 

 この方が街に馴染む。

 

 宿には共同の湯殿があった。カリナが遠慮がちに申し出ると、ヴァナネルサが促し、シオリも頷いた。

 

 先に湯を使ったシオリが簡素な寝間着姿で戻ると、カリナが目を輝かせて近づいてきた。その手には、市場の隅で見つけたという深紅のリボンと小さな白い花の髪飾りが握られている。

 

「シオリさん! あの、もしよろしければ……少しだけ、髪を整えさせていただけませんか? こちらのリボン、きっとシオリさんの黒髪にお似合いだと思うのです」

 

 カリナの純粋な好意。任務ばかりでは心が疲れてしまう、たまには綺麗なものを、と。そして、いつも戦うための姿のシオリの、少し違う一面を見てみたい、と。彼女の真っ直ぐな瞳に、シオリは一瞬戸惑った。

 

「……任務に必要ない」

「でも……たまには、ですわ。せっかくおキレイなんですから、身なりに気を使わないのは、とても、とってももったいないですわっ!」

「……そういうものなのか? いや、否定したいわけじゃないんだが、その……こうも、自分の身を変えることに対して価値を覚えないからな」

「なーるほど……それなら、私がよさを教えて差し上げますわ!」

 

 カリナは少し頬を染め、それでも譲らない。

 

 その純粋さに、シオリは内心、経験のない温かくくすぐったい感情が芽生えるのを感じる。それは戦友との信頼とは違う、心の鎧の隙間に滑り込んでくるような感覚。不快ではなかった。

 

 小さくため息をつき、シオリは無言でカリナの前に腰を下ろした。

 

「ありがとうございます!」カリナは嬉しそうに微笑み、シオリの濡れた黒髪を丁寧に梳かし始める。「絹のようですわ」

 

 そして、その髪を器用に編み込み、リボンと髪飾りで可憐に飾った。

 

 部屋の隅で見ていたヴァナネルサは目を丸くする。

 

「これはまた……お見逸れしましたな、シオリ殿。カリナ様も、素晴らしいお見立てです」

 

 鏡に映る自分に、シオリは戸惑いを覚えた。こんな華やかな飾りは初めてかもしれない。

 奇妙な気分だが、カリナの嬉しそうな顔を見ると無下にはできない。

 

 もしかしたら、自分の魂が入った少女の体もうれしいと感じてくれているのだろうか。

 それならいいのだがと、口元を緩める。

 

「とてもお似合いですわ、シオリさん。まるで、物語に出てくる美しい女騎士のようですわね!」カリナは満足そうに頷く。

 

 シオリは何も言わなかったが、その横顔には、いつもの厳しさの中にも、ほんの僅かな照れと、カリナへの信頼のようなものが滲んでいた。

 

 その夜。窓の外からは、運河を渡る夜風と共に、遠くからリュートやパンパイプの陽気な音色と人々の楽しげな歌声が絶え間なく聞こえてくる。街が持つ豊かな文化と生命力。

 

「ヴァナネルサ、シオリさん……今夜は、少しだけ安心して眠れそうですわ」カリナが窓から見える夜景を眺めながら小さな声で言った。やがて彼女は、その喧騒を子守唄のように感じながら、安らかな表情で眠りについた。

 

 ヴァナネルサもまた、久しぶりの屋根の下での休息と、故郷の祭りを思わせるシルヴァニアの夜の音に、強張っていた肩の力が少し抜けていくのを感じていた。

 

 シオリも硬いベッドの上で目を閉じていた。隣室の話し声、階下の酒場の冗談、遠くの教会の鐘の音。戦場では聞けない、人間の「日常」が奏でる音。

 

「……騒がしいな」窓の外を見ながら、シオリは誰に言うともなく小さく呟いた。「だけど……悪くはない」

 

 血の匂いのない、ただ人が生きている音。この感覚は悪くない。だが、かつての自分なら気づきもしなかっただろう──この、名もなき音たちがくれる静かな温もりに。

 

 それでも、この緩みが油断に繋がらぬよう、気を引き締めねば。

 

 赤錆色の都での戦いはまだ始まっていない。この街では、これまでとは異なる種類の「戦い」が待ち受けているのだろう。

 

 だが、今この瞬間だけは──シオリは、シルヴァニアの夜の喧騒の中で、ほんの束の間、追われる者であることも、戦う者であることも忘れ、ただの人として、穏やかな眠りの縁を漂っている自分を感じていた。

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