戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二話

 約四十分。それは、荒野を黙々と歩き続けた剣士が、一つの異質をやり過ごし、もう一つの異質と邂逅するまでの時間だった。乾ききった土を踏みしめる、一定のリズムで刻まれる足音だけが、どこまでも広がる土砂色の空間に響く。太陽は二つ、しかし力なく天に貼り付けられたように霞み、影は色をなくしていた。

 

 乾いた風が、彼女の新しい体にあたる。細く、しなやかで、かつて剣の道を極めるために鍛え抜いた、あの筋骨隆々とした自身の体とは全く異なる感触だ。肌を撫でる風の冷たさ、衣擦れの微かな音。過去の体との違いに、微かな、だが無視できない違和感を覚える。それは、まるで自分の体ではないかのような、どこか遠い感覚。指先や四肢の動きに、思考との間にわずかなズレがあるかのようだ。

 

 しかし同時に、この新しい体の軽やかさ、そして内側に秘められた可能性も感じ取っていた。無駄がなく引き締まった筋肉はしなやかで、瞬時の反応や、かつては難しかった複雑な剣技に適している予感があった。腰に下げた愛刀の柄にそっと触れる。その確かな重みと、手に吸い付くような革の感触が、長年連れ添った相棒の紛れもない存在を確かめさせた。この剣だけが、血塗られた過去と不確かな現在を繋ぐ、揺るぎない楔だった。

 

 愛刀が自身の魂と一体となっている感覚に、剣士は深く集中した。そうだ、この剣こそが自分自身だ。過去の体であろうと、今の体であろうと、剣がここにある限り、自分は剣士である。迷いは無い。ただ、前だけを見据える。剣の道を極めんとする求道者の揺るぎない意志が、その集中力を研ぎ澄ませていく。荒野の果てに何があろうとも、己の剣は唯一無二の道標となる。

 

 遠方に、土砂色の中に緑が増えているのが見え始めた。地平線の向こうに、かすかな緑の線が横たわっている。それは、この単調な世界における、唯一の色彩の兆しだった。剣士は緑が濃くなる方角へと迷わず歩を進めた。緑の線は次第に幅を広げ、低く連なる丘の連なりを飲み込み、濃い影を落とす森の輪郭を成していく。

 

 枯れた大地から、生を主張する緑への変化。近づくにつれて、草木の匂い、土の湿り気が濃くなっていくのが分かる。肌を撫でる空気の冷たさに、乾いた荒野のそれとは違う、確かな湿り気が加わった。そして、ついに森へと足を踏み入れた。

 

 湿気を含んだ空気が肺を満たす。かつて知っていた故郷の森よりは遥かに乾いている、しかし確かに湿り気を帯びた冷たさだ。頭上には、灰色の空と二つの太陽の薄明かりがぼんやりと浮かび、木々の隙間から縞模様のように地面に差し込んでいる。光は弱まり、森の中は薄暗い。それは、昼なのか夜なのかさえ曖昧な、不可思議な薄明だった。

 

 足元には枯れた落ち葉や折れた小枝が積み重なり、それを踏むたびに乾いた、どこか空虚な音が響く。サクサク、パキリ。それは、かつて故郷で聞いた、生命力あふれる森の踏みしめる音とは違っていた。

 

 奇怪な形状の樹木が、迷宮のように視界を遮る。ねじ曲がった幹は不気味な形をなし、認識できない色や形の葉を茂らせている。中には、微かに脈打つ動きを見せる枝さえあった。この森は、かつて知っていた世界とは全く異なる生命に満ちていた。すべてが異質だ。異質。それは、剣の求道者にとって、斬り拓くべき未知と同義だった。

 

 森の奥深くへとさらに進むと、かすかな、しかし紛れもない人の気配を感じた。弱々しく、酷く何かに怯えている気配だった。それは、獲物の気配を察知した時のように、剣士の全身を瞬間的に研ぎ澄ませた。一切音を立てずに、その気配の元へ近づいていく。木々の間に、一人の若い少女が木の根元にうずくまり、肩を震わせているのを目にした。

 

 彼女の頭に、「助けが必要な存在」という認識が浮かぶ。しかし、どう助ければいいのか。荒廃した、この未知の世界で、有効な手段や知識がないことに気づく。食料を与えればいいのか。安全な場所へ案内すればいいのか。この世界の常識が分からない。どうすればこの状況を合理的に解決できるか。戦場では常に最適な行動を選択してきた思考が、一時的に停止したかのようだった。

 

 助けようとは思ったが、手立てがない。このまま関わらず、見過ごすのが最も効率的か? 助けて何かを得られるわけでもない。余計な危険を招くだけかもしれない。合理的な結論が脳裏を過る。助けることをあきらめかけた、その時。

 

 少女の怯える姿に、自身の蘇りの意味を問う衝動が湧き上がった。なぜこの体で、この力を持ってここにいる? この命は、何のために与えられた? かつての剣の求道心とは異なる、何かが胸の奥で蠢き始めた。

 

 その時だった。森の奥深くから、おぞましい咆哮が響いた。地を這うような、耳障りな音だ。奇怪な樹木をなぎ倒し、黒い影が地面を這うように、信じられない速度で移動する。死角から、木の根元で震える少女に襲い掛かる魔物。その動きは速く、獲物である少女は恐怖に凍りつき、全く反応できていない。

 

 死角から迫るそれを捉え、剣士は一瞬の判断で身を躍らせた。訓練され尽くした肉体が、思考するより早く動く。身体が宙を舞う。腰に下げた愛刀を抜き放つ音。キン、と乾いた金属音が薄暗い森に響く。一瞬の斬撃。精緻で無駄のない、あまりにも効率的な動き。魔物の胴体が、おぞましい血を噴き上げながら両断される。

 

 奇怪な肉塊と化し、地面に倒れ伏す魔物。蠢く死体が土を汚し、血腥い匂いが森全体に広がる。一連の動きに迷いも無駄もない。速く、効率的だ。それは、この新しい体が、剣の道具として十分に機能することを証明する、静かな宣言だった。

 

 目の前で一瞬のうちに起こった出来事に、少女は言葉を失っている。顔は恐怖に凍りつき、震えが止まらない。やがて、ゆっくりと剣士に視線を向けた。返り血に染まった小さな姿。その手に握られた、禍々しいまでに研ぎ澄まされた刀。少女の瞳に、畏怖の色が浮かんだ。

 

 彼女は震える声で、剣士にお礼を伝えた。発せられた言葉は、自身がかつて生きていた世界で広く使われていた言語だった。その響きは、遠い時間の流れを思わせた。そして、おずおずと自身の名前を名乗った。

 

「……カリナ、と申します」

 

 カリナ。聞いたことのない響きだ。名前。自身の名前。そうか、名乗らなければならないのか。剣士の頭に、その思考が浮かぶ。かつて呼ばれた名、自身が名乗った名。それを思い出そうとする。

 

 頭の中に濃い霧がかかったかのようで、どんなに記憶を探っても、名前だけが出てこない。遠い過去の記憶──血塗られた戦場、研ぎ澄まされた剣技、敵と味方の血の匂いは鮮明なのに、自身の名だけがぽっかりと抜け落ちている。その事実に、深い喪失感はなかった。ただ、胸に引っかかる空白のような感覚がある。何かを失ったというよりも、何かが最初からなかったかのような──不気味な違和感。

 

 剣士は言葉を発せず、ただ静かに首を横に振る。名前がないことを、無言で示した。名前がないことを理解したカリナは、わずかに困惑しつつも、すぐに何かを考えるような表情になった。彼女の眼差しにかすかな哀れみと、静かな好奇心が浮かんだ。

 

 しばらくの沈黙の後、カリナが再び口を開いた。声にかすかな決意が滲む。

 

「では……わたくしが、お名前をお付けしても、よろしいでしょうか? あなた様のような、強く……そしてどこか哀しいお方に……」

 

 剣士は言葉を発しない。しかし、その瞳に宿る冷たい光が、聞くことを許可しているかのようだ。カリナは言葉を選びながら語り始める。その声は優しく、しかしどこか張り詰めている。

 

「夜明け前、最も暗い時間にひっそりと咲く花に、シオリという名を持つものがございます。目立たずとも、確かな意志を持って咲く花。血塗られた過去から蘇り、新しい体でこの世界に現れた、あなた様に……ふさわしい名かと……わたくしは、そう思うのです」

 

 シオリ。聞いたことのない響きだ。悪くない響きだ。それが自身の名となる。過去の名前は失われたが、この新しい名が、新たな存在としての自分を定義する。この名と共に、この世界で私は剣を振るう。

 

「……シオリ」

 

 かすれた声だった。新しい体になってから、初めて自らの意思で発した言葉。その響きは、乾いた荒野を歩く足音のように、静かで単調だった。カリナは目を見開く。シオリは言葉ではなく、僅かに顎を引く動作で応じた。名前を受け入れた意思表示だった。

 

 カリナが安堵したように、そっと手を伸ばし、シオリの手に触れようとした瞬間──シオリの姿がふっと消えた。次の瞬間には、数歩離れた木の影に静かに立っている。それは瞬歩だった。気配を完全に絶ったその移動に、カリナは息を呑む。

 

「……っ、ごめんなさい。驚かせるつもりは……っ」

 

 カリナが慌てて頭を下げる。シオリは答えない。ただ、再びゆっくりと元の位置に戻ってくる。距離を取ったことに罪悪感はない。むしろ当然の反応だった。人との過剰な接触、特に自分より弱い存在との不用意な距離感は、戦場では命取りとなる習慣。それは新しい体になっても簡単には消えない。

 

 カリナの手は温かかった。だが、その震えには、剣では解決できない、あるいは解決するべきではない種類の、深い痛みが宿っているように感じられた。その痛みは、シオリ自身の胸に引っかかる空白感にも通じるものがあるように感じられた。失った名前、失った過去──。

 

 シオリは合理的な判断に基づいて、カリナに目的を尋ねた。情報収集のためだった。この世界を知る手がかりが必要だった。

 

「街へ、行きたいのですか」

 

 シオリの単刀直截な問いかけに、カリナは大きく頷いた。言葉は少ないが、彼女の状況を的確に把握していることに驚いたのかもしれない。シオリは、召喚者から得たらしい、不完全な地図の断片をカリナに見せた。血糊のついた、汚れた紙切れだった。

 

 地図を見たカリナは、それがこの辺りの地理を示すものであることに驚き、そして確信した。示された場所。それは、見覚えのある地形、建物の配置を示すものだった。自身がかつて知っていた、あの街だ。荒廃しているとはいえ、紛れもないかつての故郷の姿であるように見えた。

 

 その街に関する情報をカリナに質問する。かつて知っていたランドマーク、通りの名前、建物の特徴を尋ねた。カリナの答えは、それが紛れもない、自身の知っている街だと証明した。剣士が死んだ、あの世界の街。

 

 戦場で死んだはずの自分が、愛刀を媒体に、蘇りの儀式によって、この世界の、あの街に、少女の姿で蘇ったのか。自身の蘇りの謎。自身が生きていた世界の未来。そして、この世界の真実を知りたいという、かつての剣の求道心とは異なる、新たな探求心が胸を満たす。この街へ行くことは、その謎を解き明かす、最初の、そして核心に迫る一歩だ。

 

 剣の道を極めること。そして、この世界の謎を解き明かすこと。二つの道が、この瞬間から交錯し始める。情報源として価値のあるカリナの同行は、合理的な判断。シオリは無言で許可した。

 

 シオリは無言で歩き出す。街へ。自身の過去と未来、そしてこの世界の真実が待つ場所へ。カリナも慌てて、その小さな背を追う。血に染まった少女の背中は、頼りなくも、絶対的な力を宿しているように見えた。

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