戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二十話

 カリナは、自分がとどめを刺した二匹目のジャイアントラットの亡骸から、視線を逸らすことができなかった。第十九話の終わりに始まった最後の攻防は、あまりにも刹那的だった。初撃とは違う。残る一匹が獰猛な敵意を剥き出しにして突進してきた時、彼女の心臓の鼓動は不思議なほど静かになっていた。シオリに叩き込まれた体捌きの神髄──敵の動きを読むのではない、流れそのものになるのだ。半身になってその突撃をいなした時、世界の時間が一瞬、引き伸ばされたかのように感じられた。獣の体温、荒い息遣い、血走った瞳の奥に揺らめく原始的な生命の光。それら全てが、一つの情報として彼女の感覚に流れ込んでくる。そして、体勢を崩し、無防備な脇腹を晒したその獣に、彼女は今度は迷いなく、自らの意志で刃を突き立てた。

 

 グシャリ、という肉を断ち、骨を砕く鈍い感触が、短剣の柄を通して腕に、肩に、そして魂の芯にまで響き渡る。甲高い断末魔が狭い坑道に反響し、やがて全てが深い静寂に呑み込まれた。

 

 二つの命が、今、彼女の手によって消えた。

 

 ぬるりとした血の感触が、手袋の革越しにまで伝わってくる。彼女はゆっくりと自身の掌を見つめた。その手が、まるで自分の体から切り離された、見知らぬもののように感じられた。

 

「カ……カリン……」

 

 背後からかけられたヴァナネルサの声は、咄嗟に偽名を呼ぼうとして僅かにどもり、安堵よりも深い憂慮の色が滲んでいた。カリナはゆっくりと振り返る。その顔に表情はなかった。ただ、唇の色が少しだけ白くなっている。

 

「大丈夫です、ヴァル」

 

 カリナは、忠臣の名を偽名で呼びながら、かろうじて言葉を紡いだ。それはひどくか細く、まるで遠くから聞こえてくるようだった。彼女はゆっくりと息を吐き、再び言葉を続けた。

 

「……いいえ。大丈夫では、ないのかもしれません。この手の感触も、この胸の痛みも、きっと忘れることはないでしょう。ですが、進まなければ。わたくしたちには、進まなければならない理由があるのですから」

 

 そう言うと、カリナは亡骸に背を向け、前方の闇を真っ直ぐに見据えた。その小さな背中が、わずかに震えているのをヴァナネルサは見逃さなかった。だが、彼女はその震えに気づかぬふりをした。目の前にいるのは、もはや自分が全てを懸けて守るべきか弱い王女ではなかったからだ。彼女は恭しく一礼すると、それ以上何も言わずにカリナの半歩後ろに控えた。

 

 一連のやり取りを、シオリは壁に寄りかかったまま、ただ無言で見ていた。

 

「行くぞ」

 

 彼女は短く告げた。それは、感傷を断ち切るための冷たい響きではなく、新たな試練の始まりを告げる、静かな号砲だった。そして、付け加える。

 

「二人とも、ここからは常に偽名で呼び合え。この鉱山がギルドの管理下にある以上、どこにエストンの『目』や『耳』があるか分からん。些細な油断が命取りになる」

 

 鉱山の深部は、まるで忘れ去られた巨大な獣の骸の中を進むようだった。空気は湿り気を増し、壁からは絶えず水滴が滴り落ちる音が、不規則な心音のように響いている。松明の光が届かぬ闇は、あらゆるものを呑み込み、三人の存在すら希薄にさせるかのような濃密な静寂を湛えていた。

 

「カリン」

 

 不意にシオリが声をかけた。彼女は壁の一点を指差している。そこには、他の場所とは明らかに違う、青みがかった奇妙な苔が生えていた。

 

「この苔の色を見ろ。空気中に漂う微弱な魔素に反応している。この先には、ただの獣ではない、魔力を持つ何かがいる証拠だ」

 

「魔素……ですか? 目には見えませんが……」

 

 カリナは戸惑いながら壁に触れた。ひんやりとした感触があるだけだ。

 

「ああ。だが、お前の感覚は、その流れを肌で感じ取っているはずだ。先ほどの戦闘で、お前は無意識に敵の『気』を読んでいた。これからは、それを意識的に捉えろ。理屈ではない。肌で、魂で、この世界の呼吸を感じるんだ。それが、お前が持つ最大の武器になる」

 

 シオリの言葉は、剣の指南書には決して書かれていない、生きた知恵だった。カリナは目を閉じ、シオリに言われた通り、全身の感覚を研ぎ澄ませる。彼女の長い睫毛が、松明の光を受けて微かに震えた。やがて、彼女はゆっくりと目を開き、その瞳には先ほどまでなかった深い集中力が宿っていた。

 

 その時、カリナの眉がぴくりと動いた。

 

「……来ます。この魔素の流れが、前方で乱れています。三時の方角、通路の曲がり角の先に、五体。その後方、岩棚の上に、弓を構えた一体が潜んでいます」

 

 その声は、もはや恐怖に裏返ってはいない。冷静で、的確な分析だった。

 

 シオリは満足げに頷き、ヴァナネルサは驚きに目を見張った。

 

「ヴァル、弓兵を頼む。お前のしなやかさなら、矢を避けつつ接近できるはずだ。カリン、前衛はお前が捌け。連携しろ。一人で戦っていると思うな」

 

 シオリの指示は、カリナを試すものではなく、信頼する戦力として扱うものに変わっていた。

 

「はい!」

 

 カリナは短剣を構え、ヴァナネルサと視線を交わす。二人の間には、言葉にならない信頼が通い合っていた。

 

「ヴァル、弓兵をお願いします! わたくしは中央を突破し、あなたへの道を切り開きます!」

 

「御意! カリンこそ、決して深追いはなさいませんよう!」

 

 ヴァナネルサが重厚な盾を構えつつも、その身のこなしは猫のように軽やかだった。通路を曲がった瞬間、甲高い奇声と共に犬頭の小鬼──コボルドたちが襲いかかってきた。

 

 ヒュッ、と風を切る音。狙い澄まされた矢がヴァナネルサを襲うが、彼女は盾で防ぐのではなく、最小限の動きで柳のように身をかわし、矢を空しく背後の壁に突き刺させた。その動きには、騎士としての訓練で培われた重厚さとは別に、彼女が本来持つ獣のようなしなやかさが現れていた。

 

 その一瞬の隙。カリナは駆けだした。

 

 彼女の動きは、以前とは全く異なっていた。恐怖に強張った筋肉ではなく、しなやかで、最適化された動き。彼女は一体目のコボルドが振り下ろす棍棒を、最小限の動きでかわし、がら空きになった胴を切り裂く。返り血を浴びるのも厭わず、その勢いのまま、二体目の喉元へ短剣の切っ先を滑り込ませた。血飛沫が彼女の外套を点々と汚すが、その刃は一瞬たりとも迷わない。

 

 三体の前衛を瞬く間に沈黙させると、カリナは岩棚の弓兵へと視線を移す。だが、その前に残る二体のコボルドが壁となって立ちはだかった。

 

「カリン!」

 

 ヴァナネルサが駆けつけ、一体の攻撃を盾で受け止め、押し返す。カリナはその隙に、もう一体と対峙した。

 

 彼女は、ヴァナネルサが敵を押し返したことで生まれた僅かな空間を利用し、大きく回り込むように動いた。敵の側面から、流れるような一閃を放つ。

 

 全てのコボルドが沈黙した時、カリナは肩で大きく息をしながらも、毅然としてその場に立っていた。その姿に、ヴァナネルサは息を呑む。もはや彼女が守るべきか弱い王女ではなかった。共に背中を預け、戦うべき、誇り高き戦士がそこにいた。

 

「……悪くない」

 

 シオリが、初めて短い評価の言葉を口にした。彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。

 

「ヴァル、お前の回避能力が敵の狙いを逸らし、カリンに時間を与えた。カリン、お前はヴァルの動きを予測して、最適な攻撃ルートを自ら作り出した。連携の初歩としては上出来だ」

 

 そこまで言って、シオリは言葉を切った。

 

「だが、カリン。お前の呼吸はまだ乱れすぎている。一挙手一投足に力が入りすぎている証拠だ。真の強さとは、力ではなく、技の効率化と、それを支える揺るぎない精神にある。忘れるな」

 

「はい……!」カリナは汗を拭い、真摯に頷いた。「次は、もっと上手くやってみせます」

 

 一行がさらに奥へ進むと、先ほど倒したコボルドたちが住処にしていたと思われる、少し開けた場所に出た。粗末な獣の皮の寝床や、作りかけの石の鏃、壁には子供が描いたような稚拙な絵が刻まれている。それは、彼らにも確かに「生活」があったことを物語っていた。

 

 その一角で、カリナは壁の不自然な亀裂に気づいた。

 

「シオリさん、あそこ……何かおかしいです」

 

 シオリが壁を軽く叩くと、脆くなっていた部分が音を立てて崩れ、人為的に作られた隠し空間が現れた。中には、埃をかぶった年季の入った木箱が一つ、置かれていた。

 

「宝箱……でしょうか?」

 

 ヴァナネルサが警戒しながら近づく。シオリが慎重に調べ、罠のないことを確認すると、カリナが代表してその蓋をゆっくりと開けた。

 

 中には、くすんだ数枚の金貨と、丁寧に布で包まれた小さな革袋が入っていた。カリナがその革袋を手に取ると、中から銀細工の美しいペンダントが滑り落ちた。

 

 それは、闇夜に浮かぶ三日月を、銀の糸で繊細に紡いだかのような美しい細工だった。中央には、夜空の星の涙がそのまま固まったかのような、小さな青い宝石がはめ込まれている。魔力を帯びているわけではないが、作り手の静かな祈りと、確かな技術が感じられる逸品だった。

 

「……綺麗……」

 

 カリナは思わずため息を漏らした。彼女はそのペンダントを指先でそっと撫で、それから先ほど自分たちが殺めたコボルドたちがいた方向を、静かに見やった。

 

「カリン……」ヴァナネルサが、その心中を察して声をかけた。「彼らは我らを殺そうとした敵です。このような感傷は、戦場では命取りになりかねません」

 

「ええ、分かっています。だからこそ、わたくしたちは躊躇なく剣を振るいました。ですが、ヴァル」

 

 カリナはペンダントをそっと拾い上げると、再び木箱の中に丁寧に戻した。そして、活動資金として必要な金貨だけを手に取った。

 

「力で相手を屈服させ、その命だけでなく、誇りや文化、大切にしてきたものまで全てを奪うのは、エストンがやっていることと同じです。わたくしは、たとえ敵であっても、その存在の全てを否定するような王には、決してなりたくないのです。このペンダントは、彼らの生きた証として、ここに残しましょう」

 

 その言葉と行動に、ヴァナネルサは深く頭を垂れるしかなかった。シオリは、そのやり取りから僅かに視線を逸らした。まるで、その青臭いとさえ言える理想論が、硬く閉ざされた自身の過去の何かを、不意に刺し貫いたかのように。彼女がこれまで見てきた為政者たちは、皆、力で奪い、支配することしか知らなかった。この小娘の言葉は、しかし、とうの昔に忘れかけていた何かを思い出させる、奇妙な響きを持っていた。

 

 だが、その束の間の静寂は、鉱山の奥から吹き付けてきた異質な風によって破られた。

 

 空気が変わる。

 

 腐臭と、熟れすぎた果実のような甘い匂いが混じり合った、吐き気を催すような瘴気。粘りつくような湿気。そして、生命そのものを冒涜するかのような、濃密で邪悪な気配。廃坑で感じたものと同質でありながら、その密度も悪意も、比較にならないほど強大だった。

 

 広間に出た三人が目にしたのは、人の理性が理解を拒む、地獄のような光景だった。

 

 壁、床、天井、その全てを埋め尽くすように、巨大な蛹がびっしりと張り付いていた。その一つ一つが、巨大な一つの心臓のように、ゆっくりと、しかし確実に脈打っている。そのおぞましい律動は、視覚を通して直接脳を焼き、精神を蝕むようだった。ギルドで警告された蟲型モンスター。だが、これはもはやモンスターの群れなどという生易しいものではない。広間全体が、巨大な一つの悪意ある生命体と化していた。

 

 その中央、まるで祭壇に鎮座するかのように、一際大きな個体が身じろぎをした。無数の複眼が、侵入者である三人を一斉に捉える。

 

「カリナ、下がれ!」

 

 シオリが鋭く叫んだ。その声には、これまでになかった焦燥の色が滲んでいる。あまりの切迫感に、彼女は思わずカリナの本名を呼んでいた。「こいつらは次元が違う。お前がここまで培ってきた技術は、この理不尽な生命力の前では意味をなさない。死ぬぞ!」

 

 彼女が前に出ようとした、その時だった。

 

「いいえ、シオリさん」

 

 凛とした声が、闇に響いた。カリナが、シオリを制するように一歩前に出たのだ。その瞳は、もはや恐怖には揺れていなかった。そこにあるのは、燃えるような、静かな怒りの炎だった。

 

「わたくしが、やります」

 

「正気か!?」

 

「ええ、正気です。シオリさん、あなたはこれを『モンスター』と呼びますか? わたくしには……ただ歪められ、生まれさせられ、苦しんでいるだけの『命』にしか見えません。このような存在を弄び、生み出したその悪意こそが、わたくしたちが本当に戦うべき敵ではないのですか?」

 

 その言葉は、シオリの核心を突いていた。エストンが行ってきた非道な実験の数々を、彼女は知っていたからだ。

 

「……青臭いな。その理想論が、お前を殺すことになるかもしれんのだぞ」

 

「それでも、わたくしの意志で、この歪みを断ちます。王として、全ての生命の調和を乱すこの行いを、見過ごすことはできません!」

 

 キシャァァァッ!

 

 中央の個体から酸のブレスが放たれた。それはカリナのすぐ脇の岩肌を抉り、ジュウジュウと音を立てて溶かした。鼻腔を焼くような刺激臭が、戦場の現実を突きつける。

 

 シオリが動こうとした。彼女ならば、この肉体の限界を超えた速度で、あの蟲の懐に飛び込み、首を刎ねることができる。ヴァナネルサのしなやかさをも上回る、人体の構造と気の流れを完璧に理解した者だけが至れる領域の動きで。

 

 だが、彼女は足を止めた。カリナの背中が、それを許さなかった。

 

 カリナは退かなかった。彼女はただ、短剣を構え直し、無数に蠢く敵を見据えている。

 

 シオリとヴァナネルサは、固唾を飲んで、絶望的な光景の中に立つその小さな、しかし誰よりも巨大に見える背中を、見守るしかなかった。

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