戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
広間に満ちるおびただしい数の蛹が、カリナの決意に呼応するかのように、一斉に蠢動を始めた。
その光景は、あたかも巨大な一つの肉塊が悪夢の中で身じろぎをしているかのようであり、視覚そのものが精神を蝕む、地獄の様相を呈していた。
「カリン、下がりなさい!」
シオリが叫ぶ。だが、カリナは一歩も引かなかった。
「いいえ! これは、わたくしが向き合わねばならない戦いです!」
キシャァァァッ!
カリナの言葉を合図にしたかのように、壁から剥がれ落ちた数体のクリサリスウォームが、ぬるりとした音を立てながら彼女に殺到する。
その口からは、岩をも溶かす強酸の体液が、粘液状の弾丸となって放たれた。
ヴァナネルサが盾を構え、カリナを庇おうと前に出る。
「カリナ様、お下がりください!」
しかし、ヴァナネルサが動くより速く、カリナ自身が動いていた。
彼女の動きは、舞いだった。
迫りくる酸の弾丸を、まるで降りしきる雨を避ける蝶のように、最小限の、しかし流麗なステップでかわしていく。
その体捌きは、シオリが教えた効率的な戦闘術に、カリナ本来の気品とリズムが加わり、一つの芸術の域にまで昇華されていた。
一体の蟲が巨体で押し潰そうと迫るが、カリナはその側面を滑るように駆け抜け、すれ違いざまに短剣を一閃させる。
狙うは、シオリに教えられた外殻の継ぎ目。硬い殻を断つのではなく、その脆弱な結合部を、的確に切り裂く。
悲鳴を上げる間もなく、一体が崩れ落ちる。カリナは止まらない。
流れるような動作で次の敵へと向き直り、その突進を利用して懐に潜り込むと、下から上へと、逆袈裟に刃を走らせた。
その瞳には、もはや恐怖の色はない。あるのは、歪められた生命を前にした、王としての深い哀しみと、それを断ち切るという鋼の決意だけだった。
「……信じられん」
ヴァナネルサは、その光景に絶句していた。
あの、おびえるばかりだった少女が、今や一人で、この異形の怪物たちを相手に、互角以上に渡り合っている。
いや、むしろ圧倒しているとさえ言える。その成長の速度は、常軌を逸していた。
だが、シオリだけは、その戦いの中に、ある種の「違和感」を読み取っていた。
カリナの動きは、確かに洗練されている。だが、それだけでは、この数の敵をこうも容易く捌けるはずがない。
敵の動きに、意図的な隙がある。
まるで、自ら討たれることを望んでいるかのように──。
シオリの鋭い観察眼は、カリナの戦闘の裏にある、もう一つの異常な現象に気づいていた。
カリナが敵を斬り伏せるたび、その亡骸から、微かな光の粒子が立ち上っている。
そして、その粒子は、吸い込まれるように、広間の中央に鎮座する女王個体へと集束しているのだ。
(……まさか。こいつらは、カリンに倒されることで、女王にエネルギーを『献上』しているのか? この戦い自体が、女王を覚醒させるための儀式だとでも言うのか!?)
その恐るべき推論が、シオリの脳裏をよぎった瞬間だった。
カリナが、最後の一体のワーカーを斬り伏せた。広間にいた全ての雑兵が、沈黙する。
カリナは肩で息をしながらも、やり遂げたという達成感に、僅かに表情を緩めた。
「やりました、シオリさん……!」
「カリン、危ない! そいつから離れろ!」
シオリの絶叫が響く。
だが、遅かった。
カリナが倒した全ての蟲の亡骸から、これまでとは比較にならないほど膨大な光の粒子が立ち上り、まるで天の川のように、一斉に中央の女王個体へと殺到した。
女王個体は、そのエネルギーを吸収し、脈動を止める。
そして、その巨大な蛹の外殻が、まるで満月を迎えた花が開くように、音もなく、荘厳にひび割れていった。
中から溢れ出たのは、血肉や体液ではない。それは、純粋な魔力の奔流が生み出す、夜色の霧だった。
霧は広間を満たし、その中心で、静かに一つの人影が形を成していく。
カリナは、目の前で起こっている、あまりにも幻想的で、同時に冒涜的な光景に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
シオリは、舌打ちを一つすると、カリナを庇うようにその前に飛び出し、愛刀を構えた。
その背後で、闇の中から現れた「それ」の全身が、ゆっくりと姿を現す。
それは、人であった。
あるいは、人の形をした、夜の化身と呼ぶべきか。
すらりとした長身を包むのは、夜の闇をそのまま織り上げたかのような、漆黒の着流し風の装束。
その生地は、彼の動きに合わせてしなやかに波打ち、時折、銀糸で刺繍されたかのような紋様が星屑のように煌めいた。
腰には、黒檀の鞘に収められた、一振りの太刀が差されている。
それは蟲の力などではなく、紛れもなく、彼が生前愛用していた名刀そのものだった。
そして、顔。
そこには、無機質な仮面はなかった。
現れたのは、血の気を失い、陶器のように白い肌を持つ、息を呑むほどに端正な顔立ちだった。
長く、艶のある黒髪が、その美しい輪郭を縁取るように静かに垂れている。
固く閉じられた瞼。そして、まるで高名な彫刻家が最後に魂を込めて刻んだかのような、形の良い唇。
その姿は、まるで戦場で果てた悲劇の貴公子が、そのままの姿で蘇ったかのようだった。
だが、その洗練された美貌以上に、シオリの時間の流れを凍りつかせたのは、その立ち姿であった。
僅かに腰を落とし、大地に根を張るかのような、あの独特の構え。
そして、その全身から放たれる、研ぎ澄まされた刃物のような殺気。
それは、彼女の記憶という名の古傷に、今なお熱を持ち続ける、決して消えることのない刺青であった。
その剣士の姿を認識した瞬間、シオリの思考は停止したかのようだった。
「……ハヤテ」
彼女の唇から零れ落ちたその名は、果たして音になっていただろうか。
「なぜ、お前が……その、姿のままで、ここにいる」
その亡霊が、ゆっくりと瞼を開いた。
現れた双眸は、しかし、生者のそれではなかった。
瞳には、何の光も宿っておらず、ただ深淵を覗き込むかのような、空虚な闇が広がっているだけだった。
その瞳に見つめられるだけで、魂が吸い取られるかのような錯覚を覚える。
「……シオリ……か」
その声は、冷たく澄み渡り、それでいて感情というものが一切感じられない、美しい、だが非人間的な響きを持っていた。
「貴様も、あの方の『祝福』を受けたか。だが、その器はなんだ? まるで、飛ぶこともできぬ雛鳥ではないか」
その言葉は、シオリの中で散らばっていた全ての疑念を、一つの悍ましい確信へと変えた。
ハヤテは、エストンによってその魂を呼び戻され、傀儡として作り変えられたのだ。
しかし、他の失敗作のように肉体を歪められるのではなく、生前の姿と技を、より完璧な形で再現され、心を奪われた最高傑作として。
その「完璧さ」こそが、エストンの狂気と、ハヤテの悲劇を、何よりも雄弁に物語っていた。
「ヴァル、カリン。絶対に手を出すな」
シオリの声は、絶対零度の静けさを帯びていた。
「これは、私怨だ。私が、始末をつける」
彼女は愛刀を中段に構え直す。歪んだ形での再会。そして、避けられぬ再戦の幕が、静かに切って落とされた。
ハヤテが動いた。
腰の太刀に手をかける。その所作は、水が流れるように自然で、一切の殺気を感じさせない。
だが、彼が鞘から刀を抜き放った瞬間、広間の空気が凍りついた。
刃は、闇を切り取って鍛えたかのように、一切の光を反射しない。
床を蹴る音もなく、その姿が空間から消滅する。
次の瞬間には、シオリの背後に実体化し、黒い刃が無慈悲な残像を描いていた。
シオリは振り返ることなく、最小限の動きでそれをいなし、身を翻して反撃の一閃を放つ。
キィィィィン!
二つの刃が激突し、甲高い金属音が鼓膜を焼いた。
そこから繰り広げられたのは、もはや剣戟などという言葉では表現しきれぬ、美しくも残酷な死の舞踏であった。
神速の応酬。
カリナとヴァナネルサの目には、黒と銀、二つの閃光が高速で交錯し、無数の火花を散らしているようにしか見えなかったであろう。
ハヤテの剣技は、生前の鋭さを些かも失ってはいなかった。
それに加え、蘇生された肉体は痛みも疲労も感じない。
その動きは、バレエのように洗練され、それでいて全ての軌跡が致命的な殺意を孕んでいた。
黒い太刀が空を切るたびに、空間が僅かに歪むような感覚さえある。それは、純粋な物理攻撃ではなく、この鉱山の歪んだ魔素を纏った、呪詛の一撃であった。
シオリは、その猛攻を、精密機械のような体捌きで捌き続ける。
彼女の剣は、かつてより乾いていない。飢えてもいない。
背後に、守るべき者たちがいる。その存在が、彼女の剣に、かつてはなかった「重み」を与えていた。
ただ斬るためだけの刃ではない。生かすための、未来へ繋ぐための刃。
その変化が、彼女の剣筋に、ハヤテですら予測し得ない、僅かな、しかし決定的な「揺らぎ」を生んでいた。
シオリの剣が、ハヤテの着流しの肩口を浅く切り裂く。
だが、手応えが奇妙に軽い。斬られたはずの装束は、闇の霧が繕うように、瞬時に元通りになっていた。
「無駄だ、シオリ」
ハヤテの声は、変わらず無機質だった。
「この身体に、貴様の刃は届かぬ。あの方が与えてくださった、永遠の肉体だ」
「永遠、だと?」
シオリは刃を弾き返し、間合いを取る。
「死ぬことも許されぬ、終わりのない地獄の間違いだろう」
再び、二つの影が激突する。
今度は、ハヤテの攻勢がさらに激しさを増した。
彼は、空いている左手で印を結ぶような仕草を見せる。すると、彼の周囲の闇が凝縮し、数本の黒い槍となってシオリに襲いかかった。
物理的な剣技と、魔術的な攻撃の同時展開。
シオリは、完全に防戦一方へと追い込まれた。
愛刀が槍を弾く鈍い音、刃と刃が擦れ合う鋭い音が、狂った協奏曲のように広間に響き渡る。
ヴァナネルサは、その攻防を歯噛みしながら見守っていた。
騎士である彼には、二人の戦いの次元の高さが痛いほど理解できた。
一撃一撃が、常人ならば十度は死んでいるであろう威力と速度。
だが、シオリの動きには、どこか精彩を欠いているように見えた。
それは技術の衰えではない。精神的な何か、重い枷が彼女の剣を縛り付けているかのようだった。
カリナは、息を詰めてその光景を見守っていた。
シオリが、押されている。あの、絶対的であったはずのシオリが。
その事実が、彼女の心を締め付けた。
シオリの剣筋に宿る、僅かな躊躇。それは、技の未熟さなどではない。
目の前の敵が、かつての好敵手であるという事実。その魂を、再び己の手で断ち切ることへの、無意識の抵抗。
それが、彼女の剣から、本来の冷徹なまでの鋭さを奪っていた。
「シオリィィッ!」
ハヤテの太刀が、シオリの防御をこじ開け、その脇腹を浅く裂いた。
鮮血が舞い、シオリの白いシャツに紅い染みを作る。
「ぐっ……!」
シオリの体勢が、僅かに崩れる。
好機と見たハヤテは、追撃のためにその黒い刃を大きく振りかぶった。
──その時だった。
「させませんッ!」
カリナが、叫びと共に駆けだしていた。
ヴァナネルサの制止を振り切り、その手に握られた短剣を、ハヤテの背後から突き出そうとする。
あまりにも無謀な、自決にも等しい行為。
「来るな、カリナ!」
感情が昂ぶり、シオリは咄嗟に本名を叫んでいた。だが、もう遅い。
ハヤテは、振り向くことさえしなかった。
ただ、その足元の影が蠢き、数本の黒い触手となってカリナに襲いかかった。
それは、カリナの細い身体を、容易く貫くであろう、必殺の一撃だった。
だが、その触手がカリナに届くことはなかった。
シオリが、信じられないほどの速度で動いていた。
ハヤテの追撃をいなし、カリナと触手との間に滑り込み、その全てを愛刀で斬り払う。
そして、その勢いのまま、ハヤテの懐に深く、深く潜り込んだ。
全ては、一瞬の出来事だった。
「……なぜだ、シオリ。なぜ、あの小娘を庇う。貴様ほどの剣士が、なぜ、己の剣を鈍らせるような真似を……」
ハヤテの声に、初めて、僅かな困惑の色が浮かんでいた。
シオリは、答えない。
ただ、その瞳は、先ほどまでの葛藤を振り払ったかのように、澄み切っていた。
カリナを庇ったことで、シオリの体勢は完全に崩れていた。だが、彼女はそれを意にも介さなかった。
彼女の愛刀が、まるで生き物のように、予測不能な軌道を描く。
それは、守るべき者がいるからこそ生まれた、新たな剣の形だった。
パリン、と澄んだ音が響いた。
シオリの一撃は、ハヤテの太刀を狙ったものではなかった。
それは、彼の空虚な左目を、的確に貫いていた。
「なっ……!?」
ハヤテの体が、初めて大きくのけぞる。
物理的なダメージはないはずの肉体。だが、その一撃は、彼の魂の核に、直接届いていた。
「シオリィィィッ!」
ハヤテが、壊れた人形のような絶叫を上げた。
それは、もはや殺意ではなく、終わりのない苦しみからの、救いを求める悲鳴のようだった。
その一撃は、これまでのどの攻撃よりも速く、そして重い。
シオリもまた、その一撃に己の全てを乗せて迎え撃つ。
二人の刃が激突し、時が止まったかのような静寂が訪れる。
互いの刃が、互いの喉元、寸でのところで静止していた。
決着は、つかない。互角。
だが、その完全なる均衡を破ったのは、二人の意志以外の、第三者の要因だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
広間全体が、これまでとは比較にならないほど激しく揺れ始めた。
二人の達人の衝突が生んだエネルギーが、この空間を無理やり維持していた魔力のバランスを、ついに限界を超えて崩壊させたのだ。
シオリの双眸に、激しい葛藤の色が浮かんだ。
目の前の好敵手を討ち果たし、過去という名の亡霊に決着をつけるか。
それとも、仲間を連れて生還し、不確かな未来を選ぶか。
「シオリ殿、危険です!」
ヴァナネルサの叫び声が、シオリの迷いを断ち切った。
──守る。
その一念が、剣士としての本能を上回った。
シオリは、ハヤテの渾身の一撃を紙一重でかわすと、一足飛びに後方へ跳躍。カリナとヴァナネルサの元へ戻る。
「撤退する! 急げ!」
彼女はカリナの腕を掴み、崩落し始めた広間から、今来た道を引き返し始めた。
その背中に、ハヤテの声が突き刺さる。
それは、感情のない人形の声ではなかった。
一瞬だけ、かつての「鬼面のハヤテ」の意識が戻ったかのような、冷たい嘲りと、そして僅かな哀しみを帯びた声だった。
「……逃げるのか、シオリ。守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか……」
その言葉は、シオリの胸に深く、鋭く突き刺さる。
彼女は一度だけ、崩れゆく闇の中で、静かに佇む美しい亡霊の姿を振り返った。
その空虚な瞳が、一瞬だけ、確かな哀しみの色を宿したように見えたのは、気のせいだったのか。
シオリは何も言わずに再び前を向き、ただひたすらに走った。
一行は、崩落する鉱山から命からがら脱出する。
背後で、轟音と共に広間が完全に崩れ落ち、ハヤテの気配も、鉱山の奥で響いていた不吉な残響も、全てが巨大な墓標の下に葬り去られた。
陽が中天に昇る頃、三人はようやくシルヴァニアの街へと帰還した。
鉱山での死闘の痕跡は、三人の纏う雰囲気に色濃く残っていた。
シオリの脇腹の傷は、応急処置こそ施したものの、未だにじわりと血が滲んでいる。
カリナとヴァナネルサも、疲労の色を隠せない。
街の喧騒が、まるで別世界のもののように遠く感じられた。
ギルド「銀の天秤」の扉を開けると、朝とは打って変わって、昼下がりの活気に満ちていた。
三人はまっすぐに受付カウンターへと向かう。そこには、朝と同じ、銀縁眼鏡の受付嬢がいた。
「お帰りなさいませ。……ご無事だったようで、何よりです」
彼女は三人の、特にシオリの負傷した姿を一瞥し、その声に僅かな安堵と驚きを滲ませた。
「依頼の達成報告を」
シオリは簡潔に告げる。
「鉱山内のモンスターは相当数、掃討した。奥で、異常な個体と遭遇したが、こちらも対処済みだ。ただし、鉱山は現在、大規模な崩落により進入不可能となっている」
受付嬢は、シオリの淡々とした報告を聞きながら、その表情を僅かに曇らせた。
「崩落……左様でございますか。承知いたしました。本来であれば、討伐証明としてモンスターの素材などを持ち帰っていただくところですが、今回の状況は特別です。皆様の自己申告を信じ、依頼達成と認めましょう。こちらが基本報酬と、特別危険手当です」
彼女が差し出した革袋はずしりと重く、予想以上の金貨が入っていた。
「一つ、尋ねたい」
シオリは金貨を受け取りながら、受付嬢の目を真っ直ぐに見据えた。
「あの鉱山の情報、お前はどこまで知っていた?」
その問いに、受付嬢は一瞬だけ息を呑んだ。
そして、眼鏡の位置を直し、プロフェッショナルな笑みを浮かべて答える。
「……ギルドが把握している情報は、全てお伝えした通りでございます。ですが、ギルドの情報網も万能ではございません。ダンジョンとは、常に未知の危険を孕むもの。それをご理解の上で挑むのが、冒険者というものでしょう?」
その答えは、完璧なまでに模範的だった。
だが、シオリには、彼女が何かを隠していることが分かっていた。
この女、敵ではないかもしれないが、信用できる相手でもない。
ギルドを後にし、宿へと戻る道すがら、カリナが心配そうに口を開いた。
「シオリさん、お怪我は……」
「問題ない。掠り傷だ」
シオリの返答は、いつも通り短く、無愛想だった。だが、その足取りは、僅かに重い。
その夜、三人はそれぞれの部屋で、重い沈黙と共に夜を過ごした。
真夜中。宿の窓から、二つの月が冷たい光を投げかけている。
シオリは、一人、ベッドの上で静かに座っていた。
脇腹の傷が、忘れた頃にズキリと痛む。だが、それ以上に、彼女の心を苛んでいたのは、ハヤテの最後の言葉だった。
『……守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか……』
成り下がった、か。
シオリは、己の右手を見つめた。この小さな、白い手。
少女の体を得てから、常に感じていた違和感。だが、今日の戦いで、その違和感は別のものへと変質していた。
カリナを庇うために、無意識に動いたあの瞬間。理屈ではない。本能が、そうさせた。
それは、かつて「人斬り」だった頃の自分には、決してあり得なかった行動だった。
強さとは何か。
かつての自分にとって、それは、他者を圧倒し、斬り伏せ、己一人の技を極致へと高めることだった。
他者の存在は、己の剣を証明するための障害物か、あるいは踏み台でしかなかった。
孤独こそが、強さを研ぎ澄ます砥石だと信じていた。
だが、今はどうだ。
カリナがいる。ヴァナネルサがいる。
守るべき存在、背中を預ける仲間。
その存在は、確かに、自分の剣に「揺らぎ」を生んだ。
あの時、カリナがいなければ、私はハヤテとの決着を選んでいたかもしれない。そして、相討ちになっていた可能性すらある。
仲間がいることは、弱さだ。情という名の、剣を鈍らせる毒だ。
このままでは、私は弱くなる。
ハヤテを、そしてエストンを討つためには、非情なる強さが必要だ。
かつてのような、全てを切り捨てる覚悟が。
この者たちと共にいては、私は、私の剣は、いずれ本当に『成り下がった』だろう。
シオリは、静かに立ち上がった。
決断は、ついた。
彼女は、音もなく身支度を整え、愛刀を腰に差す。
懐には、カリナが結んでくれた深紅のリボンが、まだ入っていた。
彼女はそれに一度だけ触れると、何も言わずに部屋の扉を開け、宿の廊下へと足を踏み出した。
この街を出て、一人で行く。
それが、最も合理的で、正しい選択だ。
そう、信じて。
シオリは、宿の裏口から、夜の闇へと紛れ込もうとした。
だが、その背中に、静かで、しかし芯の通った声がかけられた。
「……どちらへ、行かれるのですか。シオリ殿」
振り返ると、そこに立っていたのは、カリナではなかった。
外套を羽織り、月光を浴びて静かに佇む、長身の影。ヴァナネルサだった。
彼の瞳には、騎士としての鋭い光と、一人の男としての深い憂慮が宿っていた。
その佇まいは、ただそこにいるだけで、いかなる者も通さないという、無言の城壁を思わせた。
彼は、全てを、お見通しだったのだ。
「……見ていたのか」
シオリの声は、冷たく響いた。
「ええ。あなたがギルドから戻られてからずっと、あなたの纏う空気が変わったことには気づいておりました。それは、カリナ様も同じでしょう。ただ、あの方はまだ、あなたが去るという可能性までは思い至っておられないだけです」
ヴァナネルサの言葉は、穏やかだが、一歩も引かぬという強い意志を感じさせた。
「邪魔をするな。私には、私の戦いがある。お前たちを巻き込むわけにはいかん」
シオリは、そう言って彼を通り過ぎようとする。
だが、ヴァナネルサは動かなかった。
「巻き込む? 我々は、とうに巻き込まれております。カリナ様が故国を追われたその日から。そして、あなたという強大な力と出会った、あの森の日から」
「……私の剣は、お前たちの足枷になる。今日の戦いで、分かったはずだ」
シオリの声には、苛立ちが混じっていた。
「足枷、ですか」
ヴァナネルサは、そこで初めて、僅かに表情を緩めた。それは、自嘲にも似た、苦い笑みだった。
「シオリ殿。今日の戦いで、私は己の無力さを痛感いたしました。あなたと、あの亡霊の戦いは、私の理解を遥かに超えていた。私が騎士として積み上げてきたものが、まるで子供の剣遊びのように思えるほどに。ですが、同時に、こうも思いました」
彼は、真っ直ぐにシオリを見据えて続けた。
「あなたの剣には、『迷い』があった。それは、強者が故の迷いでしょう。しかし、カリナ様を庇われた、あの最後の瞬間。あなたの剣は、迷いを振り払った。あの時のあなたの動きは、それまでのどの瞬間よりも、速く、そして何よりも……強かった」
「……何が言いたい」
「ハヤテ殿、でしたか。彼が言った『成り下がった』という言葉。それは、強さだけを追い求めた者からの見方でしかない。守るものを得たあなたの剣は、決して弱くはなっていない。むしろ、これまでとは質の違う、本当の『強さ』を手に入れようとしているのではないですか?」
ヴァナネルサは、騎士として、男として、シオリの強さの本質を見抜いていた。
「その強さから、目を背けて、再び孤独という名の荒野に戻られるおつもりか。それは、あまりにも……勿体ない」
彼の言葉は、論理だった。
シオリが自らの内で否定しようとしていた、もう一つの可能性。それを、ヴァナネルサは的確に言語化してみせた。
「……お前は、私が何者かを知らん」
シオリは、最後の抵抗のように呟いた。
「ええ。存じ上げません。あなたがどこから来て、何を背負っておられるのかも。ですが、一つだけ分かることがあります」
ヴァナネルサは、静かに、しかし力強く言った。
「あなたは、カリナ様を、そしておそらくは、この私も、見捨てぬお方だ。それだけで、私があなたに剣を預ける理由としては、十分すぎる」
ヴァナネルサは、その場で静かに片膝をつき、騎士の礼を取った。
「どうか、行かないでいただきたい。カリナ様のため、だけではありません。あなた自身の、その新たな『強さ』のためにも。我々は、あなたの剣の、足枷ではなく、それを支える『鞘』となりたいのです」
夜の静寂の中に、ヴァナネルサの言葉だけが響く。
シオリは、動けずにいた。
ハヤテに突きつけられた、己の弱さ。それを、ヴァナネルサは、新たな強さの萌芽だと断じた。
一人になることこそが、強さへの道だと信じていた。だが、目の前のこの忠義の騎士は、仲間こそが、その道をさらに先へと拓くのだと言う。
どちらが、正しいのか。
答えは、まだ見えない。
だが、シオリは、少なくとも今この場で、この男の言葉を、そしてその背後にいる少女の存在を、切り捨てることが、できなかった。
彼女は、深く、長い溜息をつくと、夜の闇から身を翻し、再び宿の中へとその姿を消した。
その背中を、ヴァナネルサは、静かに見送っていた。