戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二十二話

 あの街を発ったのは、夜と朝の境目だった。

 

 あの夜、シオリは一度はひとりで街を出ようとし、結局、扉の前で足を止めた。カリナの寝息と、ヴァナネルサの気配を背中に感じながら、ひとりだけ先へ進むという選択肢を、ゆっくりと喉の奥に押し込んだのだ。

 

 彼女が選んだのは、二人を連れて南へ抜ける道――王都の捜索網を避けつつ、なおかつ次の逃げ道につながる細い山路だった。道中で耳にした旅人や行商人たちの噂を頭の中で重ね合わせ、女神の神殿都市アルノスを経由するのが、もっともましな賭けだと踏んだ。

 

 そうして、いくつもの峠と谷を越え、石と風ばかりの山道を何日も歩き続けた末に、今、彼女たちはその賭けの終着点へと近づきつつあった。

 

 山風が、頬に貼りついた汗を冷やしていった。

 

 一段踏みしめるたび、包帯の下で縫い合わせた脇腹が鈍くきしむ。だがシオリは、痛みを「まだ動ける」という合図にしか数えていなかった。

 

 切り立った岩壁と、崩れかけた石段だけが延々と続く山峡の道を、三つの影が黙々と登っていく。

 

 先頭を行くシオリは、呼吸を乱すことなく歩調を刻みながらも、背後の足音に耳を澄ませていた。わずかに乱れた息遣い。杖を突く小さな音。荷を締め直す気配。

 

 振り返らずともわかる。カリナの脚が限界に近いこと。ヴァナネルサが、その一歩手前で歩幅を調整していること。

 

「……もう少しだ」

 

 シオリは短くそう告げた。励ましではなく、事実として。

 

 カリナは返事の代わりに、小さく息を呑む音を洩らしただけだった。肩で息をしながら、それでも足を止めようとはしない。擦り切れた登山靴の底が、ざらついた岩肌を噛むたびに、鈍い痛みが脚から腰へと上がっているはずだ。

 

 ヴァナネルサは、その少し後ろで、猫科の獣人らしい軽やかさを失わないまま、時折さりげなくカリナの荷紐を引き上げたり、帽子の位置を直したりしている。

 

 やがて、石段がふっと途切れた。

 

 視界の端に、空の色が変わる。

 

 最後の一段を踏みしめた瞬間、シオリは反射的に手を上げて、背後の二人に「止まれ」の合図を送った。それから、岩の縁に足をかけ、ゆっくりと一歩前へ出る。

 

 山峡の果てが、ぽっかりと口を開けていた。

 

 そこから先は、谷だった。

 

 霧に沈んだ巨大な皿を、さらに幾重にもえぐり込んだような谷底。その斜面一面に、石造りの家々が段々畑のようにびっしりと張りついている。白と灰色の壁。赤茶けた屋根瓦。それらが、朝の薄い光と霧に溶け合って、ぼやけた水彩画のような色合いを見せていた。

 

 谷の中央には、大きな川がゆったりと蛇行している。水面からは白い蒸気が立ち上り、どこか温泉地を思わせる匂いが風に混じって届いてきた。

 

 そして、その川のほとり――

 

 天を突くような女神像が、街を見下ろしていた。

 

 全身を白い石で象られた女神。片膝をつき、胸元で両手を組んだ祈りの姿勢……ではない。彼女は立っていた。片足を一歩踏み出し、掲げた右腕に、長い剣を携えている。

 

 霧を透かしてもなお、その輪郭ははっきりと見えた。剣の刃は空を切り裂くように斜め上へ伸び、その下に広がる街並みを保護するかのようでもあり、同時に、いつでも断罪を下せる位置にも見える。

 

「……でかいな」

 

 思わず漏れたシオリの呟きに、自分で苦笑する。

 

 もっと他に言い様があるだろう、と。

 

 だが、喉の奥に浮かんだ生々しい比喩――「首斬り台の刃」を連想した言葉――は、意識して飲み込んだ。

 

 ここは戦場ではない。少なくとも、まだ。

 

「わあ……」

 

 遅れて上がってきたカリナが、声にならない息を吐いた。

 

 頬に張りついた金髪が汗で重くなっている。だが、その蒼い瞳は、疲労を忘れたように街へと注がれていた。

 

「本当に……街が、山の中に、丸ごと埋まっているようですわ……!」

 

 言葉遣いに、思いきり王女の品が漏れている。

 

 シオリは、横目でヴァナネルサを見た。猫耳を布で隠した彼は、すでに苦笑いを噛み殺していた。

 

「……落ち着け、カリン」

 

 シオリはわざとらしく偽名を強調する。

 

「ここは城のバルコニーじゃない。田舎娘の巡礼なんだろう、お前は」

 

「あ……っ、そ、そうでしたわ……じゃなくて、そう……だよ」

 

 途中で慌てて口調を変えたせいで、妙な抑揚がついた。

 

 ヴァナネルサが、肩をすくめるように息を吐く。

 

「まあ、この景色を見せられて、言葉遣いを維持しろというのも、酷な話でございますな」

 

「言い訳はいらん」

 

 シオリは短く切り捨てる。

 

 それから、改めて谷底の街を見下ろした。

 

 山峡の奥に隠された神殿都市。

 

 ここまで来る間に擦り切れた靴底と、膝の軋みが、その隔絶ぶりを物語っている。急ごしらえの検問では辿り着けない。追っ手にとっても、ここは簡単な「通り道」にはなりえないだろう。

 

(……神様の縄張り、ってやつか)

 

 シオリは、心の中でだけ舌打ちした。

 

 信仰には興味がない。生前、戦場で祈ったのは剣が折れないことだけだったし、死に際に思ったのも、自分の斬撃の軌道が最後まで美しくあるかどうか――そんなことばかりだった。

 

 けれど、地形としての「神の縄張り」は、悪くない。

 

 谷という檻。唯一の出入り口を押さえてしまえば、追う側にとっても捕まえやすいが、追われる側にとっても、追跡の線を絞りやすい。

 

 何より――

 

「ここなら、血の臭いを撒き散らさずに済みそうだ」

 

 気づけば、小さくそう漏らしていた。

 

 カリナが、きょとんとした顔で首を傾げる。

 

「え?」

 

「なんでもない」

 

 シオリは視線を谷から外し、足下の石段を見下ろした。

 

「降りるぞ。ここで立ち尽くしていれば、上からでも目立つ」

 

 ヴァナネルサが頷く。

 

「アルノスの門は、谷の一番下、川の手前にあるはずです。巡礼都市と聞いておりますが……さて、どの程度、厳しくなっているか」

 

 その言葉には、最近の戦乱を知る者としての警戒が滲んでいた。

 

 三人は、息を整える間もそこそこに、今度は谷底へ向かって石段を降り始めた。

 

 谷の底へ近づくにつれ、霧は薄くなり、代わりに熱気と人の気配が濃くなっていった。

 

 石段の脇には、粗末な祠が何段かおきに設けられており、そのひとつひとつに、小さな木札や硬貨が供えられている。黒ずんだ蝋の塊。風に擦れてほつれた布。誰かが途中で諦めて置いていった杖。

 

 それらが、ここを訪れた数えきれない巡礼者たちの足跡を物語っていた。

 

「……すごい数ですわね」

 

 カリナが、祠の前で立ち止まりそうになる。

 

 シオリは、彼女の肩を軽く押した。

 

「見るのは後にしろ。今は、下で並ぶ列を増やすだけだ」

 

 石段の下には、人の波があった。

 

 谷の底を横切るように、腰の高さほどの石垣が設けられ、その中央に開いた門の前で、巡礼者たちが列を作っている。

 

 門といっても、鉄の扉ではない。白い石で組まれたアーチの下に、粗末な木の柵が渡されているだけだ。だが、その両側には槍を持った衛兵と、白い法衣をまとった神官が立っていた。

 

 彼らは、列を成す巡礼者一人ひとりに声をかけ、何かを確かめ、木札のようなものを渡している。

 

「やはり、ただの通りすがりには見てくれませんか」

 

 ヴァナネルサが、低く呟いた。

 

 シオリは、そのやや後ろから列の様子を観察する。

 

 巡礼者たちは、首や腰に小さな木札を下げていた。そこには、素朴な線で女神像と剣が彫られている。

 

門の前で、神官がその木札を指でなぞり、軽く祈りの言葉を唱える。新たな者には、新しい木札が手渡され、古く傷んだものは回収されるようだ。

 

 

「入る前に、あの木札をもらう必要がある。……つまり、素性を一度は晒さなきゃならん」

 

 シオリは、息を潜めるように言った。

 

「でも、逆に言えば、その木札さえあれば、しばらくは“巡礼者”として扱ってもらえる、ということでしょう?」

 

 カリナが、列の先で祈りを捧げる老夫婦を見ながら言う。

 

 シオリは、ほんの少しだけ眉を動かした。

 

 その通りだ。

 

 この街の中で、兵士たちが無差別に巡礼者狩りをすることはないだろう。神殿がその権威を保ちたい限りは。

 

「……そうだな」

 

 短く認める。

 

「ここで山道を引き返したところで、別の検問で足止めを食らうだけだ。だったら、ここで“神様のふり”をしてでも、木札を貰っておいた方がいい」

 

 ヴァナネルサが、口元にうっすらと笑みを浮かべた。

 

「おや、シオリ殿が信心深くなりましたかな」

 

「勘違いするな」

 

 シオリは、列の前に少しずつ進みながら、低く返す。

 

「信じるのは、剣の重さと地形だけだ。……それでも、神様の看板が有効な土地なら、利用させてもらう」

 

 そう言った時、自分でもわずかに胸がざらつくのを感じた。

 

 生前、神の名を掲げて戦場に立った連中を、何人も見てきた。彼らの剣は、加護を謳いながら、最も血で濡れていた。

 

 だからこそ、今度は逆に、その看板に潜り込む。

 

 人斬りが、巫女の皮を被る。その皮は、この先、何度でも利用することになるのだろう。

 

 その予感だけが、妙に確かなものとして胸に居座っていた。

 

 列の先頭に辿り着いた時、神官の一人が、穏やかな微笑みを浮かべて三人を出迎えた。

 

 年の頃は三十前後。清潔に整えられた茶色の髭に、淡い灰色の瞳。

 

「ようこそ、女神アルノの懐へ。遠路はるばる、巡礼お疲れ様です」

 

 シオリは、短く会釈だけした。

 

 代わりに、カリナの背中を軽く押す。

 

 彼女は一瞬、びくりと肩を震わせたが、すぐに前に出た。

 

「は、はい。わたくし――いえ、私は、カリンと申します。えっと、その……ずっと前から、この街に参りたいと……」

 

 途中で丁寧語が混ざり、語尾が迷子になる。

 

 神官の灰色の瞳が、僅かに瞬いた。

 

 だが、彼はすぐに柔らかな微笑みへと戻る。

 

「カリン様ですね。初めての巡礼でいらっしゃいますか?」

 

「は、初めて……です」

 

 神官は、かすかに頷いた。

 

「でしたら、まずは巡礼名簿へのご記名と、簡単な質問にお答えいただきます。その後、木札をお渡しいたしますので、それをお持ちの間は、この街と南への巡礼路を通行できます」

 

「南への……?」

 

 その一言に、シオリの耳が反応した。

 

 神官は、当然のことを告げるように続ける。

 

「ええ。アルノスからさらに南へと抜ける山路は、女神の御許へ近づく巡礼路であり、同時に最近は盗賊も多く出没する危険な道です。ですので、聖印の刻まれた木札をお持ちでない方の通行は、お断りしておりまして」

 

 聖印。

 

 シオリは、心の中でその単語をなぞった。

 

 門を抜けるためだけでなく、南へ出るためにも必要な「通行証」。

 

(なるほど。……ここを抜けたければ、神殿に借りを作れ、ってわけか)

 

 彼女が黙っている間に、ヴァナネルサが一歩前へ出た。

 

「彼女の護衛兼、付き人をしております。名はヴァルとお呼びください」

 

「シオリだ」

 

 シオリも、簡潔に名を告げる。

 

 神官は、三人の顔を順番に見つめた。わずかに視線がシオリの腰の刀で止まり、その後、彼女の瞳と絡む。

 

 その瞬間、シオリは、相手の瞳の奥にある「測る視線」を感じた。

 

 戦士か。傭兵か。それとも――

 

 だが、神官は何も言わなかった。

 

 代わりに、小さな木机の向こう側に置かれた帳面を指し示す。

 

「では、こちらにお名前と出身地を。正確でなくとも結構です。女神は、迷える旅人もお受け入れになりますから」

 

 その言い回しに、シオリはほんの僅かに口の端を歪めた。

 

 どこまでが本気で、どこからが方便なのか。

 

 だが、書かれた文字を確認する衛兵の視線は、決して柔らかくはなかった。

 

 武の目と、信仰の言葉。

 

 この街は、その二つで成り立っているらしい。

 

 簡単な問答と、わずかな「寄進」の後、三人はそれぞれ首に木札を下げていた。

 

 白木の札に焼き鏝で押された印。女神像と、その足元に置かれた小さな剣。

 

 それは、驚くほど軽かった。

 

 だが、その軽さの裏にある重さを、シオリは嫌でも理解させられていた。

 

 この札がなければ、一歩も先へは進めない。逃亡者である彼女たちにとっては、首輪のようなものでもある。

 

「ようこそ、巡礼都市アルノスへ」

 

 門をくぐる時、先ほどの神官がもう一度そう告げた。

 

 カリナは、思わず深く頭を下げる。

 

 シオリは、軽く会釈だけして、石畳に足を踏み入れた。

 

 門の内側は、思った以上に狭かった。

 

 谷という器の制約のせいか、家々は互いの肩を寄せ合うように押し詰められている。

 

 石造りの家の壁には、ところどころにひびが入り、その隙間からは湿った苔が覗いていた。洗濯物が張り巡らされた路地には、湯気とパンと獣脂の混じった匂いが満ちている。

 

 陽が高くなるにつれ、その匂いに、人と馬と牛の体温が混じり、街全体がぬるい鍋のような空気を帯びていく。

 

「……広くはないが、層が多いな」

 

 シオリは、路地を見上げながら呟いた。

 

 家々は、斜面に沿って何段にも重なっている。

 

 上へ行けば行くほど、石造りの家は大きくなり、装飾も増える。神殿や、役人たちの住まいだろう。

 

 逆に、川沿いの低い場所には、簡素な木造の小屋や、布張りの屋台が連なっていた。巡礼者と、彼らを目当てにした商人たちの場所だ。

 

「まずは、宿を確保いたしましょう。巡礼宿なら、身元も深くは探られませんし」

 

 ヴァナネルサが提案する。

 

 シオリは頷いた。

 

「川沿いの安宿街だな。人が多い場所の方が、逆に紛れやすい」

 

 カリナが、少し不安げに二人の顔を見比べる。

 

「その……わたしたちの顔、王都の者に知られていたりは……?」

 

 シオリは、短く沈黙した。

 

 その間に、周囲のざわめきや足音を聞く。彼女たちに向けられた視線は、今のところ好奇と巡礼者を見る慣れた目だけだ。

 

「ここでは、王都の噂よりも、女神の噂の方が重いだろう」

 

 ややしてから、そう答えた。

 

「……少なくとも、今はな」

 

 安心させるつもりも、脅すつもりもなかった。

 

 だが、カリナはその曖昧さをかえって真剣に受け止めたようで、ぎゅっと木札を握りしめる。

 

「はい。……気をつけます」

 

 そう言って俯いた時、彼女の首筋から立ちのぼる汗の匂いが、ここ数日の逃避行の現実を改めて思い出させた。

 

 女神像の影に守られた街でも、彼女たちには、まだ一歩の安息も与えられていない。

 

 川沿いの路地を抜けた先、小さな広場に面した石造りの二階建ての建物の前で、ヴァナネルサが足を止めた。

 

 看板には、擦れた文字で「巡礼宿 白刃亭」とある。

 

 その名に、シオリは微かに眉を上げた。

 

「……縁起が良いのか悪いのか、判断に困る名だな」

 

「『白刃』とは、女神アルノが最初に人々へ授けた剣の象徴、でしたか」

 

 カリナが、遠い記憶を辿るように呟く。

 

「昔、神話の朗読で聞いたことが……」

 

「神話は後で思い出せ」

 

 シオリは、扉を押し開けた。

 

 中は、外観から想像していたよりも清潔だった。

 

 薄暗い石の床に、わずかに焦げたパンの香りと、香草の匂いが混じっている。

 

 カウンターの奥から、丸顔の女主人が現れた。腕まくりをした手には、まだ湯気の立つ鍋つかみが握られている。

 

「いらっしゃい。巡礼さんかい? 三人部屋でいいかいね」

 

 その気安い口調に、カリナの肩の力が少し抜けた。

 

 シオリは、荷袋から銀貨を取り出し、必要最低限の交渉だけを済ませる。

 

 少し擦り切れた寝台三つ。薄いが清潔な毛布。鍵のかかる扉。

 

 それだけあれば十分だった。贅沢を言える身分ではない。

 

「夕餉は?」

 

 女主人が尋ねる。

 

「頼む」

 

 シオリは即答しかけ――少しだけ顎に手をやって考える。

 

 カリナとヴァナネルサの消耗を、ここで少しでも取り戻させる必要があった。

 

「三人分。温かいものを」

 

「そうこなくちゃ。ちょうど鍋を用意してたところさ。少し待ってな」

 

 女主人は、嬉しそうに台所へ戻っていった。

 

 やがて、木製の卓に、素朴な夕餉が並んだ。

 

 大きな鉢になみなみと注がれたスープ。玉ねぎと芋と少しの乾燥肉が煮込まれているらしく、白濁した湯気からは、骨髄の脂と香草の混じった厚い香りが立ちのぼっていた。

 

 皿には、黒く焼き上がったパンが幾つか。表面は硬そうだが、ちぎると中からは湯気と素朴な小麦の香りが立つ。

 

「……わあ」

 

 カリナは、思わず両手を合わせそうになり、慌ててやめた。

 

 貴族の食卓で育った彼女にとって、この粗末な食事は、本来なら物足りないものであるはずだ。

 

 だが今、彼女の瞳には、別の色が宿っていた。

 

 ただ、温かい。

 

 湯気の向こうに血の飛沫が見えない。焦げた肉の匂いに、焼けた人間の脂の記憶が重ならない。

 

 それだけで、この鍋は、十分すぎるほどのご馳走だった。

 

「いただきます」

 

 カリナが、静かにそう呟いて匙を手に取る。

 

 最初の一口を口に運んだ瞬間、彼女の肩から力が抜けていくのがシオリにもわかった。

 

 熱いスープが、喉を通り、胃へと落ちていく。その温度が、そのまま身体の芯を満たしていくような感覚。

 

「……おいしい……」

 

 感情語ではなく、身体から漏れた声だった。

 

 そこには、王宮で出されたどんな高級な料理にもなかった「今、ここで生きている」という実感があった。

 

 シオリも、匙を手に取る。

 

 舌に触れた瞬間、塩と脂の濃度を測り、次に身体が欲している栄養を計算するのは、もはや癖のようなものだ。

 

 塩気は強めだが、山を越えてきた身体にはむしろありがたい。芋は少し煮崩れているが、その柔らかさが疲れた顎には優しい。

 

(……悪くない)

 

 血の匂いがしない食卓。

 

 目を閉じれば、遠い昔、自分の名をまだ持っていた頃、薄暗い傭兵宿で食べた煮込みを思い出す。

 

 そこには、今日と同じように、下卑た笑い声と、安酒と、安い命の匂いが混じっていた。

 

 ただひとつ違うのは――

 

「シオリさん」

 

 隣からかけられた声に、シオリは現実へ引き戻された。

 

 カリナが匙を置き、真剣な表情でこちらを見ている。

 

「こうして、普通に……ご飯を食べられる場所が、まだ世界に残っているんですね」

 

 シオリは、少しだけ首を傾げた。

 

「お前の城の食堂も、似たようなものだったろう」

 

「いいえ」

 

 カリナは、即座に首を横に振る。

 

 その動きに、金髪がさらりと揺れた。

 

「城では、いつも誰かの視線がありました。礼儀だとか、格式だとか……。今、ここには、そういうものが何もない気がします。あるのは、熱いスープと、少し硬いパンと……それを一緒に食べている人たちだけで」

 

 言葉の途中で、彼女は自分でも何を言っているのかわからなくなったのか、少し頬を染めて口をつぐんだ。

 

 ヴァナネルサが、穏やかに笑う。

 

「カリナ様……いえ、カリン様。そうお感じになれるのは、きっと、今の貴女様が『生き延びたい』と本気で願っているからでしょう」

 

 シオリは、匙を止めたまま、二人のやり取りを見ていた。

 

 血の匂いがしない飯場。

 

 それに戸惑っているのは、本当は自分の方だ。

 

 戦場帰りの傭兵たちは、こういう場所で息抜きをし、翌日にはまた戦場へ戻っていった。

 

 自分は、そのどちらにも馴染めなかった。

 

 今も、そうだ。

 

(……ここで長居する気はない。けれど)

 

 この街は、逃げ道でもあり、罠でもある。

 

 どちらに傾くかは、自分の剣と、選び方次第だ。

 

 そう結論付けて、シオリは再びスープを口に運んだ。

 

 食事が終わる頃には、宿の食堂は、様々な地方訛りの言葉で満ちていた。

 

 巡礼者たちが、長い旅の末に辿り着いた安堵と、明日からの巡礼路への不安を、酒と共に喉へ流し込んでいる。

 

 そのざわめきの中、隣の卓から、ふと耳に残る言葉が聞こえてきた。

 

「──でよ、昔々、この谷に初めて剣を持ち込んだ巫女様ってのがいてな」

 

 酒で赤くなった鼻をした初老の男が、若者たちに身振り手振りを交えて語っている。

 

「白い刃を掲げて、女神さまの代わりに山賊どもを叩き斬ったんだとよ。そりゃあもう、一太刀振るうごとに雷が落ちたって話だ」

 

「またその話かよ、親父さん」

 

 若者の一人が笑う。

 

「白刃の巫女なんざ、どこにでも伝わってる昔話だろ」

 

「バカ言え。アルノスの白刃様は、本当にいたんだ。俺の祖父の祖父の、そのまた祖父がな──」

 

 男の声が、笑い声に紛れていく。

 

 シオリは、わざわざ聞き耳を立てることなく、ただスープの残りを啜った。

 

 白刃の巫女。

 

 剣を掲げた女。

 

 それは、どこかで何度も聞いたような言葉だ。

 

 剣と女を結びつける伝承は、戦場にはいくらでも転がっている。大抵は、弱い者たちが自分たちを鼓舞するための物語だった。

 

(……白い刃、ね)

 

 自分の剣は、あまりにも多くの血を吸ってきた。

 

 磨き上げても、刃の根元にこびりついた錆は消えない。

 

 それを、誰かが「巫女」と呼ぶ未来があるなどと、今のシオリは想像すらしていなかった。

 

 食事を終え、部屋に荷物を置いた後、ヴァナネルサが立ち上がった。

 

「少し街を見てきます。役人街と神殿の位置、それに……南への巡礼路のことも」

 

 シオリは、窓の外に傾きかけた陽を一瞥する。

 

「一人で行けるか」

 

「猫は目が利きますので」

 

 ヴァナネルサは、冗談めかして耳を指さす仕草をした。布の下からは見えないが、その先にはぴんと立った猫耳がある。

 

「それに、シオリ殿とカリン様は、少し休まれた方がよろしい。ここ数日、まともに眠れておられませんでしたから」

 

 カリナは、ベッドの端で目を瞬いた。

 

「ですが、ヴァルだけに危ない役を押し付けてしまうのは──」

 

「危ない橋は、軽い足取りの者が渡るものです」

 

 ヴァナネルサは、静かに頭を下げる。

 

「何かあれば、すぐに戻ります。……それとも、シオリ殿、街を歩きながら兵の配置や地形を眺めたくてうずうずしておられますか?」

 

 わざとらしい挑発に、シオリは少しだけ目を細めた。

 

「人を戦馬鹿みたいに言うな。……まあ、間違ってはいないが」

 

 その認め方に、ヴァナネルサが小さく笑う。

 

「では、お任せください。猫一匹、神官の裾を踏んでくるくらいはできます」

 

 シオリは、その言葉の裏にある本気と軽口の比率を測り、やがて頷いた。

 

「日が沈む前には戻れ。暗くなった街で迷うのは、猫でも厄介だ」

 

「御意」

 

 ヴァナネルサは、フードを目深にかぶり直し、そっと部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる音が、妙に大きく響く。

 

 残された部屋の中には、カリナとシオリ、そして外から聞こえる街のざわめきだけがあった。

 

「シオリさん」

 

 カリナが、少し躊躇いがちに声をかける。

 

「ヴァル、大丈夫でしょうか……」

 

 シオリは窓際に歩み寄り、外の通りを見下ろした。

 

 坂道を上り下りする人々の流れ。日干しされた洗濯物が、風に揺れている。

 

「大丈夫でなければ、とっくに死んでいる」

 

 淡々と言う。

 

「お前を守ってここまで来たのは、誰だ」

 

 カリナは、少しだけ目を伏せた。

 

「……わたくしが、彼を守る番だと、言ったのに」

 

 その指先が、木札をぎゅっと握りしめる。

 

 シオリは、返す言葉を一瞬迷い、結局、何も言わなかった。

 

 代わりに、窓から見える街の上層――女神像へと続くと思しき石段に目を向ける。

 

「少し、歩いてくる。頭を冷やしたい」

 

「え?」

 

 カリナが顔を上げる。

 

「ですが──」

 

「ここから神殿が見えるだろう」

 

 シオリは、顎で山の斜面を指し示す。

 

「上から街の全体を見ておきたい。どこが逃げ道になり、どこが袋小路か。そういうのは、地図よりも先に、目で確かめておくべきだ」

 

 それは、半分は本心で、半分は言い訳だった。

 

 この狭い部屋に、カリナと二人きりで閉じこもっていると、自分の中のどこかが落ち着かなくなる。

 

 距離を取る癖は、いまだに抜けていない。

 

「戸には閂がある。閉めておけ」

 

「……わかりました」

 

 カリナは、小さく頷いた。

 

「戻られたら、その……また一緒に、女神様のこと、教えてくださいませ」

 

 シオリは、返答を口の中で転がし、結局、曖昧な「あとでな」とだけ残して部屋を出た。

 

 外に出ると、夕暮れの風が、昼間の熱気を少しだけ攫っていった。石段を吹き抜ける風は、巡礼者たちの祈りの言葉と、屋台から漂う肉の匂いを運んでくる。

 

 シオリは、女神像へと続く石段を選び、ゆっくりと登り始めた。

 

 一段上がるごとに、縫った脇腹がじくりと疼く。彼女は、その痛みを、あえて数えずに置いた。痛みを言い訳にする習慣は、戦場のどこにもなかったからだ。

 

 途中、祈りを捧げる巡礼者たちの間をすり抜けながら、街の全体を見下ろす位置を探す。

 

 やがて、谷を一望できる踊り場に出た。

 

 眼下には、昼間見下ろしたのと同じ、谷底の街が広がっている。だが今は、夕陽が家々の壁を赤く染め、川面に揺れる光が、街全体を揺らめかせていた。

 

 そして、そのさらに上。

 

 女神像の足下には、小さな祈りの場があり、供え物の花や蝋燭が並んでいる。その中央に――

 

 石で作られた剣が、空へ向かって突き立てられていた。

 

 女神像が掲げるものと同じ形をした、小ぶりな模造の剣。台座には、擦り減った文字で「白刃」と刻まれている。

 

 それを見上げている巡礼者たちの首筋が、夕陽に照らされて光っていた。

 

 仰ぎ見る首。

 

 そして――

 

 掲げられた剣。

 

 夕陽が、その刃の縁をかすめた。

 

 一瞬だけ、鈍く光る石の剣が、本物の鋼のようにきらりと光を跳ね返す。

 

 その光が、シオリの瞳を刺した。

 

 思わず、片目を細める。

 

 石の刃から跳ねた光は、まるで誰かが上から自分を指さしたかのように、一直線に落ちてくるように感じられた。

 

(……剣を掲げた女、ね)

 

 昼間見た宿の看板。

 

食堂で耳にした昔話。

 

 

 そして、今、自分の頭上に突き立てられたこの石の剣。

 

 すべてが、一本の線で繋がっていく感覚があった。

 

 この街の人間たちが、誰を見上げて祈っているのか。

 

 女神像か。

 

 それとも――

 

「冗談じゃない」

 

 思わず、声に出ていた。

 

 石段に座っていた鳩が、一斉に飛び立つ。羽音が、やけに大きく耳に響いた。

 

 祈りを受ける側じゃない。

 

 自分は、斬られる側の祈りなんて知らない。

 

 知っているのは、斬る側が抱える沈黙だけだ。

 

 けれど、胸の奥で、何かが小さく笑った。

 

 戦場で何度も見てきた「象徴」というもの。

 

 旗。紋章。英雄譚。

 

 それらを疑いながらも、結局は剣を振るうための理由にしてきた自分。

 

 その自分が、今度は誰かにとっての「剣を掲げた女」になる未来。

 

 ありえない話ではないのかもしれない。

 

 その可能性が、ひどく不愉快で、同時にどこか懐かしかった。

 

「……まあいい」

 

 夕陽は、女神像の背後の山に沈みかけている。

 

 石の剣から跳ねた光も、やがて弱まり、単なる冷たい石へと戻った。

 

 シオリは、踊り場の縁に片足をかけ、再び谷底の街を見下ろす。

 

 ここでしばらく足を止めざるをえない。

 

 聖印を手に入れなければ、南へは抜けられない。

 

 闇市に頼るか、神殿と取引するか。

 

 そのどちらを選んでも、血の匂いを完全に避けることはできないだろう。

 

「せいぜい、うまくやるさ」

 

 誰にともなく呟いて、シオリは踵を返した。

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