戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二十三話

 「……人が多いな」

 

 シオリは、白刃亭を出たところでそう呟き、周囲を一度ぐるりと見回した。

 

 昨夜、女神像の足元から街を見下ろしたときも、人の多さには気づいていた。だが、谷底から見上げる景色はまた別だ。崖に貼りつくように建てられた家々の窓からは洗濯物がはためき、その合間を縫うように香辛料の香りが漂ってくる。

 

 脇腹の縫い傷が、歩くたび、内側からちくりと主張していた。

 

 気にするな。

 

 その痛みは、生きている証拠に過ぎない。

 

「シオリさん、あれ……」

 

 隣でカリナが声を上げた。指さす先には、布を広げて髪飾りやリボンを並べた露店がある。金糸を模した安物の飾り玉に、女神像の横顔を雑に刻んだブローチ。どれも、王城で目にしてきた宝飾品とは比べものにならない粗末さだが、カリナの目には、それがかえって眩しく映っているようだった。

 

「寄ってみても、いいですか?」

 

「好きにしろ。ただし、財布は前にしまえ」

 

「は、はい」

 

 注意を受け、カリナは慌てて腰袋を胸元へ移す。

 

 そのぎこちない動きに、シオリは内心でため息をついた。

 

 この狭い谷底で生きる者たちの目は、飢えた鳥のように鋭い。巡礼者は、半ば歩く金づるだ。狙われない方がおかしい。

 

 ヴァナネルサは今朝から別行動だ。街の上層と神殿周辺の様子を見てくると言い残し、猫科らしい足取りで石段を駆け上がっていった。

 

 だからこそ、今は自分が気を張っていなければならない。

 

 カリナが露店の前でしゃがみ込み、色褪せたリボンを指先でつまんでいる。

 

「これ、かわいいですわ……いえ、かわいい、ね」

 

「値切れ」

 

「えっ」

 

「旅の巡礼が気前よく金を払うと、次から次へと寄ってくるぞ」

 

 シオリがぼそりと言うと、店の老婆が「聞こえてるよ」と笑った。

 

「お嬢ちゃん、姉ちゃんの言う通りさ。ここじゃな、値切る気力のない奴から先に、神様が試すんだよ」

 

「そんな試練、わたくし聞いたことありませんけれど……」

 

 思わず本音が漏れそうになり、カリナは慌てて口を押さえた。

 

 その仕草に、シオリの口元がわずかに緩む。

 

 くだらないやり取りだ。だが、血と呻き声で満ちた鉱山をくぐり抜けてきたあとで、こんなくだらなさがどれほど貴重かは、嫌というほど身に染みている。

 

 ……だからこそ。

 

 その平穏に、どこから罅が入るのかも、よく知っていた。

 

 カリナが代金を支払うため、胸元の腰袋を取り出したときだった。

 

 そのすぐ背後、雑踏の影から、小さな手がするりと伸びた。

 

 布と布のすき間を泳ぐように、指が紐に触れる。

 

 早い。体格からして、まだ十にも満たないだろう。だが、動きは熟練の盗人じみていた。

 

 シオリの視線が、その手先を捉えた。

 

 反射的に足が一歩出る。

 

 その瞬間――

 

 背後から、ガタン、と大きな音がした。

 

「うわっ……! どけどけぇっ!」

 

 怒鳴り声と共に、荷車が石畳をきしませながら突っ込んでくる。積み荷の木箱が一つ、車輪から大きくはみ出していた。

 

 小さな手の持ち主――痩せた少女が、財布をつかんだ姿勢のまま、目を見開いて振り向いた。

 

 目の前へ迫る荷車。

 

 よく研ぎ澄まされた直感は、誰よりも早く危険を察知する。だが、その小さな身体が飛び退くには、あまりにも時間が短すぎた。

 

 周囲のざわめきが、空気ごと凍り付く。

 

 カリナの肺から、悲鳴が漏れかけた。

 

 そこで、時間の流れが変わった。

 

 シオリの世界だけが、別の速度で動き出す。

 

 木箱が傾き、荷車の片輪が溝に落ちる。その瞬間、車体全体の重心がぐらりと崩れた。

 

 箱の角が、少女の頭上すれすれを通って落ちてくる――その未来が、線のように見えた。

 

 足が、地面を蹴る。

 

 縫い合わされたばかりの脇腹が、裂けるように痛んだ。だが、関係ない。痛みは後回しだ。

 

 鞘から、刃が鳴った。

 

 抜刀と踏み込みが一つの動作に溶け合う。

 

 落下する箱と、少女の細い身体との間に、自分の腕をねじ込む。

 

 刃が、空気を裂いた。

 

 耳に届くのは、剣が木材を断つ乾いた手応えだけ。

 

 重い衝撃が、肩から背骨へと抜けていく。

 

 次の瞬間、シオリは少女の身体を抱え込んで、石畳の上を転がっていた。

 

 ゴロリ、と何かが転がる音がする。

 

 視界の端で、さっきまで一つの塊だったはずの木箱が、きれいに二つに割れていた。

 

 切断面は、恐ろしいほど滑らかだった。

 

 割れた箱の中身――乾いた麦藁や、包まれた荷がばらばらと石畳に散る。

 

 粉塵が、朝の光を白く曇らせた。

 

 静寂。

 

 遅れて、通りのざわめきが一気に押し寄せてくる。

 

「お、おい……今、見たか?」

 

「木箱が……真っ二つ……」

 

「傷一つねえぞ、あの子……」

 

 少女の体を庇うようにして座り込みながら、シオリは肺の奥まで息を吐き出した。

 

 抱きしめた腕の中から、小さくしゃくり上げるような呼吸が伝わってくる。

 

 細い。骨ばっているくせに、驚くほど軽い。

 

 シオリは、そっと腕を緩めた。

 

「……動けるか」

 

 顔を上げた少女の瞳が、ばっちりとシオリを見つめ返す。

 

 茶色とも灰色ともつかない瞳。煤けた前髪の隙間から覗くそれは、怯えの裏に、不遜な光を宿していた。

 

「…………っ」

 

 言葉にはならない。だが、その沈黙だけで、生きていることは十分に伝わる。

 

 胸の奥で、知らず安堵が広がった。

 

 そこへ――

 

「し、白刃の、巫女様だ……!」

 

 しわがれた老婆の声が、裂けた箱よりも鋭く空気を切り裂いた。

 

 シオリは、眉をひそめる。

 

 老婆は、さっきまで露店でリボンを売っていたあの店主だった。

 

 彼女は口元を震わせながら、割れた木箱と、シオリの握る刀とを交互に指差している。

 

「見たよ、あたしゃ見た! 刃が光ったと思ったら、箱がこうして……それであの子には、かすり傷ひとつ……! 女神様の白い刃だよ……白刃の巫女様じゃなきゃ、こんな真似、できるもんかい!」

 

 その言葉が、火種に風を吹き込むように、通りに広がっていった。

 

「白刃の巫女……?」

 

「ほら、昨夜も宿で話してただろう、山賊を斬った巫女の昔話だ」

 

「まさか本当に……?」

 

「女神様が、この戦乱の時代に、また剣を遣わしたのかもしれねえ……!」

 

 ざわめきは、祈りとも期待ともつかぬ熱を帯びて膨らんでいく。

 

 シオリは、心底うんざりした。

 

「やめろ」

 

 低い声でそう言い、刀を鞘に収める。

 

 刃が姿を隠しても、広がった噂は戻らない。

 

 というより――

 

(……遅かったな)

 

 向こうから、人垣をかき分けて走ってくる影があった。

 

 白い法衣に灰色の縁取り。胸元には小さな剣の紋章。

 

 女神アルノの神官の制服だ。

 

 若い男だった。二十そこそこ、少年と呼べる歳月の名残をまだ顔に残している。柔らかな栗色の髪を後ろでひとつに結び、額には汗が浮かんでいた。

 

「皆さん、落ち着いてください!」

 

 彼はまず、ひっくり返った荷車の方へ駆け寄り、怪我人がいないかをざっと確認する。

 

 荷車の引き手の男が、「す、すまねえ、ブレーキが利かなくて……」と青ざめた顔で頭を下げていた。

 

「大きな怪我人はいないようですね。……よかった」

 

 若い神官は胸を撫でおろし、それからシオリたちへと向き直る。

 

 彼の視線が、一瞬だけシオリの刀に止まり、次に割れた木箱へ滑った。

 

 切断面を見た瞬間、その灰色がかった瞳に、驚きとは違う種類の光が宿った。

 

 ただの事故ではない――そう直感している目だ。

 

「先ほどの……あなたが、あの子を?」

 

「あんたは?」

 

 シオリは立ち上がりながら、短く問い返した。

 

 胸の中でまだ少女がハッと息を飲む気配がある。

 

 彼女は財布を握ったまま、状況についていけずに固まっていた。

 

「アルノ神殿の下級神官、クリストフと申します。この通りの見回りをしていたところで騒ぎを聞きまして」

 

 神官は礼儀正しく名乗り、少女へと視線をやる。

 

「怪我はありませんか?」

 

「……ない」

 

 少女は、財布を握りしめた指を隠すようにして、そっぽを向いた。

 

 図太い。

 

 シオリは内心で感心する。

 

 この状況でまず隠すのが傷ではなく盗んだ財布だというあたり、筋金入りだ。

 

「その子は、うちの物を……」

 

 カリナが恐る恐る口を開いた。

 

 神官の視線が、彼女の手元へ移る。

 

 財布。その紐。その位置。

 

 一瞥で事情を察したらしく、クリストフは「ふむ」と小さく喉を鳴らした。

 

「……まずは、命が助かったことを女神に感謝しましょう。盗みの件は、その後で」

 

 そう言って、彼は周囲の群衆へと向き直る。

 

「皆さん、危険は去りました。お騒がせしましたが、道を塞いだままでは女神の御心も曇ってしまいます。どうか、それぞれの巡礼の続きを」

 

 穏やかな声だった。だが、不思議とよく通る。

 

 神官の言葉と共に、少しずつ人々が散り始める。

 

 まだ好奇の視線は残っているが、露骨な熱は薄れた。

 

 それでも、誰かが小声で「白刃の巫女」という単語を繰り返しているのが耳に残る。

 

「すまねえな、神官様……俺の腕が悪かったばっかりに」

 

 荷車の男が、ぺこぺこと頭を下げる。

 

「事故は誰にでも起こります。ですが――」

 

 クリストフは振り返り、シオリと正面から目を合わせた。

 

「落ちてくる木箱の下から、あの子をあのように救い出すことができる人は、そう多くありません」

 

「ただの反射だ」

 

 シオリは、あっさり切り捨てる。

 

「箱の方が軽かった。斬っただけだ」

 

「斬っただけ、ですか」

 

 神官の唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。

 

「その『だけ』を、我々は奇跡と呼ぶこともあります」

 

「好きに呼べ。だが――」

 

 シオリは、少女の腕をぐいと自分の前に引き出した。

 

「こっちは偶然だ。財布を盗ろうとしていた。それだけだ」

 

 露見した財布を見て、少女の肩がびくりと震える。

 

「……っ」

 

 カリナは、思わず彼女を庇うように一歩踏み出した。

 

「ですが、この子がいなければ……いえ、その……」

 

 言葉がもつれる。

 

 この子が財布を盗もうとしなければ、この事故には巻き込まれなかった。だが、同時に――

 

 その罪と、今目の前にいる命の軽さ。どちらを秤にかければいいのか、カリナには決められなかった。

 

 クリストフは二人の様子をしばし見て、やがて小さくため息を漏らす。

 

「では、こうしましょう」

 

 そう言って、彼は少女と視線の高さを合わせた。

 

「君。名前は?」

 

「……ル、ルチア」

 

「ルチア。いい名前ですね」

 

 クリストフは、微笑んだ。

 

「盗みはよくない。女神も、それはお喜びにならない。……けれど、今日、君がここで死ななかったのも、また事実だ」

 

 彼はシオリの方へ視線を向ける。

 

「命の貸し借り。どうしますか?」

 

「……こんな真似をしておいて、帳消しにしろとでも言うのか?」

 

 シオリの声には、棘が混じった。

 

 神官は首を振る。

 

「いいえ。帳消しではありません。――今日のところは、この子に、女神とあなたへ感謝を覚えさせる。そのかわり、こちらで孤児院の手伝いをさせる、というのは?」

 

 孤児院――その単語に、ルチアの顔が少しだけ曇った。

 

 だが、牢屋よりはずっとましだろう。

 

 シオリは、ほんの一拍だけ考え、それから腕を放した。

 

「勝手にしろ。ただし、二度目はない」

 

「……わかってる」

 

 小さく、ルチアの喉が鳴った。

 

 握りしめていた財布が、カリナの手元へと押し戻される。

 

「す、すみませんでした……」

 

 消え入りそうな謝罪。

 

 カリナはその手をそっと握り返した。

 

「無事でよかったですわ」

 

 その一言に、ルチアは驚いたように目を見開いた。

 

 クリストフは、そんな三人を見比べながら、ふっと息を吐く。

 

「……もしよろしければ」

 

 彼は、真面目な表情に戻った。

 

「先ほどの出来事について、神殿で少しだけお話を伺えませんか。あの切れ味、あの間合い……。女神の名のもとに行われたことなのか、それとも、あなた自身の技なのか。それを、確かめたいのです」

 

「断ったら?」

 

「広場で話を続けることになるだけです。どちらが目立つかは、あなたの方がよくご存じでしょう」

 

 穏やかな声音の奥に、しっかりとした芯があった。

 

 シオリは、舌打ちしたい衝動を飲み込む。

 

 神殿に目をつけられるのは厄介だ。だが、この場で事を荒立てるのはもっと悪い。

 

 それに――神殿の内部構造を自分の目で見る機会は、そう多くはない。

 

「少しだけだぞ」

 

「ええ。長くは取りません」

 

 クリストフは、安心したように微笑んだ。

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