戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
「……人が多いな」
シオリは、白刃亭を出たところでそう呟き、周囲を一度ぐるりと見回した。
昨夜、女神像の足元から街を見下ろしたときも、人の多さには気づいていた。だが、谷底から見上げる景色はまた別だ。崖に貼りつくように建てられた家々の窓からは洗濯物がはためき、その合間を縫うように香辛料の香りが漂ってくる。
脇腹の縫い傷が、歩くたび、内側からちくりと主張していた。
気にするな。
その痛みは、生きている証拠に過ぎない。
「シオリさん、あれ……」
隣でカリナが声を上げた。指さす先には、布を広げて髪飾りやリボンを並べた露店がある。金糸を模した安物の飾り玉に、女神像の横顔を雑に刻んだブローチ。どれも、王城で目にしてきた宝飾品とは比べものにならない粗末さだが、カリナの目には、それがかえって眩しく映っているようだった。
「寄ってみても、いいですか?」
「好きにしろ。ただし、財布は前にしまえ」
「は、はい」
注意を受け、カリナは慌てて腰袋を胸元へ移す。
そのぎこちない動きに、シオリは内心でため息をついた。
この狭い谷底で生きる者たちの目は、飢えた鳥のように鋭い。巡礼者は、半ば歩く金づるだ。狙われない方がおかしい。
ヴァナネルサは今朝から別行動だ。街の上層と神殿周辺の様子を見てくると言い残し、猫科らしい足取りで石段を駆け上がっていった。
だからこそ、今は自分が気を張っていなければならない。
カリナが露店の前でしゃがみ込み、色褪せたリボンを指先でつまんでいる。
「これ、かわいいですわ……いえ、かわいい、ね」
「値切れ」
「えっ」
「旅の巡礼が気前よく金を払うと、次から次へと寄ってくるぞ」
シオリがぼそりと言うと、店の老婆が「聞こえてるよ」と笑った。
「お嬢ちゃん、姉ちゃんの言う通りさ。ここじゃな、値切る気力のない奴から先に、神様が試すんだよ」
「そんな試練、わたくし聞いたことありませんけれど……」
思わず本音が漏れそうになり、カリナは慌てて口を押さえた。
その仕草に、シオリの口元がわずかに緩む。
くだらないやり取りだ。だが、血と呻き声で満ちた鉱山をくぐり抜けてきたあとで、こんなくだらなさがどれほど貴重かは、嫌というほど身に染みている。
……だからこそ。
その平穏に、どこから罅が入るのかも、よく知っていた。
カリナが代金を支払うため、胸元の腰袋を取り出したときだった。
そのすぐ背後、雑踏の影から、小さな手がするりと伸びた。
布と布のすき間を泳ぐように、指が紐に触れる。
早い。体格からして、まだ十にも満たないだろう。だが、動きは熟練の盗人じみていた。
シオリの視線が、その手先を捉えた。
反射的に足が一歩出る。
その瞬間――
背後から、ガタン、と大きな音がした。
「うわっ……! どけどけぇっ!」
怒鳴り声と共に、荷車が石畳をきしませながら突っ込んでくる。積み荷の木箱が一つ、車輪から大きくはみ出していた。
小さな手の持ち主――痩せた少女が、財布をつかんだ姿勢のまま、目を見開いて振り向いた。
目の前へ迫る荷車。
よく研ぎ澄まされた直感は、誰よりも早く危険を察知する。だが、その小さな身体が飛び退くには、あまりにも時間が短すぎた。
周囲のざわめきが、空気ごと凍り付く。
カリナの肺から、悲鳴が漏れかけた。
そこで、時間の流れが変わった。
シオリの世界だけが、別の速度で動き出す。
木箱が傾き、荷車の片輪が溝に落ちる。その瞬間、車体全体の重心がぐらりと崩れた。
箱の角が、少女の頭上すれすれを通って落ちてくる――その未来が、線のように見えた。
足が、地面を蹴る。
縫い合わされたばかりの脇腹が、裂けるように痛んだ。だが、関係ない。痛みは後回しだ。
鞘から、刃が鳴った。
抜刀と踏み込みが一つの動作に溶け合う。
落下する箱と、少女の細い身体との間に、自分の腕をねじ込む。
刃が、空気を裂いた。
耳に届くのは、剣が木材を断つ乾いた手応えだけ。
重い衝撃が、肩から背骨へと抜けていく。
次の瞬間、シオリは少女の身体を抱え込んで、石畳の上を転がっていた。
ゴロリ、と何かが転がる音がする。
視界の端で、さっきまで一つの塊だったはずの木箱が、きれいに二つに割れていた。
切断面は、恐ろしいほど滑らかだった。
割れた箱の中身――乾いた麦藁や、包まれた荷がばらばらと石畳に散る。
粉塵が、朝の光を白く曇らせた。
静寂。
遅れて、通りのざわめきが一気に押し寄せてくる。
「お、おい……今、見たか?」
「木箱が……真っ二つ……」
「傷一つねえぞ、あの子……」
少女の体を庇うようにして座り込みながら、シオリは肺の奥まで息を吐き出した。
抱きしめた腕の中から、小さくしゃくり上げるような呼吸が伝わってくる。
細い。骨ばっているくせに、驚くほど軽い。
シオリは、そっと腕を緩めた。
「……動けるか」
顔を上げた少女の瞳が、ばっちりとシオリを見つめ返す。
茶色とも灰色ともつかない瞳。煤けた前髪の隙間から覗くそれは、怯えの裏に、不遜な光を宿していた。
「…………っ」
言葉にはならない。だが、その沈黙だけで、生きていることは十分に伝わる。
胸の奥で、知らず安堵が広がった。
そこへ――
「し、白刃の、巫女様だ……!」
しわがれた老婆の声が、裂けた箱よりも鋭く空気を切り裂いた。
シオリは、眉をひそめる。
老婆は、さっきまで露店でリボンを売っていたあの店主だった。
彼女は口元を震わせながら、割れた木箱と、シオリの握る刀とを交互に指差している。
「見たよ、あたしゃ見た! 刃が光ったと思ったら、箱がこうして……それであの子には、かすり傷ひとつ……! 女神様の白い刃だよ……白刃の巫女様じゃなきゃ、こんな真似、できるもんかい!」
その言葉が、火種に風を吹き込むように、通りに広がっていった。
「白刃の巫女……?」
「ほら、昨夜も宿で話してただろう、山賊を斬った巫女の昔話だ」
「まさか本当に……?」
「女神様が、この戦乱の時代に、また剣を遣わしたのかもしれねえ……!」
ざわめきは、祈りとも期待ともつかぬ熱を帯びて膨らんでいく。
シオリは、心底うんざりした。
「やめろ」
低い声でそう言い、刀を鞘に収める。
刃が姿を隠しても、広がった噂は戻らない。
というより――
(……遅かったな)
向こうから、人垣をかき分けて走ってくる影があった。
白い法衣に灰色の縁取り。胸元には小さな剣の紋章。
女神アルノの神官の制服だ。
若い男だった。二十そこそこ、少年と呼べる歳月の名残をまだ顔に残している。柔らかな栗色の髪を後ろでひとつに結び、額には汗が浮かんでいた。
「皆さん、落ち着いてください!」
彼はまず、ひっくり返った荷車の方へ駆け寄り、怪我人がいないかをざっと確認する。
荷車の引き手の男が、「す、すまねえ、ブレーキが利かなくて……」と青ざめた顔で頭を下げていた。
「大きな怪我人はいないようですね。……よかった」
若い神官は胸を撫でおろし、それからシオリたちへと向き直る。
彼の視線が、一瞬だけシオリの刀に止まり、次に割れた木箱へ滑った。
切断面を見た瞬間、その灰色がかった瞳に、驚きとは違う種類の光が宿った。
ただの事故ではない――そう直感している目だ。
「先ほどの……あなたが、あの子を?」
「あんたは?」
シオリは立ち上がりながら、短く問い返した。
胸の中でまだ少女がハッと息を飲む気配がある。
彼女は財布を握ったまま、状況についていけずに固まっていた。
「アルノ神殿の下級神官、クリストフと申します。この通りの見回りをしていたところで騒ぎを聞きまして」
神官は礼儀正しく名乗り、少女へと視線をやる。
「怪我はありませんか?」
「……ない」
少女は、財布を握りしめた指を隠すようにして、そっぽを向いた。
図太い。
シオリは内心で感心する。
この状況でまず隠すのが傷ではなく盗んだ財布だというあたり、筋金入りだ。
「その子は、うちの物を……」
カリナが恐る恐る口を開いた。
神官の視線が、彼女の手元へ移る。
財布。その紐。その位置。
一瞥で事情を察したらしく、クリストフは「ふむ」と小さく喉を鳴らした。
「……まずは、命が助かったことを女神に感謝しましょう。盗みの件は、その後で」
そう言って、彼は周囲の群衆へと向き直る。
「皆さん、危険は去りました。お騒がせしましたが、道を塞いだままでは女神の御心も曇ってしまいます。どうか、それぞれの巡礼の続きを」
穏やかな声だった。だが、不思議とよく通る。
神官の言葉と共に、少しずつ人々が散り始める。
まだ好奇の視線は残っているが、露骨な熱は薄れた。
それでも、誰かが小声で「白刃の巫女」という単語を繰り返しているのが耳に残る。
「すまねえな、神官様……俺の腕が悪かったばっかりに」
荷車の男が、ぺこぺこと頭を下げる。
「事故は誰にでも起こります。ですが――」
クリストフは振り返り、シオリと正面から目を合わせた。
「落ちてくる木箱の下から、あの子をあのように救い出すことができる人は、そう多くありません」
「ただの反射だ」
シオリは、あっさり切り捨てる。
「箱の方が軽かった。斬っただけだ」
「斬っただけ、ですか」
神官の唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。
「その『だけ』を、我々は奇跡と呼ぶこともあります」
「好きに呼べ。だが――」
シオリは、少女の腕をぐいと自分の前に引き出した。
「こっちは偶然だ。財布を盗ろうとしていた。それだけだ」
露見した財布を見て、少女の肩がびくりと震える。
「……っ」
カリナは、思わず彼女を庇うように一歩踏み出した。
「ですが、この子がいなければ……いえ、その……」
言葉がもつれる。
この子が財布を盗もうとしなければ、この事故には巻き込まれなかった。だが、同時に――
その罪と、今目の前にいる命の軽さ。どちらを秤にかければいいのか、カリナには決められなかった。
クリストフは二人の様子をしばし見て、やがて小さくため息を漏らす。
「では、こうしましょう」
そう言って、彼は少女と視線の高さを合わせた。
「君。名前は?」
「……ル、ルチア」
「ルチア。いい名前ですね」
クリストフは、微笑んだ。
「盗みはよくない。女神も、それはお喜びにならない。……けれど、今日、君がここで死ななかったのも、また事実だ」
彼はシオリの方へ視線を向ける。
「命の貸し借り。どうしますか?」
「……こんな真似をしておいて、帳消しにしろとでも言うのか?」
シオリの声には、棘が混じった。
神官は首を振る。
「いいえ。帳消しではありません。――今日のところは、この子に、女神とあなたへ感謝を覚えさせる。そのかわり、こちらで孤児院の手伝いをさせる、というのは?」
孤児院――その単語に、ルチアの顔が少しだけ曇った。
だが、牢屋よりはずっとましだろう。
シオリは、ほんの一拍だけ考え、それから腕を放した。
「勝手にしろ。ただし、二度目はない」
「……わかってる」
小さく、ルチアの喉が鳴った。
握りしめていた財布が、カリナの手元へと押し戻される。
「す、すみませんでした……」
消え入りそうな謝罪。
カリナはその手をそっと握り返した。
「無事でよかったですわ」
その一言に、ルチアは驚いたように目を見開いた。
クリストフは、そんな三人を見比べながら、ふっと息を吐く。
「……もしよろしければ」
彼は、真面目な表情に戻った。
「先ほどの出来事について、神殿で少しだけお話を伺えませんか。あの切れ味、あの間合い……。女神の名のもとに行われたことなのか、それとも、あなた自身の技なのか。それを、確かめたいのです」
「断ったら?」
「広場で話を続けることになるだけです。どちらが目立つかは、あなたの方がよくご存じでしょう」
穏やかな声音の奥に、しっかりとした芯があった。
シオリは、舌打ちしたい衝動を飲み込む。
神殿に目をつけられるのは厄介だ。だが、この場で事を荒立てるのはもっと悪い。
それに――神殿の内部構造を自分の目で見る機会は、そう多くはない。
「少しだけだぞ」
「ええ。長くは取りません」
クリストフは、安心したように微笑んだ。