戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二十五話

 朝靄を割るように、低く長い角笛の音が谷に響いた。

 

 アルノスの街に住む者なら誰もが聞き覚えのある、防塁の警鐘とは違う音色だった。戦の匂いを連れてくる、鉄の音。

 

 シオリは、宿の細い寝台の上で目を開けた。

 

 眠りは浅かった。昨夜、身体は疲れ切っているはずなのに、瞼の裏には何度も同じ光景が再生されていたからだ。

 

 崖の上で掲げた剣。

 白い光と共に、山肌が崩れ落ちる。

 誰かが上げた「奇跡だ」という叫び。

 

 あれは奇跡でも何でもない。

 岩の亀裂と、水脈と、重心。 

 斬るべき一点を見極めただけだ。

 

 ――そう理屈では分かっているのに、胸の奥に、いつもと違う鈍い余韻が残っている。

 

(人を斬らずに済んだ、ってだけで、こんなに疲れるとはな)

 

 自嘲して起き上がる前に、角笛の第二声が、今度はやや近く、はっきりと届いた。

 

 続いて、遠くから聞こえる鐘の音。門の上からだ。

 

「……起きろ、二人とも」

 

 シオリは、隣の寝台の足元を軽く蹴った。

 

 毛布の山がもぞもぞと動き、金髪が覗く。

 

「う、うう……もう朝……?」

 

「朝どころか、騒がしい朝だ。門で何かあった」

 

 ヴァナネルサも、すでに上体を起こしていた。猫耳を隠す布を探しながら、細い瞳を窓の外へ向ける。

 

「角笛の音……敵襲、というより、『客人』でしょうな」

 

「黒獅子か」

 

 シオリの呟きに、部屋の空気が僅かに引き締まった。

 

 昨夜、神殿の上層から見下ろした谷口。そこに、黒い獅子の紋章を掲げた軍勢の焚き火が、星と混じって瞬いていた。

 

 その影が、ついに門まで来たのだ。

 

*

 

 門塔の上は、すでに人で埋まっていた。

 

 神殿の白い法衣をまとった神官たち、槍を構えた街の自警兵、それに目を凝らすだけの市井の者たち。狭い城壁の上に、ぎゅうぎゅうと押し寄せている。

 

 その中で、フードを目深にかぶったシオリたち三人は、比較的目立たぬ場所を確保していた。

 

 谷の入口は霧に包まれている。だが、朝日が差し込む角度が変わるにつれ、その白い帳の向こうに、黒い影が浮かび上がっていく。

 

 獅子の紋章を染め抜いた旗。

 

 黒鉄の鎧をまとった歩兵の列。

 

 馬の吐く白い息。

 

 数こそ大軍というほどではない。先遣隊だろう。それでも、この狭い谷口には、十分すぎる圧力だった。

 

「……あれが、黒獅子の傭兵団……」

 

 カリナが、小さく息を呑む。

 

 偽名の「カリン」は、昨夜神殿での話し合いののち、その場では封印されていた。今、彼女の横顔に宿る緊張は、田舎娘の巡礼という仮面では隠しきれない。

 

「正確には、『黒獅子連隊』の一部ですな」

 

 ヴァナネルサが、低く答える。

 

「王都近衛の一角から派生した重装歩兵部隊。今は摂政派の主力として、各地の戦で名を上げている……と聞き及びます」

 

「聞き及ぶ、ね」

 

 シオリは、谷口の軍列を測るように見やる。

 

 陣形、装備の汚れ具合、馬の痩せ方。 

 それらを一つ一つ拾って、頭の中で数字に変換していく。

 

「……兵の質は悪くない。歩兵はよく鍛えられてるし、補給もまだ切れてない。無理攻めを仕掛けてくる連中じゃない」

 

「では、交渉に来たと?」

 

「最初から戦になるなら、わざわざ旗を立てて行儀よく列なんか組まないさ」

 

 黒い獅子の旗の下、数騎の馬が前に出る。

 

 その中央にいたのは、一人の男だった。

 

 黒鉄の胸甲に、黒獅子の紋章を銀線で象った重装の戦士。だが、鎧の装飾に反して、その男の顔には貴族らしい華やかさはない。頬には古い傷跡。鼻筋は曲がり、陽に焼けた肌には無数の細かな皺が刻まれている。

 

 戦場の風に長く晒された、職業軍人の顔だ。

 

「あれが、隊長格か」

 

 シオリの視線を追うように、ヴァナネルサも目を細める。

 

「噂では、『黒獅子副隊長』ルーベン・ハルツ。農家の三男坊が、槍一本で今の地位まで上り詰めたとか」

 

「……『噂では』、な」

 

 肩をすくめつつも、シオリの目は鋭く男を観察していた。

 

 その男――ルーベンが、谷口の石垣の手前で馬を止める。彼の後ろの従騎士が、白い布を巻いた長槍を掲げた。降伏のしるしではなく、「話をしよう」の合図だ。

 

 門塔の上で、神官の一人が低く呟く。

 

「来ましたな、シオリ殿」

 

 振り向くと、そこには白髪交じりの老神官――フルゴがいた。昨日、崖の上での「祝別」を取り仕切った男だ。

 

 今日の彼は、いつもの質素な祭服ではなく、金糸を縫い込んだ正装を身につけている。それでも、その背筋の伸び方や、目の奥の光には、硬い修道者というより老獪な政治家の匂いがあった。

 

「昨日の『御業』の後で、彼らが何も見せずに退くとは思えんよ」

 

「御業じゃない」

 

 シオリは、反射的に言い返す。

 

「ただの崖崩れだ」

 

「ほう。では、『ただの崖崩れ』で敵を躊躇わせられるなら、それはそれで女神の御加護というやつでは?」

 

 フルゴは、笑っているのかどうか分からない微妙な笑みを浮かべた。

 

「どちらにせよ今日は、あなたに『立って』いただく必要がある。白い刃の巫女とやらは、昔話の中だけにいてくれた方が楽だったが……この谷は、もう選びました。あなたの剣を、借りると」

 

「人聞きが悪いな」

 

 シオリは舌打ちを飲み込み、腰の刀の柄に軽く手を添えた。

 

「借りるんじゃない。あんたらが勝手に、私の足元に土俵を描いてるだけだ」

 

「土俵の上でどう立つかを決めるのは、あなたです」

 

 フルゴは淡々と言い、石垣の上に立った。

 

 谷口の門は、街の門よりもさらに簡素だ。白い石のアーチと、その前に渡された木の柵だけ。だが、今はその前に、神官と兵士たち、そしてシオリたちが並び立っている。

 

 霧の向こうから、ルーベンの低い声が響いた。

 

「巡礼都市アルノスの代表者に告ぐ!」

 

 彼の声は、無駄がなく通る。戦場で何度も号令をかけてきた声だ。

 

「我らは、黒獅子連隊副隊長ルーベン・ハルツを先頭とする先遣隊である! 本隊は三日後、この谷に到着する予定だ!」

 

(三日後、か)

 

 シオリは、心の中でその数字をなぞる。

 

 三日。準備を整え、逃げるにも、巻き込まれるにも、あまりに短い。

 

 フルゴが、石垣の上から張りのある声で応じた。

 

「黒獅子の殿。ここは女神アルノリアの御前、巡礼者の街アルノスにございます。剣を掲げるならば、まずその目的をお聞かせ願いたい」

 

「目的は一つ」

 

 ルーベンは、わずかに口元を歪めた。

 

「ここを通る道を、『戦の道』に変えることだ」

 

 その率直さに、門の上の空気が凍る。

 

「北都摂政府の命により、この谷を押さえる。南へ抜ける山路は、反乱軍やならず者だけでなく、異端者どもの通り道にもなっていると聞く。女神の栄えある名誉のためにも、ここに王の旗と黒獅子の旗を掲げ、秩序を取り戻さねばなるまい」

 

 フルゴが、あからさまな皮肉を込めて笑った。

 

「女神の名をお借りになるとは、随分と信心深い軍勢ですな」

 

「信心はないさ」

 

 ルーベンはあっさりと言い切った。

 

「だが、上はそう言っている。命令は命令だ」

 

 そう言ってから、彼の視線がぐるりと門塔の上をなめるように動き――シオリのところで止まった。

 

 霧越しでも分かる、刃物のような視線だった。

 

「……そして、もう一つ」

 

 ルーベンは、そこで声の調子を変えた。

 

「昨夜、この谷の崖で奇妙な光が上がり、山肌が崩れ落ちるのを、うちの斥候が見ていた」

 

 門の上で、何人かが息を呑む。

 

 フルゴの隣で、若い神官――クリストフが額に汗を滲ませた。

 

「それを『女神の奇跡』と呼ぶならば、俺は笑い飛ばしてやるつもりだったが……」

 

 ルーベンは、片目だけで笑った。

 

「今、そこに立っている者を見ると、笑う気にはならなくてな」

 

 視線の先には、フードを下ろしたシオリがいた。

 

 昨日、儀式のために半ば無理やり着せられた白い祭服は、さすがに脱ぎ捨てた。今の彼女は、いつものように地味な旅装に、腰の刀だけを帯びている。

 

 それでも、黒鉄の男の目は、彼女の顔ではなく、その刃へと向かっていた。

 

「……あんたが、あの白い閃光か?」

 

 ルーベンの問いに、門の上でざわめきが走る。

 

 シオリは、しばし無言でその視線を受け止めていたが――やがて、肩をすくめた。

 

「ただの崖崩れだって話は、そっちにも伝えておいた方がいいと思うがね」

 

「へえ」

 

 ルーベンは、意外そうでも、失望した様子でもなく、素直に相槌を打った。

 

「だが、崖は都合よく落ちた。南へ続く山道の一つが、まるごと塞がれている。たまたまにしては、出来過ぎているな」

 

 そこで彼は、話の矛先を変えるように、少しだけ顎を上げた。

 

「俺は、神も奇跡も信じちゃいない。だが、山を味方につけられる者は、戦場じゃ厄介だ」

 

「買いかぶりだ」

 

 シオリは、淡々と返す。

 

「山が勝手に崩れただけ。私がやったのは……そうだな」

 

 彼女は、わざと少し考える素振りを見せてから、笑みの形だけを作った。

 

「せいぜい、その『崩れ方』を選んだ程度だ」

 

 門の上で、クリストフが冷や汗を増やす音が聞こえそうだった。

 

 フルゴは、咎めるでもなく、黙って成り行きを見守っている。

 

(これが、あんたの描いた土俵ってわけか)

 

 シオリは、老神官に聞こえないように心の中で毒づいた。

 

 ルーベンの瞳が、ほんの僅かに細くなる。

 

「崩れ方を、選んだ、ね」

 

 彼は、まるで味わうようにその言葉を繰り返した。

 

「山道を一つ潰して、谷を守ったつもりか?」

 

「守ったつもりはない」

 

 シオリは首を振る。

 

「私は、この谷が戦場になるのを避けたいだけだ。あんたらがここを通っても、通らなくても、本当はどうでもいい。ただ――」

 

 彼女の声色が、ふっと変わった。

 

 傭兵として、軍師として、幾度も最前線に立った者だけが持つ、冷たい現実の声。

 

「ここを『戦の道』に変えるって言葉、さっきあんたが使ったな」

 

「ああ」

 

「その意味を、本当に分かってるか?」

 

 門の上も、谷口の向こうも、一瞬だけ静まり返る。

 

 シオリは、石垣の上からゆっくりと身を乗り出し、黒獅子の連中を見下ろした。

 

「この谷は狭い。両側は切り立った岩壁。上から石を落とせば、馬も人もひとたまりもない」

 

「その石を落とす者が、あんたってわけか?」

 

「やろうと思えば、ね」

 

 あっさりと認める。

 

「けど、本当に怖いのはそこじゃない。あんたらは重装だ。鎧も盾も立派だ。その代わり、細い山路じゃ身動きが取れない。補給も隊列も伸びきって、後ろから前まで声も届かない」

 

 シオリは指を一本立てた。

 

「戦場で一番嫌われる地形だ。『誰がどこで死んだか、最後まで分からない谷』ってやつだ」

 

 黒獅子たちの中に、わずかなざわめきが走る。多くはまだ若い兵だ。谷底の湿った空気が、鎧の下の背筋を冷やした。

 

 ルーベンは、その反応を背中で感じ取っているはずだった。だが、彼は顔色ひとつ変えずに、ただシオリを見ている。

 

「続けろ」

 

「命じるな」

 

 シオリは、鼻で笑った。

 

「……いいか。あんたらがここを完全に押さえるには、道を広げて、崩れやすい岩を全部落とし、見張り台をつくり、谷の上の集落――つまりこの街を、兵舎に変える必要がある」

 

 彼女は、足元の石畳を軽くつま先で叩いた。

 

「それをする間、あんたらはずっと背中を晒す。南から来る敵にも、北から来る敵にも、そして、この谷の上に潜む誰かにもな」

 

「『誰か』とは?」

 

「女神様でも、昔の白刃の巫女でも、ただの剣士でも、好きに呼べばいい」

 

 シオリの目が、わずかに笑った。

 

「言いたいのは、ここを戦場に変えるのは簡単だけど、その戦場を『自分のもの』にするのは、とんでもなく手間と血がいるってことだ」

 

 ルーベンは、しばらくの間、何も言わなかった。

 

 谷の入口に立つ黒獅子の列の後ろで、風が旗をはためかせる音だけがする。

 

(さて)

 

 シオリは、心の中で息を潜めた。

 

 彼女の言葉は、信仰でも威嚇でもない。戦場の算盤だ。 

 

 黒獅子の副隊長が、それをどう受け取るか。

 

 やがて、ルーベンは、唇の端を持ち上げた。

 

「……なるほど」

 

 彼は、静かに頷いた。

 

「筋は通っている。少なくとも、お前がただの祭司見習いでも、谷の物乞いでもないことだけは、よく分かった」

 

「残念ながら、祭司見習いでも物乞いでもないんでね」

 

 シオリは肩を竦める。

 

「ただの通りすがりの剣士だ」

 

「通りすがりの、ね」

 

 ルーベンの目が、ほんの少しだけ細められた。

 

「通りすがりにしては、ずいぶんこの谷に肩入れする」

 

「私が守りたいのは、この谷じゃない」

 

 シオリは即座に否定する。

 

 言葉の途中で、隣のカリナが小さく身じろぎする気配があったが、構わず続けた。

 

「守りたいのは、『ここがまだ戦場になっていない』という状況だ。それを壊す奴がいるなら、そいつの首を落とす価値はある」

 

 門の上で、フルゴが目を見開き、やがて口元に深い皺を刻んだ。

 

 それは、笑っているとも、呆れているとも取れる表情だった。

 

(うまいこと言いましたな、という顔だな)

 

 シオリは、老神官を横目で睨みつつ、眼下の黒獅子に視線を戻した。

 

 ルーベンは、ほんの数呼吸だけ黙り込んだのち――ふと、肩の力を抜いた。

 

「……いいだろう」

 

 彼は、手綱を握ったまま、片手を軽く上げた。背後の兵たちに、槍を下ろす合図だ。

 

「今この場で、この谷に攻め入るつもりはない」

 

 門の上に、安堵と困惑がごちゃ混ぜになったざわめきが広がる。

 

 フルゴが、すかさず声を張った。

 

「では――」

 

「勘違いするなよ、老神官」

 

 ルーベンは、その言葉を遮った。

 

「命令は命令だ。本隊が来れば、俺はこの谷を押さえるための準備を始めねばならん。だが……」

 

 そこで彼は、シオリをじっと見た。

 

「お前の言う通り、谷を『戦の道』に変えるには、時間と血がいる。それを、俺の首と勲章だけで払わされるのはごめんだ」

 

 その率直さに、シオリは内心で舌を巻いた。

 

(……こいつ、嫌いじゃないな)

 

 兵を数字ではなく、自分の首の横に置いて計算するタイプだ。だからこそ生き残ってきたのだろう。

 

「だから、こうしよう」

 

 ルーベンは、提案するというより、条件を告げる口調で続けた。

 

「本隊が谷に到着してから七日間――その間、俺たちは谷の外に野営を張る。街への兵の出入りは、見張りと交渉役に限る」

 

「七日……」

 

 フルゴが、目を細める。

 

「その間に、あなた方は何をなさるおつもりで?」

 

「そっちの話だ」

 

 ルーベンは、門の上の全員に聞こえるように言った。

 

「七日のうちに、お前たちが女神とやらの『奇跡』で俺たちを追い払うなり、北の上役を説き伏せるなり、この谷を捨てて逃げ出すなり――好きにするがいい」

 

 門の上で、クリストフが絶句する。

 

「な……!」

 

「逃げ出す、とは……!」

 

 彼の抗議を、フルゴが片手の上げ下げだけで制した。

 

 老神官の目は、すでに別のものを計算している。

 

 七日。

 

 三日後に本隊が来て、その上で七日。合計十日。

 

 その間に、何ができるか。

 

「代わりと言ってはなんだが」

 

 ルーベンは、口元に皮肉な笑みを刻んだ。

 

「その七日間、俺たちはこの谷を通る他の軍勢を、北からも南からも通さない。俺たちの敵も、お前たちの敵もだ」

 

 そこで、初めてルーベンの視線が、カリナに一瞬だけ流れた。

 

 シオリの隣に控える、金髪の少女。

 

 彼女は慌てて視線を逸らしたが、その仕草には、貴族の育ちが滲んでいる。

 

(……気づいたか)

 

 シオリは、目を細める。

 

 ルーベンの舌の上で、「異端者」「逃亡者」という言葉が、まだ形を成していないのが救いだった。

 

「俺たちは、金で動く傭兵だ」

 

 ルーベンは、言葉を締めくくるように言った。

 

「この谷を押さえろと言われれば押さえる。だが、意味もなく血を流すのは、契約外だ」

 

 シオリは、鼻で笑った。

 

「立派な信条だ。女神様より話が通じる」

 

「悪いが、祈る相手は財布だけでね」

 

 ルーベンも、同じように笑った。

 

 そのやり取りを見ていたフルゴが、一歩前へ出る。

 

「では、その条件、受け入れましょう」

 

 老神官は、深く頷いた。

 

「七日の間、我らは女神の名の下に、この谷を守る術を探る。そして七日後――」

 

 そこで彼は、ちらりとシオリを見た。

 

「七日後の朝、もう一度この門で話し合いましょう。その時、どちらが『戦の道』を選ぶのかを」

 

「いいだろう」

 

 ルーベンは、馬上で軽く頭を下げた。

 

「七日後だ、白い刃の嬢ちゃん」

 

「だから、巫女じゃないって言ってるだろう」

 

 シオリは、うんざりしたように眉をひそめた。

 

「ただの剣士だ」

 

「名前は?」

 

 唐突な問いに、門の上の空気が固まる。

 

 シオリは、一瞬だけ口を噤み、それから短く答えた。

 

「シオリ」

 

「……ふうん」

 

 ルーベンは、その名を一度だけ口の中で転がした。

 

「いい名だ。覚えておく」

 

 そう言うと、彼は馬首を返す。

 

 黒獅子の兵たちが、一斉に隊列を整え、谷の外へと引いていった。

 

 門塔の上に、ようやく大きな息が吐き出される。

 

「……はああああああ……」

 

 カリナが、腰から力が抜けるようにその場にへたり込みそうになったのを、ヴァナネルサが慌てて支えた。

 

「し、シオリさん……すご……」

 

「褒めるな」

 

 シオリは、刀の柄から手を離し、こわばった指をぐっと握りしめた。

 

 掌に、じっとりと汗が滲んでいる。

 

(斬った方が楽だ、なんて考えるあたり、まだまだだな)

 

 己の中に残る古い癖を、苦く笑って噛み殺す。

 

 フルゴが、静かに近づいてきた。

 

「お見事でしたな、シオリ殿」

 

「褒めなくていい」

 

「いいえ、褒めましょう」

 

 老神官は、珍しくはっきりと笑った。

 

「あなたは、剣を抜かずに、この谷に十日の猶予をもたらした。戦場の神より、よほど慈悲深い働きです」

 

「慈悲深いかどうかは知らんが」

 

 シオリは、谷口の向こうに遠ざかる黒獅子の列を見つめた。

 

「あいつの言葉にも、嘘はなかった。十日の間、この谷は『どちらの側の戦場にもならない』ってことだ」

 

 それは、彼女にとっても都合がいい。

 

 十日。

 

 南へ抜ける巡礼路の準備を整え、カリナとヴァナネルサを連れてここを離れるには、ぎりぎりの時間だ。

 

 フルゴは、その計算を読み取ったように、ゆっくりと頷いた。

 

「……南への大巡礼団は、四日後に出立する予定です」

 

 彼は、小声で告げる。

 

「本来ならば半年先の行列でしたが、女神の『御業』のおかげで、信徒たちが我先にと集まっておりましてな。多少無理をすれば、あなた方をその一行に紛れ込ませることもできましょう」

 

「『御業』じゃない」

 

 シオリは、反射的に繰り返す。

 

 だが、今度の声には、ほんの少しだけ力が抜けていた。

 

「……まあ、勝手にそう呼べばいいさ。その代わり、道中の面倒は見てもらう」

 

「ええ。女神と、この老いぼれの名にかけて」

 

 フルゴは、胸に手を当てて一礼した。

 

 その姿は、祭司というより、老いた策士のそれだった。

 

 

 門塔から降り、街の石段を下る途中で、カリナがようやく口を開いた。

 

「シオリさん……」

 

「ん」

 

「さっき、黒獅子の方に、ああやって言ってくださって……ありがとうございます」

 

「何をだ」

 

「この街を……いえ」

 

 カリナは、言い淀んでから、真っ直ぐにシオリを見上げた。

 

「わたしたちの逃げ道を、守ってくださったことを、です」

 

 その言葉は、無邪気な賛辞ではなかった。

 

 昨夜、崖の上で剣を掲げたシオリの背中。

 今朝、谷の入口で黒鉄の軍勢と向き合った彼女の姿。

 

 どちらも、カリナの目に深く刻まれている。

 

「シオリさんは、『この谷が戦場になるのを嫌がっているだけ』とおっしゃいましたけど……」

 

 カリナは、ぎゅっと木札を握りしめた。

 

「わたしには、シオリさんが、戦場以外の場所を守ろうとしているように見えました」

 

「……言葉遊びがうまくなったな、姫君」

 

 シオリは、わざとらしく肩をすくめた。

 

「守りたいものが増えると、剣は鈍るって、昨日も言ったばかりだぞ」

 

「はい」

 

 カリナは、即座に頷いた。

 

「でも、鈍った剣で、さっきみたいに戦場を遠ざけられるなら……わたしは、その剣の方が好きです」

 

 その無防備な言葉に、シオリは一瞬だけ足を止めた。

 

 胸の奥で、亡霊の声がよみがえる。

 

『……守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか……』

 

 ハヤテの嘲り。

 

 それとは正反対の重みを持って、カリナの言葉が心に落ちる。

 

(成り下がった、か)

 

 シオリは、小さく息を吐いた。

 

「生憎、私はお前の好みに合わせて剣を振るう趣味はない」

 

 そう言いつつも、その声に刺々しさはなかった。

 

 ヴァナネルサが、後ろから静かに笑う。

 

「ですが、シオリ殿。今日のあなたの剣――いや、言葉は、私から見ても、以前よりずっと『重く』なっておられました」

 

「重い?」

 

「はい。人ひとり斬る斬らないの重さではなく……」

 

 ヴァナネルサは、空を見上げるように眼を細めた。

 

「十日の時間と、一つの谷の平穏を背負った重さです」

 

 シオリは、思わず苦笑する。

 

「……褒めるなと言っただろうに」

 

「申し訳ありません。騎士は、讃えるべきものを見れば、口が勝手に」

 

「猫のくせに、口まで勝手に動くのか」

 

 軽口を交わしながらも、三人の足取りは早かった。

 

 十日。

 

 それは、彼らが『戦場になっていない場所』を選び続けるために与えられた、短く、しかし確かな猶予だ。

 

 シオリは、腰の刀の重みを確かめるように手を添える。

 

 斬るためだけに研いできた刃。

 

 今、その刃は、別の使い方を要求されている。

 

(――いいだろう)

 

 彼女は、心の中でだけ、静かに呟いた。

 

(戦場の外での勝ち方くらい、一本くらい、覚えてみせるさ)

 

 谷の上では、女神像の白い剣が、朝日を受けて静かに光っていた。

 

 その下で、黒獅子の旗が遠くで揺れ、街の中では巡礼者たちのざわめきが戻り始める。

 

 まだ、ここは戦場ではない。

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