戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
朝靄を割るように、低く長い角笛の音が谷に響いた。
アルノスの街に住む者なら誰もが聞き覚えのある、防塁の警鐘とは違う音色だった。戦の匂いを連れてくる、鉄の音。
シオリは、宿の細い寝台の上で目を開けた。
眠りは浅かった。昨夜、身体は疲れ切っているはずなのに、瞼の裏には何度も同じ光景が再生されていたからだ。
崖の上で掲げた剣。
白い光と共に、山肌が崩れ落ちる。
誰かが上げた「奇跡だ」という叫び。
あれは奇跡でも何でもない。
岩の亀裂と、水脈と、重心。
斬るべき一点を見極めただけだ。
――そう理屈では分かっているのに、胸の奥に、いつもと違う鈍い余韻が残っている。
(人を斬らずに済んだ、ってだけで、こんなに疲れるとはな)
自嘲して起き上がる前に、角笛の第二声が、今度はやや近く、はっきりと届いた。
続いて、遠くから聞こえる鐘の音。門の上からだ。
「……起きろ、二人とも」
シオリは、隣の寝台の足元を軽く蹴った。
毛布の山がもぞもぞと動き、金髪が覗く。
「う、うう……もう朝……?」
「朝どころか、騒がしい朝だ。門で何かあった」
ヴァナネルサも、すでに上体を起こしていた。猫耳を隠す布を探しながら、細い瞳を窓の外へ向ける。
「角笛の音……敵襲、というより、『客人』でしょうな」
「黒獅子か」
シオリの呟きに、部屋の空気が僅かに引き締まった。
昨夜、神殿の上層から見下ろした谷口。そこに、黒い獅子の紋章を掲げた軍勢の焚き火が、星と混じって瞬いていた。
その影が、ついに門まで来たのだ。
*
門塔の上は、すでに人で埋まっていた。
神殿の白い法衣をまとった神官たち、槍を構えた街の自警兵、それに目を凝らすだけの市井の者たち。狭い城壁の上に、ぎゅうぎゅうと押し寄せている。
その中で、フードを目深にかぶったシオリたち三人は、比較的目立たぬ場所を確保していた。
谷の入口は霧に包まれている。だが、朝日が差し込む角度が変わるにつれ、その白い帳の向こうに、黒い影が浮かび上がっていく。
獅子の紋章を染め抜いた旗。
黒鉄の鎧をまとった歩兵の列。
馬の吐く白い息。
数こそ大軍というほどではない。先遣隊だろう。それでも、この狭い谷口には、十分すぎる圧力だった。
「……あれが、黒獅子の傭兵団……」
カリナが、小さく息を呑む。
偽名の「カリン」は、昨夜神殿での話し合いののち、その場では封印されていた。今、彼女の横顔に宿る緊張は、田舎娘の巡礼という仮面では隠しきれない。
「正確には、『黒獅子連隊』の一部ですな」
ヴァナネルサが、低く答える。
「王都近衛の一角から派生した重装歩兵部隊。今は摂政派の主力として、各地の戦で名を上げている……と聞き及びます」
「聞き及ぶ、ね」
シオリは、谷口の軍列を測るように見やる。
陣形、装備の汚れ具合、馬の痩せ方。
それらを一つ一つ拾って、頭の中で数字に変換していく。
「……兵の質は悪くない。歩兵はよく鍛えられてるし、補給もまだ切れてない。無理攻めを仕掛けてくる連中じゃない」
「では、交渉に来たと?」
「最初から戦になるなら、わざわざ旗を立てて行儀よく列なんか組まないさ」
黒い獅子の旗の下、数騎の馬が前に出る。
その中央にいたのは、一人の男だった。
黒鉄の胸甲に、黒獅子の紋章を銀線で象った重装の戦士。だが、鎧の装飾に反して、その男の顔には貴族らしい華やかさはない。頬には古い傷跡。鼻筋は曲がり、陽に焼けた肌には無数の細かな皺が刻まれている。
戦場の風に長く晒された、職業軍人の顔だ。
「あれが、隊長格か」
シオリの視線を追うように、ヴァナネルサも目を細める。
「噂では、『黒獅子副隊長』ルーベン・ハルツ。農家の三男坊が、槍一本で今の地位まで上り詰めたとか」
「……『噂では』、な」
肩をすくめつつも、シオリの目は鋭く男を観察していた。
その男――ルーベンが、谷口の石垣の手前で馬を止める。彼の後ろの従騎士が、白い布を巻いた長槍を掲げた。降伏のしるしではなく、「話をしよう」の合図だ。
門塔の上で、神官の一人が低く呟く。
「来ましたな、シオリ殿」
振り向くと、そこには白髪交じりの老神官――フルゴがいた。昨日、崖の上での「祝別」を取り仕切った男だ。
今日の彼は、いつもの質素な祭服ではなく、金糸を縫い込んだ正装を身につけている。それでも、その背筋の伸び方や、目の奥の光には、硬い修道者というより老獪な政治家の匂いがあった。
「昨日の『御業』の後で、彼らが何も見せずに退くとは思えんよ」
「御業じゃない」
シオリは、反射的に言い返す。
「ただの崖崩れだ」
「ほう。では、『ただの崖崩れ』で敵を躊躇わせられるなら、それはそれで女神の御加護というやつでは?」
フルゴは、笑っているのかどうか分からない微妙な笑みを浮かべた。
「どちらにせよ今日は、あなたに『立って』いただく必要がある。白い刃の巫女とやらは、昔話の中だけにいてくれた方が楽だったが……この谷は、もう選びました。あなたの剣を、借りると」
「人聞きが悪いな」
シオリは舌打ちを飲み込み、腰の刀の柄に軽く手を添えた。
「借りるんじゃない。あんたらが勝手に、私の足元に土俵を描いてるだけだ」
「土俵の上でどう立つかを決めるのは、あなたです」
フルゴは淡々と言い、石垣の上に立った。
谷口の門は、街の門よりもさらに簡素だ。白い石のアーチと、その前に渡された木の柵だけ。だが、今はその前に、神官と兵士たち、そしてシオリたちが並び立っている。
霧の向こうから、ルーベンの低い声が響いた。
「巡礼都市アルノスの代表者に告ぐ!」
彼の声は、無駄がなく通る。戦場で何度も号令をかけてきた声だ。
「我らは、黒獅子連隊副隊長ルーベン・ハルツを先頭とする先遣隊である! 本隊は三日後、この谷に到着する予定だ!」
(三日後、か)
シオリは、心の中でその数字をなぞる。
三日。準備を整え、逃げるにも、巻き込まれるにも、あまりに短い。
フルゴが、石垣の上から張りのある声で応じた。
「黒獅子の殿。ここは女神アルノリアの御前、巡礼者の街アルノスにございます。剣を掲げるならば、まずその目的をお聞かせ願いたい」
「目的は一つ」
ルーベンは、わずかに口元を歪めた。
「ここを通る道を、『戦の道』に変えることだ」
その率直さに、門の上の空気が凍る。
「北都摂政府の命により、この谷を押さえる。南へ抜ける山路は、反乱軍やならず者だけでなく、異端者どもの通り道にもなっていると聞く。女神の栄えある名誉のためにも、ここに王の旗と黒獅子の旗を掲げ、秩序を取り戻さねばなるまい」
フルゴが、あからさまな皮肉を込めて笑った。
「女神の名をお借りになるとは、随分と信心深い軍勢ですな」
「信心はないさ」
ルーベンはあっさりと言い切った。
「だが、上はそう言っている。命令は命令だ」
そう言ってから、彼の視線がぐるりと門塔の上をなめるように動き――シオリのところで止まった。
霧越しでも分かる、刃物のような視線だった。
「……そして、もう一つ」
ルーベンは、そこで声の調子を変えた。
「昨夜、この谷の崖で奇妙な光が上がり、山肌が崩れ落ちるのを、うちの斥候が見ていた」
門の上で、何人かが息を呑む。
フルゴの隣で、若い神官――クリストフが額に汗を滲ませた。
「それを『女神の奇跡』と呼ぶならば、俺は笑い飛ばしてやるつもりだったが……」
ルーベンは、片目だけで笑った。
「今、そこに立っている者を見ると、笑う気にはならなくてな」
視線の先には、フードを下ろしたシオリがいた。
昨日、儀式のために半ば無理やり着せられた白い祭服は、さすがに脱ぎ捨てた。今の彼女は、いつものように地味な旅装に、腰の刀だけを帯びている。
それでも、黒鉄の男の目は、彼女の顔ではなく、その刃へと向かっていた。
「……あんたが、あの白い閃光か?」
ルーベンの問いに、門の上でざわめきが走る。
シオリは、しばし無言でその視線を受け止めていたが――やがて、肩をすくめた。
「ただの崖崩れだって話は、そっちにも伝えておいた方がいいと思うがね」
「へえ」
ルーベンは、意外そうでも、失望した様子でもなく、素直に相槌を打った。
「だが、崖は都合よく落ちた。南へ続く山道の一つが、まるごと塞がれている。たまたまにしては、出来過ぎているな」
そこで彼は、話の矛先を変えるように、少しだけ顎を上げた。
「俺は、神も奇跡も信じちゃいない。だが、山を味方につけられる者は、戦場じゃ厄介だ」
「買いかぶりだ」
シオリは、淡々と返す。
「山が勝手に崩れただけ。私がやったのは……そうだな」
彼女は、わざと少し考える素振りを見せてから、笑みの形だけを作った。
「せいぜい、その『崩れ方』を選んだ程度だ」
門の上で、クリストフが冷や汗を増やす音が聞こえそうだった。
フルゴは、咎めるでもなく、黙って成り行きを見守っている。
(これが、あんたの描いた土俵ってわけか)
シオリは、老神官に聞こえないように心の中で毒づいた。
ルーベンの瞳が、ほんの僅かに細くなる。
「崩れ方を、選んだ、ね」
彼は、まるで味わうようにその言葉を繰り返した。
「山道を一つ潰して、谷を守ったつもりか?」
「守ったつもりはない」
シオリは首を振る。
「私は、この谷が戦場になるのを避けたいだけだ。あんたらがここを通っても、通らなくても、本当はどうでもいい。ただ――」
彼女の声色が、ふっと変わった。
傭兵として、軍師として、幾度も最前線に立った者だけが持つ、冷たい現実の声。
「ここを『戦の道』に変えるって言葉、さっきあんたが使ったな」
「ああ」
「その意味を、本当に分かってるか?」
門の上も、谷口の向こうも、一瞬だけ静まり返る。
シオリは、石垣の上からゆっくりと身を乗り出し、黒獅子の連中を見下ろした。
「この谷は狭い。両側は切り立った岩壁。上から石を落とせば、馬も人もひとたまりもない」
「その石を落とす者が、あんたってわけか?」
「やろうと思えば、ね」
あっさりと認める。
「けど、本当に怖いのはそこじゃない。あんたらは重装だ。鎧も盾も立派だ。その代わり、細い山路じゃ身動きが取れない。補給も隊列も伸びきって、後ろから前まで声も届かない」
シオリは指を一本立てた。
「戦場で一番嫌われる地形だ。『誰がどこで死んだか、最後まで分からない谷』ってやつだ」
黒獅子たちの中に、わずかなざわめきが走る。多くはまだ若い兵だ。谷底の湿った空気が、鎧の下の背筋を冷やした。
ルーベンは、その反応を背中で感じ取っているはずだった。だが、彼は顔色ひとつ変えずに、ただシオリを見ている。
「続けろ」
「命じるな」
シオリは、鼻で笑った。
「……いいか。あんたらがここを完全に押さえるには、道を広げて、崩れやすい岩を全部落とし、見張り台をつくり、谷の上の集落――つまりこの街を、兵舎に変える必要がある」
彼女は、足元の石畳を軽くつま先で叩いた。
「それをする間、あんたらはずっと背中を晒す。南から来る敵にも、北から来る敵にも、そして、この谷の上に潜む誰かにもな」
「『誰か』とは?」
「女神様でも、昔の白刃の巫女でも、ただの剣士でも、好きに呼べばいい」
シオリの目が、わずかに笑った。
「言いたいのは、ここを戦場に変えるのは簡単だけど、その戦場を『自分のもの』にするのは、とんでもなく手間と血がいるってことだ」
ルーベンは、しばらくの間、何も言わなかった。
谷の入口に立つ黒獅子の列の後ろで、風が旗をはためかせる音だけがする。
(さて)
シオリは、心の中で息を潜めた。
彼女の言葉は、信仰でも威嚇でもない。戦場の算盤だ。
黒獅子の副隊長が、それをどう受け取るか。
やがて、ルーベンは、唇の端を持ち上げた。
「……なるほど」
彼は、静かに頷いた。
「筋は通っている。少なくとも、お前がただの祭司見習いでも、谷の物乞いでもないことだけは、よく分かった」
「残念ながら、祭司見習いでも物乞いでもないんでね」
シオリは肩を竦める。
「ただの通りすがりの剣士だ」
「通りすがりの、ね」
ルーベンの目が、ほんの少しだけ細められた。
「通りすがりにしては、ずいぶんこの谷に肩入れする」
「私が守りたいのは、この谷じゃない」
シオリは即座に否定する。
言葉の途中で、隣のカリナが小さく身じろぎする気配があったが、構わず続けた。
「守りたいのは、『ここがまだ戦場になっていない』という状況だ。それを壊す奴がいるなら、そいつの首を落とす価値はある」
門の上で、フルゴが目を見開き、やがて口元に深い皺を刻んだ。
それは、笑っているとも、呆れているとも取れる表情だった。
(うまいこと言いましたな、という顔だな)
シオリは、老神官を横目で睨みつつ、眼下の黒獅子に視線を戻した。
ルーベンは、ほんの数呼吸だけ黙り込んだのち――ふと、肩の力を抜いた。
「……いいだろう」
彼は、手綱を握ったまま、片手を軽く上げた。背後の兵たちに、槍を下ろす合図だ。
「今この場で、この谷に攻め入るつもりはない」
門の上に、安堵と困惑がごちゃ混ぜになったざわめきが広がる。
フルゴが、すかさず声を張った。
「では――」
「勘違いするなよ、老神官」
ルーベンは、その言葉を遮った。
「命令は命令だ。本隊が来れば、俺はこの谷を押さえるための準備を始めねばならん。だが……」
そこで彼は、シオリをじっと見た。
「お前の言う通り、谷を『戦の道』に変えるには、時間と血がいる。それを、俺の首と勲章だけで払わされるのはごめんだ」
その率直さに、シオリは内心で舌を巻いた。
(……こいつ、嫌いじゃないな)
兵を数字ではなく、自分の首の横に置いて計算するタイプだ。だからこそ生き残ってきたのだろう。
「だから、こうしよう」
ルーベンは、提案するというより、条件を告げる口調で続けた。
「本隊が谷に到着してから七日間――その間、俺たちは谷の外に野営を張る。街への兵の出入りは、見張りと交渉役に限る」
「七日……」
フルゴが、目を細める。
「その間に、あなた方は何をなさるおつもりで?」
「そっちの話だ」
ルーベンは、門の上の全員に聞こえるように言った。
「七日のうちに、お前たちが女神とやらの『奇跡』で俺たちを追い払うなり、北の上役を説き伏せるなり、この谷を捨てて逃げ出すなり――好きにするがいい」
門の上で、クリストフが絶句する。
「な……!」
「逃げ出す、とは……!」
彼の抗議を、フルゴが片手の上げ下げだけで制した。
老神官の目は、すでに別のものを計算している。
七日。
三日後に本隊が来て、その上で七日。合計十日。
その間に、何ができるか。
「代わりと言ってはなんだが」
ルーベンは、口元に皮肉な笑みを刻んだ。
「その七日間、俺たちはこの谷を通る他の軍勢を、北からも南からも通さない。俺たちの敵も、お前たちの敵もだ」
そこで、初めてルーベンの視線が、カリナに一瞬だけ流れた。
シオリの隣に控える、金髪の少女。
彼女は慌てて視線を逸らしたが、その仕草には、貴族の育ちが滲んでいる。
(……気づいたか)
シオリは、目を細める。
ルーベンの舌の上で、「異端者」「逃亡者」という言葉が、まだ形を成していないのが救いだった。
「俺たちは、金で動く傭兵だ」
ルーベンは、言葉を締めくくるように言った。
「この谷を押さえろと言われれば押さえる。だが、意味もなく血を流すのは、契約外だ」
シオリは、鼻で笑った。
「立派な信条だ。女神様より話が通じる」
「悪いが、祈る相手は財布だけでね」
ルーベンも、同じように笑った。
そのやり取りを見ていたフルゴが、一歩前へ出る。
「では、その条件、受け入れましょう」
老神官は、深く頷いた。
「七日の間、我らは女神の名の下に、この谷を守る術を探る。そして七日後――」
そこで彼は、ちらりとシオリを見た。
「七日後の朝、もう一度この門で話し合いましょう。その時、どちらが『戦の道』を選ぶのかを」
「いいだろう」
ルーベンは、馬上で軽く頭を下げた。
「七日後だ、白い刃の嬢ちゃん」
「だから、巫女じゃないって言ってるだろう」
シオリは、うんざりしたように眉をひそめた。
「ただの剣士だ」
「名前は?」
唐突な問いに、門の上の空気が固まる。
シオリは、一瞬だけ口を噤み、それから短く答えた。
「シオリ」
「……ふうん」
ルーベンは、その名を一度だけ口の中で転がした。
「いい名だ。覚えておく」
そう言うと、彼は馬首を返す。
黒獅子の兵たちが、一斉に隊列を整え、谷の外へと引いていった。
門塔の上に、ようやく大きな息が吐き出される。
「……はああああああ……」
カリナが、腰から力が抜けるようにその場にへたり込みそうになったのを、ヴァナネルサが慌てて支えた。
「し、シオリさん……すご……」
「褒めるな」
シオリは、刀の柄から手を離し、こわばった指をぐっと握りしめた。
掌に、じっとりと汗が滲んでいる。
(斬った方が楽だ、なんて考えるあたり、まだまだだな)
己の中に残る古い癖を、苦く笑って噛み殺す。
フルゴが、静かに近づいてきた。
「お見事でしたな、シオリ殿」
「褒めなくていい」
「いいえ、褒めましょう」
老神官は、珍しくはっきりと笑った。
「あなたは、剣を抜かずに、この谷に十日の猶予をもたらした。戦場の神より、よほど慈悲深い働きです」
「慈悲深いかどうかは知らんが」
シオリは、谷口の向こうに遠ざかる黒獅子の列を見つめた。
「あいつの言葉にも、嘘はなかった。十日の間、この谷は『どちらの側の戦場にもならない』ってことだ」
それは、彼女にとっても都合がいい。
十日。
南へ抜ける巡礼路の準備を整え、カリナとヴァナネルサを連れてここを離れるには、ぎりぎりの時間だ。
フルゴは、その計算を読み取ったように、ゆっくりと頷いた。
「……南への大巡礼団は、四日後に出立する予定です」
彼は、小声で告げる。
「本来ならば半年先の行列でしたが、女神の『御業』のおかげで、信徒たちが我先にと集まっておりましてな。多少無理をすれば、あなた方をその一行に紛れ込ませることもできましょう」
「『御業』じゃない」
シオリは、反射的に繰り返す。
だが、今度の声には、ほんの少しだけ力が抜けていた。
「……まあ、勝手にそう呼べばいいさ。その代わり、道中の面倒は見てもらう」
「ええ。女神と、この老いぼれの名にかけて」
フルゴは、胸に手を当てて一礼した。
その姿は、祭司というより、老いた策士のそれだった。
◇
門塔から降り、街の石段を下る途中で、カリナがようやく口を開いた。
「シオリさん……」
「ん」
「さっき、黒獅子の方に、ああやって言ってくださって……ありがとうございます」
「何をだ」
「この街を……いえ」
カリナは、言い淀んでから、真っ直ぐにシオリを見上げた。
「わたしたちの逃げ道を、守ってくださったことを、です」
その言葉は、無邪気な賛辞ではなかった。
昨夜、崖の上で剣を掲げたシオリの背中。
今朝、谷の入口で黒鉄の軍勢と向き合った彼女の姿。
どちらも、カリナの目に深く刻まれている。
「シオリさんは、『この谷が戦場になるのを嫌がっているだけ』とおっしゃいましたけど……」
カリナは、ぎゅっと木札を握りしめた。
「わたしには、シオリさんが、戦場以外の場所を守ろうとしているように見えました」
「……言葉遊びがうまくなったな、姫君」
シオリは、わざとらしく肩をすくめた。
「守りたいものが増えると、剣は鈍るって、昨日も言ったばかりだぞ」
「はい」
カリナは、即座に頷いた。
「でも、鈍った剣で、さっきみたいに戦場を遠ざけられるなら……わたしは、その剣の方が好きです」
その無防備な言葉に、シオリは一瞬だけ足を止めた。
胸の奥で、亡霊の声がよみがえる。
『……守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか……』
ハヤテの嘲り。
それとは正反対の重みを持って、カリナの言葉が心に落ちる。
(成り下がった、か)
シオリは、小さく息を吐いた。
「生憎、私はお前の好みに合わせて剣を振るう趣味はない」
そう言いつつも、その声に刺々しさはなかった。
ヴァナネルサが、後ろから静かに笑う。
「ですが、シオリ殿。今日のあなたの剣――いや、言葉は、私から見ても、以前よりずっと『重く』なっておられました」
「重い?」
「はい。人ひとり斬る斬らないの重さではなく……」
ヴァナネルサは、空を見上げるように眼を細めた。
「十日の時間と、一つの谷の平穏を背負った重さです」
シオリは、思わず苦笑する。
「……褒めるなと言っただろうに」
「申し訳ありません。騎士は、讃えるべきものを見れば、口が勝手に」
「猫のくせに、口まで勝手に動くのか」
軽口を交わしながらも、三人の足取りは早かった。
十日。
それは、彼らが『戦場になっていない場所』を選び続けるために与えられた、短く、しかし確かな猶予だ。
シオリは、腰の刀の重みを確かめるように手を添える。
斬るためだけに研いできた刃。
今、その刃は、別の使い方を要求されている。
(――いいだろう)
彼女は、心の中でだけ、静かに呟いた。
(戦場の外での勝ち方くらい、一本くらい、覚えてみせるさ)
谷の上では、女神像の白い剣が、朝日を受けて静かに光っていた。
その下で、黒獅子の旗が遠くで揺れ、街の中では巡礼者たちのざわめきが戻り始める。
まだ、ここは戦場ではない。