戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
夜の大聖堂は、昼間よりもなお人の気配に満ちていた。
祈りのささやきも、聖歌もない。ただ、厚い石壁に囲まれた空間を、蝋燭の炎が静かに揺らし、長椅子の影を長く引き伸ばしている。
その一角、聖堂奥の脇廊下――
暗がりに溶けるように身を伏せている影がひとつあった。
ヴァナネルサだ。
壁際の装飾棚と柱の間に身体を滑り込ませ、猫科の獣人特有の柔らかい背骨を目一杯しならせる。外套の裾が床を擦らないよう指で摘み上げながら、耳だけをそっと前へ向けた。
廊下の先、開け放たれた扉の向こうから、男たちの声が届いてくる。
ひとつは、澄んだ、よく通る老いた声。もうひとつは、低く押し殺した、戦場で鍛えられた胸板から響く声だ。
(さて……お偉方の「本音」というやつ、聞かせていただきましょうか)
ヴァナネルサは、口の端だけで小さく笑うと、息を詰めて耳を澄ませた。
部屋の中では、大司教と黒獅子騎兵団団長グラズが向かい合っていた。
簡素な木机の上には、アルノス近辺の地図が広げられている。山と谷、巡礼路と交易路。その上を、グラズのごつい手がなぞった。
「……神前裁判の結果は尊重しよう」
グラズの声は、意外なほどあっさりしていた。
「三日以内に、この街から兵を引く。それが『神の前で交わした約束』だったな」
「ありがたく存じます、グラズ殿」
大司教は手を組み、静かに頭を垂れた。
ヴァナネルサは、そこで眉をひとつ上げる。
(ふむ。ここまでは、表向きの話通り、でございますな)
だが、グラズの次の言葉を聞いて、その耳がぴくりと動いた。
「――だが、全部隊を引くとは言っていない」
長い沈黙が落ちた。
聖堂の高い天井のどこかで、蝋がぱたりと落ちる音だけが響く。
ややあって、大司教が目を細めた。
「……どういうことでございましょう?」
「簡単な話だ」
グラズは、指先で地図の上のアルノスの印を軽く叩く。
「本隊は山を下り、王都へ戻る。だが、街道と山道の治安維持を名目に、小隊をいくつか残す。旗も鎧もそのままに、だ。書状の上では『街を離れた』ことになるが、実際には、この谷は黒獅子の喉元に繋がれたままになる」
大司教の掌が、僅かに強張った。
「……占領、と取られても仕方のない策でございますな」
「占領などと大げさな」
グラズは、肩を竦めて見せる。
「山賊が増えているのは事実だろう? 税の取り立てもままならぬと、あなた方の部下が愚痴っていた。そこで我々が『協力』を申し出ているだけだ。山賊どもを狩り、税の徴収も代行する。女神と王の名において秩序を保つ――都合の悪い話ではあるまい」
大司教は、机に置いた自らの指先をじっと見つめた。
爪の下に刻まれた墨の跡が、齢を感じさせる。
「……確かに、我らだけでは手に余ることも多うございます」
「そういうことだ」
グラズは、薄い笑みを浮かべた。
「あなた方は『神前裁判の結果を受けて騎兵団を退去させた』と民に示せる。我々は、『神の裁きに従いながらも、この街を守るために残った忠義ある兵』になる。どちらにとっても、悪くない筋書きだ」
「ただし」
と、大司教は目を上げた。
「それでは、神の名のもとに行った裁きが、方便に堕ちてしまいます」
「方便で何が悪い」
グラズの声が、低く笑った。
「民は結果しか見ない。谷が飢えず、街道が血で染まらぬなら、誰がどんな言葉でそれを飾ろうと、構いはしないさ」
そして、今度は自らの言葉に、わずかな毒を混ぜた。
「行き違いがあるとすれば――あなた方が、あの『白刃の巫女』をどう扱うつもりか、という点だけだ」
ヴァナネルサの耳が、ぴくりと動いた。
大司教は、わずかに目を伏せる。
「……あれは、神の御業にございません」
「だろうな」
グラズはあっさり頷いた。
「だが、民はそうは思わん。神前裁判で一滴の血も流さず副団長を膝づかせた『白刃』。あれは、もう神話の登場人物だ」
彼は、机の上の地図を指先でくるりとなぞる。
「巫女とやらは、おそらく近いうちにこの街を発つつもりだろう。だが、祭りと出陣の場に姿を見せてもらうくらいは、構うまい?」
「……出陣の場?」
「そう遠くないうちに、南の山賊どもを叩きに出る」
グラズの瞳が、冷たく光った。
「そのとき、大聖堂の前で出陣式を行うつもりだ。民を集め、『神前裁判の結果に従い、黒獅子は山賊を討つ』とな。白刃の巫女がその場で剣を掲げれば、谷の者どもは安心するだろう。『神に選ばれた剣』が哨戒に出た、と」
大司教は、眼鏡のない鼻梁を指で押さえた。
「……彼女は、あくまで通りすがりの旅人にございます」
「通りすがりかどうかなど、民には関係ない」
グラズは、肩を竦めた。
「今、ここにいる。剣を振るえる。その事実だけが重要だ。あなた方も、神殿の権威を繋ぎ止めるには、あの白刃を利用した方がいいと、分かっておられるはずだ」
「利用、ですか」
「そうだ」
グラズはあっさりと言い切った。
「我々は王の権威を、あなた方は神の権威を利用する。巫女と呼ばれようが、巫女の皮を被った人斬りだろうが、構わんさ。必要なのは『象徴』だ」
その言葉に、大司教の喉仏がかすかに上下した。
やがて、彼は静かに目を閉じる。
「……分かりました」
掠れた声だった。
「白刃の巫女殿には、わたくしから丁重に頼んでみましょう。祭礼と出陣式、その場にお立ちいただけるように」
「話が早くて助かる」
グラズは満足そうに立ち上がった。
「これで、神も王も、谷も山も、しばしは安泰というわけだ」
足音が近づいてくる。
ヴァナネルサは、それを合図に、猫らしい柔らかな足取りで、その場からすっと身を引いた。
廊下の暗がりに溶け込み、別の階段へ。
誰にも気づかれぬよう、夜の大聖堂を後にする。
(……やれやれ)
冷えた夜気が頬を撫でた瞬間、ヴァナネルサは、ようやく息を吐き出した。
「勝っても、駄目でございますか」
誰もいない石段の上で、彼は小さく肩をすくめる。
「いやはや、本当に厄介な連中で」
黒獅子と神殿。
表では手を組み、裏では互いの首筋に刃を当て合う。
そのどちらも、シオリたちを「便利な駒」として数え始めている。
ヴァナネルサは、暗い谷底へと続く石段を見下ろした。
(これは、急ぎお伝えしませんとね)
*
白刃亭の一室。
窓の外では、谷間を渡る夜風が洗濯物を揺らしている。
薄い壁越しに聞こえるのは、酒場のざわめきと、疲れ切った巡礼者たちの寝息だ。
その中で、シオリだけが瞼を閉じずにいた。
寝台の縁に腰かけ、膝の上に愛刀を置く。鞘に布切れを巻き付け、余分な血と脂を拭い取っていく。その手つきは、儀式にも似て静かだった。
扉が、二度、控えめに叩かれる。
「……入れ」
シオリが短く答えると、ヴァナネルサがそっと姿を滑り込ませた。
フードを脱いだ顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。だが、耳の先だけは、わずかに緊張に尖っていた。
「お帰りなさい、ヴァル」
カリナが、寝台の上で膝を抱えたまま身を起こす。
「どうでしたか……?」
「良い知らせと、悪い知らせがございます」
ヴァナネルサは、軽く両手を広げた。
「まずは良い方から。黒獅子騎兵団、本隊は予定通り三日以内にアルノスを離れるとのことで」
「……本当ですの?」
カリナの顔に、ぱっと安堵の色が差した。
しかし、その瞬間、シオリの脳裏には、ヴァナネルサの言葉の続きがもう見えていた。
「悪い方を聞く前に、顔を緩めるな」
彼女は、愛刀の柄から布を離しながら呟く。
「ヴァルがわざわざ『良い方から』と言ったってことは、最後に笑えない話が来るってことだ」
「さすがでございます」
ヴァナネルサは、肩を竦め、片手をひらひらと振った。
「では、悪い知らせを。――本隊は山を下りますが、一部の部隊は『治安維持』の名目で、この谷に残るそうで」
カリナの顔から、安堵の色がすうっと引いていった。
「残る……? でも、神前裁判で……」
「『黒獅子騎兵団は、三日以内にアルノスを退去する』」
ヴァナネルサは、手振りを交えながら、グラズの口調を真似した。
「その約束自体は守るのでしょう。本隊は確かに街を離れる。しかし、別の旗を掲げた『治安維持隊』が残る。やっていることは占領と変わりませんが、書状の上では綺麗なものです」
シオリは、膝の上の刀を見下ろした。
血を拭い取ったばかりの刃が、ろうそくの光を鈍く返す。
「……勝っても、変わらねえってわけか」
神前裁判。
広場の中央で、白刃の巫女と呼ばれて、剣を振るった。
一滴の血も流さずに、副団長を膝づかせた。
観客は「奇跡だ」と叫び、大司教は神の裁きを宣言した。
結果、黒獅子本隊は三日で退去する――はずだった。
だが、グラズたちは、その「勝利」を自分たちの都合よく折り曲げている。
勝利の形だけを残し、中身をすり替える。
戦場で幾度となく見てきた光景だった。
ヴァナネルサは、机の上に小さな紙切れを広げた。
夜目にも見えるよう、太い線で描かれた簡略地図だ。
「お二人とも。もう一つ、気になる点がございます」
彼は、地図の一角に記された印を指さした。
「黒獅子の連中、アルノスを『中継地』にしようとしております。山を越えて南へ抜ける巡礼路、その先にある街々。その全てに、黒獅子の影が落ちることになりましょう」
「……占領されるのは、この街だけではない、ということですか」
カリナの声が震えた。
「はい」
ヴァナネルサは、表情を崩さずに頷く。
「今日の神前裁判を皮切りに、『王都と神殿の合意のもと、黒獅子が山賊を討つ』という名目で動き始める。いずれは税も兵も、全てあの黒い旗の下に集まるでしょう」
カリナは、自分の両手を見つめた。
震える指先。
その血には、奪われた王国と、奪おうとしている者たちの思惑が、いやでも絡みついている。
「……わたくしが逃げたせいで、皆を、国を守れなかっただけでなく……今度は、こんな形で……」
嗚咽にも似た声を飲み込みながら、カリナは唇を噛みしめた。
シオリは、少しだけ視線を逸らす。
かつて、自分も似たような顔をしたことがある。
守るべき城が落ち、仲間が死に、敵の旗が自分の故郷の上に掲げられた時――
それでもなお、自分は剣を振るうことしか知らなかった。
「カリン」
シオリは、わざと偽名で呼びかけた。
「お前のせいじゃねえ。あいつらは、お前が逃げようが逃げまいが、いずれどこかを踏みにじった」
彼女は、低い声で続ける。
「それに……まだ『決まり』きったわけじゃねえよ」
ヴァナネルサが、意味ありげに片眉を上げた。
「と、申しますと?」
「黒獅子が残るって話も、神殿が頷かなきゃ絵に描いた餅だ」
シオリは、刀を鞘に納めながら言った。
「問題は……あの大司教が、どこまで腹を括るかってところだな」
「その点につきましては」
ヴァナネルサは、肩を竦めて笑った。
「残念ながら、もう半分ほど首を縦に振っておられましたよ」
シオリの眉間に、深いしわが刻まれた。
ヴァナネルサは、そこで一拍置いてから、最後の一言を付け加える。
「それと――大司教様は、近いうちにシオリ殿をお呼びになるでしょう。『もう一度、白刃の巫女として民の前に立っていただきたい』と」
シオリは、無言で目を閉じた。