戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
予想通り、大司教からの呼び出しは翌日の昼には届いた。
大聖堂の一室。
昨日とは違い、窓から差し込む陽光が石床に明るい模様を描いている。
だが、その光は、大司教の瞳の陰影を薄めはしなかった。
「白刃の巫女殿」
大司教は、丁重な口調でシオリに頭を下げた。
その隣には、カリナが静かに立っている。仮面の姫は、今日は隠していない。ここにいる者たちは、彼女の正体を既に知っているからだ。
「先日の神前裁判、誠に見事でございました。あの場に居合わせた者の多くが、今でも『神の奇跡』であったと噂しております」
「俺は、ただ剣を振っただけだ」
シオリは、わざとらしい謙遜もせずに答えた。
「奇跡がどうこうってのは、そっちで勝手に決めりゃいい」
大司教の口元が、困ったように、しかしどこか楽しげに歪む。
「……ええ。人は、自分の都合のいいように神を見ますからな」
その言葉には、己自身への皮肉も含まれていた。
だが、すぐにその色を隠し、彼は本題に入る。
「本日は、二つの件でご相談がございます」
「黒獅子の件だな」
シオリが先に切り出した。
「グラズが、一部の部隊を残すって話、聞いてる」
大司教の瞳に、わずかな驚きが走る。
すぐに、それはあきらめにも似た色に変わった。
「……耳の早い猫がお側におられる」
「それで?」
シオリは、椅子の背にもたれたまま、顎をしゃくって続きを促した。
大司教は、深く息を吸い込み、吐き出す。
「正式な書状の上では、騎兵団本隊はこの街を離れます。一方で、『山賊討伐と治安維持のための協力』という形で、小隊が残ることとなりました」
「それは、つまり――」
カリナが、思わず口を挟みかけ、すぐに唇を噛んだ。
シオリは、その代わりに言葉を継ぐ。
「ここが、黒獅子の前線基地になるってことだ」
大司教は、否定しなかった。
「わたくしとしても、谷の民を守るために、完全に彼らを追い払うだけの力を持ち合わせておりません。神の名を掲げて戦を開く覚悟も……」
彼は、そこで言葉を切った。
「――持てませんでした」
その正直さに、シオリはわずかに眉を動かす。
この老人は、臆病なのではない。背負っているものが多すぎるのだ。
「そこで、でございます、白刃の巫女殿」
大司教は、シオリに向き直った。
「黒獅子どもは、近く山賊討伐のために山へ向かいます。その出陣にあたり、大聖堂前で祭礼を行うことになりました。神の加護を求めるため、と、民にはそう伝えております」
「……言いたいことは分かる」
シオリは、目を細めた。
「その場に、俺を立たせたいんだろ」
「はい」
大司教は、隠さなかった。
「白刃の巫女が剣を掲げれば、民は安心します。黒獅子どもも、『神前裁判で認められた剣が、自分たちに味方している』と錯覚するでしょう」
「錯覚させてどうする」
「時間を稼ぎたいのです」
大司教の声が掠れた。
「アルノスが完全に飲み込まれてしまう前に、巡礼路と商人たちの流れを変える。別の街へ避難させる者も出てくるでしょう。いずれは――王女殿下のお力添えを得て、この谷の行く末を変えることも叶うかもしれません」
カリナが、はっとして顔を上げた。
「わたくしは……」
「殿下」
大司教は、柔らかく彼女の名を遮った。
「今はまだ、その時ではありません。今できるのは、『今すぐ血が流れないようにする』ことだけです」
シオリは、一言も挟まず、老人の話を聞き終えた。
そして、短く結論を告げる。
「つまり、俺に巫女の真似事を続けろってことだ」
「真似事ではございません」
大司教は、首を振った。
「民は、あなたを本物だと信じています。神かどうかはともかく、『剣を掲げた女』として」
「……」
シオリの奥歯が、わずかに鳴った。
神でも巫女でもない。
ただの人斬りが、神の名の下で剣を掲げる。
それを恩寵と呼ぶか、冒涜と呼ぶか。
どちらにせよ、血の臭いは消えない。
「断ったら?」
シオリは、あえて最も単純な問いを投げた。
大司教は、目を閉じた。
「……そのときは、神殿として、あなた方への庇護を取り下げざるをえません」
「通行印も、宿の宛ても、全部か」
「はい」
老人の声は、決して脅しではなかった。
ただ、自分の肩に乗せられた秤の重さを正直に告げているだけだ。
「あなた方を匿ったことを理由に、黒獅子どもがこの街を完全に占領する口実を得るやもしれません。わたくしは、それだけは避けたいのです」
静かな沈黙が落ちた。
シオリは、椅子から立ち上がる。
「考える時間をくれ」
「明日の朝までに、お返事を」
大司教は、深く頭を下げた。
*
白刃亭へ戻る道すがら、シオリはほとんど口を開かなかった。
カリナも、ヴァナネルサも、あえてその沈黙を破ろうとはしない。
谷を渡る風の音と、石段を踏みしめる靴音だけが、三人の間を行き来していた。
宿に戻ると、カリナはそのまま部屋に籠もり、ヴァナネルサは一階の酒場で情報を集めると言って姿を消した。
シオリだけが、白刃亭の裏手にある狭い中庭へ出る。
洗濯物と荷車が押し込まれた一角。
そこだけ、谷の喧噪から切り離された小さな空き地になっていた。
シオリは、愛刀を抜き放つと、誰もいない空に向けて腰を落とす。
息を吸い、吐く。
空気の冷たさが肺を満たし、縫った脇腹がじくりと痛む。
それを無視して、一太刀、振り下ろした。
空を裂く鋼の音が、狭い中庭に響く。
続けて、二太刀、三太刀。
短く、鋭く。
神前裁判で見せたような、飾りのない斬撃だ。
だが、刀身は、想像上の敵の喉や心臓を断つ寸前で、ぴたりと止まる。
殺さない剣。
あのとき、無意識にそう振るっていた。
殺さずに、膝をつかせる剣。
あれが、あの場では最適解だった。
だが――
(勝っても、状況は変わらなかった)
グラズたちは、約束の隙間を縫い、都合のいいように場を組み替えた。
自分の一太刀は、ただ彼らの宣伝材料になっただけだ。
勝ったと思った瞬間には、もう別の勝負が始まっていた。
これは、戦場でも何度も味わった感覚だった。
派手な勝利のあとに押し寄せる、じわじわとした劣勢。
守るべき城を奪い返しても、その周りから兵站を削られ、じわじわと追い詰められていく。
あの頃、自分はただ前線に立ち続けることしかできなかった。
勝ち続けることが、敗北を引き延ばしているだけだと、薄々感じながら。
ふと、別の光景が脳裏をよぎる。
雪深い峠道。
撤退戦。
兵と民を逃がすために、敢えて一つの砦を捨てた夜。
あのとき、総大将は言った。
『負け方ひとつで、守れるものが変わる』
シオリは、刀を肩にあずけるようにして、空を仰いだ。
(……派手に勝つんじゃなくて、派手に負ける。いや――)
彼女の唇が、かすかに歪む。
(派手に逃げる、か)
出陣式。
白刃の巫女として、群衆の前に立たされる。
黒獅子と神殿の「仲の良さ」を示すための舞台。
そこでまた派手に勝てば、黒獅子はますますこの谷に根を張るだろう。
神殿も、自分たちも、その流れに縛られる。
なら――
「勝負そのものを、投げ捨てちまえばいい」
シオリは、小さく呟いた。
出陣式が「神の加護」を示す場なら、その加護が届かない混乱にしてしまえばいい。
誰も死なせずに、黒獅子の面子を剥ぎ取り、神殿の口実も奪う。
その上で、自分たちは――
「派手に、いなくなる」
広場からも、この街からも。
勝ち負けの判定が下る前に、舞台そのものを壊してしまう。
それは、剣士としての彼女からすれば、最も嫌悪してきたやり方だった。
勝負の場から逃げること。
負けを認めること。
だが今は、その「負け方」こそが、最も多くのものを守る手段に思えた。
そのためなら、プライドなどいくらでも噛み砕いて飲み込んでやる。
「……ヴァルの爆薬が、役に立つかもしれねえな」
半ば冗談、半ば本気で呟くと、シオリは刀を鞘に納めた。
*
夜。
白刃亭の一室には、再び静寂が戻っていた。
カリナは、昼間の大司教との会談にすっかり消耗したのか、早々に寝台に潜り込んでいる。
毛布の山からは、規則正しい寝息が聞こえた。
ヴァナネルサはまだ戻っていない。
情報屋の顔を使えば、夜更けまで酒場をうろつくこともざらだ。
シオリは、窓辺の椅子に腰を下ろし、薄いカーテン越しに谷の灯りを眺めていた。
遠くで、教会の鐘が小さく鳴る。
明日も、この街は目を覚まし、巡礼者たちは祈りを捧げるだろう。
その日常の上に、黒い旗と神殿の金の十字が、複雑に影を落としている。
「……今度は、負ける方を選ぶ」
誰にともなく、シオリは呟いた。
自分の声が、思ったよりも掠れている。
負けることを選ぶ。
その言葉を、戦場での自分が聞けば、笑うだろうか。
それとも、ほっとするだろうか。
考えてみても、もう答えは出ない。
毛布の山が、もぞりと動いた。
「……シオリ、さま……?」
半分だけ顔を出したカリナが、目をこすりながらこちらを見ている。
シオリは、少し肩を竦めた。
「起こしたか」
「いえ……今の、お言葉……」
カリナは、ぼんやりとした目のまま、ゆっくり上体を起こす。
「負ける、方を……選ぶ、って」
「聞いてたのか」
「なんとなく、耳に入ってしまって……」
カリナは、毛布を胸元まで引き寄せながら、少しだけ笑った。
「……シオリ様は、いつも勝とうとしてくださいます」
その声は、眠気に滲んでいるが、不思議な澄み方をしていた。
「森で、荒野で、街の門で……。わたくし、一度も『負けたシオリ様』を見たことがありません」
「負けたことなら、何度もあるさ」
シオリは、窓の外から視線を外さずに言う。
「勝っても負けても、最後には死んだ。そういう戦場ばかりだった」
「でも」
カリナは、首を横に振った。
「今度、シオリ様が負けを選ばれるのなら……それは、きっと、『誰かを守るための負け』なんだと思います」
彼女は、眠そうな目で、まっすぐにシオリを見つめた。
「わたくしから見れば、それは負けではありません。たとえ、周りの人がどう言おうと」
その言葉に、シオリの喉が、僅かに鳴った。
「……お前は、どうしてそう、都合のいい解釈をするんだ」
「だって」
カリナは、毛布の端をぎゅっと握りしめる。
「シオリ様が勝ち続けて、いつか折れてしまうのは……嫌ですから」
シオリは、しばらく何も言えなかった。
窓の外で風が鳴る。
谷の灯りが、ゆらゆらと揺れる。
やがて、彼女は小さく息を吐き出した。
「……そうかよ」
それだけ言って、椅子の背にもたれかかる。
肩に乗っていた何かが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
カリナは、安心したように目を細める。
「だから、負けても……わたくしからは、負けにしません。勝ちだと思います」
「勝ち負けの決め方まで、お前の好きにされちまうのか」
シオリは呆れたように呟き、ふっと笑った。
「……なら、まあ、負けてもいいかもしれねえな」
その笑い声に、カリナは小さく頷く。
「おやすみなさいませ、シオリ様」
「ああ。寝ろ」
毛布の山が再び丸くなる。
規則正しい寝息が戻る。
シオリは、しばらくその音を聞いていた。
明日、大司教に「引き受ける」と告げることになるだろう。
出陣式。
約束された勝利と、約束された敗北。
そのどちらも、己の剣で裏切ってやる。
そう心に決めながら、彼女は夜の谷を見下ろす窓辺で、そっと目を閉じた。