戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第二十九話

 街を出たのは、まだ空が白む前だった。

 

 アルノスの谷を包む霧の上に、夜と朝の境目が細く横たわっている。女神像の折れた腕と煤けた輪郭だけが、灰色の空に黒い切り傷のように浮かんでいた。

 

 川沿いの雑踏も、昨夜の火事の騒ぎも、今は遠い。谷の斜面を斜めに走る裏道で、一行は足音を殺していた。

 

 カリナは、フードの奥で息を整えながら、首から下げた木札を握りしめている。女神と剣が焼き鏝で押された聖印。その下には、新たに刻まれた小さな刻印――昨夜、聖堂の宝物庫から盗み出してきた「巡礼路通行印」の証が重なっていた。

 

「……これで、本当に南へ抜けられるのですわね」

 

 問いというより、祈りに近い声音だった。

 

 先頭を行くヴァナネルサが、振り向かずに答える。

 

「少なくとも、正面からは。神殿の記録では、今朝ここを通る巡礼の一団は三組。そのうちのひとつとして紛れ込んでおります」

 

 その少し後ろで、ルチアが背負った小さな荷袋を揺らしながら、落ち着かない足取りでついてくる。薄い上着の袖口から覗く腕は、相変わらず痩せて細い。だが、その瞳には、アルノスの孤児院で見せていた諦めきった影は、もうなかった。

 

 最後尾を歩くシオリは、谷底から吹き上げる冷たい風と、背中を刺すような視線の気配に、意識を半分だけ割いていた。

 

 谷の底から山の稜線へと続くこの道は、「最後の巡礼路」と呼ばれているらしい。

 

 ここを抜けた者は、その先の山々に眠る聖地を巡るか、さらに南方へと旅立ち、二度とアルノスには戻らない――そんな言い伝えがあると、昨夜、宿の女主人が酒瓶片手に笑っていた。

 

(戻る気は、もともとない)

 

 シオリは、心の中で淡々と答えを出す。

 

 戻る場所は、もうどこにもない。前の世界にも、この世界にも。

 

 だからこそ、今はただ、南へ歩くだけだ。

 

 やがて、石畳は途切れ、削り出しただけの山道に変わった。薄暗い谷底の湿気が薄れ、代わりに乾いた岩肌の匂いと、遠くで鳴く鳥の声が混じった風が吹いてくる。

 

 ほどなく、一行は最初の検問に行き当たった。

 

 山道を横切るように、木の柵と簡素な門が設けられている。その傍らには、槍を持った若い兵士が二人と、茶色の髭を生やした神官が一人立っていた。

 

 谷底の門と同じように、ここでも聖印の確認が行われるのだろう。

 

 既に、他の巡礼の一団が列を作っていた。腰や首に木札をぶらさげた老夫婦、粗末な荷車を引く商人風の男、その妻とおぼしき女。どの顔にも、疲労と、それでも前へ進もうとする硬い決意が刻まれている。

 

 ヴァナネルサは、その最後尾に自然な足取りで並んだ。カリナとルチアも、後に続く。

 

 シオリは少し距離を置き、列の後ろから全体を眺める位置を取った。山の斜面を駆け上がれるだけの余白――戦場感覚で言えば、逃げ道の確保だ。

 

「次」

 

 神官の低い声に、前の一団が進み出る。木札を一つひとつ手のひらでなぞり、刻印を確かめる。半ば寝ぼけた顔をした兵士が、形式的に荷物を改める。火事の翌朝にしては、緩い。

 

 だが、それでも視線の端には、昨夜燃え上がった聖堂の残像と、女神像の折れた腕の影がこびりついているはずだ。何も見逃したくないという焦りが、その僅かな眼の動きに表れていた。

 

 やがて、ヴァナネルサたちの番が来る。

 

「巡礼の方々だな」

 

 神官が、いつもの柔らかな微笑みを張り付かせた声で言う。

 

 ヴァナネルサが、あくまで控えめな調子で頭を下げた。

 

「女神アルノの御加護を求めております。昨夜の騒ぎの直後に申し訳ありませんが、道をお借りできればと」

 

「女神は、どのような時でも、求める者を拒みはしない」

 

 用意された言葉を返すように、神官は頷いた。

 

 続いて、カリナとルチアの木札に手を伸ばす。

 

 フードの奥から覗くカリナの横顔が、わずかに強張った。だが、その視線はまっすぐ前を向いている。聖堂の地下で、短い時間のうちに何度も仮面を被り直してきた少女の目だ。

 

 神官の指が、木札に押された刻印をなぞる。そこにあるのは、昨夜カリナたちが奪ってきた「正式な」聖印だ。巧妙に削り取られた元の刻印の跡は、素人目には分からない。

 

 兵士が荷物に目を走らせる。ルチアの背負った袋からは、干し肉と薄い毛布が覗くだけだ。

 

「問題ない。女神の道を進みなさい」

 

 神官が最後にそう告げ、門の横の鐘を軽く鳴らした。

 

 金属音が、まだ冷たい朝の空気に溶けていく。門の横木が上げられ、一行は山道へと足を踏み入れた。

 

 シオリも、その後に続く。神官の視線が、彼女の首元へと滑るのが分かった。

 

 白木の札。女神像と剣。そして、その下に刻まれた聖印。

 

 昨夜、炎の中で人間の群れを捌きながら取り逃がした「白刃の巫女」が、同じ印を首からぶら下げているなどと、彼は想像もしないだろう。

 

(……今はそれでいい)

 

 シオリは、わざと視線を合わせずに通り過ぎた。

 

 門を越えた途端、空気が変わった。

 

 谷底の湿った熱気は薄れ、山道には、朝日と一緒に昇ってきた新しい風が吹き抜けている。足元には、霜を踏みしめたようなざくりとした感触が残った。

 

 振り返れば、霧の向こうにアルノスの街が、皿の底のように小さく沈んでいた。女神像の折れた腕は、もう見えない。

 

 代わりに、黒い煙が、いく筋か細く立ちのぼっている。

 

 昨夜の火は、まだ完全には鎮まっていないのだろう。

 

 カリナも、同じ方角を見ていた。

 

「……あの街、どうなってしまうのでしょう」

 

「あいつら次第だ」

 

 シオリは短く答えた。

 

 あいつら――神殿の連中と、黒獅子騎兵団。そして、逃げ遅れた人間たち。

 

 自分には、もうどうしようもない。

 

 救えた分だけ救い、奪った分だけ奪った。それ以上を望めば、また剣を振るうことになる。

 

 それは、今の自分の目的から外れていた。

 

 山道は、やがて尾根へと続く緩やかな坂に変わった。岩と岩の間を縫うように踏み固められた獣道。ところどころに、巡礼者が立てたと思しき小さな祠が並んでいる。

 

 そのひとつに、ルチアがちらりと視線を向けた。

 

「ねえ、シオリ」

 

「なんだ」

 

「あたしたちも、お願いしといた方がいいのかな。……落ちないようにとか」

 

 彼女の視線の先には、山の斜面にぽっかりと口を開けた谷底がある。まだ遠いが、その真上に掛け渡された細い影――吊り橋の横顔が見えた。

 

 カリナが、思わず唾を飲み込む音を立てる。

 

「……あれを、渡るのですの……?」

 

 ヴァナネルサが、猫科の目を細めて頷いた。

 

「地図によれば、『巡礼路の綱橋』。昨夜の地図と、神殿の記録にあった略図とも一致します。ここを越えれば、南斜面の森に出られる」

 

 橋までの道のりは、思ったよりも短かった。

 

 近づくにつれ、吊り橋の古さが目に見えてくる。岩と岩の間を渡すように掛けられた橋は、太い麻縄と木板だけでできていた。ところどころ板が抜け、縄も黒ずんでささくれている。

 

 風が吹くたび、橋全体がぎしぎしと軋んだ。

 

 橋の手前には、小さな広場のような平坦地があり、今まさに別の巡礼の一団が順番待ちをしているところだった。

 

 橋は、一度に渡れる人数が限られている。重みがかかりすぎれば、簡単に崩れてもおかしくない。

 

「……あんまり、長居したくない場所ですわね」

 

 カリナが顔を強張らせる。

 

 シオリも、橋そのものより、その先と後ろに意識を向けていた。

 

 尾根の向こう、まだ見えない位置から、微かな振動が地面を伝ってくる。

 

 馬の蹄の音。それも、少なくない数。

 

(来たか)

 

 シオリは、唇の裏側で短く噛みしめた。

 

 ヴァナネルサも、耳をぴくりと動かす。

 

「黒獅子、ですな」

 

 言葉の端に、乾いた笑いが混じった。

 

「街が燃えた罪を、誰かに押し付けねば気が済まないでしょうし」

 

「罪人に仕立てる相手としては、私たちは格好の獲物、というわけですわね」

 

 カリナの声は、自嘲とも悔しさともつかない響きを帯びていた。

 

 ルチアが、不安そうにシオリの袖をつかむ。

 

「どうするの、シオリ。逃げる? 戦う?」

 

「その両方だ」

 

 シオリは、短く答える。

 

「まずは、渡る。お前らと、他の巡礼を全部、向こう側に」

 

「ですが、シオリさんが渡る前に、騎兵が来てしまったら……」

 

 カリナの言葉を、シオリは視線で制した。

 

「俺が最後に渡る。……いや、渡らなくてもいいかもしれん」

 

 その言い回しに、カリナが目を見開く。

 

「まさか――」

 

「橋を落とす気か」という言葉を飲み込んだらしい。

 

 シオリは、わずかに顎を引いた。

 

「橋の向こうにいる連中を、谷に落とす気はない。そんな真似をしなくても、足は止められる」

 

 殺さない。だが、追わせない。

 

 細い綱橋は、その目的のために用意された舞台のように見えた。

 

 武器を持つ者の足を止めるには、動けなくするのが一番手っ取り早い。殺さずに、それをやる。

 

 戦場で培ってきた「殺すための場所」の見方を、今度は逆向きに使えばいい。

 

 ルチアが、不安とわずかな興奮の入り混じった顔でシオリを見ていた。

 

「……わかった。あたし、先に行く。カリナ様の手、引っ張って」

 

 カリナが、驚いたように彼女を見る。

 

「ルチア……」

 

「ここで足ガタガタいってたら、シオリに怒られるもん」

 

 ルチアは舌を出し、無理やり笑ってみせた。

 

「『前を見ろ』って、いつも言うし」

 

 シオリは、意識的に表情を動かさないまま、ルチアの頭を軽く小突いた。

 

「……落ちるなよ」

 

「落ちない。神様にもお願いしとくから」

 

 ルチアは、近くの祠に軽く指先を合わせると、カリナの手を取って橋の列に並んだ。

 

 ヴァナネルサが、その後ろにぴたりとつく。

 

「では、橋の向こうでお待ちしています。……くれぐれも、あまり派手には」

 

「それは、あいつら次第だ」

 

 シオリは、肩越しに答えた。

 

 尾根の向こうから、蹄の音がはっきりと聞こえ始める。金属の軋み、短い号令。黒獅子騎兵団が間近まで迫っている。

 

 先に橋を渡っていた巡礼の一団が、揺れる橋の上で必死に足元と谷底を見比べながら進んでいる。かすかに悲鳴が上がり、そのたび橋が揺れた。

 

 ルチアとカリナの番が来るまで、そう時間はかからなかった。

 

 足を踏み出すたび、橋がぎしぎしと鳴る。カリナの足取りは明らかに強張っていたが、ルチアがぐいぐいと引っ張っていくおかげで、一歩一歩前に進んでいる。

 

 ヴァナネルサは、軽やかに揺れをいなしながら、後ろから二人のバランスを支えていた。

 

 シオリは、橋のたもとで腕を組み、背後から迫ってくる蹄の音に耳を澄ませる。

 

 やがて――

 

「いたぞっ!」

 

 荒い声が、尾根に反響した。

 

 黒い獅子の意匠を掲げた旗が、尾根の曲がり角の向こうに現れる。鉄と革の匂いを纏った騎兵たちが、狭い山道を列を組んで駆け上がってくるのが見えた。

 

 先頭に立つのは、グラズではなかった。副官か、あるいは別働隊の隊長だろう。だが、その背負う空気は、王都の飾り剣士とは明らかに違った。

 

 何人も殺し、何度も死地をくぐり抜けてきた者の重さだ。

 

 シオリは、橋の中央付近でまだ足を震わせている老巡礼たちと、その向こうにいるカリナたちの位置を確認する。

 

 あと十歩。ルチアが向こう側の岩場に足をかければ、こちら側の床板は空く。

 

 副官らしき男が、馬上からシオリを睨みつけた。

 

「そこで止まれ! 女神の名を騙って聖堂を焼いた賊め!」

 

 シオリは、眉をひそめた。

 

 聖堂を燃やしたのは、正確にはヴァナネルサの仕込みだが、あえて訂正する義理もない。

 

「道を塞ぐな」

 

 それだけを言い捨てる。

 

 副官の歯が、むき出しになった。

 

「貴様が白刃の巫女か……。噂ほど神々しくはないな」

 

「噂の誰かと間違えてるなら、勝手にしてろ」

 

 シオリは静かに鞘に手を掛けた。

 

 騎兵たちの動きが、一瞬で変わる。馬上で体勢を前傾させ、槍や弓を構える。副官が号令を飛ばした。

 

「橋を渡らせるな! 女神の名を騙る賊ども、ここで始末する!」

 

 数本の矢が、弧を描いて飛んだ。

 

 シオリは、橋から半歩だけ離れ、抜刀と同時に剣を水平に滑らせる。

 

 金属と木が触れ合う甲高い音。矢は、宙で軌道を変えられ、岩肌に弾かれていった。一本だけが橋の縄に突き刺さり、細い繊維がぱらぱらと落ちる。

 

「火矢はまだ使うな!」

 

 副官が叫んだ。

 

「巡礼の命までまとめて奪うつもりか!」

 

 理性はまだ残っているらしい。

 

 ならば、使える。

 

 シオリは、背後の橋から聞こえてくる足音を数えながら、ゆっくりと前に出た。

 

 馬の鼻息が、白く霧を吐く。騎兵の一人が、堪えきれず槍を突き出してきた。

 

 その動きは、正面から見れば隙だらけだった。

 

 だが、殺すつもりなら。

 

 一歩踏み込み、喉元を断つ。あるいは馬の顎を割って騎手ごと谷底へ叩き落とす。

 

 身体の奥底に刻み込まれたそんな選択肢を、シオリは意識的に切り捨てた。

 

 刃が動く。

 

 槍の穂先ではなく、その少し手前――木の柄と金具の境目へ。

 

 乾いた手応え。槍の穂先が、空を泳いで飛んでいく。

 

 騎兵の男が、呆けた顔で両手の中の軽さを見下ろし、そのまま馬上で体勢を崩した。落ちかけたところを、隣の騎兵が慌てて支える。

 

 その一瞬で、シオリは次の馬の前脚の位置へと身を滑り込ませていた。

 

 刃は、ふたたび木を断つ。今度は、鐙を吊るしている革と金具だ。

 

 鐙が足元から消え、騎兵の足が宙を泳ぐ。馬が驚いて身をすくませ、騎兵は情けない悲鳴を上げて尻から地面に落ちた。

 

 土埃が舞い上がる。後続の馬が、それを避けようとして列を乱した。

 

「ビビるな! ただの女だ!」

 

 副官が怒鳴り、剣を抜いて前に出る。

 

 ただの女。女の体。だが、その中にいるのは、何百という死に顔を見てきた剣士の魂だ。

 

 シオリは、副官の馬の横腹すれすれを通り抜けながら、刃を閃かせた。

 

 鋼ではない。革帯。鞍を固定していた帯が、ぱつりと音を立てて弾ける。

 

 鞍がぐらりと傾き、副官の体が浮いた。

 

「なっ……!」

 

 その驚きの声ごと、シオリは馬の首筋を軽く平手で叩いた。馬が前に飛び出し、副官は背から地面に叩きつけられる。

 

 息を詰まらせる鈍い悲鳴。だが、頭は打っていない。肋骨は、数本ひびが入ったかもしれないが、命までは取っていない。

 

 騎兵たちの顔色が変わる。

 

 あまりにも手際よく、あまりにも無駄なく、しかし致命傷だけを避ける刃。

 

 それは、彼らがこれまで戦場で見てきたどんな剣とも違っていた。

 

「な、なんだ……あいつ……」

 

「あれだけ踏み込んでおきながら、誰も、血を……」

 

 ざわめきが生まれる。そのざわめきが、馬の耳にも伝わる。前列の馬が落ち着きなく足踏みを始めた。

 

 シオリは、息を吐いた。

 

 殺さない斬り方は、殺す斬り方よりも遥かに難しい。

 

 刃は、ほんの少し軌道を誤れば、すぐに肉に食い込む。急所を捉える癖を、意識的にずらさなければならない。

 

 だが、それができるだけの経験もまた、自分の中に積もっている。

 

 血に塗れた過去を、違う形で使うだけだ。

 

 背後で、ルチアの叫び声が上がった。

 

「着いた! カリナ様、こっち!」

 

 橋の向こう側で、彼女がカリナの腕を引っ張っているのが見える。ヴァナネルサも、こちらに向かって手を振った。

 

 最後の巡礼たちが、揺れに足を取られながらも向こう側の岩場に飛び移っていく。

 

 残っているのは、シオリただ一人だった。

 

 騎兵たちの中から、弓兵が一人、歯を食いしばって矢を番えた。

 

「橋の縄を切るな! まだ巡礼が――」

 

 副官の制止が飛ぶより早く、その弓兵の指先から、火を灯した矢が放たれていた。

 

 矢は、うなりを上げて橋の中央へと向かう。

 

 シオリは、橋の欄干を蹴って跳んだ。

 

 木板がきしみ、麻縄が悲鳴を上げる。

 

 空中で、刃が閃いた。

 

 火矢が、橋の縄に届く寸前に、その軌道を断ち切られる。矢の火は岩肌に散り、橋は辛うじて燃え移りを免れた。

 

 シオリは、そのまま向こう側の岩場に着地する。縫った脇腹が、抗議するように熱を持ったが、耐えられないほどではない。

 

 橋のこちら側とあちら側。切り立った谷。騎兵たちの怒声。

 

 シオリは、一瞬だけ呼吸を整えた。

 

 そして、振り返りざまに一本目の縄に刃を当てる。

 

 ギシ、と縄が軋み、繊維がばらばらと解けていく。

 

「待て!」

 

 副官の叫びが飛ぶ。

 

 シオリは、その声を無視した。

 

 二本目の縄に刃を滑らせる。その瞬間、橋全体にかかっていた重みの均衡が崩れた。

 

 鈍い音とともに、吊り橋がゆっくりと傾き始める。

 

 向こう側で、巡礼たちが悲鳴を上げた。こちら側の岩場にしがみつくようにしていた最後の男を、ヴァナネルサが腕を掴んで引き上げる。

 

 橋は、やがて耐えきれなくなったように、谷底へと崩れ落ちていった。

 

 木板が岩にぶつかる乾いた音。麻縄が千切れる甲高い音。遅れて、破片が谷底の川に叩き込まれる水音が届く。

 

 風が、吹き上がってきた。

 

 谷の底から吹いてくるその風は、冷たく、乾いている。騎兵たちの怒号と、罵声と、絶望混じりの叫びを一緒に連れてきた。

 

「卑怯者め!」

 

「逃げるのか、白刃の巫女!」

 

 シオリは、崖の縁に立ったまま、静かに彼らを見下ろした。

 

 谷の向こう側に残された騎兵たちは、こちらへ来る手段を失った。

 

 飛竜も魔導機も持たない彼らでは、今すぐに追いつくことはできない。遠回りの山道を使えば、追撃の線を完全に潰すことはできないだろうが、少なくとも、今日一日は距離を稼げる。

 

 何より――

 

 シオリは、ゆっくりと数えた。

 

 落ちた人影は、ひとつもない。

 

 驚き、怒り、憎しみに顔を歪めている騎兵たちの頭数は、先ほど自分が斬りかけた時と変わらない。地面に転がっている者もいるが、その胸は上下しているし、足も動いている。

 

 誰も、死んでいない。

 

 殺さなかった、という感触が、刃を通して腕に残っていた。

 

 それは、奇妙な重みだった。

 

 これまで、斬った分だけ軽くなってきたはずの剣が、逆に少しだけ重くなったような――そんな感覚。

 

 背後から、小さな影がそっと近づいてきた。

 

「……すごかった」

 

 震え混じりの声。

 

 ルチアだった。

 

 彼女は、まだ足を少し震わせながらも、崖の縁から身を乗り出して谷を見下ろした。

 

「誰も、落ちなかった。……でも、誰も、あっちに来れなくなった」

 

 その瞳が、ゆっくりとシオリの横顔を見上げる。

 

「今の、なんか……本物の神様みたいだった」

 

 カリナも、その少し後ろで息を呑んでいた。ヴァナネルサは、何も言わずに視線だけを落とし、谷の向こう側の騎兵たちを観察している。

 

 シオリは、ルチアの言葉に、短く鼻を鳴らした。

 

「神様は、こんなにあがく必要はない」

 

 谷底から吹き上げる風が、血に濡れていない刃を撫でていく。

 

「俺はただの逃亡者だ。逃げるために、斬り方を変えただけだ」

 

「でも――」

 

 ルチアが食い下がろうとしたのを、シオリは目線だけで制した。

 

「勘違いするな。俺はあいつらを許したわけじゃない。……ただ、ここで死なせる理由がなかった」

 

 橋を落とす前、頭の中で描いた光景――騎兵たちが次々と谷底になだれ落ちていく様を、シオリはあえて切り捨てていた。

 

 それを実行することは、彼女にとって難しくなかった。橋を落とすタイミングを数歩早めれば、それで済んだ。

 

 だが、その血は、今の自分の剣に必要なものではない。

 

 それを理解してしまった以上、選べなかった。

 

 カリナが、そっと口を開いた。

 

「シオリさん」

 

「なんだ」

 

「……ありがとうございます」

 

 謝辞としては、あまりにも言葉が足りない。

 

 けれど、その声音には、橋の向こうへ渡りきるまで震えていた全ての感情が乗っていた。

 

「貴女が、殺さないでいてくださって……よかったと、思います」

 

「甘いな」

 

 シオリは、吐き捨てるように言った。

 

 だが、自分の声に、かつて戦場で仲間を嗤っていたような鋭さはなかった。

 

「甘いままでいてくれ。俺の分まで」

 

 その一言を、風が運んでいく。

 

 ヴァナネルサが、空気を読んだように場を切り替えた。

 

「さて、感傷に浸っている場合ではありませんな」

 

 彼は、崖から背を向け、南斜面へ続く細い山道を顎で示した。

 

「この先の森を抜ければ、街道へ出るとのこと。黒獅子たちが遠回りで追ってくるにしても、こちらに一日の先行がある。高原で一泊してから、次の逃げ道を探りましょう」

 

「次の逃げ道……」

 

 カリナがその言葉を繰り返す。

 

 名前も、肩書も、かつての居場所も捨てて歩く逃亡の旅。

 

 それでも、隣には、自分のために剣を振るい、「殺さない」ことを選んでくれる誰かがいる。

 

 ルチアが、シオリの袖をぐいと引っ張った。

 

「ねえ、シオリ」

 

「なんだ」

 

「いつかさ、本当に神様になっちゃったりしない?」

 

「しない」

 

 即答だった。

 

「神様になったら、逃げられないだろうが」

 

 ルチアは、きょとんとした後、くすりと笑う。

 

「そっか。……じゃあ、あたしのお守りでいいや」

 

「勝手にしろ」

 

 シオリは、苦笑ともため息ともつかない息を吐き、剣を鞘に納めた。

 

 谷の向こうで、騎兵たちの怒号がまだ続いている。だが、その声は、ここからではもう、ただの遠い雑音に過ぎない。

 

 一行は、誰も振り返らずに、南へ続く山道へと足を踏み出した。

 

 最後の巡礼路は、彼らにとって「巡礼」の終わりであり、本当の放浪の始まりでもあった。

 

 シオリの首元で、白木の聖印が小さく揺れる。

 

 女神と剣の印。その下に刻まれた通行印。

 

 それは、もはや神殿のための首輪ではなかった。

 

 南へ逃げるための、ただの小さな札だ。

 

 その軽さが、今はほんの少しだけ、頼もしく思えた。

 

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