戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
夜を歩ききった山道の先に、小さな高原があった。
風に晒されて草の丈も低い、石混じりの平地だ。東の空の端が白み始めたばかりで、世界全体が薄い灰色の膜に包まれている。
昨夜のうちに森を抜け、登り坂をどうにか片づけた一行は、その平地の外れで足を止めた。
「……ここまで、よく頑張りましたな」
ヴァナネルサが肩の荷を降ろしながら言う。
「ここから先、しばらくは下り。陽が昇る前に一眠りしておいた方がいい」
シオリは、無言で頷いた。
胸の奥に残っていた緊張を、ようやく一段落させる。谷底の橋が崩れ落ちる音と、騎兵たちの怒号は、もうずっと遠い。
代わりにあるのは、冷たい風と、眠気と、どうしようもない空腹だけだ。
適当な岩を風よけにして、簡単な火を起こす。湿った薪しか拾えなかったため、火はじりじりと心許ない。
鍋代わりの鉄皿に水を入れ、干し肉の欠片と砕いた硬パンを放り込む。塩ひとつまみ。それだけの、薄い粥。
湯気が立ちのぼる頃には、東の空は淡い桃色に染まりかけていた。
「……いただきます」
カリナが両手を合わせ、少し照れたように呟く。
王城の食卓ではしたことのない仕草だろう、とシオリは思う。
ルチアは、そんなことお構いなしに、熱い粥をふうふうと冷ましながら口いっぱいに頬張っていた。
「おいしい……ってほどじゃないけど、あったかい……!」
「それは褒めていると言えるのかね」
ヴァナネルサが肩をすくめる。
「贅沢は言えませんわ。昨日まで、まともに喉を通るものも……」
カリナは途中まで言いかけて、自分で言葉を飲み込んだ。
アルノスで過ごした緊張だらけの日々と、炎に呑み込まれた街の残像が、喉の奥にへばりつく。
シオリは、自分の皿の粥を口に運びながら、火を挟んで向かいの二人を見た。
ルチアは、まだ顔に煤を少し残したまま、必死に食べている。カリナは、背筋を伸ばしつつも、ときどき頭が揺れるほど眠そうだ。
(生きている)
その当たり前の事実が、妙に遠く感じられた。
橋の上で、斬らずに済ませた何太刀分もの重さが、ようやく自分の中で落ち着く場所を見つけつつある。
生きて、逃げて、まだここにいる。
粥の最後の一滴まで飲み干すと、カリナが膝の上で両手を握りしめた。
「……あの」
火のはぜる音に紛れるような、か細い声だったが、その響きには迷いが少なかった。
「少し、お話してもよろしいでしょうか」
「今から寝物語、ですかな?」
「そういうのでは、ありませんわ」
カリナは深呼吸をひとつしてから、まっすぐシオリたちを見た。
その瞳の奥には、昨夜、橋の上で谷底を見下ろしたときの恐怖も、神殿で炎に包まれたときの絶望も、きちんと残っている。それでも、そこから目を逸らさない強情さも。
「今日から、わたくしは──」
短い沈黙。
「カリナ王女ではなく、ただの旅人リナとして、皆様と共に歩きたいのです」
ルチアが目を丸くした。
「リナ……?」
「本名をそのまま名乗り続けるのは、追手にとってあまりに親切すぎますわ。それに……」
カリナは自嘲気味に笑った。
「『王女』という言葉に、守られるのは少々、飽きてしまいましたので」
かつてなら背筋を伸ばしたまま言えなかっただろう台詞を、彼女は不器用な強がりで押し出した。
胸元から、小さな布包みを取り出す。
解けば、銀の光が朝日を受けて瞬いた。王家の紋章が刻まれたブローチだ。今は煤で少しくすんでいるが、それでも一目で「高いもの」だと分かる。
「これは、わたくしの過去そのものです」
カリナ──いや、リナは布包みごと、それをシオリへ差し出した。
「……預かっていただけませんか」
シオリは、無意識に眉を顰めた。
「捨てるんじゃないのか」
「捨てるには、まだ未練がございますわ」
リナは正直に言った。
「父や兄たちが築き上げてきたものを、すべて『なかったこと』にする勇気は、今のわたくしにはありません。けれど、王女としてではなく、『リナ』として歩くために、どこかにひとまず置いておきたいのです」
甘え、と言い換えてもいい。
だが、それを本人が理解した上で差し出しているのなら、簡単には切り捨てられない。
「……重いぞ」
「知っていますわ」
リナの笑みは、今度こそほんの少しだけ、晴れやかだった。
「背負うには、シオリさんの背中が一番、ふさわしいと思いました」
そう言ってくるあたり、相変わらず気障なことを言う、とシオリは心の中で舌打ちした。
だが、手は伸びている。
自分でも驚くほど自然に、その布包みを受け取っていた。
掌に乗ったそれは、小さいのに妙に重い。
王国と、血筋と、奪われた居場所。その全部の重さが、銀の小物に凝縮されているようだった。
火の赤い光が、布包みの端を揺らす。
「……いいのか」
シオリは問う。
「名前を変えたからといって、お前のやったことも、背負うものも軽くはならない」
「はい」
リナは、迷いなく頷いた。
「軽くしたいのではなく、自分の足で持ち上げられる形にしたいだけですわ」
その返答に、シオリはほんの一瞬、言葉を失った。
(うまいことを言う)
と思ってしまった自分に、少しだけ苦笑する。
ヴァナネルサが、面白そうに目を細めた。
「では、本日より『リナ殿』とお呼びすればよろしいですかな」
「敬称は今まで通りで構いませんわ。旅人リナも、王女だったカリナも、同じわたくしですから」
ルチアが、何度か「リナ」と口の中で転がしてみる。
「リナ様……なんか、ちょっと可愛い」
「『様』は必要ないと、今言ったばかりですわよ?」
「え、でも……」
「ルチア」
シオリが横から口を挟んだ。
「呼びたいように呼べ。その代わり──」
「その代わり?」
「名前の重さは、自分で決めろ」
ルチアは、よく分からないという顔で首を傾げたが、どこか嬉しそうに笑った。
「じゃあ……リナ。よろしくね」
「はい。よろしくお願いしますわ、ルチア」
二人がぎこちない笑顔を交わすのを見ながら、シオリは布包みを腰の袋にしまった。
自分の持ち物に、またひとつ、他人の「過去」が増えた。
そう思った瞬間、ヴァナネルサの視線がこちらへ向く。
「……ところで、シオリ殿」
「なんだ」
「『王女』と『リナ』の話が出たところで、あなたの方は、どうなさいます?」
問いの意味を理解するのに、一拍の間が必要だった。
白刃の巫女。人斬り。巫女の皮を被った剣士。そういった呼び名が、脳裏をかすめては消える。
シオリは短く息を吐いた。
「……そうだな」
火のそばにあった荷物を一つ引き寄せる。
底の方から引っ張り出したのは、小さく折りたたまれた黒布だ。
かつての世界で身につけていた軍服の、一片。
異世界に呼び出されたとき、なぜか一緒に転がり込んできた布切れ。術式の残滓なのか、単なる偶然なのかは分からない。ただ、ずっと腰袋の底に放り込んだまま、見ないふりをしていた。
黒布を指先で弄びながら、シオリはぽつりと口を開いた。
「向こうの世界で、私は『人斬り』と呼ばれてた」
ルチアが、驚いたように目を瞬いた。
「ほんとに……?」
「もっとひどい呼び名もあった。『首狩り』だの『掃除屋』だの。……隊の連中は、悪気なく呼んでたけどな」
戦場で、何度も何度も、命令通りに人を斬った。
敵兵も、逃げ出す味方も、命令に従わない者も、等しく。
その腕前を評価されるたびに、ひとつずつ、まともな名前から遠ざかっていった。
「でも、こっちに来てからは、あの呼び名を使ったことはない」
焚き火の上に、黒布を掲げる。
ほんの小さな切れ端だ。だが、指先に食い込む感触は、記憶よりも重い。
「そろそろ、持ち歩くのも終わりでいいと思ってな」
布の端に、火が移る。
じわり、と赤い舌が黒を舐め、瞬く間に灰色へと変えていく。
煙が上へとのぼり、風にさらわれて消えた。
ルチアが、息を呑む。
「もったいなくないの……?」
「安物だ」
シオリは淡々と言う。
「それに──」
燃え尽きつつある布片から、指を離した。
「もう、『人斬り』って名前は要らない」
言葉にした瞬間、胸の奥に引っかかっていた何かが、かすかに軋んで動く。
「これから先も剣は振るう。でも、それは人を斬るためじゃない。逃げ道を作るためだ。護る場所を増やすためだ」
自分自身に向けて言い聞かせるように、ゆっくりと。
「だから、いらない名前は、ここで燃やしていく」
リナが、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「……格好良すぎますわ」
「褒めるな。やりづらくなる」
あまりにも即答だったので、ルチアが思わず吹き出した。
「でも、かっこよかったよ、今の」
「うるさい」
シオリは視線を逸らした。
火はいつの間にか、燃やすものを失い、静かな炭だけを残している。
その火の明かり越しに、ルチアがもじもじと身じろぎした。
「ね、ねえ……」
さっきまでとは違う種類の躊躇が、その声には混じっていた。
「何だ」
「その……あたしも、言いたいこと、あるんだけど」
ルチアは、膝を抱え込むようにして座り直した。
「アルノスの孤児院、もう戻る場所じゃなくなっちゃったからさ。屋根も壁も、全部燃えちゃったし」
その言葉には、乾いた現実だけがあった。
寂しさも、悲しみも、ちゃんとあるのだろうが、それをねじ伏せて言葉にしている。
「だから……ついて行ってもいい?」
リナが、一瞬、呼吸を止める。
「ついて行く?」
「シオリと、リナと、ヴァナおじさんと」
「おじさんは余計ですな」
ヴァナネルサが眉をひくつかせる。
ルチアはそれに小さく笑ってから、真剣な目でシオリを見つめた。
「神様について行くのは、やめた」
その言い方に、シオリは本能的に姿勢を正した。
「アルノスの女神様は、孤児院も、街も、燃えるの止めてくれなかったから」
静かな非難。祈りが裏切られた痛み。
「代わりにさ──」
ルチアは、おずおずと手を伸ばし、シオリの袖をつまんだ。
「逃げない大人について行きたい。あたしを連れて、逃げてくれる人の方に」
その言葉は、シオリの胸の奥に、奇妙なくらい真っ直ぐ突き刺さった。
逃げるために斬り方を変えたばかりの自分に、「逃げない」と言うのか、と。
だが、橋の上であれだけ足掻いた自分を、他の何と呼べるだろう。
「……ずいぶんと、期待するじゃないか」
「期待するよ。しとかないと、ついて行く意味ないし」
ルチアは、精一杯の強がりで言い返した。
「リナもヴァナも、簡単には逃げないでしょ?」
「少なくとも、貴女を見捨てて逃げるほど、落ちぶれてはおりませんわ」
リナが胸を張る。
ヴァナネルサも、深々とお辞儀をした。
「わたくしはもともと根が小心者でしてな。逃げるにしても、準備を万全に整えてからでないと心が落ち着かないタチでございます」
「それ、逃げないってことじゃ……?」
ルチアは少し混乱した顔をしたが、とにかく笑った。
シオリは、ため息をひとつついた。
「分かった」
その短い返事に、ルチアの目がぱっと明るくなる。
「ただし」
「ただし?」
「勝手に期待して、勝手に失望するな」
シオリは冷たく聞こえるよう、意識して言葉を選ぶ。
「俺は神様じゃない。正しい選択も、立派な生き方も知らない。ただ、今のところ、お前らを置いて逃げる気はないってだけだ」
「それで十分だよ」
ルチアは、迷いなく言い切った。
「神様よりずっと、分かりやすいもん」
その無邪気な断言に、シオリは小さく肩を落とした。
(……この先、何度裏切ることになるかも分からないのにな)
それでも、「ついて来るな」と押し返すことはできなかった。
ルチアの手は、まだ細いのに、指先だけ妙に硬い。てのひらの皮が、ところどころ厚くなっている。孤児院の仕事で、重い桶や薪を運んできた証拠だ。
その手が、袖を掴んだまま離れない。
シオリは、ふっと目を細めた。
「じゃあ、さっさと食器洗ってこい。ついて来るなら、働け」
「はい!」
ルチアが勢いよく立ち上がり、鉄皿を抱えて近くの小川へ駆けていく。
その背中を見送りながら、ヴァナネルサが立ち上がった。
「さて、ではわたくしも、働いてまいりましょうか」
「働く?」
「ええ。噂という名の衣を、こちら側に都合よく仕立て直しておかねば」
彼は、高原の端、緩やかに下っていく街道の方へ顎をしゃくった。
「この先、行商人や巡礼の残りがちらほら通るはずです。昨夜の火事の話で持ち切りでしょうな」
「『白刃の巫女が聖堂を燃やして逃げた』って?」
「ええ。そして、そこに一振り手を入れておくのです」
ヴァナネルサはにやりと笑った。
「『白刃の巫女は、あの火事で死んだらしい』とな」
リナが目を瞬いた。
「わざわざ、そんな噂を?」
「死んだ者は、追えませんからな」
ヴァナネルサは軽く肩をすくめる。
「もちろん、すぐには信じてもらえないでしょう。ですが、十人に伝えれば、そのうち一人は『そうらしいぞ』と言い出す。三十人に伝えれば、誰かが『もう一人からも聞いた』と言い出す。『噂』とは、そうして雪だるまのように膨らんでいくものです」
シオリは、わずかに目を細めた。
「勝手に殺されるのは、あまり気分のいいもんじゃないな」
「お気持ちはお察ししますが、背中に追っ手を何十とぶら下げて歩くよりは、ずっと健康的でございますよ」
ヴァナネルサは、軽く頭を下げた。
「少々、口を動かしてまいります。街道の噂話には、こちらの行き先を決めるヒントも含まれているでしょうし」
「遠くには行くなよ」
「承知しております」
ヴァナネルサは高原の端を回り込み、街道の方へと姿を消した。
朝日が、ようやく地平線から顔を出す。
高原一面に、金色の光が流れ込んだ。
シオリは立ち上がり、南の方角を見渡した。
山の向こうに、まったく違う色の大地が広がっているのが見えた。
これまで歩いてきた灰色の岩と茶色い土ではない。どこか赤みがかった、焼けた陶器のような大地。その上に、風で削られた奇妙な岩柱が、森のように林立している。
さらにその向こう、まだ霞んでいるが、何か巨大な影が横たわっていた。
壁か、城か、あるいは山そのものか。
遠すぎて形は分からない。ただ、あの方向に「大きな何か」があることだけは、肌で理解できた。
(南の果てには、女神に捨てられた土地がある──)
アルノスの酒場で聞いた、酔っ払いの与太話がふと蘇る。
女神の加護の届かない、灰と砂の海原。その境目には、砦とも城ともつかない巨大な構造物が築かれている、と。
半分は作り話だろう。だが、残り半分は、現実かもしれない。
シオリは、腰の剣の柄に手を置いた。
人を斬るためではない。逃げ道をこじ開けるための道具として。
(今度は──)
心の中で、言葉を組み立てる。
(今度は、斬るより先に守る場所を探しに行こう)
その決意を飲み込んだ瞬間、高原を渡る風向きが、わずかに変わった。
どこからともなく、かすかな鐘の音が聞こえた気がした。
アルノスの女神像のものではない。もっと遠く、もっと大きな、知らない街の鐘。
風に紛れて届いたそれは、聞き間違いかもしれない。
だが、シオリの背筋には、うすら寒い予感として残った。
この先、自分たちが向かう先で、その鐘の音の主と出会うことになる──そんな確信にも似た予感。
街道の方から、ヴァナネルサの声がした。
「戻りましたぞ!」
振り向けば、彼は数人の旅人と一緒に歩いてきていた。旅人たちは皆、口々にアルノスの火事の話をしている。
「聖堂が燃えたんだとよ」「白刃の巫女が暴れたって」「いや、巫女は死んだって聞いたぞ」
噂はもう、走り出している。
こちらの意図がどこまでうまく乗るかは分からない。どこかで歪められ、別の形で返ってくるかもしれない。
それでも、その不確かさごと、この世界なのだろう。
「シオリ!」
小川から戻ってきたルチアが、濡れた皿を掲げて走ってくる。
「お皿、ちゃんと洗ったよ!」
「見れば分かる」
シオリは受け取りながら、南の空を一瞥した。
焼けた大地の向こうに横たわる巨大な影と、遠い鐘の音。
そこに何が待っているのか、まだ誰も知らない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
ここから先は、誰の庇護でも、女神の加護でもない。
名前を捨てた王女と、神様を降りた人斬りと、帰る家を失った少女と、口のうまい獣人の案内人。
四人だけの放浪行が、本当の意味で始まるのは──この高原から先だ。
シオリは布包み越しに、腰のあたりで銀の重みを確かめた。
「行くぞ」
短くそう告げ、一歩、南へと足を踏み出す。
その先で、この世界の大きなうねりと真正面からぶつかることになると知るのは、もう少し後のことだった。