戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第三十一話

 最初に変わったのは、風の匂いだった。

 

 乾いた岩肌と草の匂いに、別のものが混じり始める。

 焦げた布、古い血、油の染みついた革……。

 

(……戦場のにおいだ)

 

 シオリは歩みを落とさず、鼻先だけわずかに動かした。

 

 高原から続く緩やかな下り坂を、四つの影が連なって降りていく。

 先頭を行くヴァナネルサの耳が、風に合わせて小さく揺れた。

 

「空気が変わってきましたな」

 

「分かるの?」

 

 リナがフードの縁を押さえながら尋ねる。

 彼女の顔は、旅装の下でまだ新しい名に慣れきれていない少女のものだった。

 

「獣人の鼻を侮らないでください。……それに」

 

 ヴァナネルサは顎で前方をしゃくった。

 

「見えてきましたよ」

 

 坂の先、霞んでいた平野が、徐々に輪郭を持ち始める。

 

 黄土色の大地に、粗く刻まれた畑の跡。

 その向こう、固く閉ざされた城門と、低い城壁に囲まれた街があった。

 

 城壁の外には、黒い焼け跡がいくつも転々としている。

 かつて柵や櫓があったのだろう場所には、まだ炭化した木の骨が突き出ていた。

 街道沿いには、小さな盛り土と粗末な木の杭が整然と並んでいる。

 

 土饅頭。墓だ。

 

 リナが、小さく息を呑んだ。

 

「あれは……」

 

「戦没者の塚でしょうな。正式な墓を用意する余裕もないまま、埋めたのでしょう」

 

 ヴァナネルサの声が、いつになく低い。

 

「ここを巡って、昔から小競り合いが絶えません。王国と、南の諸侯と、そのまた向こうの隣国と」

 

(前線の街か)

 

 シオリは、遠目に城壁を眺めた。

 

 石積みはところどころ補修の跡が目立ち、真新しい鉄板と古びた石が継ぎ接ぎのように混ざっている。

 外側の壕には、澱んだ水と折れた槍が沈んでいた。

 

 戦場と、街と、墓場が、全部ひと続きになっている。

 

 懐かしい、と一瞬思ってしまった自分に、シオリは内心で舌打ちした。

 

(懐かしがるところじゃない)

 

 あの世界の戦場と、ここは違う。

 違うはずだ、と言い聞かせる。

 

 最後尾を歩いていたルチアが、そわそわとシオリの袖を引っ張った。

 

「ねえ、シオリ」

 

「なんだ」

 

「あそこ……あの荷車、血が落ちてる」

 

 街道の先を、一台の荷車がぎしぎしと音を立てて進んでいた。

 布をかけられた荷の端から、赤黒い染みが乾いた筋を作っている。

 

 傍らには、腕に包帯を巻いた兵士が二人、足を引きずりながら歩いていた。

 荷車の上、布の隙間から覗いた金属の光——折れた槍の穂先と、割れた盾の一部。

 

「……負傷兵の帰り道、ってところだな」

 

 シオリは淡々と言う。

 

「見なきゃいいものも、戦場の近くじゃ、全部道の上に転がってる」

 

 ルチアは唇を噛み、視線を落とした。

 その肩に、リナがそっと手を置く。

 

「ルチア、こっちを見ていましょう。あまり、よくありませんわ」

 

「……うん」

 

 ルチアは素直に頷き、シオリの反対側に回り込む。

 細い手が、旅装の袖を掴んだまま離れない。

 

 シオリは、気づかないふりをした。

 

 城門の前には、長い列ができていた。

 

 荷車を連ねた行商人、故郷に帰る兵士、どこかの村から避難してきた家族……。

 様々な身なりの人々が、重たげな空気の中で順番を待っている。

 

 城門の上では、槍を持った兵士たちが兵装を整えたまま交代もせずに立ち続けていた。

 鎧の隙間から覗く顔には、疲労の色が濃い。

 

「検問、厳しそうだな」

 

 シオリが呟くと、ヴァナネルサがちらりと振り返る。

 

「厳しいというより……人手が足りていないように見えますな。ほら」

 

 門の手前で、若い兵士が声を荒らげていた。

 

「傷の具合は? 本当に立って歩けるのか! 城中の療養所はもういっぱいなんだぞ!」

 

「歩ける! 歩けるから通してくれ! せめて、家で死なせてくれよ!」

 

 ひげ面の男が叫び返す。

 肩に巻かれた包帯からは、まだ新しい血が滲んでいた。

 

 兵士は苦い顔をしながらも、やがて手を振って通行を許す。

 列の後ろにいた老婆が、胸の前で祈りの印を切った。

 

 ヴァナネルサは、自分たちの番が近づくと、すっと表情を変えた。

 柔らかく、いかにも商人風の笑みだ。

 

「さて、わたくしたちも、役になりきる時間ですな」

 

「役?」

 

 リナが小首をかしげる。

 

「旅人リナ様、護衛のシオリ殿、従者のわたくし、見習い……何でしたかね?」

 

「『皿洗い』だよ!」

 

 ルチアが素早く答えた。

 

「……そう、それです」

 

 ヴァナネルサは目だけで笑い、列の先頭に進み出た。

 

「ご苦労さまです、兵士殿。南へ向かう旅の者でしてな。通行税はこちらでよろしい?」

 

 小さな革袋を、さりげなく兵士に渡す。

 中身は硬貨が数枚と、アルノスの聖印に押された通行印の写しだ。

 

 兵士は袋を受け取り、中身を確認しながらヴァナネルサの顔と紙片を見比べる。

 

「アルノスの谷から来たのか?」

 

「ええ。ここより北で、少しばかり巡礼の真似事を」

 

「……谷が燃えたって噂、聞いたか」

 

 兵士の声が、わずかに低くなる。

 

「俺たちの元にも届いた。神殿が焼けて、巫女が死んだとかなんとか」

 

 リナの肩が、ほんの少しだけ強張る。

 

 ヴァナネルサは、その反応を背中越しに感じ取ったのか、何事もなかったように肩をすくめた。

 

「噂は噂ですな。火の手は見えましたが、我々のところまでは延焼しませんでしたし。……戦火の匂いに敏いのは、どこの土地も同じですな」

 

「ふん」

 

 兵士は鼻を鳴らし、列の後ろを顎でしゃくった。

 

「中に入ったら、北門より南門へは近寄るな。徴兵の詰所がある。名簿に名前を見つけたら、容赦なく引っ張り込まれるぞ」

 

「ご忠告、痛み入ります」

 

 ヴァナネルサは深々と頭を下げ、一行を促して門をくぐる。

 

 城門のアーチを潜る瞬間、シオリは、頭上に吊るされた黒い旗を見上げた。

 三つの爪で引き裂かれた獅子の紋章——黒獅子連隊のものではない。

 もっと雑な縫い取りで、地方領主の紋章に似た意匠だ。

 

(黒獅子じゃない。正規軍か、地方兵か)

 

 だが、城壁の陰には、別の旗が巻かれて立てかけてあった。

 黒地に、銀の獅子。

 

 風に煽られぬよう布を巻き付けられてはいるが、その輪郭だけで分かる。

 

(……黒獅子も、いる)

 

 シオリは視線だけでそれをなぞり、何事もなかったように街の中へ足を踏み入れた。

 

 街の中も、戦場の続きだった。

 

 路地の一角には、簡素な天幕がいくつも立ち並び、包帯だらけの男たちが寝かされている。

 薬草の匂いと血の匂いが混じり合い、空気を重くしていた。

 

 鍛冶屋の前では、折れた槍や曲がった剣が山のように積まれ、それを順番に火床へ突っ込んでは叩き直している。

 小さな少年が、鍛冶場の隅で火の番をしながら、眠そうに目をこすった。

 

 道端では、荷を失ったらしい女が、二人の子どもを抱きしめながら座り込んでいる。

 その足元には、「夫は南の前線に行ったきり帰らない」と拙い文字で書かれた札が置かれていた。

 

 ルチアの足取りが、自然と遅くなる。

 

「……孤児、いっぱい」

 

 ぽつりと漏らした声に、シオリは返事をしなかった。

 

 戦場の端には、いつだってこういう景色がある。

 血の匂いに慣れた者も、慣れない者も、同じ道を歩く。

 

(嫌なもんを、よく知ってる)

 

 内心で吐き捨ててから、シオリは自分を嗤う。

 

 嫌悪と同時に、自分の身体の奥底がわずかに熱を帯びるのを感じていた。

 刃を握り、踏み込むための熱だ。

 

 アルノスの谷では、その熱を抑え続けてきた。

 殺さないように。戦場にしないように。

 

 だが、この街は、最初から戦場の一部として呼吸している。

 

(ここで刃を振るえば、また元に戻るだけだ。人斬りの剣に)

 

 胸の奥で、ハヤテの声が蘇る。

 

『守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか』

 

 歯を食いしばるように、シオリは柄に添えた指先に力を込めた。

 

(成り下がったのは、事実だ)

 

 筋力も、踏み込みも、あの頃とは違う。

 この身体は軽く、速く動けるが、その分、一撃の重さが足りない。

 

 かつてのように、一刀で敵の首を刈り取ることだけを目的にするなら、それは欠点だ。

 けれど――

 

(守るには、悪くない)

 

 軽く、速く、何度でも踏み込み直せる。

 一本で仕留めそこねても、もう一度、刃を滑らせる余地がある。

 

 そんな感覚が、最近ようやく、手と足の中に根付き始めていた。

 

 足元に視線を落とす。

 石畳を蹴るつま先の角度、膝の抜き方、腰の位置。

 

 一度構えて、抜く。

 刃を振るう代わりに、空気を斬るイメージだけをなぞる。

 

 ひゅ、と風が鳴った気がした。

 

「シオリ?」

 

 リナが、不思議そうに覗き込む。

 

「歩きながら剣のこと考えてると、たまに怖い顔してるわよ」

 

「いつものことだ」

 

 シオリは短く答え、足を止めた。

 

「とりあえず、宿を確保する。話は、それからだ」

 

*

 

 街の中央から少し外れた通り沿いに、年季の入った宿屋があった。

 看板には、かつては鮮やかだったであろう「赤い馬」の絵が、色褪せて残っている。

 

 宿の女主人は、目を細めて一行を値踏みしたあと、部屋と飯を提示した。

 ヴァナネルサが巧みに値段を削り、四人は狭いが清潔な二部屋を確保する。

 

「男一人、女三人という扱いでよろしいか?」

 

 女主人の問いに、ヴァナネルサは苦笑した。

 

「男は一人もおりませんが、まあ、外から見ればそう見えるでしょうな」

 

「は?」

 

 女主人は怪訝な顔をしたが、あまり深く突っ込む気はないらしく、帳面に名前を書き込んだ。

 

「夕餉は?」

 

「軽くでいい。……その前に、一つ聞きたい」

 

 シオリが口を挟む。

 

「この街から、さらに南へ抜ける道は?」

 

「南門を出て、街道をまっすぐ行けば国境よ。そこから先は、あんたらみたいなひょろい旅人の行くところじゃない」

 

 女主人は肩をすくめる。

 

「前線だよ。兵か傭兵か、よっぽどの物好きじゃないと生きて戻らないさ」

 

 リナが喉を鳴らした。

 

「……別の道は?」

 

「東に回れば、遠回りだが山沿いの街を繋いで連邦まで行けるって話さ。でも、今はどこも兵を集めてる。通れるかどうかは運次第だろうね」

 

「なるほど」

 

 ヴァナネルサが頷く。

 

「情報を集めなければなりませんな。戦況と、人の流れと……」

 

「なら、酒場だな」

 

 シオリは迷いなく言った。

 

「兵と傭兵が集まる場所。そこが一番早い」

 

「酒場……!」

 

 ルチアの瞳が、不必要にきらきらし始める。

 

「行ってみたい!」

 

「子どもが喜ぶ場所じゃない」

 

 シオリは即座に否定したが、ヴァナネルサが口元に笑みを浮かべた。

 

「まあまあ。隅の席で大人しくしている分には構わないでしょう。世の荒波というものを、少しずつ教えねばなりませんし」

 

「荒波に飲ませる気はないぞ」

 

 渋い顔をしながらも、シオリは反論を最後まで押し切れなかった。

 

 リナが、そっと袖を引く。

 

「シオリ。情報は、確かに必要ですわ。……それに、あなた一人で行かせる方が、わたくしは心配です」

 

「どういう意味だ」

 

「あなた、すぐ喧嘩を買いますから」

 

 図星を突かれ、シオリは言葉に詰まる。

 

 ヴァナネルサは肩をすくめた。

 

「では、こうしましょう。日が暮れる前に軽く覗くだけ。危なそうならすぐに引き上げる。よろしいですかな?」

 

「……分かった」

 

 渋々頷きながら、シオリは心の中で別の算盤を弾いていた。

 

(兵と傭兵が集まる場所なら、黒獅子の残りも来ているかもしれない)

 

 アルノスの谷で一度対峙した、黒獅子連隊。

 その中で、ただ一人まともな会話が通じた男の顔が、脳裏をよぎる。

 

(ルーベン。あいつがこの街にいるかどうか、分かればいいが)

 

 知りたいような、知りたくないような感覚が、胸の中で絡まった。

 

*

 

 宿からそう遠くない場所に、噂通りの酒場があった。

 

 扉の上には、槍と盾を組み合わせた看板。

 中からは、笑い声と怒鳴り声と、安酒の匂いが漏れてくる。

 

 扉を押し開けると、むっとした熱気が一行を包んだ。

 

 粗末な木のテーブルに、鎧や軍服を半ば脱ぎかけた男たちが陣取っている。

 壁際には剣と槍が乱雑に立てかけられ、床にはこぼれた酒とパン屑が散らばっていた。

 

「わあ……」

 

 ルチアが思わず声を上げかけた瞬間、シオリがその頭を軽く小突いた。

 

「声を抑えろ。端っこだ」

 

 空いている隅の席を見つけ、一行はそこに腰を下ろした。

 ヴァナネルサが店主を呼び、薄いエールと固いパン、塩漬け肉を頼む。

 

 リナは周囲の空気に圧倒されているのか、カップを両手で包み込むように持ちながら、そわそわと視線を彷徨わせていた。

 

 シオリは、パンをちぎりながら耳だけを周囲に向ける。

 

「……またやられたらしいぞ、北の前線が」

 

「南じゃなくてか? この前も補給隊が襲われたって……」

 

「違う違う。噂の、あいつだよ」

 

 近くのテーブルから、低い声が漏れ聞こえてきた。

 

 粗野な笑いと共に、木製のカップが打ち鳴らされる音。

 

「あいつって……『白い刃』の?」

 

「そうだよ。たった一人で、敵の突撃隊を真っ二つにしてきたって話だ。味方より先に塹壕から出てよ、戻ってくる頃には敵の旗が倒れてる。で、戦が終わる頃には、もう酒場の席を温めてるってわけだ」

 

「はったりだろ」

 

「俺の従弟が前線にいるんだよ! 手紙に書いてきたんだ。『人じゃねえ。あれは化け物だ』ってな」

 

 シオリの指先から、ちぎりかけていたパンがぽろりと落ちた。

 

 リナが驚いて顔を上げる。

 シオリは気づかないふりをして、耳を澄ませた。

 

(白い刃……?)

 

 アルノスの谷で、民が自分につけた名。

 預言書に記された、白刃の巫女。

 

 同じ呼び名が、まったく別の戦場で囁かれている。

 

「その白い刃ってのは、女だって話だ」

 

「女?」

 

「そう。髪は黒で、剣だけが白く光るってな。敵も味方も関係なく、前に立つ奴を片っ端から斬り伏せる。兵どもは、ビビってあいつの後ろからしか動けねえんだと」

 

「おいおい、女神様の巫女様か?」

 

「違う違う。あいつは……」

 

 男が言いかけたその時、酒場の扉が乱暴に開かれた。

 

 冷たい外気と、夕暮れの光が雪崩れ込む。

 

 シオリは反射的に顔を上げた。

 

 扉の向こうに立っていたのは、見慣れた紋章の外套だった。

 

 黒地に銀の獅子。

 黒獅子連隊。

 

 だが、その男の立ち姿は、谷で見たときとは少し違っていた。

 鎧は簡素なものに替えられ、紋章の外套も埃を被っている。

 それでも、纏う空気は変わらない。

 

 鋭く、よく研がれた刃を思わせる眼つき。

 

(……やっぱりいたか)

 

 シオリは、心のどこかでそう思っていた自分に気づき、苦笑した。

 

 男は酒場の中を一瞥し、入口近くの席に座ろうとして――ふと、シオリたちのいる隅の席で動きを止めた。

 

 灰色がかった瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。

 

 数拍の沈黙。

 

 やがて、男はゆっくりと口の端を上げた。

 

「……妙なところで会うもんだな」

 

 黒獅子連隊副隊長、ルーベン。

 

 彼は、まっすぐシオリのテーブルに歩み寄ってきた。

 

「白刃の巫女さま」

 

 その呼び名に、卓の下でシオリの手がぴくりと動いた。

 

「ここいらじゃ、別の『白刃』が暴れてるって話だが——」

 

 ルーベンは、カップも頼まずに椅子を引き、勝手に腰を下ろす。

 

「お前さんは、どう聞いてる?」

 

 まるで古い友人に世間話を持ちかけるような調子で。

 

 シオリは、落としたままのパンを拾い上げ、ゆっくりと握りしめた。

 

「……今、初めて聞いたところだ」

 

 声が、かすかに低くなる。

 

「白い刃の化け物剣士。兵の間じゃ、なんて呼ばれてる?」

 

 ルーベンの目が、シオリの瞳を試すように細められた。

 

 酒場のざわめきが、遠くに引いていく。

 

 男は、わずかに肩をすくめて言った。

 

「『偽白刃』だとさ」

 

 その言葉が、シオリの胸の奥に、鈍い刃のように突き刺さった。

 

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