戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第三十二話

 耳に刺さった言葉が、しばらく抜けなかった。

 

 喉の奥が、乾く。

 シオリはカップを持ち上げ、ぬるくなったエールを一口だけ流し込む。

 

 まずい酒だった。

 それでも、何かを飲み込んでおかないと、余計なものまで口から零れそうだった。

 

「……物騒な呼び名ですな」

 

 最初に口を開いたのは、ヴァナネルサだった。

 

 いつもの猫のような笑みを、ほんの少しだけ細めている。

 視線はルーベンとシオリの間を往復しながら、慎重に距離を測っていた。

 

「『白刃』が本物で、『偽』がいる……どちらにしても、酒場の噂にしては、背筋が冷えますな」

 

「噂で済んでりゃ楽なんだがな」

 

 ルーベンは肩をすくめ、店主から受け取ったカップを乱暴に口元へ運んだ。

 

「残念なことに、前線からの報告書にも、同じようなことが書いてある」

 

「報告書に、ですの?」

 

 リナが、思わず身を乗り出す。

 自分で慌てて背筋を伸ばし直す仕草が、まだ「リナ」という名に慣れていないことを物語っていた。

 

 ルーベンは、ちらりと彼女を見た。

 

 その目に、一瞬だけ何かを計る色が浮かんだが――すぐに、無表情な兵の目に戻る。

 

「名指しじゃない。『白い刃を振るう女剣士』って書き方だ。俺の部下の手紙の方がよっぽど口が悪い」

 

「さっきの、『化け物』ってやつですか」

 

 ルチアが、おずおずと訊ねた。

 椅子の上で足をぶらぶらさせながらも、その瞳には好奇心と恐怖が入り混じっている。

 

「そうだ。化け物」

 

 ルーベンは、あっさりと認める。

 

「一度目は、北側の塹壕線での夜襲。敵の斥候だと思ってた奴が、実はそいつだった」

 

 卓の上に、指で簡単な線を描く。

 一本の線が、二つ、三つと枝分かれしていく。

 

「狭い塹壕の通路に飛び込んできて、先頭の連中をまとめて斬り伏せた。そいつを見た歩兵が慌てて突撃したが――」

 

 指先でなぞられた線が、途中でぷつりと途切れる。

 

「斬り上げ一つで、盾ごと割られたそうだ」

 

 シオリの背筋に、薄い悪寒が走った。

 

(斬り上げ、か)

 

 低い姿勢から、敵の盾の下をくぐり、顎の下へ抜ける軌道。

 重心をほんの少しだけ後ろに残し、相手が「受け止めた」と錯覚した瞬間、遅れて体重を乗せる。

 

 骨ごと砕ける感触。

 

 あまりに馴染み深いイメージに、シオリは気づかれないよう歯を食いしばる。

 

「二度目は、補給隊の護衛だ。街道上での乱戦になったが、そいつが前に出るたびに、戦列が面白いように割れたらしい」

 

 ルーベンは、淡々と続ける。

 

「味方の槍ごと敵を貫くような斬り込みだとさ。前に立つ奴は、味方だろうが敵だろうが関係ない。止まってくれるなら誰でもいい、って勢いで」

 

「……それは」

 

 リナが、言葉を失う。

 

 ルチアは、膝の上で握りしめた手を見つめていた。

 

 ヴァナネルサが、静かに息を吐く。

 

「それで、『白刃』と?」

 

「そうだ。夜目にも分かる、妙に白い刃を振るっていたって話だ」

 

 ルーベンの視線が、シオリの腰へと流れる。

 布に包まれた剣の位置を、彼はきちんと覚えていた。

 

「アルノスで見た、お前の剣みたいにな」

 

 テーブルの上で、空気が固くなった。

 

 シオリは、あえて視線を合わせた。

 

「……そっちの兵は、そいつをどう呼んでる」

 

「さっき言った通りだよ」

 

 ルーベンは、口の端をわずかに上げる。

 

「『偽白刃』。本物の白刃様は谷の向こうにいるって、一度噂になっちまったからな。今さら別の白い刃なんて出てこられても、兵の頭が混乱する」

 

「本物も偽物も、いるかどうかも怪しいのに、ですわね」

 

 リナが、小さく呟いた。

 それは、自分の胸の内を誤魔化すための言葉にも聞こえた。

 

 ルーベンは、彼女の方を見やり――ふっと、皮肉とも同情ともつかない笑みを浮かべる。

 

「そうだな。だが、兵にとっては、信じやすい方が『本物』になる」

 

「信じやすい方?」

 

 シオリが問い返す。

 

「谷の向こうにいて、敵を崖ごと落としてくれた白刃の巫女さまか。前線で味方ごと敵を斬り伏せる化け物の剣か」

 

 ルーベンは、肩をすくめた。

 

「どっちがマシかって話だ。少なくとも俺の連中は、『今見えてる化け物』の方を偽物にしておきたいらしい」

 

 その言葉は、冗談めいていたが――その奥にある計算は、冷静だった。

 

(士気対策か)

 

 シオリは、内心で呟く。

 

 目の前にいる脅威を「偽物」と呼べるなら、まだ戦える。

 本物の怪物を相手にしていると思った途端、人の足は止まる。

 

 それは、自分が何度も見てきた光景だった。

 

「で?」

 

 シオリは、わざとぶっきらぼうに言った。

 

「わざわざ俺のところまで来て、その噂話をしてくれる理由は」

 

「単なる世間話にしたいところだがな」

 

 ルーベンは、カップの中身を飲み干し、空の器を卓に伏せた。

 

「俺は、兵を無駄に死なせたくない。だから、目の前にいる厄介事が、どんな顔をしてるか知っておきたい」

 

「……厄介事?」

 

「白刃を名乗る剣が二振り」

 

 ルーベンの視線が、真正面からシオリを捉える。

 

「片方は、谷で山を落とした巫女さま。もう片方は、祝福まみれの実験剣士だ」

 

 祝福、という単語に、リナの肩がびくりと震えた。

 

 シオリは、表情を変えない。

 

「エストン側のか」

 

「そう見ている」

 

 ルーベンは即答した。

 

「奴らは、祝福とやらを兵器にするのが好きだ。山の向こうでも、似たような話を聞いたことがある」

 

 彼の声が、わずかに低くなる。

 

「『人の形をした実験台』が、戦場を駆け回っているってな」

 

 ハヤテの顔が、脳裏に閃いた。

 

 血に塗れた鎧。焦点の合わない目。

 剣を振るうたび、肉と鎖骨の砕ける音が、祝福の鈍い輝きと共に響く。

 

(あいつらは、まだ作ってるのか)

 

 胸の奥が、じわりと冷える。

 

「だから確認したかったのさ」

 

 ルーベンは続ける。

 

「谷で見た『白い刃』が、今ここで暴れてる奴と同じものなのかどうか」

 

「……違う」

 

 シオリの口から、自然と声が漏れた。

 

 思考より先に、否定が滑り出る。

 

「少なくとも、俺は味方をまとめて斬りはしない」

 

「だろうな」

 

 ルーベンは、あっさりと頷いた。

 

「谷の件で、こっちの情報も少しは集まってる。あんたは、あの街を『戦場にしない』ために動いた」

 

 その言葉に、リナとルチアの視線が、同時にシオリへ向く。

 

 ヴァナネルサだけが、静かに目を細めていた。

 彼だけは、シオリの肩にかかる重さを、少しだけ理解しているように見えた。

 

「だから、今のところ俺は、お前を『厄介事』の片方として扱ってない」

 

 ルーベンは言う。

 

「俺にとって厄介なのは、『偽白刃』の方だけだ」

 

「今のところは、ね」

 

 シオリは、皮肉混じりに返した。

 

「俺の剣が、いつそっち側に転ぶかも分からないぞ」

 

「転ぶのか?」

 

 ルーベンの目が、試すように細められる。

 

「お前が、守りたいものを間違えたときだな」

 

 短い沈黙。

 

 シオリは、ふっと息を吐いた。

 

「……さあな」

 

 答えは、まだ出せなかった。

 

*

 

 酒場を出ると、夜気が肌にまとわりついてきた。

 

 昼間の熱気が石畳に残り、それがじわじわと立ち上る。

 遠くの方で、鍛冶場の槌音が遅くまで鳴り続けていた。

 

「ふう……」

 

 ルチアが、大きく伸びをする。

 

「なんか、すごい話だった……」

 

「すごいというか、笑えませんわね」

 

 リナはマントの前を合わせながら、深く息を吐いた。

 

「『偽白刃』……。白刃の巫女様の名を、そんな風に使うなんて」

 

「本家本元が、ここにいるのが皮肉ですな」

 

 ヴァナネルサが、冗談めかして言う。

 

「しかも、その巫女様は、女神さまを降りた後でございます」

 

「やめろ」

 

 シオリは、眉間に皺を寄せて言った。

 

「俺は巫女でも何でもない。あそこで勝手にそう呼ばれただけだ」

 

「でも、あの男の人……ルーベンさん、でしたっけ」

 

 ルチアが、控えめに口を挟む。

 

「シオリのこと、『厄介事じゃない』って言ってたよ」

 

「今のところ、だ」

 

 シオリは、夜空を仰いだ。

 

 城壁の向こう、見えない場所で、戦場が呼吸している。

 煙と焦げた匂いが、風に乗って薄く運ばれてきた。

 

「俺が剣を振るう場所を間違えたら、あいつは迷わず俺を『厄介事』に分類する。そういう男だ」

 

「それは……」

 

 リナは、言葉を探すように唇を噛んだ。

 

 シオリは、彼女の顔を見ようとしなかった。

 代わりに、空を切るように、そっと右手を動かす。

 

 歩幅一つ分の踏み込み。

 軽く肩をひねり、空気だけを斬る。

 

 刃は抜かない。

 だが、身体は勝手に「斬る」動きをなぞりたがっていた。

 

(……遅い)

 

 足の裏に残る感覚が、冷静に告げる。

 

 昔なら、一歩で詰められた距離。

 今の身体では、半歩足りない。

 

 それを補おうとして、無意識に二度、三度と足が動こうとする。

 

「シオリ?」

 

 リナが、不安げに覗き込んできた。

 

「さっきから、ずっと難しい顔をして……その、怖いですわ」

 

「いつものことだ」

 

 シオリは、軽く肩をすくめる。

 

「ただ、計算してるだけだ。『偽白刃』とやらが、どれくらい厄介か」

 

「戦うつもりですの?」

 

 その問いに、足が止まった。

 

 リナの瞳が、夜の灯りを映して揺れている。

 

 言葉を選べば選ぶほど、嘘っぽくなりそうだった。

 だから、シオリは最も単純な答えを選ぶ。

 

「まだ、分からん」

 

「……分からない、ですか」

 

「ああ」

 

 シオリは、視線だけを前に向けた。

 

「逃げ続ける道もある。ここから東の山沿いに抜けて、連邦まで行くって手もな」

 

「はい」

 

「でも、どのみち、どこかで戦場にはぶつかる。『白い刃』を名乗る奴がこの国の戦を掻き回してるなら、なおさらだ」

 

 自嘲めいた笑いが、喉の奥で転がる。

 

「戦場を遠ざけようとして山を落とした結果、別の戦場の中心に出てきたってわけだ」

 

「それは……」

 

 リナは言いかけて、首を振った。

 

「いいえ。それでも、あの谷を守ってくださったことは、変わりませんわ」

 

 その言葉は、真っ直ぐだった。

 

 シオリは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。

 

 ハヤテの声が、また蘇る。

 

『守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか』

 

(……ああ、成り下がったとも)

 

 心の中でだけ、応じる。

 

(昔の俺なら、『偽だろうが本物だろうが、全部まとめて斬ってやる』って笑ってた)

 

 今は、その踏み込みができない。

 守りたいものが、手の届く距離にいる。

 

「でも」

 

 リナの声が、思考の底に滑り込んできた。

 

「たとえ成り下がった剣でも――いいえ」

 

 彼女は、言い直す。

 

「守るものがある剣の方が、わたくしは強いと思います」

 

 シオリは、答えなかった。

 

 答えられるほど、自分の剣を信じてはいなかった。

 

 代わりに、夜空の向こうを睨む。

 

 遠く、国境の方角で、ぼんやりと赤い光が瞬いた気がした。

 雷にしては長く、焚き火にしては大きい。

 

 ヴァナネルサが、耳をぴくりと動かす。

 

「……戦だ」

 

 低く呟いた。

 

「前線が、また一つ燃えましたな」

 

 その言葉が、四人の足元に、戦場の影を落とした。

 

 『偽白刃』が斬り込んでいるのか。

 それとも、別の誰かの血が流れているのか。

 

 どちらにせよ、そこにあるのは、シオリが何度も見てきた光景だった。

 

(逃げるか、踏み込むか)

 

 胸の中で、天秤が揺れる。

 

 今のところ、その針はまだ、どちらにも振り切れてはいなかった。

 

 だが、近いうちに、決めざるを得なくなる。

 

 シオリは、腰の剣にそっと手を添えた。

 

 鋼の冷たさだけが、変わらずそこにあった。

 

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