戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
耳に刺さった言葉が、しばらく抜けなかった。
喉の奥が、乾く。
シオリはカップを持ち上げ、ぬるくなったエールを一口だけ流し込む。
まずい酒だった。
それでも、何かを飲み込んでおかないと、余計なものまで口から零れそうだった。
「……物騒な呼び名ですな」
最初に口を開いたのは、ヴァナネルサだった。
いつもの猫のような笑みを、ほんの少しだけ細めている。
視線はルーベンとシオリの間を往復しながら、慎重に距離を測っていた。
「『白刃』が本物で、『偽』がいる……どちらにしても、酒場の噂にしては、背筋が冷えますな」
「噂で済んでりゃ楽なんだがな」
ルーベンは肩をすくめ、店主から受け取ったカップを乱暴に口元へ運んだ。
「残念なことに、前線からの報告書にも、同じようなことが書いてある」
「報告書に、ですの?」
リナが、思わず身を乗り出す。
自分で慌てて背筋を伸ばし直す仕草が、まだ「リナ」という名に慣れていないことを物語っていた。
ルーベンは、ちらりと彼女を見た。
その目に、一瞬だけ何かを計る色が浮かんだが――すぐに、無表情な兵の目に戻る。
「名指しじゃない。『白い刃を振るう女剣士』って書き方だ。俺の部下の手紙の方がよっぽど口が悪い」
「さっきの、『化け物』ってやつですか」
ルチアが、おずおずと訊ねた。
椅子の上で足をぶらぶらさせながらも、その瞳には好奇心と恐怖が入り混じっている。
「そうだ。化け物」
ルーベンは、あっさりと認める。
「一度目は、北側の塹壕線での夜襲。敵の斥候だと思ってた奴が、実はそいつだった」
卓の上に、指で簡単な線を描く。
一本の線が、二つ、三つと枝分かれしていく。
「狭い塹壕の通路に飛び込んできて、先頭の連中をまとめて斬り伏せた。そいつを見た歩兵が慌てて突撃したが――」
指先でなぞられた線が、途中でぷつりと途切れる。
「斬り上げ一つで、盾ごと割られたそうだ」
シオリの背筋に、薄い悪寒が走った。
(斬り上げ、か)
低い姿勢から、敵の盾の下をくぐり、顎の下へ抜ける軌道。
重心をほんの少しだけ後ろに残し、相手が「受け止めた」と錯覚した瞬間、遅れて体重を乗せる。
骨ごと砕ける感触。
あまりに馴染み深いイメージに、シオリは気づかれないよう歯を食いしばる。
「二度目は、補給隊の護衛だ。街道上での乱戦になったが、そいつが前に出るたびに、戦列が面白いように割れたらしい」
ルーベンは、淡々と続ける。
「味方の槍ごと敵を貫くような斬り込みだとさ。前に立つ奴は、味方だろうが敵だろうが関係ない。止まってくれるなら誰でもいい、って勢いで」
「……それは」
リナが、言葉を失う。
ルチアは、膝の上で握りしめた手を見つめていた。
ヴァナネルサが、静かに息を吐く。
「それで、『白刃』と?」
「そうだ。夜目にも分かる、妙に白い刃を振るっていたって話だ」
ルーベンの視線が、シオリの腰へと流れる。
布に包まれた剣の位置を、彼はきちんと覚えていた。
「アルノスで見た、お前の剣みたいにな」
テーブルの上で、空気が固くなった。
シオリは、あえて視線を合わせた。
「……そっちの兵は、そいつをどう呼んでる」
「さっき言った通りだよ」
ルーベンは、口の端をわずかに上げる。
「『偽白刃』。本物の白刃様は谷の向こうにいるって、一度噂になっちまったからな。今さら別の白い刃なんて出てこられても、兵の頭が混乱する」
「本物も偽物も、いるかどうかも怪しいのに、ですわね」
リナが、小さく呟いた。
それは、自分の胸の内を誤魔化すための言葉にも聞こえた。
ルーベンは、彼女の方を見やり――ふっと、皮肉とも同情ともつかない笑みを浮かべる。
「そうだな。だが、兵にとっては、信じやすい方が『本物』になる」
「信じやすい方?」
シオリが問い返す。
「谷の向こうにいて、敵を崖ごと落としてくれた白刃の巫女さまか。前線で味方ごと敵を斬り伏せる化け物の剣か」
ルーベンは、肩をすくめた。
「どっちがマシかって話だ。少なくとも俺の連中は、『今見えてる化け物』の方を偽物にしておきたいらしい」
その言葉は、冗談めいていたが――その奥にある計算は、冷静だった。
(士気対策か)
シオリは、内心で呟く。
目の前にいる脅威を「偽物」と呼べるなら、まだ戦える。
本物の怪物を相手にしていると思った途端、人の足は止まる。
それは、自分が何度も見てきた光景だった。
「で?」
シオリは、わざとぶっきらぼうに言った。
「わざわざ俺のところまで来て、その噂話をしてくれる理由は」
「単なる世間話にしたいところだがな」
ルーベンは、カップの中身を飲み干し、空の器を卓に伏せた。
「俺は、兵を無駄に死なせたくない。だから、目の前にいる厄介事が、どんな顔をしてるか知っておきたい」
「……厄介事?」
「白刃を名乗る剣が二振り」
ルーベンの視線が、真正面からシオリを捉える。
「片方は、谷で山を落とした巫女さま。もう片方は、祝福まみれの実験剣士だ」
祝福、という単語に、リナの肩がびくりと震えた。
シオリは、表情を変えない。
「エストン側のか」
「そう見ている」
ルーベンは即答した。
「奴らは、祝福とやらを兵器にするのが好きだ。山の向こうでも、似たような話を聞いたことがある」
彼の声が、わずかに低くなる。
「『人の形をした実験台』が、戦場を駆け回っているってな」
ハヤテの顔が、脳裏に閃いた。
血に塗れた鎧。焦点の合わない目。
剣を振るうたび、肉と鎖骨の砕ける音が、祝福の鈍い輝きと共に響く。
(あいつらは、まだ作ってるのか)
胸の奥が、じわりと冷える。
「だから確認したかったのさ」
ルーベンは続ける。
「谷で見た『白い刃』が、今ここで暴れてる奴と同じものなのかどうか」
「……違う」
シオリの口から、自然と声が漏れた。
思考より先に、否定が滑り出る。
「少なくとも、俺は味方をまとめて斬りはしない」
「だろうな」
ルーベンは、あっさりと頷いた。
「谷の件で、こっちの情報も少しは集まってる。あんたは、あの街を『戦場にしない』ために動いた」
その言葉に、リナとルチアの視線が、同時にシオリへ向く。
ヴァナネルサだけが、静かに目を細めていた。
彼だけは、シオリの肩にかかる重さを、少しだけ理解しているように見えた。
「だから、今のところ俺は、お前を『厄介事』の片方として扱ってない」
ルーベンは言う。
「俺にとって厄介なのは、『偽白刃』の方だけだ」
「今のところは、ね」
シオリは、皮肉混じりに返した。
「俺の剣が、いつそっち側に転ぶかも分からないぞ」
「転ぶのか?」
ルーベンの目が、試すように細められる。
「お前が、守りたいものを間違えたときだな」
短い沈黙。
シオリは、ふっと息を吐いた。
「……さあな」
答えは、まだ出せなかった。
*
酒場を出ると、夜気が肌にまとわりついてきた。
昼間の熱気が石畳に残り、それがじわじわと立ち上る。
遠くの方で、鍛冶場の槌音が遅くまで鳴り続けていた。
「ふう……」
ルチアが、大きく伸びをする。
「なんか、すごい話だった……」
「すごいというか、笑えませんわね」
リナはマントの前を合わせながら、深く息を吐いた。
「『偽白刃』……。白刃の巫女様の名を、そんな風に使うなんて」
「本家本元が、ここにいるのが皮肉ですな」
ヴァナネルサが、冗談めかして言う。
「しかも、その巫女様は、女神さまを降りた後でございます」
「やめろ」
シオリは、眉間に皺を寄せて言った。
「俺は巫女でも何でもない。あそこで勝手にそう呼ばれただけだ」
「でも、あの男の人……ルーベンさん、でしたっけ」
ルチアが、控えめに口を挟む。
「シオリのこと、『厄介事じゃない』って言ってたよ」
「今のところ、だ」
シオリは、夜空を仰いだ。
城壁の向こう、見えない場所で、戦場が呼吸している。
煙と焦げた匂いが、風に乗って薄く運ばれてきた。
「俺が剣を振るう場所を間違えたら、あいつは迷わず俺を『厄介事』に分類する。そういう男だ」
「それは……」
リナは、言葉を探すように唇を噛んだ。
シオリは、彼女の顔を見ようとしなかった。
代わりに、空を切るように、そっと右手を動かす。
歩幅一つ分の踏み込み。
軽く肩をひねり、空気だけを斬る。
刃は抜かない。
だが、身体は勝手に「斬る」動きをなぞりたがっていた。
(……遅い)
足の裏に残る感覚が、冷静に告げる。
昔なら、一歩で詰められた距離。
今の身体では、半歩足りない。
それを補おうとして、無意識に二度、三度と足が動こうとする。
「シオリ?」
リナが、不安げに覗き込んできた。
「さっきから、ずっと難しい顔をして……その、怖いですわ」
「いつものことだ」
シオリは、軽く肩をすくめる。
「ただ、計算してるだけだ。『偽白刃』とやらが、どれくらい厄介か」
「戦うつもりですの?」
その問いに、足が止まった。
リナの瞳が、夜の灯りを映して揺れている。
言葉を選べば選ぶほど、嘘っぽくなりそうだった。
だから、シオリは最も単純な答えを選ぶ。
「まだ、分からん」
「……分からない、ですか」
「ああ」
シオリは、視線だけを前に向けた。
「逃げ続ける道もある。ここから東の山沿いに抜けて、連邦まで行くって手もな」
「はい」
「でも、どのみち、どこかで戦場にはぶつかる。『白い刃』を名乗る奴がこの国の戦を掻き回してるなら、なおさらだ」
自嘲めいた笑いが、喉の奥で転がる。
「戦場を遠ざけようとして山を落とした結果、別の戦場の中心に出てきたってわけだ」
「それは……」
リナは言いかけて、首を振った。
「いいえ。それでも、あの谷を守ってくださったことは、変わりませんわ」
その言葉は、真っ直ぐだった。
シオリは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
ハヤテの声が、また蘇る。
『守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか』
(……ああ、成り下がったとも)
心の中でだけ、応じる。
(昔の俺なら、『偽だろうが本物だろうが、全部まとめて斬ってやる』って笑ってた)
今は、その踏み込みができない。
守りたいものが、手の届く距離にいる。
「でも」
リナの声が、思考の底に滑り込んできた。
「たとえ成り下がった剣でも――いいえ」
彼女は、言い直す。
「守るものがある剣の方が、わたくしは強いと思います」
シオリは、答えなかった。
答えられるほど、自分の剣を信じてはいなかった。
代わりに、夜空の向こうを睨む。
遠く、国境の方角で、ぼんやりと赤い光が瞬いた気がした。
雷にしては長く、焚き火にしては大きい。
ヴァナネルサが、耳をぴくりと動かす。
「……戦だ」
低く呟いた。
「前線が、また一つ燃えましたな」
その言葉が、四人の足元に、戦場の影を落とした。
『偽白刃』が斬り込んでいるのか。
それとも、別の誰かの血が流れているのか。
どちらにせよ、そこにあるのは、シオリが何度も見てきた光景だった。
(逃げるか、踏み込むか)
胸の中で、天秤が揺れる。
今のところ、その針はまだ、どちらにも振り切れてはいなかった。
だが、近いうちに、決めざるを得なくなる。
シオリは、腰の剣にそっと手を添えた。
鋼の冷たさだけが、変わらずそこにあった。