戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
夜の酒場のざわめきが、ようやく遠ざかった。
安宿の二階、軋むベッドの上で目を閉じてはいたが、眠りは浅かった。薄い壁越しに、兵士たちの笑い声と、どこかで誰かが吐き戻す音が、夜更けまで途切れなかったからだ。
それでも、シオリを本当に眠らせなかったのは、壁でも酒でもない。
(……偽白刃、ね)
耳の奥に、ルーベンの声がこびりついている。
『白刃を名乗る剣が二振り』
片方は、谷を崩した巫女。
もう片方は、味方ごと敵を斬り捨てる“祝福まみれ”の実験剣士。
似ているのは、名前だけではない。
白い刃。黒髪。女の身体。殺すことだけに研がれた動き。
(昔の俺を、別の肉に詰め直したみたいな……)
そこまで考えて、自分で自分に舌打ちした。
(気持ち悪い比喩だな)
薄闇の中で目を開ける。
狭い部屋の中、向かいのベッドにはルチアが丸くなって眠っていた。布団を蹴飛ばしているのか、細い足が半分はみ出している。
もう一つのベッドには、リナの淡い金髪が枕に広がっていた。規則正しい寝息。昼間の酒場での緊張が、ようやく解けたのだろう。
窓の外が、わずかに白む。
シオリは音もなく身を起こし、外套を羽織った。
冷えた床板を踏む感触が、体を現実に引き戻す。
*
外は、朝の匂いがした。
まだ日が昇り切る前の、湿った冷気。だが、その奥に、昨日から嗅ぎ慣れない匂いが混じっている。
焦げた布。薬草。乾いた血。
路地の向こうから、ぎい、と車輪の軋む音が近づいてきた。
風に紛れて、呻き声。
シオリは無意識に、路地の影へ半歩退いた。視線だけで、通りを覗き込む。
布を被せた荷車が、一台、二台と通りを進んでいく。白木の板に赤い染みがじわりと広がっているのが、布越しにも分かった。
荷台の端から、包帯で巻かれた腕が垂れている。指先が、荷車の揺れに合わせて力なく揺れた。
荷車の脇を、若い兵士が二人付き添って歩いている。一人は眠そうに目をこすり、もう一人は何度も唇を噛んでいた。
「……前線から、ですか」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、ヴァナネルサが狭い路地の出口に立っていた。いつものように猫の耳を布で隠してはいるが、裾から覗く尾が、しょんぼりと垂れている。
「起きていたか」
「シオリ殿こそ。……寝付きがよろしくない顔をしておられる」
「元からだ」
短く返す。
荷車が角を曲がり、見えなくなる。残ったのは、血と薬の匂いだけだった。
「昨夜、兵舎に顔を出した折に聞きましたが……」と、ヴァナネルサは小声で続けた。「前線の陣地がひとつ、押し込まれたそうです。夜明け前に、負傷者をまとめて送り返したとか」
「押し込まれた?」
「ええ。『実験部隊』とやらに、ですな」
彼は、その単語だけをわずかに重くした。
シオリは鼻を鳴らす。
「祝福漬けの兵だ」
「そう言っておられましたな、昨夜のお方も」
昨夜のお方――黒獅子連隊副隊長、ルーベン。
名前を口にする代わりに、ヴァナネルサは肩をすくめる。
「兵たちの噂話も耳にしました。『血も涙もない白い刃』だの、『味方の盾を踏み台にする女』だの。どこまで真実かは、分かりませんが」
「どこまで真実か、ね」
シオリは、空を見上げた。
東の空の端が、かすかに赤い。夜明けの色なのか、遠くの火の色なのか、判別がつきにくい。
(前線、か)
あの荷車が来た方向。
昨夜、遠くにちらついた赤い光。
そこには、かつて自分が立っていたような場所がある。鋼と肉と絶叫だけで構成された世界。
そこへ、また足を踏み入れるのかどうか。
「シオリ?」
背後で、戸口が軋んだ。
振り向くと、寝ぼけ眼のルチアが、外套を抱えたままこちらを見ていた。髪はあちこち跳ねていて、まだ半分夢の中といった顔だ。
「寒……なに、これ」
通りを見やり、鼻をひくつかせる。
薬と血の匂いに気づいたのだろう。眉をひそめた。
「……また、運ばれてきてる」
「見なくていい」
シオリは、短く言った。
「朝飯食ったら、今日の行き先を決める。起きろ」
「ふぁい……」
ルチアは、あくびを噛み殺しながら部屋へ戻っていった。
その背中を見送り、ヴァナネルサが小さく笑う。
「優しいことを言われるようになりましたな、シオリ殿も」
「寝起きのガキを戦場見物に連れ出すほど、趣味は悪くない」
「そうですとも。戦場見物は、大人の嗜みですな」
「お前の“嗜み”の基準は信用ならん」
そう言いながらも、シオリ自身が、その「戦場見物」という言葉に引き寄せられていることに気づいていた。
*
朝食を終える頃、宿の主人がそわそわと近づいてきた。
「お客さん方」
ぶ厚い手で頭巾を弄りながら、落ち着かない様子である。
「さっき、兵士さんが来ましてね。『黒獅子の副隊長殿がお呼びだ』って」
リナの手から、パンの欠片が滑り落ちた。
「……わたくしたちを、ですの?」
「い、いや、その……『旅人一行』ってだけで、名前までは」
宿の主人は、明らかに困惑していた。黒獅子連隊と言えば、この国境の町では、神官よりもよほど怖がられている連中だ。
「断るんなら断ったって言うが……どうする?」
視線が自然と、シオリに集まる。
シオリは、少しだけ沈黙を置いてから答えた。
「場所は」
「北の門の脇の詰所だそうで。『昼前に来い』と」
「分かった。行く」
「シオリ!」
思わず、リナが声を上げた。
「黒獅子連隊に近づくのは、危険すぎますわ。いくら副隊長と顔見知りだからと言って……」
「だからこそだ」
シオリは、パン屑を払いつつ立ち上がる。
「谷で一度話を通した相手だ。こっちから顔を出した方が、余計な疑いは減る」
「……けれど」
「それに」
言いかけたリナの言葉を、シオリは指で押さえた。
自分の胸を、ほんの少しだけ指先で叩く。
「昨夜の続きだろう。『偽白刃』の話の」
その名を口にした瞬間、空気がわずかに冷えた。
リナは唇を噛み、ルチアは落ち着かない手つきを膝の上で繰り返す。
ヴァナネルサだけが、いつもの笑みを崩さずにいた。
「わたくしも、ご一緒いたします」
リナが、やがて小さく息を吸って言った。
「ここで震えているだけでは、何も変わりませんもの。……ルチアは宿で待っていてくださいな」
「えっ。ちょっと、置いてくの?」
ルチアが目を丸くする。
「詰所に子供を連れて行く物好きはおりませんぞ、嬢ちゃん」とヴァナネルサ。「ちゃんと昼には戻ります。皿洗いの宿題でもしておきなさい」
「そんな宿題、出された覚えないんだけど!」
抗議の声を残しつつも、ルチアは結局、渋々と頷いた。
*
北門の詰所は、石と木で組まれた簡素な建物だった。
入り口には黒獅子の紋章を刻んだ旗が掲げられ、槍を持った兵士が二人、無表情に立っている。
シオリたちが近づくと、その片方が眉を上げた。
「旅人の一行か」
「そうだ」
シオリが短く答えると、兵士は視線をリナとヴァナネルサに流し、最後にシオリの腰の剣にとどめた。
わずかに目つきが変わる。
「……中で、副隊長殿が待っておられる」
通された詰所の奥の部屋は、思ったより質素だった。粗末な机に地図が広げられ、その上に石ころで即席の駒が並べてある。
窓際に立ち、外を見ていた男が振り向いた。
「よく来たな」
黒鉄の鎧の上から外套を羽織り、腰には槍ではなく剣を帯びている。灰色の瞳が、相変わらず研がれた刃のようだ。
ルーベンだった。
「呼びつける形になって、悪かったな。宿の場所を聞いて回る羽目になる前に、来てくれて助かった」
「そういう手間を惜しむくらいなら、最初から呼ぶな」
シオリは肩をすくめる。
「……で、本題はなんだ。昨夜の話の続きか?」
「ああ」
ルーベンは机の上の地図に手を置いた。
地図は、この国境地帯一帯を描いたものらしい。線で示された街道、点で示された小さな砦。今いる町は、前線の少し後ろに位置している。
その先、国境線に沿うように、小さな丸がいくつも描かれていた。前線の野営陣地だ。
「ここから北へ半日ほど。丘の上に小さな砦がある。そこから、前線を見渡せる」
ルーベンの指が、ひとつの丸を軽く叩く。
「見渡せるだけだ。行軍している兵も、敵も、直接ぶつかり合っている場所も、そこからなら手に取るように見える」
「……だから何だ」
「一緒に来い」
灰色の瞳が、真正面からシオリを射抜いた。
「前線の視察だ。兵を連れてくついでに、お前にも見てほしい」
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
リナが小さく息を呑む。
「視察、ですって……?」
「そうだ、お嬢さん」
ルーベンは視線だけで彼女を一瞥した。
「この町にいる連中は、戦の匂いを嗅いではいるが、本物の戦場を見たことがない。前線の兵がどんな顔で戦っているのかも、何に怯えているのかも、知らない」
彼は、少しだけ指先で机を叩いた。
「俺は部下を無駄に死なせたくない。そのためには、敵が何者かを知らなきゃならん」
「だから『偽白刃』を連れて行きたい、と?」
シオリの声には、皮肉が混ざった。
「お前さんの剣は、本当に谷で見たものと同じか。そいつと、前線で暴れている白い刃は、どこが似ていて、どこが違うのか。俺には分からんが……お前には分かるかもしれない」
ルーベンは、淡々と続ける。
「ただの噂話ならいい。だが、もしも同じ出どころの剣なら、これから先、戦場がどう変わるかの見当くらいはつく」
(同じ出どころ)
その言葉が、胸の内側で鈍く響いた。
祝福。実験。人の形をした兵器。
ハヤテの、あの目。
「危険ではありませんの?」
リナが、抑えきれない不安を隠さずに問う。
「前線に出ると言っても、塹壕に飛び込ませるわけじゃないさ」
ルーベンは、少しだけ肩をすくめた。
「砦の上から見るだけだ。敵の矢が届く距離でもない。安全な場所から、地獄の匂いだけ嗅いで帰ってくる」
「地獄の匂いを嗅ぎに行くだけ、というのも、十分悪趣味ですわ」
リナは苦笑しようとして、うまく笑えなかった。
「断るなら断ってくれて構わん」と、ルーベンは言った。「谷の借りがあるからな。無理強いはしない」
そう言いつつも、その灰色の瞳は、シオリの返答だけを待っている。
シオリは、机の上の地図を見下ろした。
線と丸で描かれた世界。その向こうに、肉と血と叫び声の本当の戦場がある。
(逃げるか、踏み込むか)
昨夜、城壁の上で揺れていた天秤が、また胸の中に現れる。
片方には、リナとルチアとヴァナネルサ。ようやく手に入れた、守るべき背中たち。
もう片方には、自分より速い、自分の剣。
『守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか』
ハヤテの声が、遠い記憶から滲み出てくる。
(成り下がった剣で、何も見ないまま逃げるのか)
それとも。
シオリは、指先で机の端を軽く叩いた。
「条件がある」
「聞こう」
「リナとルチアは、前線には連れて行かない。砦の中までだ。城壁の上には、俺とヴァナネルサだけが上がる」
リナが驚いたように顔を上げた。
「シオリ?」
「お前は、ここより前には出ない」
シオリは、彼女を見ずに言った。
「前線は、見なくていい」
「でも、わたくしも――」
「見るだけでも、血の匂いはまとわりつく」
言葉が少し荒くなった。
「一度嗅いじまえば、二度と忘れられない。……俺みたいになりたいなら、話は別だがな」
リナは口を開きかけ――結局、何も言えずに噛みしめた。
ルーベンが、薄く笑う。
「いい条件だ。俺も、その方が気が楽だ」
彼は机から地図を巻き取り、腰に差した。
「出立は、明日の夜明け前だ。この町を囲んでる嫌な匂いも、あの丘の上からなら、少しはよく分かる」
そう言ってから、シオリを見据える。
「怖いなら来なくていい。だが――見ないまま逃げると、あとで後悔するぞ」
「脅しか」
「忠告だ」
短いやり取りのあと、シオリは息を吐いた。
「……同行する」
自分の口から出た声は、思ったよりも落ち着いて聞こえた。
リナが、ぎゅっとスカートの裾を握りしめる。
ヴァナネルサは、静かに目を細めた。何かを言いかけて、やめたような顔だ。
「そうこなくちゃな」
ルーベンは、ようやく満足げに頷いた。
「じゃあ、明日の朝、北門で」
*
宿に戻る道すがら、リナはほとんど口をきかなかった。
代わりに喋り続けたのはルチアだ。
「前線って、そんなにすごいの? 崖を落とした時より?」
「比べるものが違う」
シオリは、歩きながら答える。
「崖は、動かない。兵は動く。叫ぶ。死ぬ。……うるさい」
「うるさい、でまとめるの、やめませんこと」
ようやく、リナが顔を上げた。
「怖いなら怖いと仰ればいいのに」
「怖がってるのは、お前だろ」
「もちろんですわ!」
リナは、きっぱりと言った。
「怖いに決まっています。祝福まみれの実験兵だとか、自分より強いかもしれない“白い刃”だとか……聞くだけで胃が痛くなりますわ」
そのくせ、足は止まっていない。
シオリは、彼女の横顔を横目で見た。
「じゃあ、さっき止めればよかっただろう」
「止めたところで、あなたは行くでしょう?」
リナは、頬をふくらませる。
「だったらせめて、条件くらいは飲んでいただかないと。わたくしとルチアを前線に連れて行かないこと。そこだけは、守っていただきますわ」
「……分かってる」
自分で言い出した条件だ。
シオリは、腰の剣に視線を落とした。
柄を包む革の感触は、変わらない。鋼の重さも、冷たさも、昔と同じだ。
変わったのは、自分の足と、心臓の鼓動だけ。
(それでも、行くと決めたのは――)
「戦場から、目を逸らしたくないからですの?」
リナが、不意に問いかけてきた。
シオリは、少しだけ考える仕草をした。
「違うな」
「では?」
「自分より速い“俺の剣”がいるかもしれない場所から、目を逸らしたくないだけだ」
あっけらかんと言うと、リナは呆れたように、それでもどこか安堵したように笑った。
「本当に、どうしようもない人斬りですわ、あなたは」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてません!」
ルチアがくすくす笑いながら、その後ろを跳ねるように歩いた。
空を見上げると、雲の切れ間から、砦の方向が薄く光っている。
その向こうに、戦場がある。
そして、もしかしたら――
(俺より速く、俺より重い“白い刃”が)
胸の奥が、静かにざわついた。
*
翌朝。
まだ日も昇りきらないうちに、北門の外には、小さな一隊が集まっていた。
黒獅子の紋章をつけた騎兵が数名と、荷車を引く補給兵。彼らの間に、旅装を整えたシオリとヴァナネルサ、そして外套のフードを深く被ったリナの姿がある。
ルチアは、城壁の上から身を乗り出していた。見張りの兵に怒られながらも、必死に手を振っている。
「絶対、生きて帰ってきてよー!」
「当たり前だ」
シオリは軽く手を振り返した。
その隣で、ルーベンが馬上からこちらを見下ろす。
「準備はいいか、白刃の巫女さま」
「その呼び方はやめろと言ったはずだ」
「じゃあ、『戦場見物の客人』でどうだ」
「……余計に気持ち悪い」
軽口を交わしつつも、馬蹄が石畳を叩く音が、一歩ごとに重さを増していく。
北門が開かれる。
冷たい朝の空気と一緒に、遠くの焦げた匂いが、薄く流れ込んできた。
シオリは、一度だけ背後を振り返る。
城壁の上で手を振るルチアと、その隣で静かに見送るリナの姿。彼女の指先は、スカートの裾を握りしめて震えている。
それを目に焼き付けてから、前を向いた。
「行くぞ」
そう言って、シオリは前線へ続く道へ、足を踏み出した。
まだ、戦いの音は聞こえない。
だが、風はもう、血と鉄の匂いを運んできていた。