戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第三十三話

 夜の酒場のざわめきが、ようやく遠ざかった。

 

 安宿の二階、軋むベッドの上で目を閉じてはいたが、眠りは浅かった。薄い壁越しに、兵士たちの笑い声と、どこかで誰かが吐き戻す音が、夜更けまで途切れなかったからだ。

 

 それでも、シオリを本当に眠らせなかったのは、壁でも酒でもない。

 

(……偽白刃、ね)

 

 耳の奥に、ルーベンの声がこびりついている。

 

『白刃を名乗る剣が二振り』

 

 片方は、谷を崩した巫女。

 もう片方は、味方ごと敵を斬り捨てる“祝福まみれ”の実験剣士。

 

 似ているのは、名前だけではない。

 白い刃。黒髪。女の身体。殺すことだけに研がれた動き。

 

(昔の俺を、別の肉に詰め直したみたいな……)

 

 そこまで考えて、自分で自分に舌打ちした。

 

(気持ち悪い比喩だな)

 

 薄闇の中で目を開ける。

 

 狭い部屋の中、向かいのベッドにはルチアが丸くなって眠っていた。布団を蹴飛ばしているのか、細い足が半分はみ出している。

 

 もう一つのベッドには、リナの淡い金髪が枕に広がっていた。規則正しい寝息。昼間の酒場での緊張が、ようやく解けたのだろう。

 

 窓の外が、わずかに白む。

 

 シオリは音もなく身を起こし、外套を羽織った。

 

 冷えた床板を踏む感触が、体を現実に引き戻す。

 

*

 

 外は、朝の匂いがした。

 

 まだ日が昇り切る前の、湿った冷気。だが、その奥に、昨日から嗅ぎ慣れない匂いが混じっている。

 

 焦げた布。薬草。乾いた血。

 

 路地の向こうから、ぎい、と車輪の軋む音が近づいてきた。

 

 風に紛れて、呻き声。

 

 シオリは無意識に、路地の影へ半歩退いた。視線だけで、通りを覗き込む。

 

 布を被せた荷車が、一台、二台と通りを進んでいく。白木の板に赤い染みがじわりと広がっているのが、布越しにも分かった。

 

 荷台の端から、包帯で巻かれた腕が垂れている。指先が、荷車の揺れに合わせて力なく揺れた。

 

 荷車の脇を、若い兵士が二人付き添って歩いている。一人は眠そうに目をこすり、もう一人は何度も唇を噛んでいた。

 

「……前線から、ですか」

 

 背後から、穏やかな声がした。

 

 振り返ると、ヴァナネルサが狭い路地の出口に立っていた。いつものように猫の耳を布で隠してはいるが、裾から覗く尾が、しょんぼりと垂れている。

 

「起きていたか」

 

「シオリ殿こそ。……寝付きがよろしくない顔をしておられる」

 

「元からだ」

 

 短く返す。

 

 荷車が角を曲がり、見えなくなる。残ったのは、血と薬の匂いだけだった。

 

「昨夜、兵舎に顔を出した折に聞きましたが……」と、ヴァナネルサは小声で続けた。「前線の陣地がひとつ、押し込まれたそうです。夜明け前に、負傷者をまとめて送り返したとか」

 

「押し込まれた?」

 

「ええ。『実験部隊』とやらに、ですな」

 

 彼は、その単語だけをわずかに重くした。

 

 シオリは鼻を鳴らす。

 

「祝福漬けの兵だ」

 

「そう言っておられましたな、昨夜のお方も」

 

 昨夜のお方――黒獅子連隊副隊長、ルーベン。

 

 名前を口にする代わりに、ヴァナネルサは肩をすくめる。

 

「兵たちの噂話も耳にしました。『血も涙もない白い刃』だの、『味方の盾を踏み台にする女』だの。どこまで真実かは、分かりませんが」

 

「どこまで真実か、ね」

 

 シオリは、空を見上げた。

 

 東の空の端が、かすかに赤い。夜明けの色なのか、遠くの火の色なのか、判別がつきにくい。

 

(前線、か)

 

 あの荷車が来た方向。

 昨夜、遠くにちらついた赤い光。

 

 そこには、かつて自分が立っていたような場所がある。鋼と肉と絶叫だけで構成された世界。

 

 そこへ、また足を踏み入れるのかどうか。

 

「シオリ?」

 

 背後で、戸口が軋んだ。

 

 振り向くと、寝ぼけ眼のルチアが、外套を抱えたままこちらを見ていた。髪はあちこち跳ねていて、まだ半分夢の中といった顔だ。

 

「寒……なに、これ」

 

 通りを見やり、鼻をひくつかせる。

 

 薬と血の匂いに気づいたのだろう。眉をひそめた。

 

「……また、運ばれてきてる」

 

「見なくていい」

 

 シオリは、短く言った。

 

「朝飯食ったら、今日の行き先を決める。起きろ」

 

「ふぁい……」

 

 ルチアは、あくびを噛み殺しながら部屋へ戻っていった。

 

 その背中を見送り、ヴァナネルサが小さく笑う。

 

「優しいことを言われるようになりましたな、シオリ殿も」

 

「寝起きのガキを戦場見物に連れ出すほど、趣味は悪くない」

 

「そうですとも。戦場見物は、大人の嗜みですな」

 

「お前の“嗜み”の基準は信用ならん」

 

 そう言いながらも、シオリ自身が、その「戦場見物」という言葉に引き寄せられていることに気づいていた。

 

*

 

 朝食を終える頃、宿の主人がそわそわと近づいてきた。

 

「お客さん方」

 

 ぶ厚い手で頭巾を弄りながら、落ち着かない様子である。

 

「さっき、兵士さんが来ましてね。『黒獅子の副隊長殿がお呼びだ』って」

 

 リナの手から、パンの欠片が滑り落ちた。

 

「……わたくしたちを、ですの?」

 

「い、いや、その……『旅人一行』ってだけで、名前までは」

 

 宿の主人は、明らかに困惑していた。黒獅子連隊と言えば、この国境の町では、神官よりもよほど怖がられている連中だ。

 

「断るんなら断ったって言うが……どうする?」

 

 視線が自然と、シオリに集まる。

 

 シオリは、少しだけ沈黙を置いてから答えた。

 

「場所は」

 

「北の門の脇の詰所だそうで。『昼前に来い』と」

 

「分かった。行く」

 

「シオリ!」

 

 思わず、リナが声を上げた。

 

「黒獅子連隊に近づくのは、危険すぎますわ。いくら副隊長と顔見知りだからと言って……」

 

「だからこそだ」

 

 シオリは、パン屑を払いつつ立ち上がる。

 

「谷で一度話を通した相手だ。こっちから顔を出した方が、余計な疑いは減る」

 

「……けれど」

 

「それに」

 

 言いかけたリナの言葉を、シオリは指で押さえた。

 

 自分の胸を、ほんの少しだけ指先で叩く。

 

「昨夜の続きだろう。『偽白刃』の話の」

 

 その名を口にした瞬間、空気がわずかに冷えた。

 

 リナは唇を噛み、ルチアは落ち着かない手つきを膝の上で繰り返す。

 

 ヴァナネルサだけが、いつもの笑みを崩さずにいた。

 

「わたくしも、ご一緒いたします」

 

 リナが、やがて小さく息を吸って言った。

 

「ここで震えているだけでは、何も変わりませんもの。……ルチアは宿で待っていてくださいな」

 

「えっ。ちょっと、置いてくの?」

 

 ルチアが目を丸くする。

 

「詰所に子供を連れて行く物好きはおりませんぞ、嬢ちゃん」とヴァナネルサ。「ちゃんと昼には戻ります。皿洗いの宿題でもしておきなさい」

 

「そんな宿題、出された覚えないんだけど!」

 

 抗議の声を残しつつも、ルチアは結局、渋々と頷いた。

 

*

 

 北門の詰所は、石と木で組まれた簡素な建物だった。

 

 入り口には黒獅子の紋章を刻んだ旗が掲げられ、槍を持った兵士が二人、無表情に立っている。

 

 シオリたちが近づくと、その片方が眉を上げた。

 

「旅人の一行か」

 

「そうだ」

 

 シオリが短く答えると、兵士は視線をリナとヴァナネルサに流し、最後にシオリの腰の剣にとどめた。

 

 わずかに目つきが変わる。

 

「……中で、副隊長殿が待っておられる」

 

 通された詰所の奥の部屋は、思ったより質素だった。粗末な机に地図が広げられ、その上に石ころで即席の駒が並べてある。

 

 窓際に立ち、外を見ていた男が振り向いた。

 

「よく来たな」

 

 黒鉄の鎧の上から外套を羽織り、腰には槍ではなく剣を帯びている。灰色の瞳が、相変わらず研がれた刃のようだ。

 

 ルーベンだった。

 

「呼びつける形になって、悪かったな。宿の場所を聞いて回る羽目になる前に、来てくれて助かった」

 

「そういう手間を惜しむくらいなら、最初から呼ぶな」

 

 シオリは肩をすくめる。

 

「……で、本題はなんだ。昨夜の話の続きか?」

 

「ああ」

 

 ルーベンは机の上の地図に手を置いた。

 

 地図は、この国境地帯一帯を描いたものらしい。線で示された街道、点で示された小さな砦。今いる町は、前線の少し後ろに位置している。

 

 その先、国境線に沿うように、小さな丸がいくつも描かれていた。前線の野営陣地だ。

 

「ここから北へ半日ほど。丘の上に小さな砦がある。そこから、前線を見渡せる」

 

 ルーベンの指が、ひとつの丸を軽く叩く。

 

「見渡せるだけだ。行軍している兵も、敵も、直接ぶつかり合っている場所も、そこからなら手に取るように見える」

 

「……だから何だ」

 

「一緒に来い」

 

 灰色の瞳が、真正面からシオリを射抜いた。

 

「前線の視察だ。兵を連れてくついでに、お前にも見てほしい」

 

 部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。

 

 リナが小さく息を呑む。

 

「視察、ですって……?」

 

「そうだ、お嬢さん」

 

 ルーベンは視線だけで彼女を一瞥した。

 

「この町にいる連中は、戦の匂いを嗅いではいるが、本物の戦場を見たことがない。前線の兵がどんな顔で戦っているのかも、何に怯えているのかも、知らない」

 

 彼は、少しだけ指先で机を叩いた。

 

「俺は部下を無駄に死なせたくない。そのためには、敵が何者かを知らなきゃならん」

 

「だから『偽白刃』を連れて行きたい、と?」

 

 シオリの声には、皮肉が混ざった。

 

「お前さんの剣は、本当に谷で見たものと同じか。そいつと、前線で暴れている白い刃は、どこが似ていて、どこが違うのか。俺には分からんが……お前には分かるかもしれない」

 

 ルーベンは、淡々と続ける。

 

「ただの噂話ならいい。だが、もしも同じ出どころの剣なら、これから先、戦場がどう変わるかの見当くらいはつく」

 

(同じ出どころ)

 

 その言葉が、胸の内側で鈍く響いた。

 

 祝福。実験。人の形をした兵器。

 

 ハヤテの、あの目。

 

「危険ではありませんの?」

 

 リナが、抑えきれない不安を隠さずに問う。

 

「前線に出ると言っても、塹壕に飛び込ませるわけじゃないさ」

 

 ルーベンは、少しだけ肩をすくめた。

 

「砦の上から見るだけだ。敵の矢が届く距離でもない。安全な場所から、地獄の匂いだけ嗅いで帰ってくる」

 

「地獄の匂いを嗅ぎに行くだけ、というのも、十分悪趣味ですわ」

 

 リナは苦笑しようとして、うまく笑えなかった。

 

「断るなら断ってくれて構わん」と、ルーベンは言った。「谷の借りがあるからな。無理強いはしない」

 

 そう言いつつも、その灰色の瞳は、シオリの返答だけを待っている。

 

 シオリは、机の上の地図を見下ろした。

 

 線と丸で描かれた世界。その向こうに、肉と血と叫び声の本当の戦場がある。

 

(逃げるか、踏み込むか)

 

 昨夜、城壁の上で揺れていた天秤が、また胸の中に現れる。

 

 片方には、リナとルチアとヴァナネルサ。ようやく手に入れた、守るべき背中たち。

 

 もう片方には、自分より速い、自分の剣。

 

『守るものなど得て、貴様の剣は、そこまで成り下がったか』

 

 ハヤテの声が、遠い記憶から滲み出てくる。

 

(成り下がった剣で、何も見ないまま逃げるのか)

 

 それとも。

 

 シオリは、指先で机の端を軽く叩いた。

 

「条件がある」

 

「聞こう」

 

「リナとルチアは、前線には連れて行かない。砦の中までだ。城壁の上には、俺とヴァナネルサだけが上がる」

 

 リナが驚いたように顔を上げた。

 

「シオリ?」

 

「お前は、ここより前には出ない」

 

 シオリは、彼女を見ずに言った。

 

「前線は、見なくていい」

 

「でも、わたくしも――」

 

「見るだけでも、血の匂いはまとわりつく」

 

 言葉が少し荒くなった。

 

「一度嗅いじまえば、二度と忘れられない。……俺みたいになりたいなら、話は別だがな」

 

 リナは口を開きかけ――結局、何も言えずに噛みしめた。

 

 ルーベンが、薄く笑う。

 

「いい条件だ。俺も、その方が気が楽だ」

 

 彼は机から地図を巻き取り、腰に差した。

 

「出立は、明日の夜明け前だ。この町を囲んでる嫌な匂いも、あの丘の上からなら、少しはよく分かる」

 

 そう言ってから、シオリを見据える。

 

「怖いなら来なくていい。だが――見ないまま逃げると、あとで後悔するぞ」

 

「脅しか」

 

「忠告だ」

 

 短いやり取りのあと、シオリは息を吐いた。

 

「……同行する」

 

 自分の口から出た声は、思ったよりも落ち着いて聞こえた。

 

 リナが、ぎゅっとスカートの裾を握りしめる。

 

 ヴァナネルサは、静かに目を細めた。何かを言いかけて、やめたような顔だ。

 

「そうこなくちゃな」

 

 ルーベンは、ようやく満足げに頷いた。

 

「じゃあ、明日の朝、北門で」

 

*

 

 宿に戻る道すがら、リナはほとんど口をきかなかった。

 

 代わりに喋り続けたのはルチアだ。

 

「前線って、そんなにすごいの? 崖を落とした時より?」

 

「比べるものが違う」

 

 シオリは、歩きながら答える。

 

「崖は、動かない。兵は動く。叫ぶ。死ぬ。……うるさい」

 

「うるさい、でまとめるの、やめませんこと」

 

 ようやく、リナが顔を上げた。

 

「怖いなら怖いと仰ればいいのに」

 

「怖がってるのは、お前だろ」

 

「もちろんですわ!」

 

 リナは、きっぱりと言った。

 

「怖いに決まっています。祝福まみれの実験兵だとか、自分より強いかもしれない“白い刃”だとか……聞くだけで胃が痛くなりますわ」

 

 そのくせ、足は止まっていない。

 

 シオリは、彼女の横顔を横目で見た。

 

「じゃあ、さっき止めればよかっただろう」

 

「止めたところで、あなたは行くでしょう?」

 

 リナは、頬をふくらませる。

 

「だったらせめて、条件くらいは飲んでいただかないと。わたくしとルチアを前線に連れて行かないこと。そこだけは、守っていただきますわ」

 

「……分かってる」

 

 自分で言い出した条件だ。

 

 シオリは、腰の剣に視線を落とした。

 

 柄を包む革の感触は、変わらない。鋼の重さも、冷たさも、昔と同じだ。

 

 変わったのは、自分の足と、心臓の鼓動だけ。

 

(それでも、行くと決めたのは――)

 

「戦場から、目を逸らしたくないからですの?」

 

 リナが、不意に問いかけてきた。

 

 シオリは、少しだけ考える仕草をした。

 

「違うな」

 

「では?」

 

「自分より速い“俺の剣”がいるかもしれない場所から、目を逸らしたくないだけだ」

 

 あっけらかんと言うと、リナは呆れたように、それでもどこか安堵したように笑った。

 

「本当に、どうしようもない人斬りですわ、あなたは」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

「褒めてません!」

 

 ルチアがくすくす笑いながら、その後ろを跳ねるように歩いた。

 

 空を見上げると、雲の切れ間から、砦の方向が薄く光っている。

 

 その向こうに、戦場がある。

 

 そして、もしかしたら――

 

(俺より速く、俺より重い“白い刃”が)

 

 胸の奥が、静かにざわついた。

 

*

 

 翌朝。

 

 まだ日も昇りきらないうちに、北門の外には、小さな一隊が集まっていた。

 

 黒獅子の紋章をつけた騎兵が数名と、荷車を引く補給兵。彼らの間に、旅装を整えたシオリとヴァナネルサ、そして外套のフードを深く被ったリナの姿がある。

 

 ルチアは、城壁の上から身を乗り出していた。見張りの兵に怒られながらも、必死に手を振っている。

 

「絶対、生きて帰ってきてよー!」

 

「当たり前だ」

 

 シオリは軽く手を振り返した。

 

 その隣で、ルーベンが馬上からこちらを見下ろす。

 

「準備はいいか、白刃の巫女さま」

 

「その呼び方はやめろと言ったはずだ」

 

「じゃあ、『戦場見物の客人』でどうだ」

 

「……余計に気持ち悪い」

 

 軽口を交わしつつも、馬蹄が石畳を叩く音が、一歩ごとに重さを増していく。

 

 北門が開かれる。

 

 冷たい朝の空気と一緒に、遠くの焦げた匂いが、薄く流れ込んできた。

 

 シオリは、一度だけ背後を振り返る。

 

 城壁の上で手を振るルチアと、その隣で静かに見送るリナの姿。彼女の指先は、スカートの裾を握りしめて震えている。

 

 それを目に焼き付けてから、前を向いた。

 

「行くぞ」

 

 そう言って、シオリは前線へ続く道へ、足を踏み出した。

 

 まだ、戦いの音は聞こえない。

 

 だが、風はもう、血と鉄の匂いを運んできていた。

 

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