戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
布を被せた荷車が、一台、二台と通りを軋ませていく。
まだ陽が石垣の上まで昇りきっていない、青白い時間帯だった。
冷えた空気の中に、ありふれた街の匂い――パンと獣脂と、濡れた石の匂いがある。
その下に、別の層が沈んでいた。
焦げた布。薬草。乾いた血。
山で嗅ぎ慣れた、けれど街の中では異物でしかない匂い。
(……前線が、こっちを向いてる)
シオリは荷車から数歩離れた位置で、並足を保って歩いていた。
わざと視線を逸らす。中身は見ない。
見る必要があれば、嫌でも目に入る。
ぎい、と車輪が石畳の欠け目を噛むたび、布の下から低い呻き声が漏れた。
通りの端で、店を開け始めたばかりの女将たちが、手を止めて荷車を見送る。誰も声はかけない。声をかければ、何かを背負わされると分かっている顔だ。
「……ったく、朝っぱらから縁起でもねえ」
荷車の脇を歩いていた兵士が、吐き捨てるように言った。
鎧は急ごしらえの皮鎧。黒獅子の紋章はなく、国境守備隊のものだろう。
その兵がふと、逆側の路地を斜めに横切るシオリの姿に気づいた。
腰の刀に、一瞬だけ目が留まる。
刃を布で巻いているにもかかわらず、その線の細さと重心の低さだけで、本物だと分かる人間には分かる。
「……おい、あれ」
「やめとけ。今は勘弁してくれって顔してる」
隣の兵が小声で制した。視線だけが、シオリに刺さってくる。
白い噂が、この街にも届き始めているのだと、シオリは察した。
(谷から逃げたつもりが、看板だけ先についてきやがったか)
舌打ちしたくなる気持ちを、喉の奥で噛み潰す。
荷車の先頭が、城壁沿いの横道へ曲がった。大きな石造りの建物が見える。元は倉庫か兵舎だったものを、急ごしらえの戦傷者収容所に変えたのだろう。
入口の前には、すでに別の荷車が二台停まっていた。
布の隙間から伸びた腕が、痙攣する。
「次っ! 運び込め、止まるな!」
甲高い怒鳴り声が、朝の空気を乱した。
中年の女が、血の染みた前掛けを腰に巻き、腕まくりをして指示を飛ばしている。白衣の代わりに、麻布を巻いた腕。軍医なのか、町医者をかき集めたのか。
シオリは入口から少し離れた壁にもたれ、様子を見た。
兵士二人が、布をめくって担架を引き出す。
一人は、顔半分を包帯で覆われていた。残った片目は虚ろで、焦点が合っていない。
もう一人は、胸当てのあたりを濡らしている。血だけではない。薬草と油の匂いが混じっていた。
女医者が、胸に手を突っ込むように触る。
「まだ熱がある。……祝福が抜けきってない。水を運べ、水!」
祝福。
その単語に、シオリの背筋がわずかに粟立った。
(“祝福まみれ”の実験剣士、ね)
昨夜、酒場でルーベンが言った言葉が、耳の奥で蘇る。
兵士たちは、次々と荷車から担架を引き出しては、中へと運び込んでいく。
一台目、二台目――三台目の布がめくられたとき、甘ったるい匂いが一層濃くなった。
シオリは無意識に一歩だけ、近づいていた。
*
担架の上の男は、まだ若かった。
頬はこけているが、肩や腕の筋肉はよく鍛えられている。前線の突撃兵種だ。
胸から腹にかけて、鎧ごと斜めに切り裂かれていた。
だが、血の量が合わない。
これだけ深く斬られているなら、ここへ運ばれる前に死んでいてもおかしくない。肉の裂け目の縁が、不自然に白く乾いている。
その白さに、どきりとした。
(……いや、違う)
己の刃が残す白ではない。
これは、焼けるような光で縁取られた白だ。肉の内側から、何かが染み出して固まった跡。
女医者が、男の胸元の布を乱暴に引き裂いた。
露わになった肌には、焼き印のような紋様がいくつも刻まれていた。
十字に組んだ剣。輪を成す星々。矢じりを模した三角形。
その全てが、旧い神殿で見た壁画の「祝福」の紋に似ていて、しかし雑に重ね塗りされた落書きのようにも見えた。
「……何枚、貼りつけりゃ気が済むんだい、あの坊主どもは」
女医者が舌打ちした。
「皮の下で喧嘩してるじゃないか、祝福同士が。体の方が持たないよ、こんなもの」
手慣れた動きで、彼女は紋様の上から冷たい泥のような薬を塗りつけていく。
男の唇が、ひく、と動いた。
うっすらと目が開き、焦点のぼやけた瞳が天井を彷徨う。その視界の端に、立っているシオリの影が入ったのだろう。
「……白……刃……?」
かすれた声が、喉から漏れた。
シオリは、眉をひそめる。
「違う」
短く言った。
「俺は、お前の見た奴じゃない」
男は、かすかに首を振った。
枯れた喉から、掠れた笑いとも咳ともつかない音がこぼれる。
「……黒い、髪……白い……きれ……いな……」
そこで、言葉が途切れた。
女医者が手際よく顎を支え、別の薬草を口に押し込む。
「しゃべらせるな。意識、持ってかれる」
「悪い」
シオリは、半歩下がった。
男のまぶたが落ちる。呼吸は荒いが、まだ戻ってきている。
祝福の紋様は、泥と薬草の下で微かに光っては消えた。
(祝福で、身体を無理やり動かして……それを、祝福で押さえつけてるのか)
壁画の前で感じた、あの嫌な直感が形を持ち始める。
祝福は、本来は細い糸のようなものだ。人と世界を結ぶ細い線。
それを束ね、太い縄にし、さらにねじり合わせて太綱にまでしたのが、この兵たちなのだろう。
人の身で持てる重さではないものを、肩に乗せられたまま前線に出された者たち。
(“実験剣士”は……その、てっぺん)
胸の奥に、別種の吐き気がこみ上げた。
自分自身の身体のことを思ったからだ。
ハヤテに斬り殺され、誰かに拾われ、別の肉に詰め直された魂。あの鉱山の奥で見た、星々を繋ぐ祝福の紋。
自分もまた、人の都合で作り直された「兵器」であることを、嫌でも思い出させられる。
「――朝から嫌なもんを見てるな」
背後から低い声がした。
*
振り向けば、石段の上にルーベンが立っていた。
鎧は昨夜と同じ、使い込まれた黒鉄の胸甲。だが肩の外套は脱ぎ、袖を捲り上げている。軍帽もなく、髪を乱暴に掻き上げたままだ。
酒の匂いはしない。代わりに、馬と汗の匂いが強い。
「副隊長殿」
女医者が、手を止めずに片方の眉だけを上げた。
「また、あんたんとこの兵だよ」
「そうだろうな」
ルーベンは短く応じ、シオリに視線を向ける。
「朝の散歩にしちゃ、趣味が悪い場所だが」
「そっちの“荷物”の匂いが、宿まで届いてきた」
シオリは、肩をすくめた。
「鼻が勝手に歩いただけだ」
「鼻のせいにするな。そっちの性分だろ」
ルーベンは半分だけ笑い、石段を降りてきた。
女医者の隣にしゃがみ込み、包帯の端を器用な手つきで押さえる。
「どこまで持ちそうだ」
「前線に戻す気で聞いてるなら、二度と来るな」
女医者は、露骨に睨んだ。
「歩けるようになったら、後方の農場か城壁の見張りに回す。それ以上は、もう無理だよ」
「……分かった」
短いやり取りだった。
それからようやく、ルーベンは医者から半歩身を引き、シオリの隣へ並ぶ。
二人で、入口の柱にもたれた。
中では、叫び声と怒鳴り声と、祈りのような呟きが混ざり合っている。
「“祝福まみれ”を見たのは、初めてか?」
ルーベンが、壁に頭を預けたまま問うた。
「……こんな近くで見るのはな」
シオリは、腕を組む。
「遠くから、山の反対側の火の粉を眺める分には、何度も」
「それは、いい趣味だ」
自嘲めいた笑いが、喉の奥で転がる。
「祝福は本来、兵の体を守るためのもんだ。視界を少し広げたり、足腰を少し粘らせたり。神殿の連中も、最初はそんな可愛いもんをちまちま配ってた」
ルーベンは、担架の列を顎で指した。
「だが、数字が足りなくなると、加護も数字にされる。『一人に十枚貼れば、十人分働くだろう』ってな」
「馬鹿だな」
シオリは、即答した。
「剣だって、刃こぼれする。研ぎすぎりゃ折れる」
「分かっちゃいるが、誰かがやる」
ルーベンは肩をすくめた。
「敵も同じことを始めれば、『やらない方が損』になる。そいつに挟まれたのが、こいつらだ」
中から、若い兵士の叫びが聞こえた。言葉にならない、喉を焼くような声。
シオリの指先が、無意識に刀の柄を撫でた。
ルーベンがちらと、それを見やる。
「……で、その祝福の山のてっぺんにいるのが、“偽白刃”ってわけだ」
兵舎の陰で聞いた噂話を、彼はあっさりと確認した。
「神殿の実験場で、祝福を盛れるだけ盛って、壊れなかった奴。前線に投げても、まだ動いている」
「壊れなかったから、使ってるのか」
「壊れてるから、使ってるのかもしれん」
ルーベンは、目を細めた。
「痛みが薄れれば、怖さも薄れる。死ぬ怖さが薄れれば、前には出やすい」
それは、戦場で何度も見てきた顔だった。
シオリも、よく知っている。
己の中に、同じものを飼っていたことも。
「……ルーベン」
「なんだ」
「お前のとこの“祝福まみれ”どもを、全部出し切って勝ったとして」
シオリは、石畳を爪先で軽く蹴った。
「その後、何が残る」
ルーベンは答えなかった。
少しの間、遠くを見ている。
城壁の向こうでは、国境の丘が霞んでいる。そこからまた、荷車が上ってくるだろう。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「……少なくとも、俺の首と勲章じゃ足りんな」
「そうだろうな」
シオリは、薄く笑った。
この男が、兵を数字だけで見ていないことは、谷でのやり取りで分かっている。
だからこそ彼は、こうして“後始末”の現場に顔を出すのだ。
「だから、手を貸せって顔か?」
「話が早いな」
ルーベンも、口の端を上げる。
「本隊が、二日か三日でここを通る。その中に、“偽白刃”がいる」
シオリの眉が、僅かに動いた。
「噂じゃなくて、確定か」
「命令書に、わざわざ『特別調整済みの剣士一名』って書かれてたからな」
彼は、額を指でこつんと叩く。
「ここで補給と調整をして、前線の穴を塞ぎに行くらしい。……穴を広げてるのも、そいつだって話だが」
「皮肉だな」
「戦なんて、だいたい皮肉で出来てる」
ルーベンは、シオリを正面から見た。
「お前さんは、どうする」
「どう、とは?」
「逃げるか、踏み込むか」
昨夜の彼女自身の思考を、そのまま口にされたような気がした。
不意に、喉が詰まりかける。
ルーベンは続けた。
「俺としてはな」
彼は、言葉を選ぶように一拍置く。
「兵を馬鹿みたいに削る“祝福の化け物”を野放しにしたくない。味方であろうが敵であろうが、だ。あいつは、前線を壊す」
「お前の首と勲章の計算が合わなくなる」
「そういうことだ」
率直すぎる言い方に、シオリは思わず鼻で笑った。
「……それで、“本物”の白刃に始末させたい、と」
「本物かどうかなんて、俺にはどうでもいい」
ルーベンは、きっぱりと言った。
「自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の責任で斬る剣士が一人いればいい。祝福の札束の下敷きになってるような剣よりは、まだ話が通じる」
静かな沈黙が落ちた。
シオリは、城壁の上を飛んでいく鳥の影を目で追った。
(……昔の俺なら、笑って飛びついてたな)
血の匂いに鼻を鳴らし、「面白そうだ」と喜んで前線に向かっていた。
敵が化け物なら、自分も化け物でいい、と。
だが今は、肩の後ろに三つの影がある。
リナ。ルチア。ヴァナネルサ。
谷で守ると決めたもの。守れずにいるもの。その全てが、一歩の踏み込みを重くする。
「答えは、今じゃなくていい」
ルーベンが、先に視線を外した。
「どうせ、上からも話が行く。『白刃の巫女』様を、戦場の景気づけに連れ出したい連中が山ほどいる」
「連れて行った先で、こっそり実験材料にするつもりじゃないだろうな」
「そういう連中もいるだろうが」
ルーベンは、肩をすくめた。
「少なくとも俺は、兵の数を増やしたいだけだ」
「……正直でよろしい」
シオリは、薄く笑った。
その笑いが、どこか自嘲に似ていることを、自分でも自覚していた。
*
「シオリさん!」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、通りの向こうからリナとルチアが駆けてくるのが見えた。
その後ろには、少し遅れてヴァナネルサ。
リナは、息を切らしながらも、姿勢を崩さないよう努めている。
「朝、目を覚ましたら、もう部屋にいらっしゃらなくて……!」
「悪い。起こすほどのことでもないと思った」
「十分ありますわよ、こういう場所は」
リナは、収容所の入口を見て、顔を強張らせた。
布の下から漏れる呻き声。血と薬草と焦げた布の匂い。
王都で育った彼女にとっても、戦場の“残り香”は初めてではないはずだが、あからさまなものはそう多くない。
ルチアが、そっとリナの手を握った。
「……見ても、平気?」
「……ええ。見ておかなくては、いけない気がします」
リナは、小さく息を吸い込んだ。
シオリは、彼女の肩を軽く叩く。
「無理だと思ったら、すぐ外に出ろ」
「はい」
ヴァナネルサは、ルーベンと女医者に軽く頭を下げる。
「失礼いたします。少しだけ、中を見学させていただいても?」
「見物料代わりに、水樽を運んでくれりゃ文句は言わないよ」
女医者が、忙しない手つきのまま答えた。
「そこの樽を担いで中へ。手が足りてない」
「承知」
ヴァナネルサは、手早く上着を脱ぎ、樽の取っ手を肩に担ぎ上げた。
猫亜人のしなやかな筋肉が、滑らかに動く。
「……よく出来た従者だな」
ルーベンが、感心したように呟いた。
「主よりよほど真面目だ」
「昔からだ」
シオリは軽く肩をすくめる。
「主が真面目だったら、こいつは窒息する」
「ひどいですわね」
リナが、苦笑を混じらせた。
それでも、彼女の手はまだルチアの指をしっかりと握っている。
ルチアは、ちらりと担架の列を見た。
街の孤児だった彼女には、傷ついた大人の姿は珍しくない。だが、これほどまとめて、しかも戦場から一気に運び込まれてくる光景は初めてだ。
「……ねえ、シオリ」
「なんだ」
「あたしたち、また逃げるの?」
その問いに、シオリは一瞬だけ言葉を失った。
ルチアの瞳には、責める色はない。
谷から逃げたとき。鉱山から逃げたとき。何度も、背を向けることで生き延びてきた。
そのたびに、守れたものもあれば、守れなかったものもある。
ルチアは、唇を噛む。
「逃げるのが悪いって意味じゃないよ。でも――」
彼女は、担架の上の兵士たちを見た。
「ここまで運ばれてきた人たちは、逃げたくても逃げられなかったんだなって」
その素朴な言葉が、刃物よりも鋭く胸に刺さる。
シオリは、ルチアの頭をぽん、と軽く叩いた。
「……逃げるか、踏み込むかは、戦場を選ぶところからだ」
「せんじょうを、選ぶ?」
「谷で老神官が言っていた」
シオリは、ルーベンに横目をやる。
「『戦場になっていない場所を選び続けろ』とな」
「便利にまとめるな」
ルーベンが、半眼で睨んだ。
だが、その口元はわずかに緩んでいる。
「……まあ、その通りだ。戦場に首を突っ込むなら、どこでどう突っ込むか、自分で決めろ」
「だから今は、まだ決めなくていい」
シオリは、ルチアの問いにそう答えた。
「決めさせられる前に、自分で決める。その準備だけはしておく」
ルチアは、納得したような、しないような顔で頷く。
「うん……よく分かんないけど、シオリが言うなら」
「分からなくていい」
シオリは、薄く笑った。
「分かるようになったら、多分もう手遅れだ」
*
そのとき、城壁の方角から馬の蹄の音が近づいてきた。
先ほどの荷車とは違う軽いリズム。伝令騎のものだ。
門番の怒鳴り声。兵士たちが慌ただしく動く気配。
ほどなくして、一人の若い軍曹が息を切らせながら駆け込んできた。
黒獅子連隊の紋章を袖に刻んだ、ルーベンの部下だ。
「副隊長殿!」
「ここだ」
ルーベンが片手を上げる。
軍曹は、軽く敬礼し、汗まみれの顔で布の束を差し出した。
「前線哨戒から報告です! 第三観測所……壊滅!」
空気が、わずかに揺れた。
女医者も手を止め、入口付近の兵士たちが一斉に顔を上げる。
「壊滅だと?」
「はい。送られてきた報告には……」
軍曹は、口ごもりながら羊皮紙を広げた。
「『敵陣形不明。白い刃を持つ女剣士一名の突入により、前方防御線が突破された』と」
その場にいた全員の視線が、一瞬だけシオリの腰のあたりへと流れた。
シオリは、あえてその視線を無視した。
紙の上に踊る文字は見えなくても、言葉の重さだけは伝わってくる。
ルーベンは、紙をひったくるように受け取り、目を走らせた。
眉間に深い皺が刻まれる。
「……ちっ」
短く舌打ちした。
「死傷者数は?」
「確定はしておりませんが、生還者の報告では……『前にいた者は、ほとんど』」
軍曹の言葉が、最後まで続かなかった。
それ以上、言葉にしたくないというように、彼は唇を噛みしめる。
ルーベンは、紙を丸めて握りしめた。
そして、ゆっくりとシオリの方を向く。
灰色がかった瞳が、まっすぐにこちらを射抜いた。
「――“偽白刃”が、こっちに向かってる」
その一言が、朝の冷えた空気に、戦場の温度を持ち込んだ。