戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第三十四話

 布を被せた荷車が、一台、二台と通りを軋ませていく。

 

 まだ陽が石垣の上まで昇りきっていない、青白い時間帯だった。

 

 冷えた空気の中に、ありふれた街の匂い――パンと獣脂と、濡れた石の匂いがある。

 

 その下に、別の層が沈んでいた。

 

 焦げた布。薬草。乾いた血。

 

 山で嗅ぎ慣れた、けれど街の中では異物でしかない匂い。

 

(……前線が、こっちを向いてる)

 

 シオリは荷車から数歩離れた位置で、並足を保って歩いていた。

 

 わざと視線を逸らす。中身は見ない。

 

 見る必要があれば、嫌でも目に入る。

 

 ぎい、と車輪が石畳の欠け目を噛むたび、布の下から低い呻き声が漏れた。

 

 通りの端で、店を開け始めたばかりの女将たちが、手を止めて荷車を見送る。誰も声はかけない。声をかければ、何かを背負わされると分かっている顔だ。

 

「……ったく、朝っぱらから縁起でもねえ」

 

 荷車の脇を歩いていた兵士が、吐き捨てるように言った。

 

 鎧は急ごしらえの皮鎧。黒獅子の紋章はなく、国境守備隊のものだろう。

 

 その兵がふと、逆側の路地を斜めに横切るシオリの姿に気づいた。

 

 腰の刀に、一瞬だけ目が留まる。

 

 刃を布で巻いているにもかかわらず、その線の細さと重心の低さだけで、本物だと分かる人間には分かる。

 

「……おい、あれ」

 

「やめとけ。今は勘弁してくれって顔してる」

 

 隣の兵が小声で制した。視線だけが、シオリに刺さってくる。

 

 白い噂が、この街にも届き始めているのだと、シオリは察した。

 

(谷から逃げたつもりが、看板だけ先についてきやがったか)

 

 舌打ちしたくなる気持ちを、喉の奥で噛み潰す。

 

 荷車の先頭が、城壁沿いの横道へ曲がった。大きな石造りの建物が見える。元は倉庫か兵舎だったものを、急ごしらえの戦傷者収容所に変えたのだろう。

 

 入口の前には、すでに別の荷車が二台停まっていた。

 

 布の隙間から伸びた腕が、痙攣する。

 

「次っ! 運び込め、止まるな!」

 

 甲高い怒鳴り声が、朝の空気を乱した。

 

 中年の女が、血の染みた前掛けを腰に巻き、腕まくりをして指示を飛ばしている。白衣の代わりに、麻布を巻いた腕。軍医なのか、町医者をかき集めたのか。

 

 シオリは入口から少し離れた壁にもたれ、様子を見た。

 

 兵士二人が、布をめくって担架を引き出す。

 

 一人は、顔半分を包帯で覆われていた。残った片目は虚ろで、焦点が合っていない。

 

 もう一人は、胸当てのあたりを濡らしている。血だけではない。薬草と油の匂いが混じっていた。

 

 女医者が、胸に手を突っ込むように触る。

 

「まだ熱がある。……祝福が抜けきってない。水を運べ、水!」

 

 祝福。

 

 その単語に、シオリの背筋がわずかに粟立った。

 

(“祝福まみれ”の実験剣士、ね)

 

 昨夜、酒場でルーベンが言った言葉が、耳の奥で蘇る。

 

 兵士たちは、次々と荷車から担架を引き出しては、中へと運び込んでいく。

 

 一台目、二台目――三台目の布がめくられたとき、甘ったるい匂いが一層濃くなった。

 

 シオリは無意識に一歩だけ、近づいていた。

 

*

 

 担架の上の男は、まだ若かった。

 

 頬はこけているが、肩や腕の筋肉はよく鍛えられている。前線の突撃兵種だ。

 

 胸から腹にかけて、鎧ごと斜めに切り裂かれていた。

 

 だが、血の量が合わない。

 

 これだけ深く斬られているなら、ここへ運ばれる前に死んでいてもおかしくない。肉の裂け目の縁が、不自然に白く乾いている。

 

 その白さに、どきりとした。

 

(……いや、違う)

 

 己の刃が残す白ではない。

 

 これは、焼けるような光で縁取られた白だ。肉の内側から、何かが染み出して固まった跡。

 

 女医者が、男の胸元の布を乱暴に引き裂いた。

 

 露わになった肌には、焼き印のような紋様がいくつも刻まれていた。

 

 十字に組んだ剣。輪を成す星々。矢じりを模した三角形。

 

 その全てが、旧い神殿で見た壁画の「祝福」の紋に似ていて、しかし雑に重ね塗りされた落書きのようにも見えた。

 

「……何枚、貼りつけりゃ気が済むんだい、あの坊主どもは」

 

 女医者が舌打ちした。

 

「皮の下で喧嘩してるじゃないか、祝福同士が。体の方が持たないよ、こんなもの」

 

 手慣れた動きで、彼女は紋様の上から冷たい泥のような薬を塗りつけていく。

 

 男の唇が、ひく、と動いた。

 

 うっすらと目が開き、焦点のぼやけた瞳が天井を彷徨う。その視界の端に、立っているシオリの影が入ったのだろう。

 

「……白……刃……?」

 

 かすれた声が、喉から漏れた。

 

 シオリは、眉をひそめる。

 

「違う」

 

 短く言った。

 

「俺は、お前の見た奴じゃない」

 

 男は、かすかに首を振った。

 

 枯れた喉から、掠れた笑いとも咳ともつかない音がこぼれる。

 

「……黒い、髪……白い……きれ……いな……」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 女医者が手際よく顎を支え、別の薬草を口に押し込む。

 

「しゃべらせるな。意識、持ってかれる」

 

「悪い」

 

 シオリは、半歩下がった。

 

 男のまぶたが落ちる。呼吸は荒いが、まだ戻ってきている。

 

 祝福の紋様は、泥と薬草の下で微かに光っては消えた。

 

(祝福で、身体を無理やり動かして……それを、祝福で押さえつけてるのか)

 

 壁画の前で感じた、あの嫌な直感が形を持ち始める。

 

 祝福は、本来は細い糸のようなものだ。人と世界を結ぶ細い線。

 

 それを束ね、太い縄にし、さらにねじり合わせて太綱にまでしたのが、この兵たちなのだろう。

 

 人の身で持てる重さではないものを、肩に乗せられたまま前線に出された者たち。

 

(“実験剣士”は……その、てっぺん)

 

 胸の奥に、別種の吐き気がこみ上げた。

 

 自分自身の身体のことを思ったからだ。

 

 ハヤテに斬り殺され、誰かに拾われ、別の肉に詰め直された魂。あの鉱山の奥で見た、星々を繋ぐ祝福の紋。

 

 自分もまた、人の都合で作り直された「兵器」であることを、嫌でも思い出させられる。

 

「――朝から嫌なもんを見てるな」

 

 背後から低い声がした。

 

*

 

 振り向けば、石段の上にルーベンが立っていた。

 

 鎧は昨夜と同じ、使い込まれた黒鉄の胸甲。だが肩の外套は脱ぎ、袖を捲り上げている。軍帽もなく、髪を乱暴に掻き上げたままだ。

 

 酒の匂いはしない。代わりに、馬と汗の匂いが強い。

 

「副隊長殿」

 

 女医者が、手を止めずに片方の眉だけを上げた。

 

「また、あんたんとこの兵だよ」

 

「そうだろうな」

 

 ルーベンは短く応じ、シオリに視線を向ける。

 

「朝の散歩にしちゃ、趣味が悪い場所だが」

 

「そっちの“荷物”の匂いが、宿まで届いてきた」

 

 シオリは、肩をすくめた。

 

「鼻が勝手に歩いただけだ」

 

「鼻のせいにするな。そっちの性分だろ」

 

 ルーベンは半分だけ笑い、石段を降りてきた。

 

 女医者の隣にしゃがみ込み、包帯の端を器用な手つきで押さえる。

 

「どこまで持ちそうだ」

 

「前線に戻す気で聞いてるなら、二度と来るな」

 

 女医者は、露骨に睨んだ。

 

「歩けるようになったら、後方の農場か城壁の見張りに回す。それ以上は、もう無理だよ」

 

「……分かった」

 

 短いやり取りだった。

 

 それからようやく、ルーベンは医者から半歩身を引き、シオリの隣へ並ぶ。

 

 二人で、入口の柱にもたれた。

 

 中では、叫び声と怒鳴り声と、祈りのような呟きが混ざり合っている。

 

「“祝福まみれ”を見たのは、初めてか?」

 

 ルーベンが、壁に頭を預けたまま問うた。

 

「……こんな近くで見るのはな」

 

 シオリは、腕を組む。

 

「遠くから、山の反対側の火の粉を眺める分には、何度も」

 

「それは、いい趣味だ」

 

 自嘲めいた笑いが、喉の奥で転がる。

 

「祝福は本来、兵の体を守るためのもんだ。視界を少し広げたり、足腰を少し粘らせたり。神殿の連中も、最初はそんな可愛いもんをちまちま配ってた」

 

 ルーベンは、担架の列を顎で指した。

 

「だが、数字が足りなくなると、加護も数字にされる。『一人に十枚貼れば、十人分働くだろう』ってな」

 

「馬鹿だな」

 

 シオリは、即答した。

 

「剣だって、刃こぼれする。研ぎすぎりゃ折れる」

 

「分かっちゃいるが、誰かがやる」

 

 ルーベンは肩をすくめた。

 

「敵も同じことを始めれば、『やらない方が損』になる。そいつに挟まれたのが、こいつらだ」

 

 中から、若い兵士の叫びが聞こえた。言葉にならない、喉を焼くような声。

 

 シオリの指先が、無意識に刀の柄を撫でた。

 

 ルーベンがちらと、それを見やる。

 

「……で、その祝福の山のてっぺんにいるのが、“偽白刃”ってわけだ」

 

 兵舎の陰で聞いた噂話を、彼はあっさりと確認した。

 

「神殿の実験場で、祝福を盛れるだけ盛って、壊れなかった奴。前線に投げても、まだ動いている」

 

「壊れなかったから、使ってるのか」

 

「壊れてるから、使ってるのかもしれん」

 

 ルーベンは、目を細めた。

 

「痛みが薄れれば、怖さも薄れる。死ぬ怖さが薄れれば、前には出やすい」

 

 それは、戦場で何度も見てきた顔だった。

 

 シオリも、よく知っている。

 

 己の中に、同じものを飼っていたことも。

 

「……ルーベン」

 

「なんだ」

 

「お前のとこの“祝福まみれ”どもを、全部出し切って勝ったとして」

 

 シオリは、石畳を爪先で軽く蹴った。

 

「その後、何が残る」

 

 ルーベンは答えなかった。

 

 少しの間、遠くを見ている。

 

 城壁の向こうでは、国境の丘が霞んでいる。そこからまた、荷車が上ってくるだろう。

 

 やがて彼は、小さく息を吐いた。

 

「……少なくとも、俺の首と勲章じゃ足りんな」

 

「そうだろうな」

 

 シオリは、薄く笑った。

 

 この男が、兵を数字だけで見ていないことは、谷でのやり取りで分かっている。

 

 だからこそ彼は、こうして“後始末”の現場に顔を出すのだ。

 

「だから、手を貸せって顔か?」

 

「話が早いな」

 

 ルーベンも、口の端を上げる。

 

「本隊が、二日か三日でここを通る。その中に、“偽白刃”がいる」

 

 シオリの眉が、僅かに動いた。

 

「噂じゃなくて、確定か」

 

「命令書に、わざわざ『特別調整済みの剣士一名』って書かれてたからな」

 

 彼は、額を指でこつんと叩く。

 

「ここで補給と調整をして、前線の穴を塞ぎに行くらしい。……穴を広げてるのも、そいつだって話だが」

 

「皮肉だな」

 

「戦なんて、だいたい皮肉で出来てる」

 

 ルーベンは、シオリを正面から見た。

 

「お前さんは、どうする」

 

「どう、とは?」

 

「逃げるか、踏み込むか」

 

 昨夜の彼女自身の思考を、そのまま口にされたような気がした。

 

 不意に、喉が詰まりかける。

 

 ルーベンは続けた。

 

「俺としてはな」

 

 彼は、言葉を選ぶように一拍置く。

 

「兵を馬鹿みたいに削る“祝福の化け物”を野放しにしたくない。味方であろうが敵であろうが、だ。あいつは、前線を壊す」

 

「お前の首と勲章の計算が合わなくなる」

 

「そういうことだ」

 

 率直すぎる言い方に、シオリは思わず鼻で笑った。

 

「……それで、“本物”の白刃に始末させたい、と」

 

「本物かどうかなんて、俺にはどうでもいい」

 

 ルーベンは、きっぱりと言った。

 

「自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の責任で斬る剣士が一人いればいい。祝福の札束の下敷きになってるような剣よりは、まだ話が通じる」

 

 静かな沈黙が落ちた。

 

 シオリは、城壁の上を飛んでいく鳥の影を目で追った。

 

(……昔の俺なら、笑って飛びついてたな)

 

 血の匂いに鼻を鳴らし、「面白そうだ」と喜んで前線に向かっていた。

 

 敵が化け物なら、自分も化け物でいい、と。

 

 だが今は、肩の後ろに三つの影がある。

 

 リナ。ルチア。ヴァナネルサ。

 

 谷で守ると決めたもの。守れずにいるもの。その全てが、一歩の踏み込みを重くする。

 

「答えは、今じゃなくていい」

 

 ルーベンが、先に視線を外した。

 

「どうせ、上からも話が行く。『白刃の巫女』様を、戦場の景気づけに連れ出したい連中が山ほどいる」

 

「連れて行った先で、こっそり実験材料にするつもりじゃないだろうな」

 

「そういう連中もいるだろうが」

 

 ルーベンは、肩をすくめた。

 

「少なくとも俺は、兵の数を増やしたいだけだ」

 

「……正直でよろしい」

 

 シオリは、薄く笑った。

 

 その笑いが、どこか自嘲に似ていることを、自分でも自覚していた。

 

*

 

「シオリさん!」

 

 背後から、聞き覚えのある声がした。

 

 振り返ると、通りの向こうからリナとルチアが駆けてくるのが見えた。

 

 その後ろには、少し遅れてヴァナネルサ。

 

 リナは、息を切らしながらも、姿勢を崩さないよう努めている。

 

「朝、目を覚ましたら、もう部屋にいらっしゃらなくて……!」

 

「悪い。起こすほどのことでもないと思った」

 

「十分ありますわよ、こういう場所は」

 

 リナは、収容所の入口を見て、顔を強張らせた。

 

 布の下から漏れる呻き声。血と薬草と焦げた布の匂い。

 

 王都で育った彼女にとっても、戦場の“残り香”は初めてではないはずだが、あからさまなものはそう多くない。

 

 ルチアが、そっとリナの手を握った。

 

「……見ても、平気?」

 

「……ええ。見ておかなくては、いけない気がします」

 

 リナは、小さく息を吸い込んだ。

 

 シオリは、彼女の肩を軽く叩く。

 

「無理だと思ったら、すぐ外に出ろ」

 

「はい」

 

 ヴァナネルサは、ルーベンと女医者に軽く頭を下げる。

 

「失礼いたします。少しだけ、中を見学させていただいても?」

 

「見物料代わりに、水樽を運んでくれりゃ文句は言わないよ」

 

 女医者が、忙しない手つきのまま答えた。

 

「そこの樽を担いで中へ。手が足りてない」

 

「承知」

 

 ヴァナネルサは、手早く上着を脱ぎ、樽の取っ手を肩に担ぎ上げた。

 

 猫亜人のしなやかな筋肉が、滑らかに動く。

 

「……よく出来た従者だな」

 

 ルーベンが、感心したように呟いた。

 

「主よりよほど真面目だ」

 

「昔からだ」

 

 シオリは軽く肩をすくめる。

 

「主が真面目だったら、こいつは窒息する」

 

「ひどいですわね」

 

 リナが、苦笑を混じらせた。

 

 それでも、彼女の手はまだルチアの指をしっかりと握っている。

 

 ルチアは、ちらりと担架の列を見た。

 

 街の孤児だった彼女には、傷ついた大人の姿は珍しくない。だが、これほどまとめて、しかも戦場から一気に運び込まれてくる光景は初めてだ。

 

「……ねえ、シオリ」

 

「なんだ」

 

「あたしたち、また逃げるの?」

 

 その問いに、シオリは一瞬だけ言葉を失った。

 

 ルチアの瞳には、責める色はない。

 

 谷から逃げたとき。鉱山から逃げたとき。何度も、背を向けることで生き延びてきた。

 

 そのたびに、守れたものもあれば、守れなかったものもある。

 

 ルチアは、唇を噛む。

 

「逃げるのが悪いって意味じゃないよ。でも――」

 

 彼女は、担架の上の兵士たちを見た。

 

「ここまで運ばれてきた人たちは、逃げたくても逃げられなかったんだなって」

 

 その素朴な言葉が、刃物よりも鋭く胸に刺さる。

 

 シオリは、ルチアの頭をぽん、と軽く叩いた。

 

「……逃げるか、踏み込むかは、戦場を選ぶところからだ」

 

「せんじょうを、選ぶ?」

 

「谷で老神官が言っていた」

 

 シオリは、ルーベンに横目をやる。

 

「『戦場になっていない場所を選び続けろ』とな」

 

「便利にまとめるな」

 

 ルーベンが、半眼で睨んだ。

 

 だが、その口元はわずかに緩んでいる。

 

「……まあ、その通りだ。戦場に首を突っ込むなら、どこでどう突っ込むか、自分で決めろ」

 

「だから今は、まだ決めなくていい」

 

 シオリは、ルチアの問いにそう答えた。

 

「決めさせられる前に、自分で決める。その準備だけはしておく」

 

 ルチアは、納得したような、しないような顔で頷く。

 

「うん……よく分かんないけど、シオリが言うなら」

 

「分からなくていい」

 

 シオリは、薄く笑った。

 

「分かるようになったら、多分もう手遅れだ」

 

*

 

 そのとき、城壁の方角から馬の蹄の音が近づいてきた。

 

 先ほどの荷車とは違う軽いリズム。伝令騎のものだ。

 

 門番の怒鳴り声。兵士たちが慌ただしく動く気配。

 

 ほどなくして、一人の若い軍曹が息を切らせながら駆け込んできた。

 

 黒獅子連隊の紋章を袖に刻んだ、ルーベンの部下だ。

 

「副隊長殿!」

 

「ここだ」

 

 ルーベンが片手を上げる。

 

 軍曹は、軽く敬礼し、汗まみれの顔で布の束を差し出した。

 

「前線哨戒から報告です! 第三観測所……壊滅!」

 

 空気が、わずかに揺れた。

 

 女医者も手を止め、入口付近の兵士たちが一斉に顔を上げる。

 

「壊滅だと?」

 

「はい。送られてきた報告には……」

 

 軍曹は、口ごもりながら羊皮紙を広げた。

 

「『敵陣形不明。白い刃を持つ女剣士一名の突入により、前方防御線が突破された』と」

 

 その場にいた全員の視線が、一瞬だけシオリの腰のあたりへと流れた。

 

 シオリは、あえてその視線を無視した。

 

 紙の上に踊る文字は見えなくても、言葉の重さだけは伝わってくる。

 

 ルーベンは、紙をひったくるように受け取り、目を走らせた。

 

 眉間に深い皺が刻まれる。

 

「……ちっ」

 

 短く舌打ちした。

 

「死傷者数は?」

 

「確定はしておりませんが、生還者の報告では……『前にいた者は、ほとんど』」

 

 軍曹の言葉が、最後まで続かなかった。

 

 それ以上、言葉にしたくないというように、彼は唇を噛みしめる。

 

 ルーベンは、紙を丸めて握りしめた。

 

 そして、ゆっくりとシオリの方を向く。

 

 灰色がかった瞳が、まっすぐにこちらを射抜いた。

 

「――“偽白刃”が、こっちに向かってる」

 

 その一言が、朝の冷えた空気に、戦場の温度を持ち込んだ。

 

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