戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
ざわめきが残響として耳に残る広場を背に、シオリとカリナは人影の途絶えた細い路地へと誘われた。大衆の喧騒は既に届かず、ただ、乾いた石畳に響く二人の足音だけが、追われる者たちの隔絶された孤独と、内奥に巣食う緊張を際立たせていた。
路地には陽光が射し込むことを拒まれ、昼日中だというのに濃密な影が支配している。薄墨色に染まるその空間は、まるで世界の澱が溜まる場所、あるいは現実から剥離した裏側へと迷い込んだかのようだった。
カリナの足取りは微かな痙攣を伴い、不安定だった。つい先刻、広場の中央に無数に貼り出されていた手配書の中で、自身の顔写真を見つけた時の、胸郭が軋むような恐怖と、内臓を抉られるかのような衝撃が、未だ全身を支配していた。無数の、匿名の、悪意に満ちた人々の目に曝される自身の剥き出しの顔。その事実だけで、カリナは肺から空気を絞り出されるような息苦しさを覚えていた。
ふらつき、今にも地面に膝を突きそうなカリナの細く、凍えるように冷たい手を、シオリは迷いなく、だが慈しむように握り直した。その手は、シオリ自身のそれよりも圧倒的に冷たい。シオリはカリナよりも遥かに永い時間を生き、人間の底知れぬ醜さや、世界の無慈悲なまでの冷酷さを骨の髄まで知悉している。かかる時、言葉は往々にして真実を覆い隠し、空虚な響きを伴う。無力だ。
彼女が必要としているのは、表面的な慰めではない。傍に誰かが、決して離れることなく存在してくれるという、揺るぎない確証に他ならない。シオリは沈黙を選んだ。その代わりに、決してこの手を見捨てはしないという、鉄のように固い意志を、握り返す手に込めてカリナへと伝播させた。カリナの手の、氷のような冷たさを感じながら。
周囲の建物の陰に身を潜めつつ、シオリは絶え間なく周囲に神経を研ぎ澄ませていた。あらゆる視線が棘となり、微かな物音が罠に聞こえる。通り過ぎる人影、不意に開け閉めされる窓の音、遠くで交わされる話し声。その全てが、自分たちに向けられた敵意の表れに思えた。シオリの研ぎ澄まされた五感は、わずかな異常も見逃すまいと鋭く光る。
「もう少しだ」
シオリは短い言葉で区切りを告げた。その声には、感情の起伏は一切含まれていなかった。
このまま人目を完全に避け、息を潜めてやり過ごせれば、それに勝るものはない。しかし、シオリはそれが絵空事であることを冷静に理解していた。隠れて静寂を保つだけでは、それは単なる時間稼ぎに過ぎない。いつか必ず、追手の網にかかる。昨日の騒動——あの血腥い門前での惨劇——の後、街の警備は想像を絶するほど厳戒態勢が敷かれている。
街中の主要な場所に、これ見よがしに貼り出された自分たちの手配書が、その事実を無言で物語っていた。衛兵たちは血眼になり、街の隅々まで自分たちを探しているに違いない。このまま持久戦に持ち込まれれば、抗う術もなく捕縛される。それは確定された未来だった。
やがて、薄暗い路地を進んだ先に、時間の残骸が積み重なったような一角を見つけ出した。古びた倉庫の裏手、そこには埃を分厚く纏った木箱や、朽ちた廃棄物が山積みにされている。それは、しばらくの間、追手の目から身を隠すには十分な場所だった。
「ここなら、少しは隠れられる」
シオリはカリナをその退廃的な一角へと導いた。
カリナは、その場所が少なくとも一時的な安全地帯であると認識した途端、内側に張り詰めていた最後の糸がぷつりと断ち切られたように、全身の力が抜け落ちた。
「あ……もう……」
抗うことなく壁にもたれかかり、そのままずるずると、まるで壊れた人形のように地面に座り込んだ。
「動け、ない……です……」
長く過酷な逃亡の旅に加え、今日、否応なく突きつけられた現実が、彼女の心身を限界のその先まで追い詰めていた。呼吸は荒く、肩は意志とは関係なく小刻みに震えている。青ざめを通り越したその顔色は、血の気が失せ、生命力が枯渇しつつあることを痛ましく示していた。旅の疲労だけではない。初めて目の当たりにしたシオリの凄まじいまでの戦闘、そして手配書を見た時の抗いがたい絶望感が、カリナの体を内側から蝕んでいたのだ。
「ごめんなさい……私のせいで……」
カリナは掠れた声で、自己を責める言葉を零した。その瞳には、深い自責の念が澱のように溜まっている。
シオリはカリナの傍にしゃがみ込み、その痛々しい様子を目にして、安全な場所を見つけるだけでは根本的な解決には至らないことを悟った。彼女の体力は、このままでは長くは持たない。何らかの、緊急を要する手を打たなければ、この隠れ家で力尽きてしまうだろう。
食料の確保が喫緊の課題だった。空腹は思考力を奪い、肉体を衰弱させ、生存の可能性を著しく低下させる。シオリは、己が飢えに苦しみ、理性の箍すら外れかけた過去の経験から、その恐ろしさを身に染みて知っていた。だが、金がなければ食料は買えない。そして、追われる身である以上、人目に触れてまともに働くことも、身分を証明する就労届を出すことも、不可能と言ってよかった。
どうすればこの閉塞した状況を打破できるか。シオリの頭の中では、無数の選択肢と、それに伴うリスクが瞬時に計算され、消去されていく。正規の手段は全て閉ざされている。残された道は……「悪」と呼ばれる領域だ。
その時、脳裏に一つの、血腥い考えが浮かんだ。それは、昨日の門前で対峙した兵士たちの顔だ。権力を笠に着て弱者を虐げ、民衆から略奪を働く「クズ」たち。彼らから奪う。
「……略奪、か」
シオリは、己の内奥に響く声を聞いた。それは間違いなく「悪」と呼ばれる行為だろう。シオリもそのことを理解している。しかし、やらなければ、己が、そして目の前のカリナが死ぬ。生き延びるためには、手段を選んでいる暇など、微塵もない。背に腹は代えられない。それは、魂を削る選択だった。
シオリは、己の中で厳格な「クズ」の定義を設けていた。それは、自らの権力や立場を利用し、民衆から不当に利益を搾取する者。弱き者を食い物にし、傍若無人に振る舞う兵士や役人。彼らならば、多少手荒な真似をしても、倫理的な問題は存在しない。そう信じ込まなければ、血と暴力が支配する裏社会で、己の正気を保ち生き抜くことは不可能だった。それは紛れもない歪んだ倫理観だったが、シオリにとっては自己を正当化し、行動するための、唯一絶対の基準となっていた。
少し離れた街路から、騒がしい怒声が聞こえてきた。注意深く身を隠しながら覗き込むと、二人の兵士が若い行商人に絡んでいるのが見えた。行商人は既に顔にあざが浮かび、地面に倒れ伏している。兵士たちは下品な罵声を浴びせながら、行商人の荷物から金銭を貪欲に奪い取っていた。
「おい、てめえ! いつまで地面舐めてやがる! さっさと持ってるモン全部出しやがれ!」
兵士の一人が、倒れた行商人を嘲るように足蹴にする。
「俺たちが誰だか分かってんのか? お前みたいな下賤の輩を守ってやってんだ! その感謝の気持ちを、金という形で示せ!」
もう一人が、卑しさに満ちた笑いを浮かべながら、行商人の懐を探る。
彼らの言葉には、正当な理由など微塵も含まれていない。ただの因縁つけ、私利私欲のための、露骨な略奪だ。弱者から奪うことを何とも思わない、まさにシオリが定義する「クズ」そのものだった。兵士たちの図太く、汚濁に塗れた笑い声が、静寂が支配していた街路に響き渡る。
彼らだ。今回の「クズ狩り」の、最初の標的にこれほど相応しい存在はいない。食料と情報を得る。あの兵士たちならば、追跡に関する、何らかの情報を持っている可能性も否定できない。この二つを同時に満たせる可能性があると考えた。
シオリはカリナに視線を向けた。カリナは未だ壁に寄りかかったまま、青ざめた顔で不安げにシオリを見上げていた。その瞳は大きく揺れ、縡るような、痛々しい光を宿している。
「少し離れる」
シオリは抑えた声で告げた。その声に、微かな決意の響きが含まれていることを、カリナは感じ取った。
「ここで待っていてくれるか?」
カリナは顔色をさらに悪くした。内面から湧き上がる恐怖を抑えきれない様子だった。
「どこへ行くんですか……?」
不安が滲む声だった。
「危ないんじゃ……? 私も、一緒に行きます……!」
不安と、シオリへの強い依存が入り混じった、切羽詰まった響きを含んだ声だ。
「いや」
シオリは静かに首を振った。その決定に、微塵の躊躇いもなかった。
「ここが一番安全だ。すぐに済ませて戻る」
「でも……一人でなんて……!」
カリナの声は、明確な恐怖によって震えている。
「大丈夫だ」
シオリはカリナの不安を和らげるように、だが揺るぎない決意を込めて言った。
「……それに、殺しはしない。約束だ」
カリナの瞳が、シオリの言葉にわずかに、だが確かに光を宿した。殺さない。その一言が、彼女にとっては何よりも重要なことだった。
「約束……ですか?」
「ああ。約束だ」
シオリは、その言葉に自身の魂を込めるように、強く頷いた。
「……分りました。じゃあ、隠れています」
「頼んだ」
シオリは物陰から、音もなく、まるで影が地面を這うように静かに離れた。石畳に足音一つ立てず、獲物を狙う捕食者のように標的の兵士たちに向かって近づく。真正面から力で圧倒するよりも、小さい身軽な体を活かし、気配を殺して近づく方が圧倒的に効率が良いことを、彼女は過去の経験から知っていた。研ぎ澄まされた五感が、周囲の情報を瞬時に捉え、再効率で物陰から物陰へと移動する。
兵士たちは依然として行商人を罵り、奪った金銭の分け前について、耳を覆いたくなるような下品な言葉で言い争っていた。彼らの警戒心は驚くほどに希薄だ。まさか、こんな路地裏で、自分たちが突然襲われるなどとは、微塵も思っていないのだろう。獲物(行商人)に貪欲に夢中になり、周囲への注意を完全に怠った捕食者の、あまりにも愚かな隙。シオリはその一瞬を、電光石火の如く見逃さなかった。
シオリの瞬歩が炸裂した。常人には視線で追うことすら不可能な、神速にも似た速度で、兵士たちの間を縫うように移動する。腰の刀は鞘に収まったままだ。抜く必要はない。鞘を用いた正確無比な打撃。それは、まるで流麗に舞う踊り子の動きのように優雅でありながら、確実に相手の急所、活動を停止させる点を捉える、洗練された技だった。
「ぐっ!」
「な、なんだ……!?」
肉を打つ鈍い音と、短い呻き声がほぼ同時に、不協和音のように響いた。兵士たちは、自らの身に何が起こったか、その瞬間を理解できないまま、意識を保ちつつも体が意志に反して言うことを聞かなくなる。驚愕に歪んだ顔が、シオリを一瞬捉えたが、それもすぐに、本能的な恐怖へと塗り替えられた。
シオリは彼らから情報を聞き出そうと、単刀直入な、核心を突く質問をいくつか投げかけた。
「答えろ。手配書の指示はどこから出ている?」
「ひっ……! わ、わからねえっす……!」
兵士の一人が、情けない、獣のような悲鳴を上げた。
「追手は何人だ? 次はどうやって拘束しに来る?」
「し、知らねえっす! 俺たちはただ、上から言われた通りに街を回ってただけで……!」
「街を守る者たちがわざわざ奪うとは……呆れてなんも言えねぇな」
もう一人の兵士が、恐怖で顔を引きつらせながら、かろうじて言葉を絞り出した。彼らはただの末端の兵士で、組織全体の動きなど、知る由もなかったのだ。彼らが「クズ」であると同時に、物語の根幹には全く関わらない、取るに足らない小物であることに、シオリは内心で深い溜息を吐いた。期待外れだった。
「見逃せよ! 見逃さねぇなら、俺よりつぇえ奴らが襲ってくるぞ!!」
兵士たちが、普段の横暴な態度からは想像もつかないような、見る影もない情けない命乞いを始めた。
あまりに役に立たない情報源だと理解し、ひとまず意識を断つことにした。これ以上、彼らに時間を費やす価値はない。
「次からは情報をよこせ」
シオリは、その声に冷たい響きを乗せて告げた。そして、二人が完全に無力化されるような、容赦のない一撃を一瞬でくらわせる。
「ぐっ!」
「がっ!!」
鈍く重い音が二つ響き、シオリは制圧を完了させた。二人の兵士は完全に意識を失い、地面に転がった。
シオリは、兵士が奪ったであろう金を行商人の傍にそっと置いた。それは、奪われたものを返すという、か細い善意の表れだった。そして、兵士たちの懐から、自身とカリナが最低限生き延びるために必要な分、元の金額の一割だけを取った。完全に略奪するのではなく、必要な分だけを、しかも「クズ」から得る。それは、シオリ自身の内奥に存在する倫理観の揺れと、生存への抗いがたい執着が混ざり合った、あまりにもいびつで、痛ましい行動だった。
震えながら地面に座り込んでいる行商人に、感情の読めない一瞥だけを送り、シオリはそのまま来た道を戻った。行商人は、未だ自らの身に何が起こったのか、理解が追いついていないようだった。
隠れ家に戻ると、カリナが張り詰めた、極度の緊張した面持ちでシオリを待っていた。その細い手には、シオリが隠れ家に入る前に万が一のためにと預けた、彼女自身の愛刀が、まるで縋るように握られている。それはカリナにとって、自己防衛の手段というよりは、シオリを待つ間の、耐え難い不安を紛らわせるための、唯一の拠り所だったのかもしれない。シオリの姿を見た瞬間、カリナの顔に貼り付いていた張り詰めた緊張が、堰を切ったように解け、深い、魂からの安堵の色が浮かんだ。
「シオリさん!」
カリナは、抑えきれない衝動のまま、シオリの名を呼んだ。
「ああ、戻った」
シオリは短く応えた。その声には、微かに安堵が含まれていた。
「無事だったんですね……良かった……!」
カリナは安堵のため息を漏らした。その声は、まだ微かに震えている。
「少しばかり、情報と食料になりそうなものを手に入れた」
シオリは手に持った小さな巾着袋を示した。その中には、わずかな金と、簡素な乾パンが入っていた。
「情報……追手の? 食料……でも、どうやって……?」
カリナは訝しげな顔をした。シオリに、食料を買う金がないことは知っている。
「……ああ」
シオリは少し視線を逸らした。その瞳の奥に、微かな陰りが宿る。
「少し荒っぽい方法だが、背に腹は代えられない」
それは「クズ狩り」のことだ。その言葉の裏にある、シオリの歪んだ倫理観と、生存のための犠牲を、カリナがどこまで理解したのかは分からない。あるいは、理解しようとはしなかったのかもしれない。
「……でも」
カリナはシオリに一歩近づいた。その顔に、シオリの行動を非難する色はない。ただ、シオリが無事に戻ってきたことへの純粋な安堵と、シオリを気遣うような、優しい色だけがある。彼女にとって、シオリの生存と帰還こそが、何よりも重要な「真実」だった。
「シオリさんが、無事なら、いいんです……」
カリナはそのまま、シオリにそっと寄り添った。微かに血の匂いがしたが、それはシオリの体に付着したものではなく、彼女が踏み越えてきた「悪」の領域から滲み出るものだと、カリナは本能的に理解していた。それ以上に、シオリが無事に戻ってきたこと、そして自身を置いていかなかったことが、カリナには何よりも心強かったのだ。
シオリはカリナの肩にそっと腕を回し、引き寄せた。労わるような、あるいは「もう大丈夫だ。私がいる」と伝えるような、その手に、シオリ自身も気づかない、微かな温かさが宿っていることに、シオリ自身が一番驚いていた。カリナの柔らかく、微かに震える体が触れることで、シオリの心の中に張り詰めていた、鋼のような緊張が、わずかに、氷が溶けるように和らいでいくのを感じる。
この暗く冷たい路地の片隅で、時間の残骸に囲まれながら、二人の間には確かに、互いを支え合い、過酷な世界を生き抜くための、強固な絆が育まれ始めていた。シオリの、歪みながらも力強い優しさと、カリナの、壊れそうなくらい純粋な信頼が、この絶望的な現実の中の、唯一の、そして尊い希望の光となっていた。