戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記 作:剣豪
それから、陽は既に半ばを過ぎていた。
煤と湿気を吸い込んだ古びた倉庫の裏手、埃の層が幾筋もの年輪を描く薄闇の中、二つの影がひっそりと身を潜めていた。昨夜の門前での殺戮、血の飛沫を振り切ってからの逃走劇から、まださして時間は経過していない。カリナの肉体は、鋼のように張り詰めた緊張と、骨の髄まで浸み込んだ疲労に軋んでいる。瞼を下ろしても、内側で蠢く焦燥が微睡みを許さない。呼吸は浅く速く、痩躯は小刻みに震えを孕んでいた。
食料は、昼頃にシオリが町の裏通りで調達してきたものが、無造作な包みのまま転がっている。飢えを凌ぐには事足りる量だが、この先を照らす灯火はどこにも見当たらない。張り詰めすぎた糸のように、カリナの精神は擦り切れつつあった。
「いつまで……こうやって隠れていれば、良いのでしょうね」カリナの声は、まるで空気に溶けてしまいそうなほど細い。
シオリは変わらず、その場の空気から隔絶されたかのように静かだった。感情の揺らぎを一切映さない瞳は、しかし絶えず周囲の、見えない壁の向こうの気配を探っている。澱んだ空気の中で、その存在だけが研ぎ澄まされた刃のように静謐だった。
「無論、貴女の安全が確保されるまでだ。それまでは、協力者や敵の情報を得るための隠れ家として、ここを借り続けるしかない」
「でも……それだと、あなたが殺される可能性が……」
「大丈夫。私は、強いから」
シオリは表情一つ変えず、事実だけを述べる響きで応じた。その言葉に、自らの存在の強度が込められているかのようだった。
街に留まることの危険性は、刻々と濃度を増している。このまま息を殺していても、状況が好転する兆しはない。脱出を試みるにしても、街の正確な情報は圧倒的に不足していた。
シオリは、張り詰めた静寂の中に、微かな動きを見せた。重心を僅かに移し、立ち上がる気配を漂わせる。
「さて……少し、街の様子を探ってくるか」
「あの、私はどうすれば……?」
カリナが、疲れからか光を失いかけた瞳でシオリを見つめる。
「そうだな……念のため、布を頭に巻いてついてきてほしい。先ほど食料を調達する際に手に入れたものがある。それを被っていれば、人の目から隠れるには十分だろう」
シオリは、昼間の光の下で煤けたような色の布を取り出し、カリナに差し出した。
「……なるほど。わかりました」カリナは布を受け取り、震える手つきで頭に巻き付けた。
シオリは迷いなくカリナの手を握り、倉庫裏手の狭い空間から、街の影を縫うように進み始めた。人気のない裏通りを選び、壁伝いに移動する。僅かに開けた場所に出ると、街のざわめきが、濾過された汚れた水流のように耳に届き始めた。人々の話し声が、断片的な響きとなって空気中を漂ってくる。
「昨日の門の騒ぎで、上がピリついてるらしいぜ」
「王女様だけじゃねえ、ちっこいガキにも懸賞金だってよ」
「裏の連中にも、お触れが出てるとか」
注意深く耳を澄ますと、より詳細な情報が拾えた。
「なんか変な子供の剣士が、裏で暴れてるって噂だ」
「ウチにも上から、不審な奴は通報しろって指示が来てる」
「よそから腕っ節の立つ獣人の賞金稼ぎが来てるとか、来ないとか……」
あちらこちらから聞こえてくるのは、自分たち──とりわけカリナへの注目が、燎原の火のように広がっている事実だった。シオリは能面のような顔の眉間を、ほんのわずかに、鉄板に刻まれた線のように寄せた。もしカリナが捕らえられれば、その命が保証されないであろうことは、これらの情報から容易に推察できた。
既に三度、シオリは『クズ狩り』と称して、追っ手の斥候や下級の手の者と思しき者たちを始末している。幸い街は広大だが、それでも彼女たちの潜伏地点と行動範囲のリスクは確実に上昇していた。昨日より衛兵の巡回が増え、街角で不審な人物への職質が行われ、街の人々もどこか怯えたような、目を伏せがちな表情をしているのが見て取れた。空気そのものが、薄い硝子のように張り詰めているかのようだった。
「ふむ、随分と騒がしくなったな」
「……なんか、嬉しそうですね」
「あぁ。強者と戦えるかもしれぬからな」
シオリは、その言葉に僅かな──常人には決して理解できないであろう──期待の色を滲ませた。
「……そうですか」
カリナの華奢な体躯は、重圧と疲労の前に今にも折れそうだった。その足取りは鉛のように重く、シオリの隣を歩くだけで、全身の力を振り絞っているかのようだった。顔色には血の気が失せ、目の下の隈は深い影を落としている。その存在全てが、「疲弊」という二文字を体現しているかのようだった。
裏通りの影から影へと、二つの細い影が滑るように進む。石畳は湿気を含んで冷たく、僅かに埃っぽい空気が鼻腔をくすぐる。シオリの足音は地面に吸い込まれるように静かだが、カリナのそれは、時折、疲労ゆえか微かな乱れを見せた。遠く、街の騒めきが微かに聞こえてくる。それはまだ、彼女たちのいる暗がりには届かない、別の世界の音だった。
その時、だった。
シオリの全身の毛穴が、一度に開いたかのように粟立った。剣豪として生きた長い年月の中で、肉体に深く刻み込まれた警鐘が、脳裏の最奥で激しく打ち鳴らされる。背筋を這い上がる氷のような冷気。それは、純粋な、命を刈り取る意思の奔流だった。
その殺意の奔流を感じ取ると同時だった。シオリは反射的に、隣を歩いていたカリナの華奢な肩を、有無を言わさぬ力で掴み、地面へと押し下げる。自身もまた、殆ど重力を無視したかのような速さで、低く身を伏せた。キン、と、鋭い金属音が空気を切り裂き、二人の頭上、かつて二人が立っていた空間を何かが通り過ぎていった。乾いた土壁に、小さな剣が突き刺さる鈍い音が響く。
間髪入れずに、背後から土埃を巻き上げるような、重く速い足音が迫る。シオリは振り返ると同時、鞘から抜き放った刀を水平に構え、迫りくる影とカリナの間合いに、文字通り割って入った。振り下ろされる刃を、刀身の中ほどで受け止める。キン、と甲高い金属音が響き、火花が散った。受け流した勢いをそのままに、低く構えた体勢から、獣の如き相手の腹部へ向けて、刀を突き出す。一瞬の静止。
しかし、その攻撃は空を切った。敵は僅かに身を捻り、常人なら視界で捉えることすら困難な速さで後方へ跳躍したのだ。土埃が舞い上がり、立ち止まった敵の姿を曖昧にする。
立ち止まった敵は、一般兵のものより遥かに上等な、深いフード付きのローブを纏っていた。闇に溶け込むようなその装束は、それでいて質の高さを伺わせる。シオリよりも二回り以上は大きい体躯。そして、フードの隙間から覗く、微かに揺れる桃色の尻尾は、相手が獣人であること──おそらく猫科であること──を示唆していた。賞金稼ぎか、あるいは姫を殺す雇われ屋か。
シオリは振り返り、地面に伏せたままのカリナに、視線だけで物陰へとさらに深く隠れるよう促した。カリナはこくりと小さく頷き、倉庫のより暗い影へと身を寄せた。シオリは再び敵と向き合い、低く刀を構え直す。対峙する獣人は、構えは荒々しいが、その気配には侮れない練度の高さが感じられた。
「久々に戦いがいのある敵が来たようだな」
シオリの声は、感情を削ぎ落とした刃のように研ぎ澄まされていた。
獣人のローブの下で、口元が僅かに歪んだように見えた。
「それはこっちのセリフ。私のお姫様を取り返させてもらうよ」
女っぽい、高い声だった。
静寂は、その言葉と共に砕け散った。獣人が先に動いた。地を蹴る爆発音のような加速。残像を残しながら間合いを詰めてくる。シオリもまた、それに応じるように地を離れ、縦横無尽に空間を利用して刃を受け流し、躱していく。幾度かの刃の交錯と、爪や蹴りの鋭い牽制が繰り返された。獣人の動きは、シオリのかつての、地上に根差した剣術では捉えきれないほどの速度だった。
剣劇で応戦するが、時折混じる獣特有の鋭い拳が柔肌の肉を抉ろうとする。間一髪で避けるが、攻撃の速度は増すばかり。このまま昔の型に依存すると不利になる。そう考えた剣豪は、昔の型を昇華させるようにイメージを動きへと反映させた。
一撃一撃を重くするのではなく、軽く。足取りをより素早く、重心を中心によらせ、腰を用いて相手の攻撃を避けて攻撃をしていくように。そうして――段々と対応力が増していく。
「感謝するぞ、獣人よ。私は、より強くなった」
彼女の体は、無意識のうちに新たな速度域への対応を始めていた。それまでの正対する剣術の剛性が消え、流れるような、あるいは宙を舞う蝶のような軽やかさが増していく。
シオリは一度、相手の攻撃を受け流しつつ、高く宙へと身を躍らせた。それは迎撃を誘う動きに見えた。獣人が追撃すべく、弾丸のように跳躍したその刹那、シオリは手にした刀の切っ先を、まるで根を生やすかのように地面に一瞬、正確に突き立てた。刀の柄を支点に、自らの体を横薙ぎに、強い回転力を加えて振るう。その遠心力が乗り移った右足が、研ぎ澄まされた鞭のようにしなり、宙にいる獣人の、防御の薄くなった胸元へと正確に叩き込まれた。
鈍く、それでいて重い衝撃音が響く。獣人の巨体がよろめき、そのまま地面に落下した。硬い地面に打ち付けられた衝撃と、蹴りによる内臓への打撃だろう。胸元を抑え、ゴホッ、ゴホッと苦しげな咳が、路地に響き渡った。勝負は決したか、と思われた。
その時だった。狭い路地に、不意に一陣の風が吹き抜けた。まるで舞台の幕が開くように、獣人が深く被っていたフードが、その勢いに煽られ、ごそりと外れる。露わになった顔に、シオリの目が、そして物陰から覗き見ていたカリナの目が、釘付けになった。
セミロングの、桃色の髪。ぴんと立った猫の耳。そして、驚愕に見開かれた、鮮やかな青い瞳。それは、疑いようもなく、猫亜人だった。やはりと思いつつ、刀でとどめを刺そうとしたその時。
隠れていたカリナの口から、予想外の言葉がこぼれた。