戦死した人斬り剣豪によるTS放浪記   作:剣豪

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第八話

 路地裏に満ちる湿った空気を切り裂くように、カリナの唇から零れたその言葉は、シオリの耳にまるで幻聴のように響いた。

 

「ヴァナネルサ……!」

 

 その声の震えと、驚愕に見開かれた瞳は、目の前の猫亜人がカリナにとって単なる敵ではないことを雄弁に物語っていた。シオリは、突きつけようとしていた刀の切っ先を、寸前でぴたりと止める。獣人は、胸元を抑えたまま荒い息を吐いていたが、その鮮やかな青い瞳は、苦痛と安堵、そして困惑の混じり合った複雑な色を帯びてカリナへと釘付けになっていた。

 

 深く被っていたフードが完全に剥がれ落ちたことで露わになったのは、まだ幼さの残る顔立ちと、ふわりと肩にかかるセミロングの桃色の髪だった。ぴんと立った猫の耳が、周囲の微かな音を拾うように微動する。しかし、その瞳の奥には、確固たる意志と、そしてわずかな混乱が宿っていた。

 

「カリナ様……やはり、ご無事でしたか!」

 

 獣人の声は、先ほどの戦闘中に響いた女っぽい響きとは異なり、若々しい男性の、少しだけ高めの声に変わっていた。その声に安堵の色が滲むと同時に、彼の視線は再びシオリへと向けられる。警戒と、そして明らかな敵意が、その青い瞳に宿った。まるで、大切な宝物を盗もうとする盗賊を見つけたかのような、剥き出しの感情がそこにはあった。彼の身体からは、緊張と防御の構えが再び漲り始める。

 

「貴様……カリナ様を誑かすつもりか! 何者だ!」

 

 彼は、再び地を蹴り、シオリへと飛びかかろうとする。その動きは、先ほどと同様に電光石火の速さだった。しかし、カリナの声が、それを制した。

 

「待って、ヴァナネルサ! この方は、私を助けてくださった恩人よ!」

 

 カリナは、疲れ切った体躯を必死に奮い立たせ、身を起こそうとする。その必死な叫びに、ヴァナネルサと名乗る獣人はぴたりと動きを止め、戸惑いの表情を浮かべた。彼は、カリナの言葉を理解しようとするかのように、その青い瞳をわずかに揺らがせている。

 

「恩人……? しかし、貴女様はいつも、危険な者たちに狙われて……」

 

 ヴァナネルサの言葉には、カリナへの深く揺るぎない忠誠と、そして彼女を守りきれなかった自責の念が滲んでいた。シオリは、その様子を静かに見守っていたが、やがてゆっくりと刀を鞘に収めると、ヴァナネルサに向き直った。その能面のような表情は変わらないが、張り詰めていた警戒の気配は、僅かに緩んだように見えた。

 

「彼女は今、追われている。私もまた、彼女を守るために剣を振るっている」

 

 シオリの言葉は簡潔だったが、その中に含まれた情報は、ヴァナネルサの疑念を打ち破るには十分だった。彼は、シオリの言葉とカリナの顔を交互に見比べ、やがて深く被っていたフードを再び被り直すと、大きく、しかし静かに息を吐いた。彼の顔には、疑念と安堵、そして新たな使命感が入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。

 

「……申し訳ありません、カリナ様。早とちりいたしました。私の名はヴァナネルサ。カリナ様にお仕えする者でございます」

 

 ヴァナネルサは深々と頭を下げた。その姿は、先ほどの獰猛な獣人の面影を完全に消し去り、礼儀正しい従者のそれだった。路地の片隅に、緊張の糸が解かれたかのような静寂が訪れる。

 

「ヴァナネルサ……なぜここに? 王城を飛び出してきたの?」

 

 カリナの声には、安堵と同時に、彼の身を案じる色が混ざっていた。その問いは、疲弊しきったカリナの心に、一筋の温かい光を灯したかのようだった。

 

「はい。カリナ様がご無事であることを確認するまでは、この街を出るわけにはまいりませんでした。しかし……貴女様は、何かお探しものが?」

 

 ヴァナネルサの問いに、カリナは目を伏せた。その薄い唇から、微かな吐息が漏れる。

 

「ええ……私には、会わなければならない人がいるの。待っている人が」

 

 その言葉を聞いたシオリの眉間が、再び鉄板に刻まれた線のように微かに寄った。澱んだ路地の空気が、重く張り詰める。彼女は、静かに、しかし断固とした口調で告げた。

 

「このまま街にいたところで、その『待ち人』ごと始末される可能性が高い。猫亜人であるならば、お前もまた、この街を出た方がいい」

 

 シオリの言葉は、現状の厳しさを明確に突きつけた。街を覆う警戒の網は、彼女たちが身を隠す裏路地にも、確実にその影を落としている。ヴァナネルサの青い瞳に、わずかな動揺が走った。彼は、シオリの言葉が真実を突いていることを理解したのだろう。カリナは、シオリとヴァナネルサの顔を交互に見つめ、その華奢な肩を震わせた。彼女の瞳には、迷いの色が宿っている。しかし、状況が彼女に選択を迫っていた。

 

「……わかりました。二人に従います」

 

 カリナの決意の言葉は、か細くも、しかし確かな響きを持っていた。路地の奥から聞こえる微かなざわめきが、彼らの決断を急かすかのように響いている。三人は、再び裏通りの影の中を進み始めた。しかし、街の入り口へと近づくにつれて、状況の深刻さは増していく。巡回する衛兵の数が増え、その足音は石畳に重く響き、街路を往来する人々の表情は、より一層怯えに満ちていた。まるで、街全体が巨大な罠へと変わっていくかのようだ。そして、最も恐れていた現実が、彼らの目の前に立ちはだかった。

 

 街の主要な入り口は、分厚い木の柵と、鉄格子によって厳重に封鎖されていた。その上には、松明の炎が揺らめき、見張りの衛兵が厳しく目を光らせている。彼らの硬い表情は、一切の情け容赦を許さないことを示唆していた。微かな風が、封鎖された門から、諦めと絶望の匂いを運んでくるようだった。街は、完全に閉じ込められていた。

 

 封鎖された門の前に広がる、絶望的な光景。燃え盛る松明の光が、衛兵たちの甲冑に鈍く反射し、まるで獲物を囲む狼の群れのように見えた。その光景を前に、カリナの顔色はさらに失せ、その唇からは小さな吐息が漏れた。ヴァナネルサの眉間には深い皺が刻まれ、その青い瞳には焦燥の色が浮かぶ。しかし、シオリの表情は変わらない。感情を一切滲ませないその瞳の奥で、状況を冷静に分析しているかのようだった。彼女の脳裏には、既に複数の選択肢が巡っている。

 

 冷たい風が、三人の間を吹き抜けていく。その風は、彼らの進むべき道を、そして下すべき決断を、静かに促しているかのようだった。

 

「どうやって突破するおつもりですか、シオリ殿」

 

 ヴァナネルサの声が、張り詰めた沈黙を破った。彼の問いは、現実的な突破口を模索するかのようだった。その瞳は、シオリの次の言葉を、まるで喉が渇いた者が水を求めるように待っていた。

 

「正面突破だ。夜襲とする」

 

 シオリの返答は、一切の迷いを含まなかった。その言葉は、まるで鋼鉄の意志を宿しているかのようだ。彼女の視線は、既に目の前の門の向こうを見据えている。

 

「しかし、それでは姫様をお守りできないかもしれません。危険です。迂回した方が……」

 

 ヴァナネルサは、カリナに視線を向けながら、慎重な提案をした。彼の表情には、カリナの安全を第一に考える従者としての責任感がにじみ出ている。

 

「問題ない。姫は足が速い。それに……守るとは言っていない」

 

 シオリは、ヴァナネルサの言葉を遮るように言った。その声に、ヴァナネルサの目がわずかに見開かれた。その意図を測りかねている。

 

「つまり、我々が囮となる。派手に兵士たちへ攻撃を与えれば、彼らは姫に気づかない。何より……我々に勝てるほど強くはない」

 

 シオリは、衛兵たちを侮蔑するような口調で言った。その言葉には、自身の力量に対する絶対的な自信が込められている。まるで、目の前の衛兵たちが、彼女にとっては取るに足らない存在であるかのように。ヴァナネルサは、シオリの言葉に言葉を失った。その発想は、彼の常識を超えていた。囮になるという発想は、彼の忠誠心からすれば、カリナを危険に晒す行為にも思えたのだ。

 

「……なるほど、そういうことですか。確かに、それならばカリナ様を安全に。我々が引き付け役となれば……」

 

 ヴァナネルサの眉間の皺が、ゆっくりと消え去った。彼の青い瞳に、シオリの戦略を理解した確かな光が宿る。彼の脳裏で、シオリの簡潔な言葉から紡ぎ出された作戦が、まるで緻密な絵図のように広がっていく。衛兵たちの思考回路の単純さ、そしてシオリ自身の圧倒的な力を鑑みれば、それは確かに最も効率的で、カリナの安全を確保できる道筋だと瞬時に悟ったのだ。奴隷として育ち、常に生死の淵を彷徨ってきた彼の経験則が、シオリの言葉の重みを正しく測っていた。

 

「……シオリ殿。あなた様のその経験則に基づいた状況判断と、卓越した作戦立案には、深く感銘を受けました。このヴァナネルサ、心より脱帽いたします」

 

 ヴァナネルサは、そう言って深々と頭を下げた。彼の言葉には、これまで抱いていた警戒の色は微塵もなく、純粋な敬意と、そして忠誠が宿っていた。この瞬間、彼にとってシオリは、ただの「恩人」ではなく、自らの命を預けるに足る「殿」となったのだ。

 

「……しかし、万が一の可能性もございます。姫様は、確実に無事でしょうか?」

 

 ヴァナネルサは、それでもカリナの安全を案じ、食い下がった。彼の瞳には、不安の色が揺れている。その問いは、彼自身の心の中で、確かな答えを見つけようとしているかのようだった。

 

「煩い。心配は無用だ。気張れ、男」

 

 シオリは、苛立ったようにヴァナネルサに言い放った。その時だった。

 

「……はい、承知いたしました。命に代えても、お供いたします」

 

 ヴァナネルサは、もうシオリの言葉に戸惑うことはなかった。彼の顔には、カリナを守り抜くという揺るぎない決意が刻まれている。その瞳は、もはや迷いを宿さず、ただ前を見据えている。

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