ありふれ×呪術―もしも器に選ばれたのが光輝じゃなくて虎杖だったら― 作:roborobo
「……もう、立ち上がれない……か」
息を呑む衆人に見守られる中、地面に突っ伏したままの虎杖を眺めていた。
体に残された傷跡があまりにも生々しく痛々しい。垂れ流される血はまるで絞った雑巾のように溢れた血だまりを広げていって、色のない土に鮮やかな赤色の染みを残していた。
誰もが思っていた。もう立てない、立たないでくれと。
「……ん、ハジメ。これで終わり?」
「だろうな。あれだけ実力差ってもんを思い知らせてやったんだ。これでもう突っ込んでくるような真似はしねぇだろうよ」
ジッと眺めているハジメの傍らにいる少女たちの一人、ユエが確認を取るようにして語り掛けてきた。
眼前で立ち向かってくる少年に対し、ユエもハジメと同じように邪魔な虫けらと思うような視線を向け続けている。その向こう側にいるクラスメイト達が、ハジメの同郷の者たちであることは知らされてはいた。こうして、目の前で倒れている『イタドリ』と呼ばれている少年も同じ者だと言う事も。
いったい、どんな関係だったのか。どのような交友関係だったのか。
ユエを含めて、後ろで見学していたシアとティオも同じような気持ちだった。奈落の世界で生き残り、このトータスの地で敵と迷宮に挑み続けているハジメを間近で見ていた彼女たちに取って、目の前にいる『親友』と呼ばれる者が、どのような人間なのか多少なりとの興味があったのだ。
「……これ、死んでませんかねぇ?」
「それはないじゃろ。見てみれば呼吸もしておる、心臓だって動いておる。ご主人様は無益な殺しはぜったいにせんよ」
非情な心で力を振るうハジメを傍らで見てきた。彼がどのような心を持っていて、どのような気持ちで敵に接してきたのかを二人は知っている。
だからこそ、倒すべき敵を、戦うべき敵とそうでない物を見分ける心がある事も彼女たちは知っていた。
「こうして、あの少年は倒れたままじゃ。体が頑丈なのじゃろうな。おそらく、そのまま放っておいてもその内元気になって立ち上がるじゃろう」
「……ま、お前の言う通り。無益な殺しはするつもりはねぇ。それが例え、現実が見えていないバカだとしてもな」
吐き捨てるでもなく、見捨てるでもなく、倒れたままの男の体を眺めながら何物の色を移さないハジメの瞳はぼんやりとした光を宿していた。
不倒不屈という言葉は、きっと目の前にいる虎杖という少年に当てはまるのだろう。そういう人間であることを、ハジメ自身もよくわかっていた。
学校の時からそうだった。そこらの不良なんて片手で蹴散らせることが出来るのに、他者に対する優しさと思いやりを決して見失うことなく、どんな相手にも親しく接してくれていた。清水のような陰キャ、檜山のような乱暴者に分類される陽キャ、たまに隣のクラスにいる人気物の天乃河光輝など、虎杖という人間がブレることは決してなかった。
だからこそ、だ。こいつは、目の前にいる不倒不屈のバカは、こんな世界でもブレることをしなかった。
「……馬鹿が。何も見えてねぇお前に、俺と並ぶことなんて出来るわけねぇだろ」
この世界は弱肉強食だ。
弱き亜人族は帝国によって狩られ、強きヘルシャー帝国が亜人を奴隷にしている。そして、終わることのない人間と魔人族の戦いによって、どの種も関係なく、弱き者が淘汰される。それが、トータスという世界の本質であり、ハジメが戦い抜くべき世界であり、虎杖たちを含めて向き合わなければならない現実なのだ。
なのに、それなのに。このバカは、いまだ自分を曲げようとしない。
ここは平和な地球ではない。命を取って取られて当たり前の世界。虎杖がやっていたケンカなんかとはワケが違う、本当の命の奪い合いがこの世界には充満しているのだ。
ハジメは平凡な少年だった。どこにでもいる、オタク気質な弱気な少年だ。それが変わったのは、クラスメイトからの裏切りと、過酷な奈落の世界で生き残り、敵は絶対に殺さなければ帰れないという『真理』を目の当たりにしたからだ。
変わらなければいけなかった。変わらなければ、生き残ることは出来なかった。
それを、ついていきたい、力を得て誰かを護れるようになりたい。前の世界から、『変わらないまま』の信念で虎杖は立ち向かおうとしている。
この言葉が、どれだけハジメの心の内に深い不快感を残したのか。想像に難くない。
「……いくぞ」
「? ハジメ、もう行っちゃうの?」
「あいつにはもういやってほどわからせてやったしな。相手をしてやる必要すらねぇよ」
もはや興味なんてない。そう言いたげなハジメの視線は、地面に寝転がったままの虎杖にジッと突き刺されていた。
地べたに這いずる虎杖の背中。それを見つめている時間は、物の数分ほどだけ。見る物は見た、あとはもう用はないと言わんばかりに背中を向けて立ち去ろうとしていた。
このまま、ハジメは次なる目的地へと向かう予定だ。ユエと、シアと、ティオと。その傍らにいるミュウを故郷へ帰してやるために、そして新たな迷宮へと挑むために。
力が、力がいるのだ。何物にも負けない力が、立ちふさがる敵を排除するだけの強大な力が。元の世界へ帰るための絶対的な力が。
だから、このまま虎杖に構ってやる必要は――
「……で、何の用だ」
後ろを振り返ることなく、言葉だけを投げるようにしてハジメはつぶやいた。
見る必要なんてなかった。荒い息遣い、地を踏みしめる音、変わる空気。そのどれもを察知して、すぐにでも懐に忍ばせていたドンナーで打ち抜けるほどに、背後にいるくたばりぞこないは弱弱しく、あまりにも脆かった。
それでも、そいつは『変わることなく』立ち上がった。
「……っ、なぐ、もっ……!! 俺を、連れていけ……!!」
空気を噛みしめるように、虎杖の口から言葉が溢れた。
か細い息遣いは、気力を振り絞るだけでなく喉の奥の血ですら吐き出しているみたいだった。ふらついた足元はあまりにもおぼつかなく、ただ蹴りを見舞うのではなく小突いただけで倒れてしまいそうなほどに弱弱しい。
力はない、体力もない。回復すらしていないその肉体は、正真正銘、気力『だけ』で自分を奮い立たせていたのは明らかだ。
……ハジメの視線が、グッと虎杖に向けて強く向けられた。
「……お前、何考えて――」
「もういい、ハジメ。私がやる」
ハジメの言葉を遮るようにして、ユエが前に出た。
虎杖の目の前に立つのは、自分よりも背丈の小さい少女。対格差は圧倒的、だがその身に宿した吸血鬼の力は、虎杖をはるかに凌駕している。勝敗は、戦う前から決していた。
実際、ユエ自身も負けるつもりは微塵もなかった。自分の力に自信がありながらも、驕ることなく、目の前の敵との戦力差を頭の中で思い描き、客観的な考えで判断できると、そう思っていた。
だが、困惑の色がユエの瞳に滲んでいた。
「……何のつもり。あなたはハジメに勝てない。勝てないのに、どうして立ち向かってくるの」
素朴な疑問のつもりだった。ユエからしたら、目の前の虎杖の異様さには納得がいかなかった。
現実の見えていない甘えたガキ。平和な世界で生きてきたからこそ、温い空気感の中から抜け出せていないと思っていた。立ち上がってくるそのしつこさは、ただの何も知らない子供とは思えない。
虎杖の瞳には温さと呼ぶにはあまりにも説明しがたい気迫を感じずにはいられなかった。高貴なる種族は、その真意を瞳に宿し、浮かび上がる思念や思想を『目』から感じ取ることが出来る。それは、ユエがかつて王族であり、その目を通して仲間にしたティオがいるからこその一つの確信が胸にあった。
この少年の目には、何を宿しているのか。ユエの興味を引いたのだ。
「……俺さ、とくになんも考えてねぇよ」
呟く言葉に、ユエは口を挟まなかった。
「俺さ、じいちゃんが死んでから思ったんだ。正しい死に方を選べれば、きっとどんなに途中が辛くても結果オーライだなって。だからさ、この世界に連れてこられて、間違った死に方を……クラスメイト達には絶対にそうなってほしくないって思ったんだ」
「……知り合いには正しい死を迎えて、間違った死に方をしてほしくないから力を得たいってこと?」
「そうだよ。だって、力がなきゃ死に方を選べない。自分の道筋を決められねぇ。生き様で後悔しないためには、そのための力が必要なんだ」
変わることのない言葉は、聞けば飽き飽きするような判を押したセリフの羅列にしか思えない。
しかし、そこに信念ある者の言葉ならば話は別だ。変わらない言葉は、そのまま彼の変わらない信念に対する裏付けになるのだから。
瞳に宿した光という物は、どんな言葉よりも重いメッセージを乗せてくれる。はるか昔から、己の命を持って種族を、国の高貴なる血を引く者たちは自身の種族と名に恥じぬ生き方をしてきた。
だからこそ、ユエにはわかる。目の前の男が見せる光を宿した視線には、決して曲げられることのない強い意志があることを。
「……私たちに付いてきて、一体何の得があるの? あなたに、それだけの力を得られる才能があるの?」
「才能……が、あるかどうかはともかく。俺の存在は、何かに使えるかもしれねぇぞ」
「? どういうこと……?」
気になるような言葉を出してきたことに、ユエの頭に疑問符が浮かんだ。
「――俺は、エヒトの器だ」
虎杖が呟いた言葉に、その場にいた誰もがどよめいた。
「――っ!!?? いまっ、なんてっ……!!」
「……虎杖、お前……」
エヒトの名前を出した途端、その場にいる者全員がどよめいた。
「……数日前だ。俺の夢の中に、エヒトってやつが現れた。お前たちがこの世界に来たのは、お前という器をこの手に入れるためだって。神である私がこの世界に顕現するには、『神の器』たるお前を呼び出すためだって……」
語られる事実に耳を傾ける者たち。虎杖の語る真実に、誰もが息を呑んだ。
エヒトによってこの世界に連れてこられたクラスメイト達。
エヒトを信奉するハイリヒの騎士たち
そして、神の手によって世界から追い込まれている亜人族であるシアやティオ。特に、ティオが浮かべる表情は、これまでのようなマゾめいた鳴りを潜めてしまい、複雑な気持ちを虎杖に向けている。
この言葉を聞いてから、ハジメの方も少なからず驚愕していた。
「……っ、クソっ……いろいろ合点がいくな……クソッタレ」
まだ断片的な情報しか得られていない物の、なぜ自分たちがこの世界に呼ばれてきてしまったのか、どうして平凡な高校生である自分たちが選ばれたのか。答えそのものはまだ見つかっていないが、それでもハジメの中で一つ一つのピースがハマっていく。
エヒトはこの世界をゲームだと思って楽しんでいる。ならば、ゲームをより楽しむためのモノを必要としているのならば、より円滑に進められる駒が必要となるはず。
奴によって行われた異世界召喚は、他所からゲームの駒を調達するための作業だったのかもしれない。
それならば、自分たちがこの世界にいるのは……
「答えろ。エヒトはお前を目当てに異世界召喚を行った。ならば、俺たちがこの世界に呼ばれたのは……」
「……近かったから……って言ってた。俺がいたから、みんながこの世界に来てしまったんだ」
ハジメは自分の中であらかじめ、どんな答えが出てくるのかわかっていたのだろう。彼の言葉を耳にした瞬間、強く瞼を閉じながら点を仰ぎ見た。
巻き込まれただけ、それが答えだった。奴の狙いは最初から虎杖であり、自分たちはただ巻き込まれただけのモブだったのだ。
これだけたくさんの生徒が巻き込まれて、これだけたくさんの争いの中へと放り込まれて。それが、ただ巻き込まれただけという事実。
「……南雲、俺はエヒトの事だとかどうして呼ばれたのかまだ何にも分からない。だけどこれだけは思うんだ。こんなことに呼び出すようなやつは、絶対にろくでもないやつだってことくらいは」
だから、と。虎杖の拳が、強く握りしめられる。
「俺を連れていくことは、きっと何かお前にとってのプラスになるんじゃねぇかって思ってる」
「……なぜそう言い切れる」
「エヒトにとって、お前は不都合な存在じゃねぇかなって思うんだよ。本命が俺なら、巻き込まれただけのお前がそれだけ強くなってるのは、きっとこの世界の神にとってイレギュラーなはずだ。なら、大勢の生徒を誘拐するようなやつに、何か一泡吹かせる『切り札』になりうる」
ジッと、虎杖の視線がハジメの瞳を捉えた。
「……戦わせてくれ、南雲。お前の足手まといにならない程度にはついていく! だから……」
――ドパァンっ!!
「っ……!」
「……くどいんだよ、お前」
刺すような眼光が、虎杖を睨みつける。
「……テメェみたいな三下が俺についてきて何をしてくれるってんだ? 神代魔法を手に入れて、使い物になるまでまってくださいとでもいうつもりか? 甘ったれんなよ。お前はな、ここで何を俺に出せるのかを提示しなきゃいけねんぇんだよ」
ガチャリと、ハジメの銃が虎杖に向けられた。
赤黒い閃光が銃口からバチバチと溢れている。引き金を引けばすぐにでも打ち出せる準備が整っていた。
……しかし、その瞳には撃つ気概なんてかけらもなかった。目の前の人間を、殺すつもりなんてこれっぽっちも。
(……っ、とんでもねぇことを言ってくれたなコイツ……!!)
先ほどの言葉を耳にして、あまりにもあんまりな真実に予想以上にショックを受けていたのは、ほかでもないハジメだった。
自分たちが理不尽なことに巻きこまれたという事実……というだけではない。虎杖のいった事は、下手をすれば『ゲーム』とやらを仕掛けてきた神の真意をこの場で口にしてしまったようなもの。言ってしまえば、これまでずっと隠し事にされてきた物語の舞台裏を観客にひけらかす真似をしでかしてしまったわけだ。
そうなれば、どうなるか。そのような真似をしてくる神が、何らかの干渉をしてこないとも限らない。虎杖のしでかしたことは、そのきっかけとも言えるモノに触れてしまったわけだ。
なにせ、ずいぶん前に攻略した迷宮の解放者であるミレディが、直球で『糞野郎』と表現するようなやつだ。何をしてくるかわかった物じゃない。
(クソっ……適当に追い払おうと思ったが……まさか……!)
目の前の少年を忌々しく思いながらも、かといって責められたものではないとも思ってしまう。なにせ、この戦争そのものが神の遊戯であるという事実に関しては、まだ虎杖に知らされていないのだから。
ならば、と。もうここまで来たら無理やりにでも遠ざけるしかなかった。
銃口を向けたまま、狙いをつけていく。もちろん、撃つつもりはない。威嚇程度に収めることは考えているつもりだった。
「お前と肩を並べられる」
「――……あ?」
かちゃりと、銃を構えていた腕が下りた。
「お前に、人殺しはダメだって言える。お前と一緒に、相手の命を奪う戦いに参加できる。お前と一緒に、元の世界に帰ることが出来る。俺は、お前のことを『南雲ハジメ』として接していくことが出来る」
つらつらと語られる虎杖の言葉に、ハジメのほうが呆気に取られていく。
何を言っているのか分からなかった。何を言いたいのかが、分からなかった。
だけれど、並べられている今の言葉に、何か言いようのない『納得』に近い物をハジメの中で感じていた。
「……ふざけないで」
「! ユエ……」
「人殺しをしてはダメ? 一緒に戦える? それが、ハジメにとって何の得があると言うの? あなたの言う事は何の意味もない、何の重みもない言葉でしかない。ハジメがハジメでいられる……? じゃあなに? あなたにとって、今ここにいるハジメは『当たり前』のハジメじゃないって言うの?」
虎杖の言葉を遮るようにして、ハジメの前にユエが出た。
彼女の言うことはもっともであった。人を殺してはダメという一般的な倫理観は、すでにハジメにとって必要のないものだった。それを、してはいけないなどと言われても、ただの生ぬるい人間の戯言でしかない。
まるでそれを、『当たり前』の事みたいに言ってくる男に、ユエの瞳に敵意が表れていく。その視線を外すことがないまま、ジッと虎杖のほうへと。
「……そうだよ。だって、お前が元の世界に帰るってんなら、その後は『最強』になる必要も『人殺し』も必要な世界じゃないだろ」
虎杖の言葉を耳にした途端、ユエとハジメの顔がハッとした表情を浮かべた。
「……南雲、お前大変だったんだろうな。あの魔人族を……大人しかったお前が殺してしまうほどの、すっげぇ辛い何かがあったんだろうな……あの奈落の下で、俺なんかじゃ想像できねーよ―なこと、あったんだろうな」
「……まぁ、な」
「はは、やっぱか。まぁ……俺の頭じゃわかんねぇけどさ」
がりがりと頭を掻きながら、改めてハジメは虎杖の目を見た。その顔と、向き合った。前の世界と何も変わらない、あの頃のクラスメイトの顔があった。
変わった自分に、変わる前の自分を語る、変わらないクラスメイトがそこにあった。
「……南雲。俺、お前に追いつけるかわかんねぇ。でもさ、あの時奈落に堕ちていったお前を救えなかったことを……もう後悔したくねぇから。だから俺、お前の味方で居続けるよ」
「何があっても『裏切らない』。それが、お前にしてやれることだと俺は思うから」
……言葉なんて、なかった。出せる言葉なんて、かけてやれる言葉なんて出せるはずがなかった。
目の前の少年は何も変わっていない。人のよさそうな笑顔も、ただ愚直なままの人間性を保ったままのアイツが、今目の前に立っていた。
自分は変われていた。戦いのための環境に順応し、どのような相手であろうとも命を奪える非情さを得ることが出来た。優しかったころの心を捨て去って、生きることの飽くなき執念に見合った強さを手に入れることが出来た。それが、ハジメが変わることによって得た物だ。
変わらなければいけなかった。変わらなければ生き残ることは出来なかった。目の前に立ちふさがる者はすべて敵であり、倒さなければ前に進むことは出来なかった。
だから、『変わる』ことは正解だと思っていた。だけど、『変わらない』ことが間違いであるとは別の話だった。
強さを得ることが、生き残ることが、敵の命を奪うことが。今の状況において正解に位置していた。けれど、生き残った先にあるのが、人の命を奪う必要のない世界に帰るのであれば――
「虎杖、聞かせろ。そこまでお前が俺に固執する理由はなんだ」
ハジメの言葉に、虎杖は砕けた様に笑った。
「教室にお前がいないと寂しいよ」
笑っていた。人の命が安い世界に連れてこられたのに、こんな場所だというのに。虎杖の今の笑顔は、あの教室で見せてくれていた――自分が趣味の合間に人生を生きてきた、ただの通過点でしかないと思っていた何気ない日常の中にあった『変わらない笑顔』だった。
「……ハジメ」
きゅ、と。ハジメのコートの袖をユエが掴んだ。
彼女も感じ取る物があったのだろう。かつて、信じていた物に裏切られた過去があるユエにとって、他者を裏切るような人間は嫌いなはずだ。
ならば、他者を裏切らない、本当の友情を示してくれる相手ならば……
がちゃりと、構えていた銃を完全に懐にしまい込み、大きなため息をこぼしながら虎杖に視線を向けた。
「お前はまだしばらく……八重樫たちと行動しろ。何はともあれ、お前の方がある程度力をつけてからじゃなきゃ話にならねぇ」
「……! あぁ、わかった! ぜってぇいろいろ準備が出来たら……そん時は頼むな!」
互いに落としどころを提示し、ようやく二人の話が終わった。
虎杖を同行させるかどうかについては、現状保留することとなった。
神代魔法を習得できる迷宮は、はっきり言って虎杖ほどのレベルですらも苦戦するほどに困難だ。それならば、せめてクラスメイト達と行動を共にさせ、力を付けさせた方が良いに違いない。
「……虎杖君……南雲くん……」
二人の方に声をかけながら近づいてくる少女が一人。先ほどからジッと二人の戦いを眺めていた八重樫だ。
「八重樫。そいつの事は頼んだ。ケガについては……そっちの治癒士に任せればどうにでもなる」
放り投げるかのように、ハジメは虎杖に背中を向けながらこの場を後にしようとしていた。
用事は済んだ。だから、はやく次の迷宮へ向かおうと思っていた。足早なまま、早く向かわなければと自分に言い聞かせて。
……今の虎杖の目を、ハジメは見ることが出来なかった。見る資格なんて、無いと思っていたから
(――俺は相手を『敵』だと……ずっと認識してきた。でも、隣にいるユエのような『大切』がいるから……俺は自分の中に人であることを保たせることが出来たのかもしれない。ならば……)
虎杖の目をまっすぐに見れる気がしなかった。『敵』だと断定して殺してきたことはあっても、『味方』だと思って誰かに手を伸ばしたことなんてなかった。それこそ、前の世界でも。
だから、八重樫に任せる。クラスメイト達に任せる。今はただただ、それが正解だと思ったから。
――ふいに、後ろを振り返った。去り際に、クラスメイトの顔を少しだけでも見ようと思っていた。
八重樫雫の剣が、虎杖を貫いていた。