「胎教よ」
ソファに埋もれて片手でティーカップをもて遊び、貴婦人は、厚手のルームソックスに包まれた足指で空に模様を描きながら、退屈そうに口にした。
「そのウマ娘の母親は現役中、至宝を戴くことがついぞ叶わなくてね。お腹の子どもにこう語り続けたそうよ。『レーサーとして数多くのレースで表彰された高名な父のように、立派になりなさい。トゥインクル・シリーズで願いを叶えられなかった私の無念を晴らしなさい』とね。やがて成長したその子は、立ちはだかる苦難に塗れながらも、幾度ない挑戦の末、とうとう栄冠を掴んだそうよ」
そこまで語り終え珈琲を一口啜った貴婦人は、真っ赤な瞳を爛々と輝かせ「どう思うかしら」とばかりに視線を送った。
その視線を受けた淑女――対面で純白の柔らかなクッションに横座る、話者の扇情的な桃色とは対照的な、薄青の寝間着を纏ったこの娘は、読書を中断し開いていたページを掌で抑えると、もう片方の手で顎に軽く触れては思慮深げに首を傾げ、言葉を紡いだ。
「どう思うかですって……。母に背中を押され父の名に恥じぬよう振る舞った立派なウマ娘。その様な者は、必然周囲の大勢の人たちからも、さぞ祝福されていたでしょうね。そして自身はたゆまぬ研鑽を続け、遂に己が手にするに相応しい栄冠を手にした。掛け値なしに立派なことだと思いますけど」
深く碧い瞳に叡智を湛え、そう答える。
何よりも勝つことに執着し自己鍛錬を怠らないウマ娘たちにとって、それは模範的な答えであった。
淑女の答えに納得がいったのかそうでないのか、貴婦人はにっと唇を歪ませ笑みをつくると、再びカップを傾け珈琲を啜った。
そこからはまた会話も途絶え、淑女は目を伏せ優雅な手つきで頁をめくり、読書に戻る。貴婦人に招かれた身でありながら、ホストを無視した振る舞いなど不躾も甚だしいのだが、貞淑な淑女をして敢えてしているといった風情。
貴婦人も、令嬢の自身を前に豪胆とも無謀とも言える振る舞いを気に入っていると見えて、あの知れ渡った不敵な表情を浮かべるばかりだ。
茶会の間、ソファに重みを預けていた両脚を、はしたなくもその上で幾度と組み替えていた貴婦人である。やがて長い脚を優雅に伸ばすと、無造作に置かれていたケトルベルのハンドルに親指を掛けた。そのまま何とはなしに持ち上げてみせるのだった。その仕草は脇で灯るスタンドランプに照らされ、僅かに桃色がかったカーテンに胴体の長い猫の戯れの影絵となって映し出される。
貴婦人によって床としばしの別れを告げた桃色のケトルベルは、彼女の脚の動きに導かれ宙を舞った後、2人のいる場所から少し離れた床に飛んでいく。
そうであることが当然とばかりに鉄球の側を下に、正規の向きで床に落下したケトルベルである。床に敷かれた雪のように真っ白で、手触りの良い抽んでて毛足の長い上質なシャギーラグが、己に乱暴に接吻する無骨な筋力トレーニング用品を受け止めた。
ズンと床の振動をあらわして後、桃色の物体は部屋のインテリアとして初めからそこにあったかのように、澄ました顔をして鎮座するのだった。
それでも床に当たって大層な音を立てたことには違いないのだが、淑女はまったく気にする様子もなく、自らの読書世界に埋没していた。
戯れに興じたところで貴婦人はふと真顔に戻ると、すくとソファに預けていた背中を起こし、再度問うのだった。
「それが貴女の本意なのかしら、ヴィルシーナ」
唐突な問いかけと共に名前を呼ばれた淑女は、僅かに眉をひそめ、しかしすぐに優美な表情を取り戻すと、眼の前の貴婦人に挑むように問い返してみせた。
「あら、そうとしか捉えられないからこそ、正直な答えを返したまでよ。それともジェンティルドンナさんは、何かお考えでもあるのかしら」
問い返された貴婦人は「貴女もそうなのね」と軽侮の表情を浮かべるも、しかし眼の前の相手には認めるところもあるのだろう。新たに句を継げるのだった。
「この話を問うたのは貴女が3人目なのだけどもね。その答えを返したのは貴女が2人目ね。ああ、そう言っても残りの1人――貴女も知っている愉快な人だけど――は、そもそも話にならなかったかしら。……そんな訳でアテが外れたのだけども、まぁいいわ。貴女になら語っても良いかしら」
そう言って貴婦人は、先ほどの質問に籠めた、己が真意を語りだした。
もっとも打ち明け話にしては自身の方が嫌に居丈高なのだが。それもこの貴婦人――目下ティアラ路線に於いてG1レースを2連勝し、史上4人目のトリプルティアラ獲得に王手をかけた実力至上主義者のウマ娘、ジェンティルドンナの人格のなすところなのだろう。
ヴィルシーナと呼ばれた淑女も、依然澄まし顔を崩さないまま、しかし耳だけは注意を傾け貴婦人の言葉の真意を知ろうとするのだった。
「いいこと。レースの結果も獲得した栄誉も――もちろんそれは勝利しかあり得ないのだけども――、その者の才能とメチエに帰するべきもの。そこに本人の続柄や他者の思惑など、入ることはあり得ないのよ」
ヴィルシーナはジェンティルの言いたいことを飲み込むと、あらためて問うてみせた。
「つまりジェンティルドンナさん。貴方はこの様な美談はくだらないと言いたい訳かしら」
「そうよ。母の悲願を叶えた? 父の名に恥じぬ? 馬鹿馬鹿しい。そんな物言い、ただ風聞で武装して物を知った気になって、その癖その目で直接物事の真価を見届けようともしない、目が曇った小者たちの創り出した物語。したり顔で語られる戯言に過ぎないのよ。まぁ周囲の者がとやかく言うだけなら放っておけば良いですけども」
おぞましそうに、けれどもその実小馬鹿にすると言った調子を隠さず、
「けれどもまかり間違って本人がそんな幻想を真に受けて、『私は皆の期待に応えることが出来ました』なんて歓呼していたとしたら。ああっ」
そう言って己の豊満な胸元で腕を組み、わざとらしく身震いしては嘆息してみせた。
ジェンティルの発言を受けたヴィルシーナは、本を閉じると彼女の方を向いた。
「ジェンティルドンナ。そうね、確かに貴方は強いだけではなく、高貴な気高さを抱いているわ。決して軽薄な発言でも蛮勇でもないのは、そう口にするだけの結果が証明している。本当に、孤高とも言える位の毅然さ」
先のレースにおいて背中を拝すことになった相手に今は正面から相対し、ヴィルシーナはしかと告げる。
「今は実力においても。――そして心意気においても、私は貴方に劣っている。それはしかと自覚しているし、貴方にとって私は取るに足らない存在なのかも知れないことも理解しているわ。けれどこれだけは知っておいて。孤高の女王を下すのは私――私しかあり得ない。その過程がどうあれ、頂点に立つのは私ですから」
ヴィルシーナの宣言の間、ジェンティルは満足そうな微笑みを顔に浮かべ、この挑戦者のことを見やっていた。
宣言を終えた時、その顔に浮かべていた挑戦者としての意気込みといったものは霧散し、今ヴィルシーナが見せるのは、凛とした『女王』の佇まい。
優美な空間に闘志を燃やした2人の女王が相克し、緊張が張り詰めた時……。
「警告っ。学園内の敷地を無断で私物化することがまかり通ってはならない!」
扉のスライドが横滑りに開く音。
瀟洒なスタンドランプや即席のシャンデリアで煌々に灯されていた空間に、理事長の背中に映るトレセン学園の『闇夜』が紛れ込む。
トレセン学園の、使われなくなった用具倉庫である。以前よりそこを拝借し、筋トレなどの簡易トレーニング兼リラックスルームとして用いていたのがジェンティルだ。
四方を白のカーテンで覆い床にはもこもこのシャギーラグを敷き、彼女の目に適った調度品を並べて居心地の良い空間を作りだす。調度品の中に筋トレグッズが混じっているのは上記の事情だ。
自分が利用する空間なのだ。それに相応しい瀟洒な空間に作り変えるのは当然と言えた。(そこには「それ以前にここは貴女のスペースでは無いのでは」といった常識は差し込まれない)
「直ちにとは言わないものの、これらの私物を猶予期限内に片付けておくこと!」
理事長も、放棄された倉庫がここまで可愛らしく飾り付けされていたとは思っていなかったと見えて、流石に驚きを見せてしまう。それでも規則は規則としてそう厳格に告げるのだった。
今宵はヴィルシーナを招いての茶会であったのだが、無粋にも扉が強引に開かれカーテンが外れ、外の景色が在り在りと映し出されれてしまった。密室の空間に直前まで存在した幻想は霧散した。どれだけ箱庭を飾り付けたところで、外の景色と対比しては密かなおままごとを暴かれたかのようで、気勢が削がれてしまうから。
「興が醒めたわ。今宵はこれにてお開きにしましょう」
貴婦人は淑女に茶会の閉会を宣言する。
「ヴィルシーナ。今宵は付き合わせて悪かったわね」
「いえ、私も貴方とは一度顔を突き合わせて話してみたかったから。お招きに感謝するわ」
「そう言って頂けて光栄ね」
「憤慨っ! 我を無視するでない!」
そこで交わされる会話は、通り一遍の社交辞令でしかなく、先の2人の間に醸し出されていた幻想は微塵も存在しない。
とは言え2人はその様な無粋気にする素振りもない。既に交感を通じて宣言はなされていたから。
秋の再戦を約して。