時は流れ10月中旬の日曜日。
天気は生憎の曇り。夏の尾を引く残暑もいい加減拭われ肌寒さを覚える頃だが、競馬場を包む熱気が、ターフを囲む観衆たちからそうした感覚を奪い去っている。
トリプルティアラ最終レース「秋華賞」は、『貴婦人』ジェンティルドンナのクラシック戦線においての、集大成であると言える。これまでのレースで見せつけてきた実力が順当に認められ、当レースでも断然の一番人気だ。彼女がこのまま順当に三冠をもぎ取るのか。はたまたそれを防がんとする者が現れるのか。
トリプルティアラ戴冠の瞬間を、あるいはそれを阻む者の登場を目撃せんと、観衆は熱狂し、また別の者は固唾を呑んで見守るばかり。
有力な対抗者と目されている二番人気の『淑女』ヴィルシーナが、ターフへ向かう地下通路をしずしずと、しかしそのたおやかな身に闘志を籠めて進む。青いドレスの勝負服をまとい、「いつでも来い」といった戦闘態勢の状態。
そんな彼女を通路の途中で待ち受ける人影。
「シュヴァル!」
人影の正体を認めた瞬間、そう言って険しい表情を緩めた。小走りで人影の方に駆け寄っていく。
「姉さん」
自分がレースに出るわけでもないのに、緊張の面持ちの次妹。
「私もいるんだけどな~」
名前を飛ばされた三女が、唇を尖らせた。
関係者パスを首に下げ連絡通路に立っていたのは、ヴィルシーナの愛する2人の妹シュヴァルグランとヴィブロスだ。甘え上手で姉とも距離が近いヴィブロスが、これまでレース前に姉を見送りに現れることは度々あった。けれどシュヴァルがこうして姿を見せるのは、初めてではなかろうか。
「あなたが来てくれるなんて。嬉しいわよシュヴァル」
「うん……。姉さんのことが心配で……。この前のレースもジェンティルさんに……」
シュヴァルの言う通り、ヴィルシーナは前回のローズSにおいて、ジェンティルの後塵を拝していた。以前の結果に加えそれを以って両者の格付けは完了。今回の秋華賞においてもジェンティルドンナ万事安泰という見方に繋がっているのだ。
「そうね。あの時は残念だったわ。でもあなたが応援に来てくれて心強いわ。今日は一段と頑張れそう」
そう言ってシュヴァルに笑顔を向ける。
「うう、ごめん。そんなことを言うつもりはなくて……。それに、僕なんかが来たって……」
最後は口ごもってしまう。「自分が来たって応援にならないだろうし、ただレース直前集中すべき姉の気を使わせてしまうだけじゃないか」といった怯懦が、これまで見送りを尻込みさせていたのだった。
それに今回も、慣れない見送りで口が滑るあまり、前回のレースとか言わないで良いことまでつい口にしてしまった。姉を励ましに来て自分が落ち込んでしまうとは。
そんなシュヴァルを励まそうと、ヴィルシーナは彼女の肩に優しく手を置き、俄に驚いて自身を見やる彼女の丸いその瞳を覗き込む。
「そんな事ないわよ。どんな時でも私が頑張って来れたのは、いつもそばにあなた達がいてくれるから。だから今日もあなた達に、目一杯私の全力を見せてあげるわよ」
そうだった。
これまで裕福な家庭で育ち才能にも恵まれた自分が、それでも自身の境遇にかまけず克己し心身ともに鍛えてきたのは、妹たちの良き手本として、相応しい態度を見せようとしてきたからじゃないか。
後に続く妹たちに、頂点たる女王になったその背中を示せるよう。
「ああもう。またシュヴァちばっかり~」
いい加減痺れを切らしたヴィブロスが、姉の気を惹かんと腕を取る。
「姉さん、頑張って……」
逡巡し通しだったシュヴァルも勇気を出して、精一杯応援の言葉を紡ぐ。
胸の裡を愛で満たした姉は腕を大きく広げ、そんな2人をまとめて力強く抱いて見せた。こう言うときは、何よりも態度で見せるべきだから。
「わ、姉さん」姉の胸に引き寄せられ、目を一際丸くするシュヴァルグラン。
「わーい♪」あっけらかんと喜ぶヴィブロス。
ヴィルシーナは2人にしばしの別れを告げると、ターフへと歩み進む。
その表情から妹たちに見せた甘い笑みは消え去り、今や決戦に挑む『淑女』の仮面を貼り付けていた。