「さぁ、今ジェンティルドンナが勝負服の修繕を終えたようです。あらためてゲートへと進んでいきます」
「本人はあくまで悠然とした風情ですね」
「本人の意図せぬトラブルですから、周囲に引け目を感じる必要はないということでしょうか」
「女王の貫禄たっぷりですねぇ。何れにせよ、出走前で良かったです」実況と解説者が安堵の息を漏らす。
本バ場入場の際である。貴婦人がつと脚を止めたかと思うと、何かを指し示した。勝負服のパーツに破損を認めたらしい。仮にそのまま走っても支障はないかも知れないが、三冠がかかった大舞台で装いに抜かりがあってはならぬと、修繕のため一時停止を申し出たのだ。
披露の時のためスタッフが万全の準備を尽くす勝負服だ。それは本来起こり得ぬトラブル。替えのパーツと用具を持った係員が大急ぎで駆け寄って来た。
実際のところ本人が入れ込み過ぎての負荷が汚損に繋がったのか、はたまた全くの偶然なのかは定かではないが、大観衆の前での足止めに一時は騒然となったのだった。
後からやって来たジェンティルは自然、残りの出走者たちに出迎えられる形になる。解説が語る通り何事もなかった体で、ゆるゆると自分の枠まで歩を進める。いや、そもそも対戦者たちが目に入っていないというのか。「私の勝ちは規定のもの」というばかりに。
周囲の出走者たちも、G1レースという華の舞台に立つひど角のウマ娘である。それでもこの傲岸たる貴婦人を前に、実力の、存在する力の隔絶を意識せざるを得ないのは、詮無きことなのだろうか。
ある者は目を背けてしまい、またある者は「自分のレースに集中する」と努めて意識せずに視線を外す。
ここに挑戦者の1人ヴィルシーナが、ただ黙って貴婦人を睨めつけていた。
本命のジェンティルドンナは7枠14番。ヴィルシーナは最内1枠1番となっている。
ゲートの後方が閉じ、18人がスタートの体勢をとった。
大地を蹴る音を轟かせ、一斉にゲートを飛び出す。ハナを切ったのはヴィルシーナだ。コース内に寄ってきたもう一人のウマ娘と先頭を争い、そのまま一歩先んじる。
「オークスで見せつけられたジェンティルさんの末脚は脅威。悔しいけどまともに戦ったら相手にならないわ」
自らが先頭に立って逃げ、レースのペースを作ろうという狙いである。一方のジェンティルドンナは中団の外に待機する。
「……」
まとめて差し切ってやろうという心づもりか。勇猛にして華美たる女王の疾駆。観衆はまだレースも開始して早々というのに、すぐそこに待ち受ける勝利の瞬間を確信し、歓呼の声をあげる。
まさにその歓声に囲まれた観客席では、姉妹が先頭を走る姉のことを固唾を飲んで見守っていた。
「お姉ちゃん、今度こそいけるよね、絶対」
既に2度、姉の惜敗を観てきたヴィブロスが、目を潤ませそんな言葉を紡ぐ。
何かに付けて自信のない態度が現れる、しかしレースを見極める力を人一倍秘めたシュヴァルは、眼の前のレースの趨勢を慎重に見極めている。
「それは分からない……。けど今日のレースはペースが大分抑えられている……。これならトップで最終直線を迎えても、ジェンティルドンナさんの差しを真っ向から受けずに済みそう」
シュヴァルの言う通り、ハイペースで先頭を走り無闇に消耗する愚は避けたい。そして電光掲示板に表示された最初の1,000メートルのタイムは、62.2秒と遅い。ヴィルシーナのレースの段取りは、順調に進んでいた。
異変は向正面に突入後に起こった。
「ぐーんと今、イワニハナサク上がっていった! 一気にハナを叩く勢いだ!」
レース場の女解説者が、信じられないものを観ると言った様相で叫んだ。
後方に待機していた1人のウマ娘が、突然急加速したかと思うと、そのまま先頭に立ってみせたのだ。先頭に立った後もペースを抑えることもなく、一気に大逃げの形に。後続に何バ身もの差を作って見せた。
それは決して無謀や無策と言った蛮勇ではない。例えノーマークの出走者であったとしても、また彼女もG1の大舞台に立ち、ターフに爪痕を残さんとする者だった。
「イワニハナサク先頭です! 後続を8バ身と突き放していきます」
大穴の独走状態での最終コーナーへの突入に、観衆は俄に沸き立った。
最終直線に突入しても後続との差は一向に縮まらず、中には一瞬とはいえ衝撃の幕切れを思い浮かべる者もいた。
「確かにその瞬間レース場の観衆の視線を奪い、ターフの主役になっていたのはこのウマ娘だった」
人は最終的に5位に入着したイワニハナサクのことをそう評し、ある者はこの時彼女が見せた捲りを懐かしそうに語る。
故に物語が2人の対決の話に戻るのは、残り200メートルの直線だ。
いよいよゴールが目前に迫った瞬間、ジェンティルが俄然加速しだした。中団の対戦者たちを置き去りにし、先頭集団に猛然迫っていく。
レース中終始外側での疾走を強いられていたジェンティルである。その鬱憤を晴らすかのような傲然たる末脚。
「あああ。差すのが、遅いよ……!」
中には焦燥感から、彼女のスパートの開始を時遅しと感じる者もいた。貴婦人にも存外ズブいところがあるのだと。
「ううん、あれは自分の力なら確実に差し切れるって確信している足取り」
敵のことながら、シュヴァルが否定する。
「お姉ちゃん、耐えてええええ」
ヴィブロスが必死に叫んだ。
ヴィブロスの懇願虚しく、赤い稲妻と化したジェンティルドンナが、たった今先頭集団を呆気なく抜き去った。そのままイワニハナサクの喉元を喰いちぎらんとする、その時である。
その抜き去られた先頭集団であるところの1人、ヴィルシーナが再加速。貴婦人とバ体を併せ競りあうのだ。
予想だにしない最終盤の展開に、観客席は俄かに騒然となる。
「彼女に勝つには、この瞬間しか無い」
それは悲壮、しかし確固たる決意。
地力では適わない。差し合いでも、オークスで惨敗した。
では勝つために何をすれば良い? それだけを考え続けた結果、至った境地。
「ただ一瞬、ここで力を出し切る!」
ジェンティルドンナの加速が脅威とは言え、それは後方から。「先行する者をゴール前で交わす」為の仕儀。
ならばその先行者たる自身は、その交わされる瞬間、直前まで力を蓄え練り上げた力を発揮すれば良い。第二の末脚で真っ向からジェンティルにぶつかり凌いでみせる。最後はほんのハナ差でも先んずれば良い。
ゴール直前のライバルの奮起に心ならずも瞠目したか、紅い瞳がほんの僅かに軌跡を揺らぐ。
「でやああああああぁぁぁぁぁ」
「はあああああああぁぁぁぁぁ」
逆巻く波濤は赤い稲妻と渾然一体となって、ゴールへ飛び込んでいく。
三冠最後の瞬間もはや馴染みとなったこの2人の対決に、観衆は熱狂した。
この時ヴィルシーナの頭に、もはや「逃げ切る」といった「勝つために・やむなく」といった妥協はなかった。いや、現に一度は交わされている。
それよりも差し切り、喰らいついて、追い抜かし。再び先頭に立つ。ただ「勝つ」のだという気迫が、その身に帯同していたのだ。
「お願い、勝って」いつもなら弱気を巡らすシュヴァルまでもが、今はただ強く願い続ける。
お互い手の内を晒し尽くした上の、後は真っ向勝負だ。決してどちらが抜きん出るわけでもないこの勝負を裁定するものは、ただ眼の前にあるゴールライン。
そこを目指して、後2歩、1歩。ただ届けよとばかりに、前に進む脚。
永遠に引き伸ばされたその時にも、遂に決着の瞬間が来た。
ジェンティルドンナとヴィルシーナは、まったくの同時にゴールを駆け抜けていた。
「ねえ、今のお姉ちゃんが勝ったよね!」
ヴィブロスが確信して叫んだ。