◇◆
走る。走る走る。
道なき道を、獣しか通らぬ道を、草を掻き分け、木の根を踏み、落ち葉を滑り走り続ける。
走り抜けることはできない。休むことは許されない。
背後から聞こえる唸り声。
微かに漂う生臭さ。
ソレがすぐ傍まで迫ってきていることを五感が否応なしに知らせてくる。
自分がまだ生きているのはただ運が良いだけに過ぎない。
風下にいるから見つかっていないだけ。
……いいや。
この状況を指して運が良いなどと口が裂けても声には出せまい。
息も絶え絶えで呼吸すらままならないから……ではない。
家族含めた村の人間が自分以外死亡。
職業にも就いていないレベル0の幼少の身でありながら野生モンスターに追われている。
そして、この二つが何の関係ないという事実。
ああ、運が良いとは言えない。
だが……と歯を食いしばる。
まだ生きてはいる。
これは不幸ではない。
もしも真に不幸であったならば、自分はとうに死んでいる。
「……くそ。神様なんていないじゃないか」
どこかで口内を切っていたのだろう。
朱が混じった唾液を吐き捨てる。
口の中はカラカラに乾いている。
なのに、目からは涙が溢れ出しそうだ。
父よ、母よ。村の皆々よ。
貴方方が崇め奉った神とやらは何の助けとなってくれたのだろうか。
最も信仰していた村人らは死に、最も蔑ろにしていた自分が生き残っている。
これが神の試練だというのならば乗り越えればいいのだろうか。
これが神の罰だというのならば甘んじて受け入れればいいのだろうか。
神よ。
八つ腕の神よ。
貴方の多き腕の一つでもこちらに向けてくれたのならば、きっと村の誰かは助かったはずだ。
隣を走る誰かがいたはずだ。
「……ッ!」
突然視界が揺さぶられる。
右足に熱い……と感じた時には痛みが走っていた。
「ァッ……!!」
「グル、グルルルル」
迂闊であった。
すぐ傍にいるのは知っていたはずなのに。
もう相手の視界には映っているかもしれないと分かっていたはずなのに。
神に縋ってしまったばかりに。
勝ち誇ったように口の端を吊り上げる大型の犬。
四つ足なのに少年よりも背が高い犬は、彼程度丸飲みできてしまうだろう。
それをやらずに噛みついて来たのは……遊んでいるからだ。
ぽたぽたと垂れる血が少年自身のものであると分かったのは、犬がゴクンと喉を鳴らしたからであった。
「あ……あ……」
右足……膝から先が無い。
先程の犬が飲み込んだものの正体が分かり、もう助からないのだと悟る。
逃げようにも逃げる足が無い。
痛みは、しかし思考を妨げてはくれない。
この先に訪れるであろう絶望を更に彩ってくれるだけ。
だが……これでようやく不幸になったのかもしれない。
結局、幸運は訪れずとも、不幸は訪れた。
そして、
「グル――ぐぎゃ――」
神もまた、訪れた。
「……え」
眼前で宙に浮かび上がっていく犬型モンスター。
四肢を大の字に拡げ、そしてそれ以上に引き伸ばされ、悲鳴を上げるも許されることなく、八つ裂きとなった。
自身の右足を、犬の四肢を、何度も視線を往復させていると、声がかかる。
「……少しばかり遅かったか」
くぐもった声。
絞り出すような声は、それが老人のものであるからと分かったのは、姿が見えてからであった。
ぼろ布を全身に纏うだけの些末な恰好。
左足にあたる部分はなく、代わりに右手で木の枝を削ったような杖をつく。
洞なる両目はこちらに向いてはいるが、見えているかは怪しい。
少年はすぐに分かった。
この老人は……神様である、と。
「かみ……さま……」
神、と呼ばれた老人は少し顔を曇らせる。
決して彼にとっては良い呼び名では無かった。
「今はその名は捨てた。元“神様”……今の儂はただのハーキム。それだけの古びた老人だ」
その日、少年は神に出会った。
”神様“ハーキム・イブン・ラシード。
そして、この日を境にティアンは悪辣共へと反撃を開始する。
◇◆
少しばかりに灯りが点いた小さな部屋で老人は湯を啜っていた。
味もなにもない。雨水を沸かしただけのもの。
それをまるで高価な茶を飲むかのように楽しむ老人に、対面に座る男が声をかけた。
「……私に声がかかった理由は分かった。確かにこれはこの国だけの問題に非ず。いずれは大陸全土に及ぶものになるだろう。であればこの地で留めることこそが最善。そのために二十年磨いた技と殿下に賜ったこの弓……存分に振るうとしよう」
長髪を背で括った袴の男。
ハーキムとは旧知の間柄であり、ハーキムがまず最初に声を掛けたのが彼であった。
「……事態は既に事を急く程に進行しておる。既に街を2つ、村に至っては数えることが出来ぬ程。儂1人では手に余るかもしれぬ」
「貴方程の方が私を戦力として数えてくださること……それが何よりの名誉だ」
旧知といえどハーキムと男は見た目だけでも3倍程の年齢差がある。
砕けた話し方であるが、その視線は決して同格に向けるものではない。
「主以上の手練れを儂は知らぬ」
ふ、とハーキムは笑う。
それもそのはず。
眼前の男は天地にて大名の一人に仕える猛者の一人。
名を滲丸。
「しかし……主には悪いことをした。【射神】を天地から引っ張り出してしまうなどと、あちらでは引き留められたのではないか?」
「むしろ逆だ。かの“神様”に呼ばれたとなれば妨げる者など天地のどこを探してもいるわけがない。先代【征夷大将軍】然り、いずれの大名も恩に報いられると大喜びになるほどだ」
「……そうか」
滲丸もハーキムに倣い、沸かした雨水を口に含む。
決して美味くはない。
だが、ハーキムと同じものを同じ空間で同じ感想を抱ける。
それこそが何よりも感慨深いものであった。
「――ははっ。本当にいやがるぜ。この爺さんが“神様”……大賢者の盟友か」
騒々しく扉を開ける者がいた。
手作りの木の扉を壊す勢いで開けながら若い男が部屋に入ってきた。
長身の男は窮屈そうに身をかがめながら部屋を歩き、勝手に座り込む。
「盟友か……そう思っていたのは儂だけだ。きっとあの者は同門程度にしか思っておらんかっただろうな」
「騒々しいぞ」
「悪かったな。声はデカくしろ。そうしたら勝手に背も伸びるって親父に言われたもんでな。おかげで随分デカくなっただろ?」
「実力に見合わぬ態度の尊大さは目に見えて余る。若手であることに臆せよとは言わぬが、ハーキム殿の前では少しくらい声を潜めたらどうだ」
「へいへい。というか、アンタ誰? アンタも神様の盟友?」
滲丸の顔に憤慨の色が現れると同時に、ハーキムは若い男に自身の座る椅子を差し出した。
「ハーキム殿……!?」
「良い。威勢の良さは若さの現れ。儂もかつてはこうであった。主もそうであった。諫めるべきは威勢でなく無謀な時よ。今はただ、この男なりの挨拶と思え」
ハーキムの言葉に滲丸は拳を降ろさざるを得なくなり、若い男も拍子が抜けたとばかりに息を漏らした。
「……チッ。分かったよ。あーあ、そうか。これじゃぁ俺も仲良くせざるを得ないな。俺は偉大なる長槍の名手リン・バルグが長男、ギーム・バルグ。〈七本槍〉の末席に名を連ねる一人だ」
〈七本槍〉。
それは天地の生まれである滲丸は良く知っている名であった。
かつて七つの魔槍を使いこなしたと言われる英雄がいた。
彼は弟子にあたる7人にそれぞれ魔槍を託す。
弟子たちは天地の各地で偉業を遂げ、かくして師である男を称える意味も含め〈七本槍〉という称号が与えられたのだ。
「ハーキム殿」
「うむ。滲丸にギーム。主らが儂と共に戦場に歩んでくれること嬉しく思う」
「ということはこの3人でか。そのピエールだったか。そいつら一派をのしちまうんだろ」
ピエール。アウロラ。オキード。マニ・メイル。
この四人が一つの集団であり、そしていずれ世界に混沌と破滅をもたらす存在であることをハーキムは知っていた。
だからこそ先手を取り、本格的に動かぬうちに潰そうと戦力を集めていた。
「あと一人おる」
「へぇ?」
“神様” ハーキム・イブン・ラシード。
【射神】滲丸。
〈七本槍〉が一人、ギーム・バルグ。
これだけの戦力に混じれる人材がまだいたのかとギームは煽るようにハーキムを見やる。
その時、控えめに扉をノックする音が室内に響く。
不思議なことに、その時だけ室内の誰もが口を閉ざしたのだ。
まるで誰かが入ってくるから迎え入れるために黙ったかのように。
「入って良いぜ」
馬鹿な、とギームは自身の言葉を疑った。
先程まで疑惑を向けていたはずの最後の一人。
それが、見ないうちに入ってくる人物を心の中で受け入れていた。
「失礼します」
扉を叩く音と同様に控えめな声と共に入室してきたのは、神職の装いをした女性であった。
「待っておったぞ……異端なる神子よ」
そう、ハーキムは口にした。
彼女こそは人類の敵である【神子】のジョブに就く女性サヨ。
通称“代弁者”。
このくらい戦力集めとけばいいやろ
量より質や