暴龍の花歌 作:マンコションベン
「オラッ、腹パン! まだ睨めんじゃん、元気じゃん!」
「弱肉強食ってやつだろ? 弱い方が悪いんだって。そんな怖い顔すんなよ」
夜の公園で、俺の腹に焼けるような痛みが走った。息が詰まり、膝から力が抜ける。次の瞬間には顎を殴られ、視界がひっくり返って空が落ちてきた。
なんてことはない。俺が地面に転がっただけだ。
目の前には若い男が三人いた。兄貴だの組だのという言葉を隠しもしないし、倒れた相手のどこを蹴れば立てなくなるのかも知っている。酔っ払いの喧嘩にしては、妙に手慣れていた。
家に帰る途中で目をつけられ、因縁をつけられ、公園まで連れてこられた。それだけだ。財布を出せと言われたわけでもない。こいつらにとっては、俺が偶然そこにいたこと自体が理由だった。
右目はもうほとんど見えない。股間を蹴り潰されてからは立つこともできず、声を出そうとしても喉から漏れるのは呻きだけだった。なのに連中は、まだ終わりにする気がないらしい。
公園の入口にバンが止まり、中からさらに何人か降りてきた。「何やってんの」と軽い声が飛び、誰かが「遊んでるだけ」と答える。そのやり取りを聞いた瞬間、俺はようやく理解した。ああ、これ、死ぬやつだ。
殺すつもりなんてないのかもしれない。だから余計にどうしようもない。こいつらは俺が死ぬところまで遊び続けて、死んだら「やべえ」と言って逃げるだけなのだ。
どうしてこうなった。そんなありふれた言葉が頭に浮かび、俺は自分の人生を思い出した。家族には愛されていた。飯にも寝床にも困らなかった。小学校では変人扱いされ、中学ではいじめられたが、少なくとも今みたいな地獄ではなかった。
中学二年の頃からだったと思う。何をやっても意味がない、どうせ俺には無理だ、という考えが頭に居座るようになった。そこから先、俺は面倒なものを少しずつ先送りするようになった。
課題を出さない。頼まれたことを忘れる。親に何度言われても動かず、最後には親が代わりに頭を下げる。そんなことを繰り返しながら、俺は「犯罪をしてるわけじゃないし」と自分を許していた。
勉強だけは多少できた。良い高校へ行って、良い大学へ入れば、そのうち何となく社会人にもなれると思っていた。人と話すことも、生活を回すことも、働くことも、必要になったらその時やればいいと考えていた。
当然、そんな都合よくはいかなかった。大学ではやることを抱えきれず、仕事も長く続かず、最後には生活保護を受けるようになった。家族との関係も壊れ、実家を出た。
派手な犯罪をしたわけでも、人生を一撃で壊す大失敗をしたわけでもない。ただ、小さな逃げを何年も積み重ねた。それだけで俺の人生は、十分にどうしようもなくなった。
まあ、仕方ない。自分でそうしたんだ。これが俺に相応しい末路なら、受け入れるしかない。そう思おうとした。
でも、無理だった。死が目の前まで来た途端、今まで諦めたふりをしていた欲が一気に噴き出した。まだ美味いものを食いたい。旅行にも行きたい。まともに働いて、くだらない愚痴を言いながら給料日を待つみたいな生活だって、一度くらいしてみたかった。
「死にたくねえ……。まだ死にたくねえ……。」
声が漏れた。情けないと思う余裕すらなかった。今さら人生を惜しむ資格なんてないと頭のどこかで思ったが、それでも嫌だった。
その時、公園の入口から、場違いなほど震えた声が響いた。何人もの男が一斉にそちらを向く。
「す、すみません! その人、もうやめてあげてもらえませんか! もう十分でしょう!」
全員が振り向いた。そこに立っていたのは、太った冴えない男だった。走ってきたのか息を切らし、足まで震えている。どう見ても喧嘩が強そうには見えなかった。
「警察は呼びました。だから、もう……もう十分でしょう。もし、まだ誰かを殴りたいなら、僕が代わります。だからその人は、帰してあげてください」
馬鹿か、こいつ。真っ先にそう思った。警察を呼んだなら隠れて待っていればいいのに、わざわざ姿を見せて、しかも自分から殴られに来ている。
「何こいつ。正義マン?」
「お前、関係ねえだろ。帰れよ。」
男は何も言い返さなかった。ただ俺の前へ出た。次の瞬間、顔を殴られて倒れ、それでも立ち上がろうとして腹を蹴られた。
やめろ。逃げろ。俺なんか放っておけ。そう言いたかったのに、口がうまく動かなかった。
男は何度も倒された。殴られるたびに身体を丸め、それでも俺の方へ這うように近づこうとする。何の得もない。俺とは知り合いですらない。なのに、なんでそこまでできる。
「もういいって。警察来るぞ。そろそろ行こうぜ」
「じゃあ最後、撮っとく? スマホ出せよ。」
誰かがスマホを取り出した。その時、遠くからサイレンが聞こえた。連中の空気が一変し、舌打ちと罵声を残してバンへ駆けていく。
やがてエンジン音も遠ざかった。公園には俺と、あの男だけが残った。男は俺より酷い有様だったが、それでも首を動かしてこちらを見た。
「あ……あの……大丈夫、ですか……?」
その言葉を聞いた時、胸の奥で何かが崩れた。この人は俺を助けられなかった。俺もこの人を助けられなかった。結果だけ見れば、何も変わっていない。二人とも死にかけている。
それでも、俺はさっきまでとは違った。誰にも助ける価値がないと思われたまま死ぬのだと思っていた。けれど、この人は俺のためにここまで来た。
「……ありがとう。来てくれて、本当に……ありがとう。」
やっと、それだけ言えた。男は泣きそうな顔で、かすかに首を振った。
「ごめんなさい……助けられなくて……ごめんなさい……母さんも、ごめん。俺、先に死んじゃう……」
違う。あんたは助けた。少なくとも俺は、最後の最後で、この世界に完全に見捨てられていたわけじゃないと知れた。
男の呼吸が止まった。さっきまで俺を気遣っていた声も、もう聞こえない。名前すら知らないその男は、誰にも褒められず、何の得もせず、ただ俺を助けようとして死んだ。
理不尽だと思った。俺みたいな奴と、この人みたいな奴が同じように地面へ転がって死ぬのなら、何のために善人なんてやるのだろう。それでも、俺はこの人を馬鹿だとは思えなくなっていた。
むしろ、こうなりたかったと思った。誰かを傷つけないだけで満足するんじゃなく、困っている人間を見た時に、せめて一歩くらい前へ出られる人間に。俺には無理だった。だからこそ、最後にそう思った。
逃げていったバンのテールランプを睨んだ。あいつらと俺が同じクズなら、せめて同じくらい惨めに死ね。そうでなければ、この人が浮かばれない。
「死にたく……ねえよ……。まだ、何もしてねえのに……。」
その言葉を最後に、俺の意識は途切れた。音も痛みも、そこで全部消えた。
次に目を開けた時、俺は布団の上にいた。白い天井。古い机。本棚。鼻に入ってくるのは血でも土でもなく、洗剤と畳の匂いだった。
身体を起こし、机の上のカレンダーを見る。二〇××年九月十四日。見覚えがある。ここは、中学生の頃に使っていた俺の部屋だ。
「……は? なんだこれ。」
死ぬ直前の走馬灯かと思った。けれど、布団の感触も、窓から入る朝の光も、妙に現実的だった。そこでようやく、胸元に変な重さがあることに気づいた。
手を置く。むにゅ、と沈んだ。柔らかい。なのに奥には確かな弾力がある。
恐る恐る視線を落とす。寝間着の胸元を、見覚えのない二つの膨らみが押し上げていた。
「……なんで俺に乳があるんだよ。どうなってんだ、これ。」